「207」 論文 三木武夫研究―「クリーン三木」の裏側:日本の戦前・戦後を通じてアメリカの日本操り用人材であった「議会の子」(3) 古村治彦(ふるむらはるひこ)筆 2012年12月30日
※本論文は、ウェブサイト「副島隆彦の学問道場」用に書かれたものですが、「今日のぼやき」の編集を担当している中田安彦氏の許諾を得て、ウェブサイト「副島隆彦の論文教室」に掲載いたします。
ウェブサイト「副島隆彦の論文教室」管理人の古村治彦です。今回で今年最後の更新となります。今年一年、読者の皆様には、大変お世話になりました。皆様のご指導、ご鞭撻、ご厚情に心からお礼を申し上げます。来年は、1月20日から更新を再開いたします。読者の皆様には、素晴らしい年末年始を過ごされますことを祈念申し上げます。
●はっきりしないアメリカ留学時代
三木武夫の経歴を見るとき、どうもはっきりしないのが、アメリカ留学時代である。複数の書籍を見てみると、以下の3つの大学に通ったことになっている。それらは、アメリカン大学、サウスウエスタン大学、南カリフォルニア大学である。南カリフォルニア大学のウェブサイトには著名な卒業生のページに、三木武夫の名前が掲載されている。そこには卒業はしなかったが、通学していたということが書かれている。そして、三木は1966年に南カリフォルニア大学から名誉法学博士号を授与されている。
しかし、国弘正雄の著書『操守ある保守政治家 三木武夫』では、南カリフォルニア大学に関する記述がなく、三木は、サウスウエスタン大学で学び、アメリカン大学から修士号を授与されているということになっている(110ページ)。調べてみると、サウスウエスタン大学は、アメリカに複数あり(アメリカには、Southwestern UniversityとSouthwestern collegeがある)、どの大学に三木が通ったのかははっきり分からない。アメリカ留学時代について、奥様の三木睦子は結婚前のことということで、はっきりしたことは述べていない。
三木武夫に関する明治大学大学史資料センターの研究によると、アメリカからふるさと徳島にあてた手紙の中で、三木は、お金がなくて苦労していることや、いろいろなアルバイトをしていることなどを書いている。その中で、「いわゆるA.M.を授与されるわけです」という記述がある。ここで言うA.M.とは、恐らく修士号(Master of Arts、MA)のことであろう。しかし、どこの大学からどの専攻で授与されたのかは分かっていない。また、三木武夫の経歴には、修士号取得という記載はない。
同時期に、三木と同じく南カリフォルニア大学で学んでいた二階堂進元官房長官・元自民党副総裁は、国際関係論を専攻し、修士号を取得している。このことを二階堂は自身の著書の中で繰り返し述べている。また、そのことを筆者は確認している。筆者は、南カリフォルニア大学の図書館のウェブサイトにアクセスし、二階堂が「日本における農業問題と日本の外交政策に与える影響」という修士論文を提出していることを確認した。南カリフォルニア大学の図書館のウェブサイトhttp://www.usc.edu/libraries/ にアクセスし、Quick SearchのところにSusumu Nikaidoと入れて検索すると修士論文のタイトルが出てくる。
二階堂進
数年前、ある政治家が留学したアメリカの大学を卒業したのか、していないのかが大きな問題になった。その議員は辞職に追い込まれた。それ以降、政治家は、留学先で学位を取得したかどうかまできちんと書かねばならなくなった。三木のように、どこの大学に入学したのか、何を専攻したのか、どの学位を取得したのか、全く分からなくても、昔は、「洋行帰り」と言うことで、珍重されたのだろう。しかし、もし今三木が代議士であったなら、自分の卒業証明書を求めて、全米中を彷徨(さまよ)っていたかもしれない。
また、私は自分が留学した経験から考えて、戦前や戦後すぐに奨学金をもらわずに留学した人たちは、いったいどうやってお金を稼いでいたのか、学費を払っていたのかと不思議でしょうがない。当時のアメリカで、皿洗いや八百屋の手伝いをして生活費と学費を稼ぐことが可能だったのだろうか?日本からの仕送りがない状況でどうやって何年も大学や大学院に通うことができたのだろうか。現在でも自己資金での留学は大変な負担である。私は、彼らがいろいろな形で「お恵み金」のようなものを多方面からもらっていたのだろうと推測している。
●幻の「三木首班」
戦後政治史の本には全く出てこないが、これが本当なら大変なことなのが、1948年に芦田均(あしだひとし、1887〜1959)内閣が退陣する際に、ダグラス・マッカーサー(1880〜1964)元帥が三木武夫を呼び出して、「芦田の次の総理大臣にならないか」と言ったということである。これは明治大学大学史資料センターの研究、三木睦子の三木武夫に関する著作(『信なくば立たず』『総理の妻』)、国弘正雄の『操守ある保守政治家 三木武夫』に出てくる話である。明治大学の研究の基になっているのは、三木睦子からの聞き取りであり、国弘の場合は、「三木から直接何度も聞いた話」であるということだ。
具体的には、民主党、日本社会党、国民協同党が参加していた芦田均(あしだひとし)内閣が総辞職する際、連合国最高司令長官ダグラス・マッカーサー元帥が、三木武夫を呼び、「芦田の次の総理になって内閣を組織する」ようにと要請したが、三木は断ったという話だ。三木睦子の著作によれば、マッカーサーの要請に対して、三木は「憲政の常道として、野党第一党自由党の吉田茂が総理になって、内閣を組織すべきだ」と答えたということである。また、国弘正雄の『操守ある保守政治家 三木武夫』には、「『日本が議会制民主主義国家としてやり直そうというときに、少数党の政権たらい回しのようなことを奨めたら、あなたにもアメリカにも傷がつきますよ』という趣旨のことを言った」(139ページ)とある。
国弘は、マッカーサーが三木を首班にと考えた理由の一つとして、三木のアメリカ人脈、特に先ほど取り上げた松本瀧蔵の存在を挙げている。国弘は次のように書いている。「彼(松本瀧蔵―引用者註)が国民協同党の議員だったため、三木さんは『首相以外には滅多に会えないマッカーサー元帥とも会見できるようになった』と、往時を知る天野歓三氏(元朝日新聞記者)が書いている」(140ページ)と。国弘の記述は、三木が腹心を通じてアメリカと特別な関係を持っていたことを示している。
●不可解な1973年から1974年にかけての動き
三木武夫は、田中角栄が1972年の自民党総裁選挙に出馬した時、いち早く支持を表明した。それは、田中が日中関係正常化を行うことを約束したからだ。三木は非官僚・党人派として田中を支援したし、田中も三木を評価し、「本当に政治のプロと言えるのは、俺と三木だけだ」という発言をしている。
三木は田中内閣の副総理(後に環境庁長官を兼務)となった。副総理は、無任所大臣ではあるが、内閣を支えるという点では、仕事の範囲が限定されない、大変に重要な職務である。しかし、三木は、副総理を辞任し、田中内閣打倒へと向かう。そして、三木が田中を後の総理大臣となる。
三木が田中と袂を分かったのは、1974年7月に行われた参議院議員選挙での徳島県選挙区における自民党公認問題であったとされる。徳島県選挙区は、定数1で、それまで、三木武夫の「城代家老」と呼ばれた久次米健太郎(くじめけんたろう、)が議席を守ってきた。そこに、田中角栄の派閥の後藤田正晴(ごとうだまさはる、)が出馬したいと表明、党本部と県連は後藤田を自民党の候補として公認した。三木は党の決定に反旗を翻し、三木派の代議士たちを引き連れて、無所属となった久次米の応援を行った。そして、久次米が当選し、後藤田は落選した。この自民党の分裂選挙は、「阿波戦争」「三角代理戦争」と呼ばれている。
私は、三木の動きに加え、後藤田の動きも裏があるのではないかと考えている。後藤田は、ながらく徳島を留守にし、中央官庁である内務省・警察庁の高級官僚として活躍してきた。それならば、地縁、血縁が薄れつつある徳島ではなく、全国区から参議院議員選挙に出馬すれば、全国の警察組織からの投票も期待できる。それなのに、徳島からの出馬に拘り、結局、田中内閣の柱石とも言える、副総理の三木武夫を離反させることになった。私は、三木と後藤田の間に何らかの、田中角栄にダメージを与えるための密約があったのではないかと私は疑っている。
その疑いを更に濃くするのが、三木武夫の1973年から1974年の動きである。1973年12月29日付のニューヨーク・タイムズ紙に、三木が中東訪問を終え、1974年1月に訪米するという記事が掲載された。この記事には、三木が写真入りで紹介されている。それはまるで、「これから、日本政治において重要なのは三木ですよ」とアメリカ内外に知らせるかのような院長を与える。
三木は1973年12月9日から28日まで、中東9カ国を歴訪し、オイルショックで供給が減少した石油の確保を目指した。そのために、中東諸国に日本を「友好国」として再認識してもらうために、低利の借款などを約束してきた。その際、三木は、イスラエルが占領地から即時撤退すべきであると発言している。このような動きは、1973年に勃発した第四次中東戦争に対処するものであった。しかし、アメリカとしては、イスラエルを支援しており、日本のこのような動きは、アメリカにとって、不快なものであった。
記事の中で、次のような文言がある。「三木氏はキッシンジャー国務長官が中東和平のために活動していることを指摘されると、『私の来月に予定されている訪米が日米関係に悪影響を与えることはないと考えている』と述べた」(翻訳は筆者)これを読むと、1974年1月7日の訪米は、中東歴訪の報告と、日本の石油を渇望している立場の弁明のためのものだと読むことができる。
ヘンリー・キッシンジャー
三木の訪米について詳しい記事は残っていない。しかし、次のようなことは言えるのではないかと私は考える。三木はキッシンジャーかその代理と会談した。そこで日本と田中内閣の立場を説明した。それに対して、キッシンジャーは不同意であり、田中角栄の追い落としを決心した。そして、キッシンジャーは、田中の追い落としを三木に「命じた」。三木は田中内閣の副総理であったが、田中追い落とし、倒閣へとシフトしたと考えらえる。
三木は田中を政界で追い落とす役割を担い、実行したと考えられる。それを側面から支援したのがCIAであり、田中金脈問題を起こして、三木の動きを助けた。そして、キッシンジャーからは、「田中の追い落としが成功したら、次の首相はあなただ」という約束を取り付けたのだろう。それ以降、三木は、副総理であるにもかかわらず、阿波戦争(三角代理戦争)を引き起こし、内閣を離れ、中道野党との連携に動き、自民党を揺さぶり、最後には、椎名裁定で総理の座を手に入れた。こうした一連の動きが1974年1月7日からの訪米から始まっていたと言えると私は考える。
そして、ロッキード事件である。このロッキード事件については、すでに多くの人たちが、アメリカの謀略と三木のアメリカへの協力を指摘しているので、ここでは繰り返さない。しかし、三木武夫首相―中曽根康弘自民党幹事長―稲葉修(いなばおさむ、1909〜1992)法相(中曽根派、田中角栄と同じ選挙区で戦っていた)というコンビが田中角栄逮捕を行った、それもアメリカの意向を受けてのことだったということは、ここで指摘しておきたい。中曽根康弘は、三木と同様、通商産業大臣として田中内閣に入閣していた。三木と中曽根が重要なポストで田中内閣に入閣していたのは、三木と中曽根が総裁選で田中を支持したということもあるだろうが、それ以上に何か大きな意図を感じる。より大きなプロットがあらかじめ準備されていたのではないか、三木と中曽根は田中内閣破壊のための装置だったのではないか、そして、三木が選ばれて田中内閣を破壊する行動に出たのではないかとさえ思えてしまう。そう思ってしまうのは、田中内閣成立以前の、三木と中曽根が、ジャパン・ハンドラーズのジェラルド・カーティスにつながっていたことが明らかになっているからだ。そのことを次節では見ていきたい。
三木の中東歴訪と訪米予定を報じるニューヨーク・タイムズ紙1973年12月28日付の記事(三木武夫を写真入りで大きく紹介している)
●ジェラルド・カーティスが取り持つ中曽根康弘との関係
三木武夫と、ジャパン・ハンドラーズの一人、ジェラルド・カーティス()コロンビア大学教授との関係も長い。このことは、拙著『アメリカ政治の秘密』にも書いたが、ここでもまた繰り返しになるが書いておく。ジェラルド・カーティスが博士論文の執筆のために来日したのが1966年である。この時、カーティスが頼ったのが、当時駐日アメリカ大使館に勤務していたナサニエル・セイヤー(Nathaniel Thayer)だった。セイヤーはカーティスのコロンビア大学の先輩であり、博士論文を取得したばかりだった。
ナサニエル・セイヤー
セイヤーは、カーティスに中曽根康弘の秘書だった小林克己を紹介した。小林は、カーティスを中曽根に引き合わせた。カーティスは、選挙運動に張り付かせてもらえて、同時に当選の可能性の高い政治家を紹介してくれるように中曽根に頼んだ。中曽根は、自派の政治家の中から、大分の佐藤文生(1919〜2000)を紹介した。中曽根は、佐藤に電話をし、カーティスに便宜を図るように依頼した。カーティスは佐藤の選挙運動に張り付き、それを基にした研究で博士論文を書いた。それが本になったのが『代議士の誕生 日本保守党の選挙運動(Election Campaigning Japanese Style)』(山岡清二訳、サイマル出版会、1971年)である。ちなみに佐藤も三木と同窓で明治大学の出身である。
佐藤文生
カーティスは、中曽根の秘書小林克己と懇意になり、勉強会を開くようになった。勉強会と言っても堅苦しいものではなく、お酒を飲みながらの会だったそうだ。この勉強会に東大や明大の教授、評論家の俵孝太郎、小林の上司の中曽根、そして三木武夫が出席していた。三木と中曽根はこうして一緒になって、アメリカにつながっていたと言えるのだ。
ジェラルド・カーティスが作り上げた、野党にまで触手を伸ばした、日本政界を広く網羅したネットワークについては、拙著『アメリカ政治の秘密』の第六章をお読みいただきたい。三木は、ジャパン・ハンドラーズの一人であり、日本管理の前線司令官であるジェラルド・カーティスに取り込まれ、その人脈につながっていた人物なのである。
ジェラルド・カーティス 中曽根康弘
●結論:三木は「クリーン」でもなんでもない
今回、三木武夫を取り上げ、彼の経歴や業績を詳しく見てきた。それは、私が、三木が「クリーン三木」という呼び名にふさわしい政治家なのかという疑問を持ち、その疑問を解決したいと考えたからだ。そして、私は、三木が決してクリーンではないと考えるに至った。
三木は、戦前、戦後を通じて、アメリカに取り込まれていた、もしくはアメリカの対日操り班の人脈に連なってきた人物である。戦前、閨閥を通じ、昭和研究会とそれに人脈が重なる太平洋問題調査会、日米同志会に関係していた。これらの組織に関係していた人物たちは、もともとアメリカに近い人たちであったが、日米開戦反対などと言いながら、しっかり戦争準備をしてきたのである。それは、日本のためではなく、アメリカのためであった。戦後は、明大の同窓である松本瀧蔵という人物を腹心とし、GHQとつながっていた。更には、ジャパン・ハンドラーズの一人であるジェラルド・カーティスとも関係を持っていた。
三木が「クリーン三木」と呼ばれるようになったのは、1974年からである。これは、田中角栄の持つダーティーなイメージと対比させるためだった。それまでの三木は、「バルカン政治家」と呼ばれ、「少数の勢力ながら、政治の駆け引きを使って、良いポジションや力を得る」政治家だと考えられていた。三木の政治的な手腕や駆け引きのうまさは、三木が追い落とした田中角栄も認めるところで、「政治の本当のプロと言えるのは俺と三木だけ」という発言を残している。「バルカン政治家」三木武夫は、田中角栄が認めるほどの権謀術数の使い手であり、決して清廉ではない。
また、森コンツェルンの閨閥に属していることで、資金のことを心配しなくてよかった。それは三木にとって恵まれた環境であった。また、財界にも頼ることができた。三木は池田勇人から財界人、東京電力木川田一隆、昭和電工安西正夫、三井不動産江戸英雄、野村証券奥村綱雄を紹介されている。森コンツェルンの閨閥に属しているということで、財界にもコネクションがあった。一方、田中角栄は、財界にもコネがなく、自力で危ないお金でもなんでも集めねばならなかった。
これまで、「三木はロッキード事件で田中角栄を逮捕させた。この時、嘱託尋問(しょくたくじんもん)を行い、アメリカ側の関係者の罪を問わないようにして、証言をさせた。このようなおかしなことをして田中を追い落とした。だからアメリカの息がかかった政治家なのだ」という主張はあった。しかし、三木武夫という政治家について、疑いの目を持ちながら、経歴や業績を詳しく見ていくということはなされてこなかった。
今回、三木武夫について、これまでに発表された資料を使いながら見てきた。今回、私は、三木武夫という日本の総理大臣を務め、戦前から50年以上にわたり、国会議員を務めた政治家に対して、懐疑の目を向けてきた。そして、私は、この文章の中で指摘してきた様々な事実から、「三木武夫という政治家は、アメリカの日本操り用人材であった」と結論付ける。
(終わり)
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