「206」 論文 三木武夫研究―「クリーン三木」の裏側:日本の戦前・戦後を通じてアメリカの日本操り用人材であった「議会の子」(2) 古村治彦(ふるむらはるひこ)筆 2012年12月20日

※本論文は、ウェブサイト「副島隆彦の学問道場」用に書かれたものですが、「今日のぼやき」の編集を担当している中田安彦氏の許諾を得て、ウェブサイト「副島隆彦の論文教室」に掲載いたします。

●三木武夫は近衛新体制確立に動いていた

 戦前、昭和時代の日本で多くの政治家や有識者たちが唱えたのが新体制運動である。新体制運動とは、世界規模での経済不況と戦争に備えるために、世界各国で起こった、国家総動員体制を樹立するための政治運動だった。日本では、 新体制確立運動は、近衛文麿(このえふみまろ、1891〜1945)を首相に擁立する運動と絡めて進められていた。近衛は、1937年から1939年、1940年から1941年のそれぞれの期間に首相を務めた。

 近衛は、政党に属しておらず、議会内での基盤が弱いということで、「近衛新党」の樹立が模索されたが、この動きは挫折した。そして、既存政党を乗り越えるための新体制運動が活発化した。1940年、近衛が総理になった後、新体制確立の機運が高まった。そうした動きに、三木は参加した。三木と共に新体制確立に動いたのが、若手代議士である小泉純也(小泉純一郎元首相の父、1904〜1969)、羽田武嗣郎(羽田孜元首相の父、1903〜1979)らであった(明治大学大学史資料センター編『三木武夫研究』、154ページ)。この新体制運動は、既存各政党の解散と大政翼賛会に結実した。

      
近衛文麿         小泉純也

 三木は、1941年、議会内の最大会派である翼賛議員同盟(翼同)に参加する。この時、翼賛議員同盟に批判的な議員たちは、同交会を結成している。同交会には、芦田均、大野万睦、尾崎行雄、片山哲、世耕弘一、鳩山一郎、林譲治、星島二郎といった戦前、戦後に活躍した政治家たちが参加し、翼賛政治に反対した。三木は、若手政治家ということもあり、また、近衛新体制作りに動いたという経緯もあってか、表向き翼賛政治に反対することはなかった。それでも、1942年に実施された翼賛選挙では、翼賛政治体制協議会からの推薦は受けられず、いわゆる、非推薦候補となってしまった。これにより、さま様座な選挙妨害を受けることになるが、定数4のところ、第三位で当選した。三木は、1945年、鈴木貫太郎内閣の軍需政務次官となった。

 このような経歴であるにもかかわらず、三木武夫は、戦後、追放を免れた。同交会を結成し、翼賛政治に反対した鳩山一郎でさえ、公職追放の憂き目にあった。翼賛政治に参加し、戦時中には軍需政務次官も務めた三木が追放されなかったのは、三木がアメリカに見込まれた存在であったことを示していると私は考える。

●昭和研究会・太平洋問題調査会・日米同志会・協同主義政党

 三木武夫は、近衛の側近・周辺人物が組織していた、昭和研究会(1933〜1940)とも関係があった。この昭和研究会とは、近衛文麿のブレイン・トラスト(政策やその基本理念を考えるシンクタンクのような組織)である。当時のフランクリン・ルーズベルト大統領が有識者や専門家からなるブレイン・トラストを組織していたのを真似たものである。

 昭和研究会を組織したのは、近衛の旧制一高・京都帝国大学時代の学友で青年団運動に関わっていた後藤隆之介(ごとうりゅうのすけ、1888〜1984)と東大教授だった蝋山正道(ろうやままさみち、1895〜1980)である。後藤は戦後、民間放送連盟の結成にも力を発揮した。蝋山は、日本行政学の基礎を築いた。昭和研究会は、政治、経済、社会、文化各方面の研究を行い、「東亜新秩序」「大政翼賛会」の実現に大きな影響を与えた。また、「協同主義」の研究も行った。

       
蝋山正道      笠信太郎          牛場友彦

    
尾崎秀実            千石興太郎

 昭和研究会には数多くの有識者が参加していた。代表的な人々をここで数名挙げておく。牛場友彦(うしばともひこ、1901〜1993)は近衛総理秘書官を務めた。ゾルゲ事件で死刑となった尾崎秀実(1901〜1944)は朝日新聞記者、満鉄調査部嘱託、内閣嘱託を務めた。朝日新聞ヨーロッパ特派員時代に開戦、スイスに留まり、アメリカのアレン・ダレスと交渉を行った笠信太郎(1900〜1967)は、戦後朝日新聞論説主幹を務めた、井川忠雄(1893〜1947)は、大蔵官僚出身で、戦後、日本協同党結成に参加した

 三木と昭和研究会をつなぐ重要な人物として、千石興太郎(せんごくこうたろう、1874〜1950)という人物がいる。千石は、札幌農学校(現在の北海道大学)出身、産業組合(現在の農協)運動を主導した。戦後の農協王国の基礎を築いた人物である。東久邇宮内閣では農商大臣を務めた。また、日本協同党結成にも参加している。千石は、全国購買組合連合会会長として、三木の義父である森矗昶(もりのぶてる)と関係が深かった。千石が肥料を買う側、森が肥料を作り売る側であり、二人はトップ会談を行い、意気投合した。このことは、三木睦子が証言している。また、これは終戦直後になるが、三木の引っ越した先の近くに、千石が住んでおり、三木が「ご指導いただきたい」と訪問していたということである。三木睦子は、三木武夫と千石興太郎の交流が戦後から始まったように言っているが、これが本当かどうか私は疑っている。私は、閨閥を通じて、千石と三木が戦前からつながっていたのだろうと推測する。その方が自然だ。

 千石は、昭和研究会と戦後の協同主義政党に参加している。これは近衛の周辺人物の典型的な動きである。また札幌農学校出身ということで、内村鑑三や新渡戸稲造といったキリスト教人脈にもつながっている。三木はこうした人物と閨閥を通じてつながっていた。

 昭和研究会と人脈が重なっていたのが、太平洋問題調査会(Institute of Pacific Relations、IPR)である。太平洋問題調査会は、1925年に環太平洋地域の諸国が民間レベルで交流し、相互理解を深め、学術研究の発展に寄与するために組織された。本部は、最初ハワイのホノルルに置かれていたが、のちにニューヨークに移された。IPRに資金援助をしていたのがロックフェラー財団とカーネギー財団である。また、現在のロックフェラー家の当主デイヴィッド・ロックフェラー(1915〜)も二十代の頃、IPRに関係していた。


デイヴィッド・ロックフェラー

 日本太平洋問題調査会(日本IPR、1926〜1959)は、渋沢栄一(1840〜1931)、井上準之助(1869〜1932)、新渡戸稲造(1862〜1933)といった当時の有力財界人が、アメリカの動きに呼応する形で設立した。参加者には、蝋山正道、牛場友彦、尾崎秀実、西園寺公一(さいおんじきんかず、1906〜1993)、松本重治(まつもとしげはる、1899〜1989)らがおり、昭和研究会と人脈が重なっている。彼らは、IPRの主催する太平洋会議に参加した。

 IPRは戦後、「共産主義者の巣窟」として、マッカーシズム旋風の中、攻撃を受けることになった。確かに参加者には共産主義者がいたことは事実である。その中には、アジア・中国学者のオーウェン・ラティモア(Owen Lattimore、1900〜1989)やカナダの外交官で後に自殺するE・H・ノーマン(E. H. Norman、1909〜1957)らがいた。そして、東西冷戦下、活動が先細りとなり、1961年に解散することになった。日本IPRも1959年に解散している。IPRの果たしてきた役割を、その後引き継いだのが、国際文化会館であり、その館長は、松本重治が務めた。

        
渋沢栄一        井上準之助      新渡戸稲造

    
西園寺公一          松本重治

 三木が積極的な役割を果たした組織に、日米同志会(1938年)と対米同志会(1939年)がある。日米同志会は代議士が中心となって作られた組織であり、日米開戦反対の運動を行った。日米開戦反対運動の幅を広げるために、三木は、金子堅太郎を担ぎ出し、日米同志会を設立する。日米同志会には、金子のほかに、賀川豊彦、菊池寛、松田武千代といった人物が参加している。日米同志会に参加した人々は、日本各地で、日米開戦回避を主張するための演説会を開催して回った。

 金子堅太郎(1853〜1942)は、伊藤博文の側近として知られ、井上毅、伊東巳代治らと大日本帝国憲法の起草に参画した。金子は1871年の岩倉使節団に同行し、アメリカに留学、ハーバード大学で学び、法学士の学位をえて帰国した。ハーバード大学時代には、セオドア・ルーズベルト大統領の知己を得、日露戦争開戦後は渡米し、ルーズベルトに接触し、同時に広報活動を行った。戦前期の知米派の大物であった。賀川豊彦(1888〜1960)はキリスト教社会運動家として知られる。1914年からプリンストン大学・プリンストン神学校に留学した。その後は、労働運動や農民運動を主導していった。戦後は日本社会党結党に参加し、尾崎行雄らと世界連邦運動にも参加した。戦前の知米派は、アメリカ留学経験者とキリスト教関係者によって形成されていたと言える。彼らが日本におけるアメリカ対応人材であった。三木もまた、アメリカ留学経験者として、このネットワークに連なっていた。

   
金子堅太郎        賀川豊彦      菊池寛

 戦後、様々な政党が乱立した。その中で、現在あまり研究が進んでいないのが、協同主義政党と呼ばれる政党である。戦後の協同主義政党は、昭和研究会に所属していた、近衛の周辺人物たちによって設立された。まず、1945年12月に日本協同党が設立された。委員長は山本実彦、書記長は井川忠雄がそれぞれ務めた。日本協同党の設立には、千石興太郎も参加している。その後、日本協同党は他の少数政党と合併し、協同民主党(1946年)となった。協同民主党から三木武夫は参加している。この協同民主党が国民党という少数政党と合併し、国民協同党(1947年)となった。三木武夫は書記長と委員長を務めた。協同という文字は国民協同党まで使われ、1948年には国民民主党となって消滅することになる。

 1945年から1947年まで日本の政界に存在した「協同主義」とは何なのか。最後の国民協同党の書記長と委員長を務めた三木武夫は何も書き残していないし、奥様である三木睦子も何も聞いていないと答えている。しかし、明治大学大学史資料センターの研究『三木武夫研究』の中で、三木武夫の考えていた協同主義についての記述がある。政治学者竹中佳彦の論文「戦後日本の協同主義政党―協同主義の通俗化と分化―」の中に、三木が考えた協同主義についての記述があると研究では延べられている。三木は協同民主党時代、「農村協同組合法の制定、企業の生産共同体組織化、消費組合運動の推進などによって日本社会の再建を目指しているとし、あらゆる領域での協同組合の組織化と階級間協調を主張していた」(『三木武夫研究』、180ページ)と竹中は指摘している。

 協同主義を考えるうえでヒントとなるのが、協同主義政党に昭和研究会の参加者だった井川忠雄と千石興太郎が参加していることだ。そして、昭和研究会の研究テーマの中に、協同主義が含まれていたことだ。昭和研究会は、「協同主義の哲学的基礎」「協同主義の経済倫理」といった研究成果を発表している。

 ここで言う協同主義とは、イタリアで始まったコーポラティズム(Corporatism、コーポラティズム)のことである。戦後の協同主義政党は、ロバート・オーエンの協同組合主義を標榜していたが、参加した人物たちの経歴などを考えると、イタリアのファシズムを支えた政治体制である、コーポラティズムにより考えが近いのではないかと私は考える。コーポラティズムとは、政治体制の一形態で、企業、農業、労働といったセクターをそれぞれ一つの組織にまとめ、それらの代表者たちを政策決定に参加させる体制のことである。経済政策を決める場合、政府と経営者団体の代表、そして労働者団体の代表が決定するということになる。

 コーポラティズムの定義から考えると、協同主義政党が目指していたのが、本当はコーポラティズムであったと私は考える。そして、三木もイタリアのファシズムを支えた政治体制であるコーポラティズムに共鳴していたのだろうと考えている。このコーポラティズムは戦後、北欧諸国に採用され、ネオコーポラティズムとして、福祉国家体制の基盤となったことを考えると、三木が、自由主義体制でもなく、共産主義体制でもなく、コーポラティズムに魅かれたのは無理のないことだと私は考える。三木は、鳩山一郎から再三、自由党へ参加するようにという打診を受けている。鳩山の奥さまの鳩山幸子と三木の妻睦子は、睦子が幼少のころからの付き合いだった。「鳩山のおばさま(幸子)」から、三木の自由党参加を持ちかけられてもいた。それでも、三木は自由党入党を拒否している。

 協同主義(コーポラティズム)を戦後、標榜したのが昭和研究会の生き残り、残党であったという点は注意が必要だ。日本の戦後体制は、「労働なきコーポラティズム(Corporatism without Labor)」だという指摘が日本研究者の中でなされている。日本の戦後体制は、日本の戦時下の体制をそのまま引きずっているという主張もなされている。チャルマーズ・ジョンソンは、「発展志向型国家(Developmental State)」(国家が中心となって経済発展の計画を立て、実行していく体制)の基礎となったのは、戦前から戦時中にかけての国家総動員体制であり、それを作ったのが岸信介や椎名悦三郎などの革新官僚だったという指摘をしている。

 戦時中と戦後をつなぐもの、それが協同主義(コーポラティズム)だと考えると、戦前の協同主義研究が戦後に活かされたと考えることができる。明治大学大学史資料センターの研究である『三木武夫研究』では、アメリカの日本思想史研究学者のテツオ・ナジタの「協同主義は日本における政治理論としての立場を強く否定されたとはいえ、近代の日本社会において広く実践されてきたのである」「協同主義は戦後における庶民の精神史の中できわめて重要な位置を占めているということである。庶民の間における協同主義の実践の歴史は、政治経済における社会参加という動態的な移送を問題としている」(テツオ・ナジタ著、越智敏夫訳「現在における過去―断片的言説と戦後精神史」、1996年)という発言を紹介している。日本は、協同主義の要素も取り入れながら、世界に例を見ない「平等社会」「一億総中流社会」を作り上げた。しかし、協同主義がイタリアのファシズムの流れから出ていることは否定され、隠されねばならなかった。しかし、協同主義は戦前と戦後をつなぐ思想である。そして、昭和研究会が研究し、その生き残りたちが戦後に伝えた協同主義と同様、三木武夫という政治家もまた戦前と戦後をつなぐ存在であった。

 この節では、三木がつながりを持っていた昭和研究会、太平洋問題調査会、日米同志会、戦後の協同主義政党について見てきた。これらの各組織は、人脈が重なり、戦前と戦後をつなぐものだった。これらの組織に参加した人々は、アメリカとも深いつながりを持ち、アメリカをよく理解しており、太平洋戦争直前、何とか日米開戦を回避しようと動いた人々だとされている。しかし、同時に彼らは、国家総動員体制の確立や協同主義の研究という戦争の準備にも貢献した。更に、戦時中は戦争遂行に協力しながら、戦後になればその前歴にもかかわらず、日本における枢要な地位を占めた人々であることを考えると、単純に知米派で、戦争回避を目指したリベラルと言うことはできない。そして、こうした人々に連なり、戦前と戦後の政界を生きたのが三木武夫だった。

●三木を支えた腹心:松本瀧蔵

 三木を支えた腹心たちに話を移す。この人々は、三木派の政治家ではないが、三木が若い時に知り合い、その後、三木を支えた人々である。三木睦子は、著書『信なくば立たず 夫・三木武夫との五十年』(講談社刊、1989年)の中で、松本瀧蔵(まつもとたきぞう)、平沢和重(ひらさわかずえ)、福島慎太郎(ふくしましんたろう)の三人を、三木武夫の「親友」「三木を支えた人たち」として挙げている(『信なくば立たず』、254ページ)。

 この三人のうち、平沢和重と福島慎太郎は、外交官出身で、三木のアメリカ留学中、それぞれ大使館員、領事館員としてアメリカに赴任していた。そして、彼らは、アメリカで知り合った。松本は、のちに詳しく取り上げるが、日本生まれアメリカ育ちで、明治大学に入学したことで三木と知り合う。私は、今回、松本瀧蔵という興味深い人物に焦点を当てたいと思う。この松本瀧蔵の人生は、一冊の本になってもおかしくないほど波乱に満ちている。


松本瀧蔵        

 松本瀧蔵は、1901年広島県生まれ。アメリカで育ち、苦学してマサチューセッツ工科大学(MIT)航空学科に入学した。しかし、これから敵になるかもしれない日本人に最新技術は教えられないと様々な妨害やいじめに遭い、結局退学を余儀なくされる。松本は日本に帰国し、1923年に22歳で旧制広陵中学(現在の広陵高校)に入学した。22歳で旧制中学(現在の高校に相当)に入学したのは、松本がアメリカ育ちで日本語がおぼつかず、また戦前の教育制度では、日本の旧制中学を卒業していないと日本の大学に進学できなかったためと考えられる。

 松本瀧蔵は、広陵中学野球部で活躍し、その後、明治大学に入学した。当時、三木武夫、古賀政男(作曲家)、松本瀧蔵は、明大名物三人男と呼ばれていたそうだ。明大野球部ではマネージャーとして活躍し、明大野球部の海外遠征に力を発揮した。その後、英語力を評価した教授たちの勧めで、明大の大学院に進学し、明大で教鞭を執った。

 松本瀧蔵は、日本在住のアメリカ日系二世の集まりである二世連合にも関与し、のちに会長となる。この会には、のちにエリザベス・サンダース・ホームを設立した澤田美喜らが所属していた。また、戦後一世を風靡した流行歌手である灰田勝彦(ハワイ生まれ)もおり、松本が灰田の仲人をしている。この二世連合に関係していたのが、ポール・ラッシュ(Paul Rush、1897〜1979)である。

 ポール・ラッシュ(1897〜1979)はアメリカ生まれの牧師である。1925年に来日、関東大震災で大きな被害を受けたYMCAの復興、聖路加国際病院建設の資金集めに奔走した。また、山梨県清里の開発にも力を尽くし、清里に酪農や野菜作りを広めた。「清里の父」とも呼ばれている。また、立教大学の教授時代には、アメリカンフットボールの普及にも尽力した。ラッシュが所属したのは、日本では聖公会(アングリカン・チャーチ、英国国教会)と呼ばれるキリスト教の一派である。彼が教授を務めた立教大学は、英語名をSt. Paul Universityと言い、聖公会が経営母体となっている。ラッシュが亡くなった時、葬儀が行われたのが立教大学であり、葬儀の責任者となったのが、三木の側近であった福島慎太郎だった。


ポール・ラッシュ(左、GHQ時代)と吉田茂

 ラッシュは、太平洋戦争が始まるとアメリカに帰国した。戦後、ラッシュは、GHQの一員として日本に戻ってきた。春名幹男著『秘密のファイル CIAの対日工作(上)』によれば、ラッシュは米軍の情報中佐として、GHQ参謀第二部(G2、情報)傘下の民間情報局(CIS)編集課の責任者をしていた(410ページ)。ラッシュが担当していたのは、戦犯や戦争協力者の公職追放に関する情報だった(春名幹男著『秘密のファイル CIAの対日工作(上)、120ページ)。この点は重要なので、読者の皆さんには是非記憶にとどめておいていただきたい。

 松本瀧蔵は、来日した大リーグ選抜チームの通訳をしたことで、モー・バーグ(Morris "Moe" Berg、1902〜1972)の知己を得る。モー・バーグは、ボストン・レッドソックスやシカゴ・ホワイトソックスなどで活躍したキャッチャーである。「スパイ大リーガー」として、野球ファンの一部では有名な人物である。モー・バーグは、大リーグ選抜チームとして1934年に来日、当時、東京で最も高い建物であった聖路加国際病院(中央区明石町)の屋上から東京の風景を8ミリカメラに収めた。彼が収めた映像は、1942年のドゥーリトル隊の東京空襲の参考にされた。


モー・バーグ

 モー・バーグはプリンストン大学を卒業し、コロンビア大学法科大学院も卒業したほどの優秀な人物であり、十数か国語(日本語も含む)を話し、OSS(CIA)のスパイとして活躍した。松本は、このモー・バーグに日本語を教えた。松本瀧蔵は、1937年にモー・バーグの支援を受けて、ハーバード大学大学院に入学し、太平洋戦争前に卒業した。アメリカ留学中、三木の腹心となる平沢和重、福島慎太郎と懇意となる。対日感情が悪化していく時代、松本がハーバードに留学できたのは、モー・バーグを通じてアメリカ政府に協力したことへの論功行賞であり、戦後の対米窓口要員として準備しておこうというアメリカ政府の意図があると考えられる。はっきり言えば、松本瀧蔵はスパイだった。三木はこのような人物と戦後行動を共にしたのである。

 松本は戦後、衆議院議員となった。政治的には三木武夫と行動を共にし、国民協同党と改進党に所属した。1951年のサンフランシスコ講和会議全権随員、1952年の片山内閣では外務政務次官、1954年からの鳩山内閣では内閣官房副長官、1957年の岸内閣では外務政務次官をそれぞれ務めた。政治的には裏方を務めたということになる。そして同時に、平沢和重、福島慎太郎らとサービスセンタートーキョーを設立する。

 このサービスセンタートーキョーは、GHQに対する民間窓口ということになっているが、その業務を一言で言えば、GHQによる公職追放を解除してもらうための交渉窓口だった。松本は英語力と人脈を活かして、大物たちの追放解除に尽力した。三木睦子は、「岸内閣で松本瀧蔵が外務政務次官になったのは、岸の追放解除に尽力したことに対する論功行賞だ」と述べている。サービスセンタートーキョーを通じて、三木の側近たちは、ポール・ラッシュとの関係を活かして、公職追放解除を餌にして、三木の政治活動をサポートしていたということが考えられる。

 もっと露骨なことを言ってしまえば、三木が少数政党に所属しながらも実力のある政治家として成長していく過程で、福島、平沢、松本らのアメリカ人脈、公職追放に関する情報や活動が大いに活用された、三木が大物となっていったのは、このような腹心たちの活躍があったからだと私は考えている。こうした三木の一面に、クリーンだの議会の子だと言った甘っちょろい言葉は全く似合わない。


鳩山訪ソ団の一員として(河野一郎の隣)

 岸信介が首相就任後に訪米した際、松本は岸訪米団に参加した。岸は、当時のアイゼンハワー大統領とワシントンDC郊外のバーニングツリー・カントリークラブでゴルフをした。この時、ジョージ・ブッシュ(父)大統領の父、ジョージ・W・ブッシュ(子)大統領の祖父であるプレスコット・ブッシュが岸とペアを組み。一方、アイゼンハワーとペアを組んだ松本瀧蔵であった。岸の通訳を務めたのが松本であった(春名幹男著『秘密のファイル CIAの対日工作(下)』、254ページ)。

 松本瀧蔵は、1958年、57歳で死去した。いろいろと知りすぎている松本が57歳という比較的早い年齢で亡くなったことは、多くの大物政治家たちを安堵させたのではないかと私は考える。その中にはもちろん三木武夫も含まれている。

(つづく)