「196」 論文 日本権力闘争史 日本権力闘争史−源頼朝編―(3) 長井大輔(ながいだいすけ)筆 2012年9月9日
●はじめて臣下が天皇を破った法住寺殿合戦
王位継承問題で決裂した、行真(後白河)と義仲は対立を深めた。9月、行真は義仲に平家追討を命じる院宣(いんぜん、上皇の出す宣旨)を発した。体(てい)のいい厄介(やっかい)払いである。義仲もそのことは分っていたが、恩賞として得た平家没官(もっかん、没収)領はすべて、西日本にあったため、それらを回収し、配下の武士たちに分け与える兵糧を確保するためにも、出陣せざるを得なかった。
義仲が京都を留守にしている間に、行真はすかさず、頼朝との交渉を開始した。すでに行真は、平家都落ち直後の7月28日に、鎌倉に向けて使者を送っていた。これは、行真が頼朝を第一の交渉相手とみなしていたことを示している。その際、行真は、公卿を招集して会議を開き、頼朝の功績を第一とし、第二義仲、第三行家とする、京攻めの論功行賞を行っていたが、義仲の反発を受け、撤回していた。
義仲出陣後、行真と頼朝の使者は、京都・鎌倉間を頻繁に往来し、両者の関係は急速に正常化した。10月、行真は頼朝を従五位下に復本位(ふくほんい、もとの位階に戻す)させ、頼朝を朝敵の汚名から解放した。
一方、義仲は閏10月、備中国(びっちゅうのくに、岡山県西部)水島(みずしま)で平重衡に敗れる。行真と頼朝の急接近の報せに焦った義仲は、その後、遽(あわただ)しく帰京した。西に宗盛、東に頼朝と腹背(ふくはい)に敵を抱えることになった義仲は、危地(きち)を脱する手段として、行真に迫って頼朝追討の院宣を発行させ、さらに行真を連れて北陸に移動し、北陸で頼朝と決戦する計画を立てた。
この頃、義仲勢の中からは離反者が相次ぎ、義仲を見限って行真側につく者も現れていた。形勢有利と見た行真は、義仲を挑発する手段に出る。行真は、法住寺殿の防備を固め、武士たちを招集し、義仲に対して、京都からの退去を命じ、従わない場合は謀反とみなし、義仲追討院宣を下すと最後通牒(さいごつうちょう)を突きつけた。行真は、強硬な態度に出れば、義仲は大人しくなるはずだとみくびっていた。ところが、ここで大逆転が起きる。義仲が再び、北陸宮をかつぎ出したのである。
(引用開始)
北陸宮の皇位継承は、8月に一旦挫折した。しかし、義仲や北陸宮がそこで諦めたはずはない。義仲勢力の命脈は、なお多分にこの宮を擁立できるかどうかにかかっていた。いま窮状に陥った義仲にとって、これこそが起死回生の策であろう。義仲はこの虎児を後白河から奪回することに成功し、再び皇位継承への望みを繋ぐことができた。義仲勢の士気がこのときにわかに高揚した理由は、北陸宮の即位が実現可能なことであるかのような幻想に囚われたからであろう。それが彼らを後白河との対決に駆り立てた。 (河内祥輔『頼朝の時代』108ページ)
(引用終了)
11月19日、戦闘は二、三時間で決着し、義仲軍が圧勝した。行真方の天台座主・明雲、園城寺長吏(ちょうり、住職)・円恵(えんえ、行真四男)が戦死し、行真は近衛基通の五条東桐院(ごじょうひがしのとういん)邸に、尊成(後鳥羽)は閑院(かんいん)邸に幽閉された。法住寺殿合戦は、京都で行われた初の本格的市街戦であった。戦闘の規模も保元(ほうげん)の乱や平治の乱(これらの事件は、実際には「乱」とは言えない)とは次元が異なり、行真方の武士約630人が戦死した。
合戦に勝利した義仲は、治承三年政変で失脚した前関白・松殿基房と組み、摂政だった近衛基通を罷免(ひめん)し、基房の嫡男で、当時12歳の師家(もろいえ)を摂政・内大臣・氏長者(うじのちょうじゃ、藤原氏の氏族長)につけた(「松殿基房・師家政権」の成立)。
●「天皇救出作戦」としての頼朝軍の上洛
西国では、平家の京都奪還が、俄かに現実味を帯び始めていた。播磨で、平重衡が源行家を打ち破ったのである。この時点で、平家は、行真(後白河)を追放して、言仁(安徳)を天皇、九条兼実を摂政とする政権案を持っていた。頼朝と宗盛に東西から挟撃(きょうげき)され、苦境に立った義仲は、宗盛との和平の途を探った。一旦は、「(1)義仲は行真を宗盛に預けて、近江で頼朝を迎撃、(2)宗盛は、1184年1月13日に入京する」という合意が成立したが、知盛が義仲と同盟を組むことに難色を示したため、和平交渉はご破算となり、宗盛は軍勢を本拠地・福原に進めた。
他方、東国では、頼朝が12月、弟の範頼(のりより、義朝六男)と義経(よしつね、義朝九男)を大将軍とする大軍を、京都に向かって出発させた。実は頼朝は、この年の冬に、頼朝「挙兵」の最大の功労者である上総広常を殺害している。広常はかつて、富士川合戦直後に、京攻めを主張した頼朝を制止している。広常殺害は、法住寺殿合戦後に頼朝が京攻めを決断したタイミングで起きている。
源範頼 源義経
(引用開始)
今回の義仲追討も東国武士たちにとってはあまり気乗りのすることではなかったと思われるが、頼朝はそうした声を押し切って源範頼軍を上洛させたことになる。とするならば、そうした声を封殺するために広常は殺害されたとみることができよう。 (高橋典幸『源頼朝』62ページ)
(引用終了)
広常殺害を実行したのは、頼朝第一の側近・梶原景時(かじわらかげとき)である。彼は、関東のことしか頭にない坂東武士の中で、頼朝の構想を理解できる数少ない人物であった。
頼朝にとって、この京攻めは「天皇救出作戦」であり、天皇を守るための戦いであった。義仲が行真を幽閉したということが、頼朝に義仲打倒の恰好の大義名分を与えることになったのである。1184年1月20日、範頼・義経軍は、義仲軍の瀬田(せた、滋賀県大津市)・宇治の防衛線を突破して、ついに入京を果した。翌日、義仲は北陸へ敗走中、近江国粟津(あわづ、大津市)で討死(うちじに)した。
義仲敗死に伴い、松殿基房・師家が失脚し、近衛基通が摂政に返り咲いた(「第二次行真・近衛基通政権」の成立)。さらに朝廷は、頼朝に対して、宗盛追討宣旨、合わせて義仲残党追討宣旨を下した。
●義経の暴走によって台無しになった天皇・神器奪回作戦
平家は、1月には福原を奪回し、むしろ頼朝軍よりも京都に近づいていたから、当初は、平家の方が先に入京するのではないかと思われていた。2月には、平家一門が浄海(清盛)三回忌(さんかいき)を執り行うため、福原に入った。平家の帰京はますます、現実味を帯びるようになった。
2月7日、範頼・義経軍は福原を攻め、多田行綱の活躍により、平家軍を撃破した。一般的には、この戦いは「一谷(いちのたに)合戦」と呼ばれ、義経の「鵯越(ひよどりごえ)の坂落(さかおとし)」で有名だ。しかし、上杉和彦(うえすぎかずひこ)著『源平の争乱』を読むと、一谷は福原西方の地名に過ぎず、合戦全体は福原全域で行われており、「福原合戦」と呼ぶべきであること、「坂落」に相当するものは、多田行綱による山の手の傾斜からの攻撃であったことが分かる。
朝廷は当初、神器の返還を求めるため、宗盛と和平交渉を行おうとしており、和平の使者を宗盛のもとに送っていたが、対平家強硬派の反対にあい、和平工作は中途で打ち切りとなった。そうとは知らず、平家は朝廷との和平交渉に臨もうとしていた矢先に、範頼軍の奇襲攻撃を受けることになったのである。結果的に、朝廷と範頼軍は平家を騙(だま)し打ちした形になった。
行真(後白河)は何としても、神器だけでも無事に取り戻したいと考えていた。朝廷は平家追討よりも、神器奪還を優先していた。そのため、範頼・義経にとっては、福原での勝利は、神器奪回に失敗した苦い勝利であった。対して、敗北した平家は回復不可能なほどの打撃を受け、京都奪還の可能性もこの時点で、ほぼなくなった。
福原合戦後、行真は宗盛と和平交渉を再開した。どうしても、行真は、言仁を旧主(上皇)として京都に呼び戻し、言仁から尊成に神器を譲らせ、きちんと王位を継承させたかった。行真は、福原合戦で捕虜となった重衡を通じて、宗盛に使者を送っていたが、宗盛からの返事は、(1)神器は返還する。(2)言仁、平徳子(のりこ、建礼門院)、平時子(ときこ、二位尼)は帰京する(王家の分裂解消)。(3)宗盛は入京せず、讃岐国(さぬきのくに、香川県)を知行国(ちぎょうこく)として認める(平家の朝敵解除)という低姿勢な内容であった。しかし、交渉は成立しなかった。
一方で、範頼軍は、かなりぎりぎりの戦いをやっていた。福原合戦では敗走する平家軍を追撃することができなかったが、そもそも範頼と義経は、それほど多くの東国武士を引き連れているわけではなく、京都周辺の旧義仲軍・旧平家軍をかき集めて、戦力に加えていた。
福原合戦後、約半年間、頼朝と宗盛の戦いは停戦状態に入る。これは、それまで頼朝の支配下に入ったことがない近畿地方の武士たちの組織化に時間がかかったためで、この仕事は義経が任されていた。また、平家追討戦は、これまでの合戦とは比較にならないほどの戦費を必要とした。旧平家領の中国地方5カ国には梶原景時、土肥実平(どひさねひら)が、また、平家の長年の地盤である伊賀(いが)・伊勢(いせ、三重県)には、大内惟義(おおうちこれよし、源氏)が派遣され、占領地域の平定を任された。
ところが、彼らは占領地域を安定化させることができず、なかなか平家方の抵抗がやまなかったため、朝廷と頼朝は、新たに、範頼が平家追討を、義経が京都守護と伊勢・伊賀平定を担当することに決めた。
頼朝の平家追討は、1184年秋から再開される。東国勢は半年間の休養ののち、8月、範頼を大将軍として出発、10月、安芸(あき、広島県西部)に到着した。範頼軍の作戦は、山陽道(さんようどう)を西進しながら、平家の拠点を一つ一つ潰(つぶ)して、、中国地方をおさえ、ついで有力平家家人の多くが勢力を張る九州に渡り、平家の地盤を叩くというものであった。平家は、東は讃岐の屋島(やしま、香川県高松市)、西は下関沖の彦島(ひこしま、山口県下関市)を拠点とし、瀬戸内海の制海権を握っていた。これを頼朝は、九州と四国から挟撃するつもりだった。
範頼軍は、飢餓に苦しむ西国を進んだため、多くの問題を抱えこんだ。苦戦の原因は、兵糧と兵船の欠乏にあった。さらに、東国武士にとって、西国は全くの未知の土地であった。範頼軍は関門海峡を渡れぬまま、年を越してしまう。遠征中の東国武士たちの間に厭戦(えんせん)気分が高まったため、頼朝は鎌倉から兵糧の輸送に努め、有力武士たちに手紙を書いて必死に宥(なだ)めた。範頼は、翌1185年1月、一旦は豊後(ぶんご、大分県)への渡海に成功するが、すぐに彦島を拠点とする知盛の反撃にあい、周防(すおう、山口県東南部)への退却を余儀(よぎ)なくされた。
他方、義経は1184年8月、検非違使(けびいし)・左衛門少尉(さえもんのしょうじょう)に任じられていた(翌月には従五位下に叙[じょ]される)。一般的には、義経の無断任官により、頼朝と義経が対立することになったとされ、両者の対立は「策謀家」の行真によって仕組まれたことになっている。しかし、事実はそうではない。
行真(後白河)としては、京都の治安維持の責任者である義経を検非違使に任じるのは、当然の措置であり、任官には義仲追討と福原戦勝の論功行賞という意味合いもあった。従来から、朝廷は武士たちに、それ相応の官職を直接、授けていたのであり、その先例に従えば、義経の任官は妥当なことであった。頼朝が憤慨したのは、義経が自分に断りもなく任官したことではなく、このあと義経を平家追討使として西国へ派遣する予定だったからである。
(引用開始)
ところが、(引用者註:頼朝は義経が)検非違使左衛門少尉という官職に任じられたことによって、京都を離れにくくなったと考える。後白河やその周囲の貴族たちは、頼朝がそんな堅苦しいことを考えているなどと、予想もしなかったと思う。貴族社会、とくに平安末期の宮廷には、官職に関して、ある種のいいかげんさがある。しかし、頼朝は官職というものを、非常に厳密に考えていた。
義経が再び追討使に派遣されたことから、実際には頼朝の怒りが「激怒」までのものではなかったという近藤好和氏の意見もある。検非違使就任後も、義経は頼朝との交渉役として重視されていた。 (美川圭『院政』173ページ)
(引用終了)
頼朝にせよ、浄海(清盛)にせよ、下流貴族は官職というものを非常に厳密に考える傾向があった。義経任官の翌9月には、頼朝は義経と河越重頼(かわごえしげより)の娘の結婚を仲介しているので、義経任官が頼朝と義経の対立の原因とは言えないだろう。
範頼が西国で苦戦しているとの情報を得ると、義経は行真に讃岐国屋島の平家を攻撃する許可を求めた。この頃、義経は明らかに行真直属の武士となっていた。義仲でこりごりした行真は、最良の「警備隊長」である義経を信頼していた。義経がいなくなると、京都の警備が手薄になるため、行真は義経に出陣を思い留(とど)まるように求めたが、最終的には許可した。義経は、勝手に、範頼の応援に行くことを決めたのであり、その命令は頼朝ではなく、行真から出された。
(つづく)