「198」 論文 日本権力闘争史 日本権力闘争史−源頼朝編―(5) 長井大輔(ながいだいすけ)筆 2012年10月7日

●奥州十二年合戦の再現としての奥州合戦

 挙兵失敗後、行方不明となっていた義経は、1187年後半には、陸奥国平泉(ひらいずみ)に入っていた。義経がどのようにして、畿内から奥州に辿(たど)り着いたのかは、よく分かっていない。義経が平泉入りした直後の1187年10月、藤原秀衡が死んだ。秀衡の遺言は、「義経を大将軍として、一族が団結して頼朝に対抗せよ」であった。

藤原秀衡

 しかし、秀衡の後を継いだ泰衡(やすひら)は、朝廷や頼朝からの度重なる圧力に耐えかねて、1189年閏4月、衣川館(ころもがわのたち、岩手県平泉町)にいた義経を襲撃し、妻子もろとも殺害した。朝廷では、義経死亡の報せを受けて、これで戦乱の世も終わり、泰平(たいへい)の世が始まるという認識が広がった。ところが、頼朝は、泰衡に対する圧力を緩(ゆる)めることはなかった。

 頼朝は朝廷に対して、泰衡追討宣旨を要求したが、朝廷はその必要はないとして、応じなかった。しかし、頼朝はすでに1189年2月の段階で、義経・泰衡を追討するため、全国規模で武士たちの動員をかけていた。頼朝の再三の催促にもかかわらず、朝廷は宣旨を下さなかったが、7月、頼朝はついに、宣旨なしでの奥州出兵を決意し、鎌倉を発った。

 奥州遠征軍は、(1)千葉常胤・八田知家(はったともいえ)を大将軍として、常陸・下総の武士団からなる海道軍(かいどうぐん、常磐道を北上)、(2)比企能員(ひきよしかず)・宇佐美実政(うさみさねまさ)を大将軍とし、上野(こうずけ、群馬県)・下野の武士団からなる北陸道軍、そして、(3)頼朝自らを大将軍とし、畠山重忠を先鋒とし、平賀義信(ひらがよしのぶ、源義信)・安田義定・和田義盛(わだよしもり、三浦一族)・三浦義澄・梶原景時ら有力武将たちがつき従う大手軍(おおてぐん、東北道を北上)の三軍で編成されていた。

 奥州遠征は、頼朝にとって、奥州藤原氏の脅威を取り除くためというよりも、頼朝自ら大将軍として軍勢を率いて、その軍勢に全国各地の全ての武士たちを参加させるという点に主眼が置かれていた。頼朝の命令に全ての武士たちを従わせるということである。

 8月、陸奥国阿津賀志山(あつかしやま、福島県伊達郡)で泰衡軍を打ち破った頼朝軍は、その後、平泉に入るが、すでに泰衡は北の厨川(くりやがわ、岩手県盛岡市)に逃げ去っていた。9月3日、泰衡は味方の裏切りにあい、殺された。4日、頼朝は陣岡(じんがおか、岩手県紫波町)に到着し、ここに史上空前の大軍勢(一説には28万騎)を集結させた。9日には、遅ればせながら、朝廷から泰衡追討宣旨がとどけられた。頼朝は、泰衡死後も北上を続け、11日には全軍を率いて厨川に到達した。


源頼朝木像(甲斐善光寺)

 頼朝は奥州合戦において、奥州十二年合戦(いわゆる「前九年合戦」)の源頼義(よりよし)の故実(こじつ、伝説)を踏襲(とうしゅう)している。頼義は頼朝の先祖であるが、彼は奥州十二年合戦において、奥六郡(おくろくぐん、岩手県)の郡司・安倍頼時(あべのよりとき)・貞任(さだとう)を追討した。頼朝は自らを頼義に、泰衡を安倍貞任に擬(なぞら)えて、合戦を行っている。頼朝は、全国の武士たちに奥州十二年合戦を追体験させることにより、彼らとの主従関係をより強固なものにしようとしたのである。

●行真(後白河院)・頼朝関係から尊成(後鳥羽院)・頼家関係への移行

 1190年11月、頼朝は挙兵以来、はじめて京都を訪問し、行真(後白河)、尊成(後鳥羽)、九条兼実らと会談した。朝廷は、位階こそ正二位であったが、散位(さんい。位階はあるが、官職には就いていないこと)の頼朝に対して、権大納言(ごんのだいなごん)・右近衛大将(うこのえたいしょう、大納言・大将は大臣一歩手前)という破格の地位を用意していた。官職の重みやその機能というものを厳密に考える頼朝は、在京して朝廷の一員になるつもりがなかったので、すぐに両職を辞任しているが、これにより、「前右大将家(さきのうたいしょうけ)」という高い肩書を手に入れることができた。

 1192年3月、行真が66歳で死んだ。7月、頼朝は征夷大将軍に任命された。これまで、頼朝が征夷大将軍への就任を望んだ理由としては、東国に「幕府」を開くためとか、奥州藤原氏を征伐するためと説明され、東国に独立した武家政権が成立することを嫌った行真は、頑なにその承認を拒んでいたと言われてきた。ところが、近年、発表された一本の論文により、頼朝が征夷大将軍に任命された経緯が明らかにされた。その論文とは、櫻井陽子(さくらいようこ)著『頼朝の征夷大将軍任官をめぐって』である。以下にその要約を引用する。

(引用開始)

 そして、後白河院死後の建久三年(一一九二)七月に至り、頼朝は朝廷に「大将軍」の将軍の称号を要求した。朝廷側はそれにふさわしい官職として、「征東大将軍」「征夷大将軍」「惣官」「上将軍」の四候補を検討することとし、「征東大将軍」は義仲の先例、「惣官」は平宗盛の先例が「不快」であるとして候補からはずした。また、「上将軍」についても日本では補任例がないとして退け、結局、朝廷は坂上田村麻呂の「征夷大将軍」が吉例であるとして、頼朝を征夷大将軍に補任した(以下略)。(川合康『源平合戦の虚像を剥ぐ』236ページ)

(引用終了)

 これにより、頼朝がはじめから「征夷大将軍」職を希望していたわけではないことが分かった。では、なぜ頼朝は「大将軍」という称号を望んだのか。その謎を解くことが、日本史の歴史学者たちの新たな研究課題である。

 また、頼朝はなぜ、京都に上(のぼ)って朝廷の一員とならずに、東国に在住し続けることになったのかという問題もある。行真は、折に触れて、頼朝の上京を促している。行真は、頼朝を京都に呼び寄せ、貴族の仲間入りをさせたかった。頼朝も、富士川合戦後、そのまま京都に攻め上がろうと主張したくらいだから、本心では、京都の朝廷で政務をとりたかったであろう。だが、それを押しとどめたのは、坂東武士たちであった。彼らは、頼朝が京都の貴族ではなく、東国武士団の代表であり続けることを望んでいた。結局、頼朝もそれを受け入れ、坂東武士たちとともに生きる道を選んだのである。


鶴岡八幡宮(撮影・長井大輔)

 1195年3月、頼朝は妻・北条政子(まさこ)、長男・頼家(よりいえ、万寿)、長女・大姫(おおひめ。永井路子『源頼朝の世界』によれば、この大姫という名前は「長女」を意味する固有名詞というよりは、普通名詞に近い呼び方)を伴って、再び京都を訪問した。今回の頼朝の目的は、「行真・頼朝交渉関係」に代わる、新たな京都(朝廷)と鎌倉(東国)との関係づくり、すなわち、「尊成・頼朝交渉関係」へと移行するための準備である。頼家は頼朝の後継者として、尊成に紹介された。

 また、頼朝は行真の寵姫(ちょうき、愛人、恋人)であった高階栄子(たかしなのよしこ、丹後局、浄土寺二位)を六波羅(ろくはら)邸に招き、政子・大姫と引き合わせている。その目的は、大姫の入内(じゅだい。内裏[だいり]に入ること。天皇と結婚すること)である。実は大姫にはかつて、許嫁(いいなずけ)がいた。義仲の息子・義高である。大姫と義高はたいへん仲がよかったが、義仲敗死後、頼朝は義高を殺害した。まだ6、7歳であった大姫は義高の死にショックを受け、鬱病になってしまった。

 それ以来、大姫の存在は、頼朝・政子夫妻を悩ませ続けてきた。頼朝と政子は、大姫の新しい結婚相手を探した。そこで、浮上したのが尊成との結婚である。天皇の后妃(こうひ)になることは、当時、女としての最高の栄誉である。そして、何よりも、大姫が尊成の妻になれば、天皇と鎌倉殿(かまくらどの。東国武士団の棟梁のこと)は姻戚関係に入り、朝廷と東国の関係は盤石(ばんじゃく)なものとなる。



 また、この際、頼朝は「後白河院(行真)の遺言に従い、長講堂領(ちょうこうどうりょう)として7カ所の荘園を立てるべきだ」と発言した。「長講堂領」とは、行真が保有していた膨大な荘園群の一つで、行真死後、娘の覲子(あきこ、宣陽門院、母は高階栄子)が相続していた。行真危篤の際、栄子や覲子の後見人・源通親らが大急ぎで荘園を立てて、後院領(ごいんりょう、上皇領)に組みこんだが、兼実によって停廃(ちょうはい、取消)となっていた。頼朝はこの兼実の取った措置を取消し、停廃された7カ所の荘園を、覲子の保有する長講堂領に組みこむことに同意したのである。頼朝は、栄子や通親に接近することにより、大姫入内の斡旋(あっせん)を期待したのである。

 頼朝の大姫入内工作に過敏に反応したのが、兼実である。彼はすでに、長女・任子(たかこ、宜秋門院)を入内させ、尊成の中宮(ちゅうぐう、天皇の正妻)に立てていた。天皇は多妻制で、兼実と頼朝では家柄も違うから、兼実は頼朝の入内工作に対して、危機感を持たなくてもよさそうなものだが、兼実の立てた九条家はいまだ、摂関家としての家格が定着していなかった。摂関家嫡流は、藤原忠通の嫡男・基実を祖とする近衛家であり、兼実は忠通の六男で、本来なら摂関になれない傍流である。九条家が摂関家の家格を獲得できるかどうかは、任子が天皇の男子を産むかどうかにかかっていた。

 任子は1195年8月、出産するが、兼実の願いも空しく、女子(昇子[のぼるこ]、春華門院)だった。一方、通親も養女・在子(ありこ、承明門院)を後宮に入れていたが、同年11月、尊成の男子を出産した。在子は藤原範子(ふじわらののりこ、刑部卿局)と能円(のうえん。平時子・時忠の異父兄)の娘であり、母・範子は平家都落ち後、通親と再婚していた。範子は尊成の乳母(めのと)であったため、範子との再婚により、通親は乳父(めのと)の地位を手に入れた(当時の乳父母は、現在の育ての親に匹敵する)。

 

 表向き、頼朝と兼実は協力関係にあったが、実際の関係は疎遠なものだった。頼朝は、兼実と会談した際、行真の悪口を延々と聞かされたため、辟易(へきえき、うんざり)したらしい。大姫入内工作により、ついに二人の対立は、公然のものとなった。頼朝と兼実の間に入った亀裂を、通親は見逃さなかった。

 1196年11月、突如として、中宮・任子が内裏から追い出され、兼実は関白罷免、兼実の弟・慈円(じえん。藤原忠通十一男)は天台座主を辞任した。関白には近衛基通が十年ぶりに返り咲き、新しい天台座主には、行真の十男・承仁(しょうにん)が就任した。この政変の背景には、兼実の失脚により、大姫入内が進むと考える頼朝の暗黙の承認があった。しかし、頼朝の思いも空しく、1197年、大姫は死んだ。

 1198年1月、19歳になった尊成は、在子が産んだ4歳の為仁(ためひと、土御門院)に譲位した。為仁の即位により、天皇の外祖父(がいそふ、母方の祖父)となった通親は、権大納言でありながら、「源博陸(げんはくろく、源氏の関白の意)」と呼ばれた。尊成から為仁への譲位は、内密、かつ迅速に強行された。なぜ、尊成が譲位を強行したかといえば、同母兄・守貞の即位の芽を潰しておきたかったからだ。

 尊成が即位した時、守貞は長兄・言仁(安徳帝)とともに、平家によって、西国に連れ去られていた。もし、守貞が京都に残っていたならば、行真は守貞を天皇にしていたはずである。壇浦での平家滅亡後、守貞は京都に帰ってきた。以後、守貞は、尊成が自分の王統を確立する上での脅威となってきた。

 一条能保(いちじょうよしやす、頼朝の同母妹の夫)や平頼盛(よりもり、浄海の異父弟)を介して、守貞とつながりのあった頼朝は、守貞の境遇に同情して、譲位の話が出た際、正統は尊成の王統だとしても、一旦、守貞に天皇をやらせてから、為仁に王位を継がせてはどうかと尊成に持ちかけてきた。尊成の懸念は的中した。尊成は、その頼朝の提案をかき消すかのように、為仁即位を電光石火で強行したのである。

 また、為仁の即位に伴って、朝廷高官の人事異動も行われた。この人事は通親のよって主導され、幼帝の摂政には、関白・近衛基通が引き続き就任した。その他の顔触れは、左大臣は花山院兼雅(かねまさ)、右大臣は大炊御門頼実(よりざね、経宗長男)、内大臣は九条良経(よしつね、兼実次男、籠居[ろうきょ]中)で、権大納言の通親が右近衛大将を、同じく権大納言・近衛家実(いえざね、基通長男)が左近衛大将を兼ねた。九条家に代わって、近衛家が政権を掌握し、良経は近いうちに罷免され、通親が後任の内大臣に昇格するのは確実な情勢であった。通親はさらに頼朝の歓心を買うため、頼家を右近衛少将から左近衛中将に昇進させようとしていた。

 ところが、1199年1月、頼朝が53歳で死んだ。次女・三幡(さんまん、乙姫)を連れて、京都を訪問しようとしていた矢先のことであった。入内工作は大姫の死によって途絶していたため、今度は三幡を入内させようとしたのである。結局、頼朝は娘の入内計画を実現することができなかった(実現すれば、京都・鎌倉関係の安定化に寄与したであろう)。そして、その三幡も頼朝の後を追うように同年6月、死亡した。

●参考文献
本文中に出典を明示した以外の参考文献は以下の通り(平清盛関係は除く)。安田元久『後白河上皇』/橋本義彦『源通親』/永原慶二『源頼朝』/関幸彦『源頼朝−鎌倉殿誕生』/同『東北の争乱と奥州合戦』/永井晋『鎌倉源氏三代記』/野口実『源氏と坂東武士』/石井進『日本の歴史7鎌倉幕府』/山本幸司『日本の歴史09頼朝の天下草創』/Wikipediaフリー百科事典

(『日本権力闘争史−源頼朝編−』以上)

(終わり)