「203」 翻訳 アメリカの民主化政策についてアメリカで発表された論文をご紹介します(2) 古村治彦(ふるむらはるひこ)訳 2012年11月20日

『アメリカ政治の秘密』

 1950年代から1960年代にかけて、この民主政体促進プロジェクトは、静かに始まった。プロジェクトは、CIAの秘密の資金援助が文化プロジェクトの形を取るようになっていた。フォード財団のような慈善事業家や団体を通じてお金が流れるようになっていた。これに関与した作家や芸術家たちは本当のことを知らない場合がほとんどだった。

CIAのロゴ

 こうしたプロジェクトには、高級雑誌の創刊も含まれていた。イギリスではエンカウンター誌、ドイツではダーモナト誌、フランスではプレイヴス誌といった雑誌が創刊された。また、CIAの資金援助で、文化自由会議(Congress for Cultural Freedom)が結成された。この組織は、反共、反ソビエト左派の力を結集して、西ヨーロッパの文化エリート(ピカソやサルトルなど)に対抗することを目的としていた。西ヨーロッパの文化エリートは、その当時、共産主義に対して共鳴したり、中立的な立場を取ったりしていた。

 絵画の世界は重要な主戦場であった。1950年代を通じて、CIAは、アメリカの抽象表現主義の画家たちの絵画展を後援していた。ヴィレム・デ・クーニング、ジャクソン・ポラック、ロバート・マザーウェルといった画家の絵画が展示された。その当時若者だったネルソン・ロックフェラーは、ニューヨーク近代美術館を通じて、このような絵画展を数多く企画した。しかし、ネルソン・ロックフェラーがある時、抽象表現主義の絵画を「自由企業絵画」と呼んでしまい、彼の試みの意図がばれてしまった。その当時のCIAの国際組織局長だったトム・ブランドンは次のように当時について述懐している。
 

ネルソン・ロックフェラー


 「私たちは、作家、音楽家、芸術家といった人々を結びつけたいと思っていました。そして、西洋諸国やアメリカでは、表現の自由が守られ、知的な部分での発展に政府も貢献していることを示したかったのです。文章、発言、パフォーマンス、絵画などの表現にいかなる厳しい障壁も存在しないことを示したかったのです。当時のソ連では、これらに対して厳しい抑圧が存在していました。私は、その当時のCIAで国際組織局が最も重要な部局であったと今でも考えています」

 ブランドンは、根拠もなくただ自慢をしている訳ではない。ジョセフ・ナイ(Joseph Nye)は1990年に「ソフト・パワー(soft power)」という言葉を世に出した。この「ソフト・パワー」という言葉は、冷戦後の世界で起きる諸問題に対してアメリカの力をどのように使うか、再構築を迫られたとき、その行く先を端的に表現した言葉であった。しかし、民主政体促進(民主化)事業は、ナイが「ソフト・パワー」という言葉を生み出すほぼ半世紀前から存在する、「ソフト・パワー」の典型例であり続けた。そして、民主政体促進事業が文化的な流れを変えることに成功したのは、左翼の幻想から生み出された作り話ではない、本当の話なのだ。これは何も驚くべきことではない。

ジョセフ・ナイ

 冷戦とは文字通り、「冷たかった」のであり、アメリカとソ連両帝国の接する辺境に限定され、軍事行動が行われていたのだ。キューバ、朝鮮半島、ベトナム、中央アメリカ、コンゴとアフリカの角と呼ばれる地域では軍事衝突が勃発したのだ。しかし、冷戦期、大規模な戦争は起きず、主に経済競争が東西両陣営間で行われた。そして、共産主義と自由主義的・資本主義、どちらをポスト植民地主義時代の新興独立国は選ぶのかという疑問が人々を支配していた。

 対立し合う二つの陣営が軍事力ではなく、ソフト・パワーで戦う戦争とはどのようなものになるだろうか?つまり、一方が思想、文学、芸術を通じて力を発揮しようとしたらどうなるだろうか?クラウゼビッツ(Clausewitz)の言葉を借りるなら、文化とは他の手段をもってする政治の継続である、ということになる。

 恐ろしいほどの数の作家や芸術家たちは、知らず知らずのうちにCIAからの援助を受けていた。実際には、本当に知らなかった人々もいたが、知らないふりをしていた人々もいた。冷戦期、民主政体促進事業のこうした形態は、戦術的には大きな成功を収めた。1970年代から1980年代にかけて、ソビエト式の共産主義がほぼ過去の遺物となりかけていた。この時期、アメリカの民主政体促進事業は、ワルシャワ条約機構加盟諸国の国内にいる政治的、文化的反体制派の人々への支援に集中していった。

 アメリカのプロジェクトは成功した。ヴァーツラフ・ハヴェル(Vaclav Havel)やロシアの高名な詩人ヨシフ・ブロツキー(Joseph Brodsky)のような東側の反体制派は、アメリカの支援に感謝を表明している。東欧諸国の反体制派が1989年に起きた一連の出来事を「創りだした」のではない。しかし、彼らは、古いマルクス主義の擁護を使うならば、一連の出来事の「前衛(vanguard)」にいた。ハヴェルが1989年に歴史の判断が下るまで反体制を貫けたのはアメリカの支援があったからだ。ハヴェルは次のように述べている。「微動だにしない巨大な全体主義の体制は一枚岩のように見えた。しかし、それがトランプでできた家のようにあっという間に崩壊したのだ」ヨーロッパの経験が示しているように、民主政体促進(民主化)事業は、冷戦におけるアメリカの勝利に大きく貢献したのである。

  

ヴァーツラフ・ハヴェル      ヨシフ・ブロツキー

 従って、民主政体促進事業を採用しないということは、アメリカ政府にとっては、極端なことを言えば、馬鹿げたことということになった。ロナルド・レーガン(Ronald Reagan)大統領は、1980年代を「世界規模の民主革命」の時代にした。レーガン政権は、民主化の努力を結集して、1983年に、全米民主政治のための基金(National Endowment for Democracy、NED)を設立した。さらに、その他に4つのNEDと関係を持つ組織も創設された。それらは、国際共和研究所(International Republican Institute、IRI)、全米民主研究所(National Democratic Institute、NDI)、国際民間企業センター(Center for International Private Enterprise、CIPE)、米国国際労働連帯センター(American Center for International Labor Solidarity、ACILS)である。

  

ロナルド・レーガン   NEDのロゴ    IRIのロゴ

  

NDIのロゴ      CIPEのロゴ  ACILSのロゴ

 この時期(1980年代)から「民主政体促進(民主化)」という言葉は広く使われるようになった。民主政体促進の試みは賞賛されるようなものではなかった。いくつかの試みは、明らかに害を及ぼし、またその他のものは、卑劣なものであった。しかし、戦争というものは卑劣で汚いものである。そして、冷戦期におけるアメリカの民主政体促進事業は完全に正当化されるものであるし、今から振り返っても、正しかったと言える。

 現在、最も重要な疑問は、「ソビエト連邦が崩壊して20年経過した。それでもアメリカの政府機関、主要な慈善事業家、NGOは、民主政体促進事業を拡大させようとしている。それは一体なぜなのだろうか?」というものだ。もっと具体的に言えば、米国国際開発庁(U.S. Agency for International Development、USAID)、全米民主政治のための基金とその関係団体、フリーダム・ハウス(Freedom House)やジョージ・ソロスの運営しているオープン・ソサエティ財団が民主政体の拡散のために活動している。その理由は一体何なのか?ということなのである。

  

USAIDのロゴ      米国務省のロゴ

 民主政体促進(民主化)事業の拡大は前代未聞の規模に達している。2011年、民主政体促進事業には、170億ドル(約1兆3600億円)の予算が配分された。これは、国務省と米国国際開発庁に配分された、海外支援予算の総額の55%を占める額である。米国国際開発庁の掲げる7つの戦略的目的の中で、三番目の目的を達成するために、この予算は配分されている。第三の目的とは、次のようなものだ。「経済的に繁栄し、安定した民主国家の数を増やし、それを維持する。そのために、機能的で、説明責任を果たす、民主的な統治を促進する、人権を尊重する、幅広い要素からなる経済成長を持続させる、福祉を向上させるという方法を採用する」

 民主政体促進(民主化)事業に割り当てられた予算は、新興国の経済発展、世界各国の衛生状態や栄養状態の改善に貢献した。クリントン、ジョージ・W・ブッシュ、オバマの各政権の国務長官たちは、民主政体促進(民主化)事業に多くの力を傾注し、それをアメリカの外交政策の中心としてきた。このことから、アメリカ政府は、民主政体促進事業の推進に揺るぎない自信を持っていることが分かる。

 しかし、実際には、「長期戦(long war)」の戦場となったイラクやアフガニスタンといった国々では民主政体促進事業はうまくいっていかなかった。また、「世界規模で達成されるべき課題である自由」とジョージ・W・ブッシュ大統領は呼んだが、自由が拡散することも困難を極めている。こうしたことをアメリカ政府がきちんと認識しているようには見えない。

ジョージ・W・ブッシュ

 しかし、アメリカの民主政体促進に対する信仰に近い信頼と関与は当然のものとして受け止められるべきではない。2012年現在、民主政体促進(民主化)は筋の通った教義なのか疑問を持つのは当然のことだ。また、ベルリンの壁が崩壊して以来、起こったさまざまな衝撃的な出来事から、民主化促進事業は影響を受けなかったのかということももた疑問に思えてくる。

 アメリカの政策立案者や人権運動活動家たちの大部分は、歴史はアメリカの側にあることを確信しているようだ。しかし、ソ連の崩壊以降、彼らの努力は、ロシアのような反米的な国や中国のような新興大国から邪魔をされるようになっている。また、「グローバル・サウス(Global South)」(南半球の発展途上国)に属する国々も、アメリカの努力を忌避するようになっている。こういった国々では、民主政体を推し進める人々や国々の主張は、アメリカの将来の国益のために道徳の装いを施したものにしか思えない。世界規模で人々の利益のためにやっているなどとは考えない。

 結局のところ、ジョージ・W・ブッシュ政権は、民主政体に関しての達成目標をイラク進攻と、イスラム聖戦主義者たち(jihadis)との長期にわたる世界規模の追及を正当化するために利用した。アメリカが決して民主政体の模範であるという訳ではないと人々は思い始めている。そして、人々は、民主政体促進プロジェクト全体の道徳性や善意(bona fides)について疑問を持つようになっている。こうした疑問はアメリカの人々でさえも持つようになっている。しかし、このような矛盾をアメリカの政策立案者たちが潜在的な脅威であると認識する前、民主政体促進事業はそれ自体の成功の犠牲となった。

 アメリカのビジネススクールで教えられる格言に、「成功している企業が直面する危険は、規模の拡大が早すぎることだ」というものがある。民主政体促進(民主化)事業に起きたのがまさにこの状況である。その当時、民主政体促進事業の拡大は人々の支持を得たが、後から考えてみれば、それは馬鹿げたものであったと言える。

 ソ連の崩壊は現在、多くの人々が考えているように、不可避な出来事であったかというとそうではない。しかし、ソ連の崩壊は、多くの知識人たち、その中にはアメリカ政府で政策を立案していた人々も含まれるが、彼らにとって、民主化促進は正しかったのだという証明を与えるものとなった。

 冷戦終結後の、勝利を祝う雰囲気とその余韻は、クリントン政権下でも続いた。そして驚くべきことに、現在もまだ続いているのである。ヒラリー・クリントン率いる国務省の政策の基本にあるのが民主政体促進事業であり、米国国際開発庁の事業においては、民主政体促進(民主化)が新たに強調されるようになっている。

 アメリカの冷戦の勝利が人々の認識を歪めてしまったのではないだろうか?冷戦での勝利と世界で唯一の超大国となったことで、アメリカの社会組織の優越は証明されたと人々は考えてしまったのではないか?イラクでの失敗とアフガニスタンでの泥沼が証明しているように、アメリカは軍事力では他の追随を許さない存在であるが、アメリカは様々な事件や出来事において、それらを自分の思い通りにすることはできないのである。更に、ジョージ・W・ブッシュ政権で始まり、オバマ政権下でその程度が酷くなったアメリカの政治システムの硬直性と機能不全によって、アメリカの民主政体は世界に比類なき素晴らしいものだという信条が大いに傷つけられてしまった。

 ヒラリー・クリントン国務長官は中国に対して挑戦的なスピーチを行った。しかし、権威主義的・資本主義を採用している中国は、金融危機に苦しむ欧米とは対照的に、経済的成功を収めている。こうした状況下、アメリカは世界規模での民主政体拡散を行える手段を持っているのか、そして道徳的優位を持っているのかという疑問を多くの人々が持つようになっている。

 しかし、1990年代、アメリカが民主化のために行動するという考えが既にアメリカを席巻していた。全ての国家はすぐに自由主義的民主国家となり、アメリカの使命は、世界各国を一日も早く民主化することだと人々は考えていた。このように考えることにはきちんとした、合理的な理由が存在した。このような幸せな結末(民主化)を一日も早く迎えるために、1990年代の民主政体促進事業は、「移行(transition)イニシアチヴ」と呼ばれるものに集中していった。移行イニシアチヴとは、以前共産主義出だった国々やグローバル・サウスに属する、イデオロギー的ではない独裁国家を、フクヤマが『歴史の終わり』で述べた約束の地、つまり自由主義的民主国家に導く試みであった。アメリカといくつかの民間団体(主にグルジアのソロス財団)は、民主化を進めようと熱心に活動していた反体制派を支援し、資金も流していた。しかし、こうした非民主国家の各政権は、民主化を望んでいなかった。

『アメリカが作り上げた“素晴らしき”今の世界』

(つづく)