「193」 論文 合理的選択論(Rational Choice Theory):フランシス・ローゼンブルース(Frances Rosenbluth)とマーク・ラムザイヤー(J.Mark Ramseyer)―日本政治研究にも「侵攻」してきた合理的選択論 古村治彦(ふるむらはるひこ)筆 2012年6月17日
今回、ご紹介するアメリカの日本政治研究者は、フランシス・ローゼンブルースとマーク・ラムザイヤーです。二人は、日本政治研究に、合理的選択論(Rational Choice)という手法を取り入れました。そして、従来の日本政治研究を批判しました。それに対して反論をしたのがチャルマーズ・ジョンソンでした。この合理的選択論は、政治学の世界で存在感を増していて、日本でも影響力を増している手法です。しかし、合理的選択論は、チャルマーズ・ジョンソンが批判したとおり、あまりに一面的なものであるという部分もあります。それでは、拙文をお読みください。
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フランシス・ローゼンブルース(Frances Rosenbluth)とマーク・ラムザイヤー(J.Mark Ramseyer)という二人の学者がいる。彼らの日本政治研究は、それまでの日本研究とは全く異なる。彼らが登場するまでの日本政治研究と言えば、欧米諸国の政治とはどれほど違うかということばかりが強調されていた。
ローゼンブルース ラムザイヤー
「日本の政治は異質だ。政治家ではなく官僚が政策を決めているし、選挙があっても政権交代が起きない」「日本政治は特殊だ。そして、日本の政治が特殊なのは、欧米諸国とは違う、特殊な文化や歴史を日本が持っているからだ」という主張が良く見られた。チャルマーズ・ジョンソンの通産省の研究も、「日本政治異質論」に分類される。一九九〇年代、日本異質論者たちは、「日本叩きリビジョニスト」と呼ばれ、批判された。しかし、そうしたレッテル貼りは間違いで、日本のことを深く研究し、理解している人々だった。
チャルマーズ・ジョンソン
ローゼンブルースとラムザイヤーは、政治学の分野全般で主流となっている分析手法である合理的選択論(Rational Choice Theory)を使って、日本政治を分析した。そして、彼らは、「日本の政治に参加しているアクターたちもまた、欧米の政治家や官僚と同じく、自己利益の最大化を目的に行動している」と主張した。そして、「与党(自民党)の政治家たちが官僚たちをコントロールして、自分たちが選挙で勝てるような政策を実現している。最終的な決定をするのは官僚ではなく、自民党の幹部政治家たちである」と主張した。官僚ではなく、自民党の幹部政治家たちが国を動かしているという主張もチャルマーズ・ジョンソンの主張とは大きく異なる。
俗っぽい言い方をするならば、ローゼンブルースとラムザイヤーは、日本政治研究の大物チャルマーズ・ジョンソンやその前の世代の日本研究者たちに対して、「喧嘩を売った」ということになる。「あなたたちのやっていることはただのご報告で、学術的価値は低い」と宣言したのだ。
「アクターの自己利益の最大化(どんな行為者も自分の利益を最大化するために行動する)」を前提とする合理的選択理論は、政治学でどんどん使われるようになっており、今や政治学の分野で最も頻繁に使われるようになっている。多くの研究者が合理的選択論を使うようになり、これを使わない政治学者は学者ではないという雰囲気になっている。一方、合理的選択論に批判的な学者たちは、合理的選択論が経済学の分野からの応用である点に対して、「政治学が経済学の侵攻を受けている」「経済学帝国主義だ」という批判を行っている。「そんなに簡単に合理性だけで何でも説明できるわけではない」というのも彼らの主張だ。
●日本で育った経験を持つローゼンブルースとラムザイヤー
フランシス・ローゼンブルースは、一九五八年に大阪で生まれた。宣教師家庭で育ち、五歳まで岐阜県の大垣市で育ち、その後台湾に移り住んだ。台湾で成長したが、毎年夏は日本で過ごし、また高砂族の人々とは日本語でやりとりをしていた。そのため、日本語は堪能である。一九八〇年にヴァージニア大学を優等で卒業し、コロンビア大学の大学院に入学した。大学院在学中には東大に留学していた。そして、一九八八年に政治学で博士号を取得した。その後、ヴァージニア大学、UCLAで教え、一九九四年からはイェール大学教授(終身在職権付き)となった。現在もイェール大学で教鞭を執っている。
マーク・J・ラムザイヤーは、シカゴ生まれだが、生まれてすぐに来日し、一八歳まで宮崎県で育った。そのためにラムザイヤーもまた日本語は堪能である。インディアナ州にあるゴシェン・カレッジを卒業後、ミシガン大学大学院に進学し、一九七八年に日本研究で修士号を取得した。その後、ハーバード大学法科大学院を一九八二年に卒業、弁護士資格を取得し、弁護士として活動していた。法科大学院の学生時代は、学内誌『ハーバード・ロー・レビュー』誌の編集をしていた。彼が卒業して数年後、バラク・オバマ大統領もハーバード大学法科大学院に入学し、『ハーバード・ロー・レビュー』誌の編集に携わっている。その後、UCLA法科大学院教授となり、現在は母校のハーバード大学法科大学院の教授となっている。
●合理的選択論を使った日本研究
合理的選択論とは、「合理的な個人がある制約や条件下で、自分の目的を達成するために最適な選択を行う」という前提を基礎にした分析手法である。合理的選択論は、政治学での世界では、主流の分析手法である。
ローゼンブルースとラムザイヤーは、一九九三年、Japan’s Political Marketplaceという本を出版した。日本語訳は、一九九五年に『日本政治の経済学―政権与党の合理的選択―』(加藤寛監訳、川野辺裕幸・細野助博訳、弘文堂刊)という題で出版された。この本が、アメリカの日本政治研究に衝撃を与えた。合理的選択論の日本政治研究への本格的な侵攻の第一歩となった。
ローゼンブルースとラムザイヤーは自分たちの主張を次のように述べている。『日本政治の経済学―政権与党の合理的選択―』から引用する。
(引用はじめ)
われわれは、特定の日本文化の概念を用いることを避け、代わりに本人と代理人に対する標準的な選択理論アプローチを採る。少なくとも抽象的な理論概念については、われわれの主張が混乱を招くようなことはなかろう。われわれの主張の核心は以下のとおりである。
@政府の制度的な枠組み(政治的プレイヤー間でのゲームのルール)が、日本の政治的競争の特徴を決定づけている。
A競争的政治市場におけるプレイヤーは、この枠組みに応じて組織を作り上げようとする。
Bまたプレイヤーは、私的な利益のためにこの枠組みを操作しようとする。(3ページ)
(引用終わり)
ローゼンブルースとラムザイヤーの主張をまとめると、次のようになる。「日本の政治制度は、政治に参加しているプレイヤーたちにとってはゲームのルールのような存在である。そのルールに従い、また時にルールを自分に有利になるように変更しようとしながら、ゲーム(競争)に参加している自分たちの利益の増大を図ろうとする」 彼らが政治と言うゲームに参加しているプレイヤーだと考えているのは、「有権者(voters)、政治家(politicians)、官僚(bureaucrats)、裁判官(judeges)」(四ページ)である。そして、制度的枠組みというのは、法律や規制、選挙制度、官僚や裁判官の人事制度などのことだ。二人の基本的な考えは、「考えてみると、学者が日本の官僚をあまりにも重要視し過ぎてきたのではなだいろうか」(一四〇ページ)という短い文に集約されている。
ローゼンブルースとラムザイヤーは、日本政治に参加しているプレイヤーたちが自分たちの利益を最大化するために行動していることをプリンシパル(principal)―エージエント(agent)理論で説明しようとしている。プリンシパルとは日本語で「本人」、エージェントは「代理人」と訳される。政治の分野では、多くの場合、このプリンシパル―エージェント関係が成り立つ。まず、有権者と政治家の関係である。有権者は自分たちの望む政策の実現のために選挙で政治家に投票する。当選した政治家は有権者の望みをかなえるために活動する。有権者はプリンシパル(本人)となり、政治家はエージェント(代理人)となる。政治家と官僚の関係はそれぞれプリンシパル、エージェントとなる。
そしてプリンシパル―エージェント関係でプリンシパル(本人)にあたる政治アクターたちは、自分の利益の最大化のためにエージェントを利用する。しかし、ここで、エージェンシー・スラック(agency slack)という問題が起きる。スラックという英単語は、「ゆるみ、たるみ」といった意味である。エージェンシー・スラックとは、「本人の期待と代理人のもたらすものの間に生じるギャップ」(四ページ)ということである。簡単に言うと、プリンシパル(本人)が期待した結果をエージェント(代理人)がもたらさないということだ。プリンシパルが監視し、代理人の行動に関する情報を得たりしていないと、エージェントは好き勝手な行動をして、プリンシパルの希望と、エージェントのもたらす結果のギャップは大きくなる(五−六ページ)。簡単に言うと、「有権者に対してはエージェントとなる政治家、政治家に対してはエージェントとなる官僚は、ちゃんと監視をしておかないと、言うことを聞かないで、自分たちの利益を追求するために勝手な行動をするようになる」ということだ。
こうしたエージェンシー・スラックに対しては次のような対策がある(六−七ページ)。(一)プリンシパルは、エージェントの期待外れの行動をした場合には、その結果が後で分かろうが、きちんと処罰し、それをエージェントたちに周知させる。(二)プリンシパルは、自分の方針を明らかにし、これに従わないと必ず罰すると宣言することで、エージェントの行動を自己規制させる。(三)エージェントの報酬を低めに設定して、勤め上げた後で大きな報酬が得られるようにする。(四)プリンシパルは自分の思い通りに動くエージェントを採用できる制度を整える。ローゼンブルースとラムザイヤーは、こうした対策を「暗黙の代理契約」と呼んでいる。
ローゼンブルースとラムザイヤーは、仕事をしてもらう人(プリンシパル principal)と実際に仕事をする人(エージェント agent)に分けて、仕事をしてもらう人が利益を最大化するように行動するという考えに基づいて日本政治を分析している。ここで重要なのは、ローゼンブルースとラムザイヤーが官僚優位ではなく、自民党の政治家たちが官僚たちを使い、自分たちの意向に沿わない場合には罰を与えている、という主張をしたことだ。これは、欧米諸国では当たり前のことであるが、日本ではそれまで官僚が優位であるという考えが主流であった。それに二人は挑戦したのだ。
ローゼンブルースとラムザイヤーは、自民党の政治家による官僚のコントロールについて次のように端的に書いている。
(引用はじめ)
数十年にわたる日本研究の主張とは異なるが、自民党幹部は官僚を監視し管理している。党幹部は、官僚のとるいかなる行動に対しても拒否権を保持しているし、個々の官僚の経歴をコントロールしている。また党幹部は不満を持つ有権者を国会議員の下に走らせ、いうことをきかない官僚を議員に注進するように仕向ける。党幹部は官僚制の中に政治家志望の若手官僚を抱えており、この若手官僚たちは自民党の選好に違背する官僚行動ならどんなものでも報告する誘因を持っている。党幹部は省庁間で競争をさせる。さらに官僚に省外賃金のかなりの部分を差し出させ、忠実に職務を遂行した場合にだけ現金化できるようにしている。(118−119ページ)
(引用終わり)
自民党の政治家たち、特に幹部たちは、官僚たちの昇進、つまり人事をコントロールし、言うことを聞かない官僚は昇進を遅らせるという罰を与える。その結果、多くの官僚たちが自民党の希望する政策を立案するようになる。また、官僚たちが言うことを聞けば、やりがいのある難しい仕事をさせ、政治家にしてやることもあるし、退職後に天下りで今までの安月給を補てんする。簡単に言うと、自民党の政治家たちは、官僚たちを「アメと鞭」を使って、思い通りに操っているということになる。こうした自民党の政治家に簡単になびいて、操られる官僚は、チャルマーズ・ジョンソンの研究では出てこない。
自民党と官僚の関係だけでなく、自民党と司法、具体的には裁判官たちとの関係も自民党優位になっている。国の行政行為の結果生じた不利益について、国を被告として訴えた国家賠償裁判の多くは、原告が敗訴となり、国の責任を問わないという結果になることが多い。国が敗訴になるとそれが大きなニュースとなるほどだ。日本では司法が本当に独立しているのかとさえ思うことがしばしばだ。ローゼンブルースとラムザイヤーは、自民党の政治家たちと裁判官たちの関係を次のように書いている。
(引用はじめ)
裁判官が独立した存在である場合には、エージェンシー・スラックに関するムスの問題点を引き起こす。したがって、日本のように政治家が、公約の信頼性を高め、代理人としての官僚を統制するために司法以外の方策をあみ出せる場合には、政治家が代理人である司法部の独立を抑制しようとすることは容易に想像できる。自民党幹部は、そのような統制に服しやすい司法組織を作りあげてきた。下級裁判所の裁判官は、若くして判事となり、人生の大部分を判事職に費やすことになる。そして、裁判官の配置先、報酬、担当事件などは、事務総局の上官が彼らの仕事をどのように評価するかに大きく依存しているのである。そのような事務総局の裁判官は、最高裁の要求に応じる存在であり、その最高裁は、自民党により任命されて間もない者によってのみ構成されているのである。(161ページ)
(引用終わり)
これを分かりやすく言い換えると、日本は三権分立の制度をとっている。裁判官は、政治的な圧力や世論などに左右されずに、自分の良心に従って判決を出すことが憲法で保障されている。そうなると、自民党政権にとって不利な判決を出すことが多くなる。そこで、自民党の政治家たちは司法の独立に制限を加えようとする。そして実際に裁判官の行動を制限するための仕組みを作り上げた。それは、裁判官の昇進や配置を決める最高裁の事務方を自民党の意向に従わせる、というものだ。それによって、自民党政権に不利な判決を出した裁判官は昇進が遅れたり、ずっと地方回りをさせられたりする目に遭う。ここでも自民党の政治家たちは、裁判官の人事をコントロールすることができる仕組みを作って、裁判官の判決をコントロールし、司法の独立に制限を加えている。こうして裁判官たちは、国が被告になった裁判で、国に有利となる判決を出すことになる。
●合理的選択論の“侵略”を受けた日本政治研究
ローゼンブルースにインタビューをした古森義久は著書『透視される日本 アメリカ新世代の日本研究(ルビ:ジャパノロジー)』(文藝春秋、一九九九年)の中で次のように述べている。
(引用はじめ)
この理論(引用者註:合理的選択論)に従えば、日本の政治の研究には日本の歴史や文化や風習などの研究はさほど重要ではないということになる。現代政治を理解する大前提として日本の文化などを長年、研究してきた学者たちにとっては、そうなると自己否定にもつながりかねない。だからジョンソンら日本の各分野を長い歳月、研究してきた学者たちから猛烈な反発が起きるのは当然だろう。(98ページ)
(引用終わり)
ローゼンブルースとラムザイヤーは、日本政治の様々な事象を普遍的な、他の国々の政治の事象を説明できる理論である、合理的選択論で説明できることを明らかにした。それまで、日本政治研究となると、日本語の習得や日本の歴史や文化への理解、数年間の日本滞在を必要としていたため、研究者には大変な苦労が付きまとった。それが、ある程度の知識があれば、あとは普遍的な理論を使って分析できるということになると、長い「修行(日本語の取得や日本滞在)」が必要ではなくなる。言い換えると、日本政治研究は職人技と長年の修業が必要だった特殊なものから、間口が広がり、大量生産が可能なものに変化したということになる。
これまで何度も書いてきたが、合理的選択論は政治学の主流となっている分析方法である。この合理的選択論は経済学の分野で生まれ、その後政治学者が応用して、政治家個人の行動や有権者の投票行動の分析に応用することで広まっていった。こうした経緯から、「経済学からの侵攻だ」という声が政治学者の一部から上がった。またアメリカ政治学会に所属する研究者の中で、合理的選択論の支配的な立場に反対する人々が、「ペレストロイカ・グループ」というグループを結成し、情報交換を行っている。
政治学には合理的選択論、文化論的アプローチ、構造論的アプローチという三つの分析手法がある。政治学の分野全体で言えば、政治学のサブフィールドである日本政治研究は、長い間、文化論的アプローチや構造論的アプローチが主流派であった。日本政治研究は政治学のサブフィールドとしてはそこまで大きくもなく、影響力もない。それは、日本政治研究が、政治学の分野に影響を与える理論やモデルを提示できなかったからだ。唯一の例外がチャルマーズ・ジョンソンの発展志向型国家モデルである。
古森義久は、ローゼンブルースとチャルマーズ・ジョンソン両方に取材をし、それぞれから次のような言葉を引き出している。『透視される日本』から引用する。
(引用はじめ)
ローゼンブルースは「ジョンソン氏らから私たち合理的選択論者は悪魔にされているのです」と笑いながら語った。だが、合理的選択論者の側も従来の主流派の研究手法を遠慮なく批判し、ジョンソンらに対してもためらわずに反撃している。(95ページ)
カリフォルニア在住のジョンソンに電話で合理的選択論への感想を問うと、激しい言葉が即座にはね返ってきた。
「真剣な地域研究の努力を愚弄する手法です。日本の政治は日本独特の歴史、文化、社会、宗教などの諸要因を考慮しなければ分析できません。それを、人間の行動パターンはみな同じだとする数量経済学的な一律の断定で解明できるというのだから無茶苦茶です。日本のことを深く学ばなくても、日本の政治が解明できることになる。ローゼンブルース教授はアメリカの日本研究を腐敗させています」(98ページ)
(引用終わり)
日本で生活した経験を持ち、日本についての造詣も深いローゼンブルースとラムザイヤーが合理的選択論を使って日本研究をした。これは日本研究の新しい時代を象徴していると言えるだろう。これまでならローゼンブルースとラムザイヤーのような利点を持つ(日本の文化に慣れている、日本語を習得している)研究者たちなら地域研究、文化人類学の手法を使って日本を研究したはずだ。しかし、ジョンソンやカーティスの下の世代に当たるローゼンブルースとラムザイヤーは政治学内部の流れに従って、日本政治をテーマにしての「政治学上の主流派である」研究手法を採用した。おじさん世代から見たら何を考えているのかわからない「新人類」といったところだろう。
合理的選択論は便利な分析手法である。「人間は利益の最大化を目的にして動く、だからこういう行動を取った」と説明できる。しかし、先ほども書いたが、「昔ながらの丁寧な、手仕事の職人技」とも言うべき、日本政治研究は少なくなってしまった。その結果、うわべだけの、深い理解が伴わない日本政治研究が乱発されることになる。また、日本に対して深い理解や愛情を持たない研究者たちも出てくるようになる。こうなると、ジャパン・ハンドラーズの「質」が落ちてしまう。日本人をよく理解し、日本人を手のひらで踊らせるようなことができる人物が少なくなり、対日姿勢なども日本人の感情を逆なでするようなことをしてしまうことになる。合理的選択論の進行によって、アメリカの日本管理に巧妙さがなくなってきたと言えるのだ。合理的選択論を用いた日本政治研究が進むことは、政治学の一分野としては自然なことである。しかし、日本政治研究の深化が止まってしまうことは、アメリカの日本管理としては困ったことなのである。
逆に言うと、「昔の名前で出ています」という、ベテランの日本政治研究学者たちは、学界では相手にされなくなっても、現実政治に関わることで活路を見いだせる。「あの人はやはり話が分かっているなぁ。俺たちの気持ちを良く分かってくれる」と日本人に思わせたら勝ちだ。そうしたベテランたちが引退して、合理的選択論や最新の政治学理論で武装してくる若手日本政治研究者たちが主流になった時、日米関係の質も変化していくだろう。日米関係における「人情の機微」が失われ、露骨なコントロールが行われるようになり、「日本はアメリカの属国なのだ」ということがはっきりするだろう。このことは日本にとって良いことなのかもしれない。
(終わり)
※最後になりましたが、ここで現在のウェブサイト「副島隆彦の論文教室」を取り巻く環境について、管理人である古村治彦から皆様にお知らせいたします。現在、主要な書き手である人々から論文が全く送られてこない状況が続いています。現在のままでは1週間に1度の更新は不可能です。そこで、しばらくは2週間に1度の更新とするということを決定しました。私の力不足でご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございません。ご理解とご協力を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。