「213」 論文 天然ガスの時代―太陽エネルギーは本当に原子力エネルギーの代替になりえるか(2) 鴨川光(かもがわひろし)筆 2013年7月1日

●エネルギー産出・投入比率―エネルギーはいかに「エロい」かによって決まる

 九基準は、それぞれのエネルギー源の特性であり、長所短所である。それじゃあ長所の多いエネルギー源を使えばいいかというと、必ずしもそういうことにはならない。

 エネルギーは、その元となるエネルギー源を取り出すのに、どれだけエネルギーを費やさなくてはならないか、取り出した量と費やした量の比率で、エネルギーの有効性が図られる。

 本作(『エネルギー論争の盲点』)で最も重要なのが「エネルギー産出/投入比率(EROEI: Energy Return On Energy Invested )」である。

 「エロエイ」、あるいは「エロイ」。この考え方は、無意味なエネルギー論争に終止符を打つもので、あらゆるイデオロギーや利権、その他のエネルギーの本質から外れた考え方を一蹴する破壊力を持つ。

 「エネルギー産出/投入比率」は「エネルギー投資効率」(EROI: Energy Return on Investment )、「エネルギー収支比」(EPR: Energy Profit Ratio)とも呼ばれる。日本では後者の呼び名をよく使うようである。

 これは「産出されたエネルギー源の持つエネルギー量」と、「エネルギー源を産出するのに必要なエネルギー量」の比率のことである。

 つまり、「どれだけの量のエネルギーを掘り出したか」と、「そのエネルギーを掘るのにどれだけのエネルギーがかったのか」の比である。

 エネルギーと言っても、先の九基準で述べたエネルギー源は「一次エネルギー」という。これらをそのままエネルギーとして使用するわけにはいかないので、それらを電気やガスといった「二次エネルギー」として、使えるようにしなければならない。

 だが、一次エネルギーが二次エネルギーに至るまでに、エネルギー源は採掘され、精製し、輸送されなければならない。この間にもエネルギーが使われる。簡単に言ったら、石油を掘るにも石油が使われるし、精製し、輸送するにも石油が使われる。

 天然ガスにしても、液化天然ガスの場合、加圧液化工程の際に天然ガスを使うし、ガスに戻す際にも使われる。石炭を掘り出すのに石炭が使われた歴史が、産業革命の歴史であるとさえ言えよう。(石炭の場合は、あと製鉄のエネルギー源という重大な側面がある。)

 「エネルギー投入/産出比率」は、フォルケ・ギュンターというスウェーデンの環境学者が、「ウサギ狩りの限界」(ラビット・リミット)という言葉で説明している。

 ウサギを捕まえて食べようと思っても、ウサギを捕まえるのに必要なエネルギーが、ウサギを食べて得られるエネルギーより上回ってしまえば、無意味だ、ということである。

 筆者の石井氏は、「エネルギー投入/産出比率」の説明をあまりちゃんとしていない。石井氏は「石油1バレルを使って、新たに100バレルの石油が獲得できること」とだけしか述べていない。そこで私がネットその他でいろいろ調べてみたが、要するにこういうことだ。

 割合でいえば、一次エネルギーを二次エネルギーに変換するまでにかかった一次エネルギーが「1」だとして、二次エネルギーとして「1」を生み出しても、それは使った分だけ取り戻したに過ぎない。

 つまり、エネルギー「1」を生み出すのに、エネルギー「1」を使ったのでは意味がない。一万円稼ぐのに、一万円投資するということと同じである。

 これでは、儲けと言える部分は0である。産出された2次エネルギー「1」を、それを生み出すのに投入した1次エネルギー「1」で割ったところで、1÷1=1であり、何も変わらない。1256÷1256でも、1億5000万÷1億5000万でも同じことである。

 「産出/投入比率」の割合が1では、何も生み出していないと同じことである。これを比で言い換えれば、「産出/投入比率」が100%となるが、それでは意味がないのだ。

 要するに「産出したエネルギー量」を「投入したエネルギー量」で割ることである。

 「産出/投入比率」=「産出したエネルギー量」÷「投入したエネルギー量」

 「投入/産出比率」は割合が1、比率が100%をいかに上回るかにかかっている。上回れば上回るほど効率が良く、エネルギー源の有効性が高いことになる。つまり、割合が1.5倍であるとか、2倍。10倍、100倍となっていなければならない。

 たとえば、ただ単純に石油を掘り当てればそれでよしとして、その為に25バレル使った。結果20バレル掘り当てたのでは、

(20バレル)÷(25バレル)=0.8倍(80%)

となり、1を割り込む。0.2、二割、20%分の損をしたことになり、全く意味がない。パチンコで一万円投入して、八千円を手にしたとしても、勝ったとは言わない。

 今度は50バレルもの石油を使ったとして、5000バレル産出したとしたら、これは100倍であり、物凄くエネルギー産出の効率が良いことになる。

 筆者(石井)によれば、石油がエネルギー源のチャンピオンになれたのは、このたとえのように、石油の「産出/投入比率」の割合が、他エネルギー源に比べて圧倒的に高く、中東の油田では、割合が100〜200倍もあるからだとしている。これは、石油を掘削すると、通常、数百気圧で地中からものすごい勢いで噴出する「自噴」という性質が大きいらしい。炭鉱労働が必然の石炭ではこうはいかない。

 テルツキアンによれば、「エネルギー投入/産出比率」こそ、「エネルギー源の価値を決定するすべての要因の中で、最も本質的で、圧倒的に最重要な要素」(七二ページ)だとしているという。

 筆者(石井)によれば、「産出/投入比率」は、大半のエネルギー専門家のコンセンサスである。

 この比率で、先の六つのエネルギー源(今回は風力と太陽光を分けている)を七三ページでグラフにして比較している。

 あくまでも大まかな推定比較としているが、その中で石油が最高で100倍、最低値で30倍(枯渇の進みつつあるアメリカの油田でこのくらいだという。七一ページ)の割合である。(石油の非在来型というのが最高で30倍、最低で10倍となっている。それでもすごいものだ。)

 天然ガスが最高で100倍、最低で40倍と石油を抜いている。この二つが、圧倒的に比率が高い。次に石炭がぐんと下がって、最高50倍、最低30倍である。

 それでも石炭の割合は、原子力より圧倒的に高い。原子力はこれらのエネルギー源に比べると、たったの20倍から10倍である。(ただしそれでも相当の効率の良さである。)

 この「現エネルギーの王者」となっている原子力の割合とほとんど変わらないのが風力で、15〜10倍。太陽光に至っては割合が一番低く、10倍〜5倍である。

 最後の三つ、原子力と風力・太陽光という、環境破壊と環境に優しいエネルギー源の代表は、「エネルギー産出/投入比率」のグラフで見る限り、五十歩百歩である。

(七三ページにある表はCERA、ケンブリッジ・エネルギー研究所=IHS、P・テルツキアン、御園生(みそのう)誠、石井吉徳、松島潤氏等、各種の推定値を参考に筆者が作成とある。)

 この表における「最弱エネルギー」三つを比べてみれば、脱原発、環境エネルギー推進派の主張はもっともなことであろう。この割合だけで見る限り、原子力の代替としての風力・太陽光を推進しようというのは、順当な考え方である。

 原発を止めて、石炭火力に戻すという環境エネルギー推進派の主張も、石炭はCO2排出の問題はあれ、原子力発電による放射性廃棄物の環境負荷に比べてみれば取るに足らず、本質的には環境保護思想にそぐわずとも、現実問題として、石炭火力の再点火というのはもっともなことである。石油はもうすでに火力では使われていない。

 恥ずかしい話ではあるが、私鴨川は、小中学校、七〇年代終わりから八〇年代初期までのエネルギー教育しか受けてこなかったので、火力は今でも石油で行っているものだと思っていた。

 七〇年代、日本の発電のほとんどは火力で、日本の電力需要はほぼ石油で賄(まかな)っていた。原子力はまだ二基しかなかった。考えてみれば、石油は内燃機関でこそ威力を発揮するのであって、蒸気を出すという、ただお湯を沸かすためだけに石油を消費するのはもったいないことなのだ。

 石油という資源は、点火してその爆発力で、直接ピストンを動かすことに利用するのが最も有効なのである。これはよく考えれば当たり前のことだった。

 石油は車などの輸送機関のエネルギー源以外では、石油化学産業で使われる。つまり、発電のためのエネルギーとして使うのは、エネルギー効率が良すぎてもったいないのだ。

 そして天然ガスであるが、これは後に譲る。環境保護派があまり言わない、言えないのが天然ガスであり、これこそが今後、少なくとも二〇年から数百年間の発電エネルギー源である。

 話を「エネルギー産出・投入比率」に戻す。

 投入比率の割合は、石油と天然ガスが圧倒的に高く、「エネルギー源としての本源的価値が高く、低コストとなる」(七二ページ)とある。

●電源別コスト比較―発電コストと稼働率という壁

 この「産出/投入比率」の結果が、発電の際のコストに如実に反映されてくる。

 一二三ページに「新規発電所の電源別コスト比較」という表がある。これは米国エネルギー省エネルギー情報局作成の「年次エネルギー白書」(二〇〇九年)からの引用である。

 この表にはこれまでのエネルギー源に、洋上風力、太陽熱、地熱、バイオマスが加わっている。残念なことに、石油がない。それもそのはずで、石油は最早、世界的に発電にはほとんど使われていないからである。オイルショック時に1バレル12ドルを越したのをきっかけに、石炭が復活したらしい。

 そこで石油と太陽光のコスト比較が出来ない。はたと困った、と思ったのだが、そもそも、今や石油で発電することはあまりないのだから、火力発電の現主力エネルギー源である石炭および原子力と太陽光との発電時のコスト比較をすればよいことになる。

 この表で、10種の電源の「稼働率(%)」と「1000kw/時のコスト(ドル)」が比較されている。まずは石炭(従来型と新型と新型プラスCCSの三つがある)の従来型と、太陽光とを比較してみる。

 まず、1000kw/時のコストだが、石炭は100.4ドルで太陽光は396.1ドルである。

 太陽光は一〇〇〇kwを発電するのに従来の発電、つまり石炭火力より3.9452倍。太陽光のほうが約四倍のコスト高である。1000kwの発電にかかるお金が日本円で、石炭では8032円で済むところを、太陽光では31688円かかるわけである(一ドル=80円換算で)。

(鴨川注記:この部分を校正している二〇一三年四月八日の段階で、安倍首相のアベノミクスのおかげで円高が進み1ドル98円に迫る勢いである。「安倍のMIX、サイバー! バイバー!」中である。)

 これにもう一つの稼働率(%)を掛けてみなくてはならない。一二三ページの表には、もう一つ、稼働率という項目がある。石炭火力の稼働率は85%。太陽光は21.7%。それぞれの一時間当たりの発電量1000kwにこの稼働率をかけると、石炭火力は一時間850キロワット。太陽光は217キロワットである。

 ただしコストはそのままという訳ではない。単純に考えれば、本当の発電コストとは、それぞれの稼働率をかけたコストであろう。石炭火力では、「396.1ドル×稼働率85%」(396.1×0.85)なのだから、85.34ドル。

 太陽光は「100.4ドル×21.7%」(100.4×0.217)で85.9537ドルかかる。稼働率まで考えれば、石炭火力と太陽光のコスト自体はほとんど変わらない。しかし、発電量は違う。

 結局は稼働率、エネルギー産出時間の長さの問題なのである。偶然ながら双方ともほぼ同じ85ドルである。比較の都合がよい。同じ85ドルという金額を投入して、発電量が四倍差あるという点で、当然のことながら太陽光は火力の代替にはならない。

 火力と同じだけの発電量を確保するために、四倍の設備投資をしてソーラーパネルを作ればいいではないかという話になるが、そのまま四倍のコスト高というだけである。ただし、太陽光の発電量がこのように、85ドルという同コストという条件で、火力に比して単純計算で四分の一というのは、太陽光はなかなかの成績だとは思う。

 さらに太陽光パネルの建設の問題だが、巨大なソーラーパネルを作るには、砂漠のような全く他に用途のない土地でしか実現できない。太陽光の21.7%という稼働率も、ネヴァダ州の砂漠での設置を前提としているとある(一二二ページ)。

ネヴァダ州のソーラーパネル

 雨や曇りの多い日本での稼働率は、11〜12%程度だという。ネヴァダ州の砂漠だったとしても、砂漠からの送電ロスがある。

 一二九ページによると、カリフォルニアのモハベ砂漠で計画されている世界最大級のメガ・ソーラー発電所であっても、実質的には10万キロワット程度(最大出力40万キロワットとされている)の発電能力であり、原子炉一基分の一〇分の一程度の発電能力であるらしい。ボーイング771のジェットエンジン一基分と同じくらいだという。

 砂漠では発電効率は二倍ほど上がるらしい(一三〇ページ)。しかし、そこから実際に電気が使われる都市へ向けて、三〇〇〇キロメートルの高圧送電をした場合、使用可能電力は約半分になるという。これでは建物の屋根にソーラーパネルを設置した場合と同じである(一三〇ページ)。太陽光発電はこうした質的限界が存在するという。

 では、太陽光パネルを個人の住宅に取り付ければいいではないかという話になる。これは結果的にはよいことなのだが、これに対するデメリットを先に紹介しておく。

●ソーラーパネルのデメリット―ドイツでは成功したとは言えない

 ドイツではすでに、太陽光パネルを各家庭が取り入れ、電気を電力会社に売って利益を出しているということがよく引き合いに出されるが、これに対して石井氏は一二〇ページで、一般家庭からの電力買取を前提にしたソーラーパネル設置は、そう簡単な話ではないことを指摘している。

 問題は電力会社の買い取り価格であるらしい。電気の買い取り価格は、高く設定されているらしいが、それは政府からの多額の公的補助金で支えられている。この補助金を外してしまうと、実際のコストは原子力や火力の五〜七倍に達する。

 さらに、天候に左右されることに起因する出力不安定性を解消するために、蓄電池を使った場合、最終的に火力に一〇倍くらいのコストがかかるという。

 環境派の主張やテレビの特集では、ドイツの太陽光発電導入モデルが成功例としてよく取り上げられる。しかし、二〇〇九年でのドイツの全発電量のうち、太陽光発電の比率はたったの1%だという。(二〇一〇年でも2%)(一二七ページ)

 ドイツの全エネルギー消費量から見ると、0.2〜0.4%に過ぎないと指摘している。環境エネルギー先進国と評判の高いドイツだが、その再生可能エネルギーによる発電量は16%らしい。

 そのうちの全て太陽光発電というわけがなく、そのうちの二割が水力、風力が四割(意外に高い!)、バイオマス三割。肝心の太陽光はたったの一割未満。

 日本でもすでに再生エネルギーは10%である(そのうち八割が水力)ので、その点においてドイツとの大きな開きはない。生活廃棄物などを燃やすバイオマスと風力の導入の差が、日本とドイツを分けている。(一二八ページ)

 石井氏の指摘によれば、ドイツは全発電量の42%を火力に負っており(日本は25%)、実際には、原子力が主力のフランス等、近隣諸国から電気を購入している、ということはよく知られている。ドイツも事実上、原子力に頼っているということである。

 そして、最後に残った太陽光の一番の売りであったはずの環境負荷の低さであるが、これもネヴァダ州の砂漠にあるような巨大なソーラーパネルを作る場合、固有種のカメのような、砂漠の脆弱な生態系に大きな悪影響を与えるとして、強力な反対運動まで起きている。(一三〇ページ)

 つまり太陽光発電のメリットである、低いはずの環境負荷も、ソーラーパネル設置条件に激しく作用される。ソーラーパネルは個人の家の屋根や工場、ビルに設置してこそ初めてその威力を発揮する。

 ここまで石井氏の著作を引いて、私も太陽光発電の悪口を並べ立ててきたわけだが、決して私は、太陽光発電、ソーラーパネルに反対なわけではなく、むしろ賛成である。これは石井氏も本書では太陽光に反対しているわけではない。

 ただしここまでの比較は、石油と石炭火力との比較であって、太陽光発電が石油、石炭のように、一九、二〇世紀の近代産業社会を支えてきた主力のエネルギー源となるには、あまりにも力が足りないのである。

 これは現在(二〇一二年八月現在)、東電を批判し、首相官邸を取り囲んでいる脱原発派、それに、火力のとりあえずの復活と、放射性廃棄物よりCO2排出のほうが(環境保護派の思想に本質的に反するが)「はるかにましだ」派の人々の主張にも沿うものである。

 問題なのは「脱原発=太陽光・風力推進」という単純な二元論では、これからのエネルギー問題は解決できないということである。

 そこで今度は太陽光と原子力との比較を試みてみよう。

●「脱原発=太陽光・風力推進という二元論」は成り立たない―「原子力vs. 太陽光、エネルギー密度か?環境負荷か?」

 これまで通り、二三ページの「各エネルギー源のメリット・デメリット」(テルツキアンの九基準のこと)での比較を見てみる。

 まず、風力・太陽光(この表では風力と太陽光を一つにして換算している)は、(8)の「環境負荷」と、(9)の「供給安全リスク」(テロや核拡散、石油の供給制限など)だけが○である。

 一方、原子力は、3の「貯蔵・運搬性」が△となっているが、なぜ、△なのかが不思議である。これは、これまで言われ続けている放射性物質の危険性を鑑(かんが)みてみると、評価は×で妥当であろう。

 最終処分場や、再処理施設の問題が常に付きまとっている原子力の「貯蔵・運搬性」が、中レベルの評価であるというのは、疑問が残るところである。

 原子力発電の評価基準では、(8)「環境負荷」、(9)「供給安全リスク」に関しても、3と同じように△となっている。「貯蔵・汎用性」の評価が甘いのは、放射性物質のあくまで「もの」としての評価であろう。

 ウランやプルトニウムは確かに固体であるし、石炭のように量が多くない。塵(ちり)が飛ぶわけでもない。(いわゆる放射性物質の塵はプルトニウムのこと。プルトニウムは質量が大きく、普通の塵のように遠くへ飛ぶことはない。)だから、放射線という要素を捨象すれば、確かに原子力の「貯蔵・汎用性」は△であろう。

 しかしそうだとしても、(8)と(9)、特に(9)の「環境負荷」が△評価というのは、いかにも甘すぎると言わざるを得ないところだ。

 放射性物質のプルトニウムは、何十キロメートルも風に乗って飛ぶわけはないが、それでも半径一桁程度の数キロ、2、3キロ、少なくとも発電所の周囲の環境への懸念は、今回の事故が起こった場合を鑑(かんが)みなくても大きい。

 したがって、たとえCO2排出量が少ないという点だけで、原子力発電の「環境負荷」を、太陽光という原子力の「敵」と比較したとしても、やはり評価は×であると言っていいだろう。

 原子力のメリットとして○がついているのは、(5)の「エネルギー密度」と(6)の「出力密度」、(7)の「出力安定性」である。

 この表でこの三つの条件を満たしているのは、石炭・石油・天然ガス・原子力である。くどいようだが、この三つこそがエネルギー源そのものである。人類が数千年かけて一九、二〇世紀になって、やっと手に入れることに成功したものだ。だから、太陽光などの環境に優しいエネルギー支持の人々が何を言おうと、このところがクリアできなければ、エネルギー問題の本質は解決できない。

 「汎用性」(はんようせい)だとか、「ユビキタス性」といった、1〜4の項目は、一九世紀以前の薪(たきぎ)エネルギーの不便さに比べたら、取るに足りない問題である。薪や木炭という生活は、二〇世紀でも半ば過ぎ、一九五〇年くらいまでの一般家庭ではまだそうだったはず。

 一般家庭はシステムキッチンや、ガスが普及するまでは、かまどや七輪、五右衛門風呂だった。どんなに近代だと言っても、人類は薪と炭の生活だった。

 人類のエネルギー革命とは、薪(たきぎ)依存からの脱出だった。「薪文明」、薪によって始められた文明は、現在とは比べ物にならないくらいの長きに渡った、大規模な自然破壊を行い、自分たちの文明を滅ぼしてきたのだ。このことは後で詳説する。

 古代の大帝国の興亡は、戦争や金銀枯渇(こかつ)が原因ではない。干ばつや災害がたびたび取りざたされるが、それを引き起こしたのも、薪エネルギー確保のための森林伐採、皆伐(かいばつ、森林の一斉伐採)である。

 話を元に戻すと、一九七〇年代の初期までは、(5)「エネルギー密度」、(6)「出力密度」、(7)「出力安定性」というエネルギーそのものの考え方以外、存在しなかったのである。当時「ビニールを燃やすと、有毒ガスが出る」とか「自然環境を守れ」などと言おうものなら、バカ扱いされたのだ。

 さて、太陽光と原子力の戦いの本質は、(8)「環境負荷」と、(9)「供給安全保障」というエネルギー産出に伴う問題と、(5)、(6)、(7)というエネルギー源の本体としての性質の戦いである。

 どちらも(1)から(4)は×。これはつまりエネルギーそのものをとるか、いや環境をとるかという、単純な二元論に陥る。これは「うんこのカレーを食べるか、カレーのうんこを食べるか、どっちがいいか」と大差のない、バカ問答なのである。

 さらにそこに文明論が加わり、「経済産業論」「覇権争い」といった議論が加わる。それでも「ウンコVSカレー」論争と変わらないのだ。どう見ても食えない話なのだ。

 このエネルギー密度VS環境の対決に、「エネルギー産出・投入比率」を加えてみる(七三ページ)。

 原子力の比率は、20倍である。つまり、エネルギーを1使って、19のエネルギーを産出できる。

 たとえば、石油のバレル数に換算して、5バレルを使って100バレルの石油を算出したということである。(産出量100バレル÷投入量5バレル=20倍)ということだ。単純にお金にしてみたとしたら、収益が95%ということになる。

 これに対して、太陽光の「産出/投入比率」は10倍。原子力の二分の一である。石油換算で1バレル投入して、10バレルの産出が可能ということである。単純にお金に換算したら、90%の収益。大差はあまりない。

 ただしここに、コストと稼働率を考慮に入れなければならない。

 一二三ページの表によれば、原子力(「新型原子力」と表にはある)は1000キロワット発電時(毎時、per hour )で119ドルである。一時間の原子力発電に119ドルかかる。

 コストとはつまり、ただ単純に、投入エネルギー代だけではなく、エネルギー源産出までにかかった必要な施設や搬入、人材と、その後の発電に至るまでにかかったもの全ての要素を換算したものがコストである。

 原子力の発電コストは、石炭が100.4ドルだから、コストはまあまあ安い。これに対して、稼働率は90%。他のエネルギー源に比べれば、原子力の稼働率の高さは圧倒的と言えば圧倒的で、ここに挙げられている一一種の電源の中で、稼働率は最高値である。

 ここで少し稼働率について気が付いたことを言う。同じ稼働率90%は地熱だけ。地熱はエネルギーが水力と同じように途切れるわけがないから、90%というのはメンテナンス上の問題で発電施設を休止させるのであろう。ということは、100%というのはなく、90%というのは、事実上100%と言える。石油は85%、天然ガスは87%なので、この二つもほとんど100%の稼働率と言えるのだろう。

 原子力をほんのちょっと擁護してみる―大気汚染解消には貢献したといえばそうかもしれない

 原子力は、1から4の「汎用性」等のデメリットが、石炭に多少劣るだけである。そうしてみると原子力発電は、CO2削減という、この二〇年間の環境保護の中心課題に完全に沿った、政策的エネルギーとして登場した側面があることがわかる。

 環境保護を懸念している人々にとって皮肉なことかもしれないが、原子力発電は、CO2というより70年代初頭に大問題となっていた都市での大気汚染、公害(パブリック・ポリューション)解消のために登場し、その一定の役割を果たしたともいえるのだ。

 70年代当時は大気と水質汚染問題のほうがまず先で、水俣病をはじめとした公害病が社会問題としてクロースアップされ始めていたからだ。CO2とか酸性雨、温暖化などというのはまだ先の話しで、目に見える煙や光化学スモッグ、河川を汚す鉱毒や水銀、東京湾のヘドロとか、それらが原因と疑われた病気の解決のほうが急務だった。

 温暖化も酸性雨もCO2も、そういった目に見えないことまで配慮が出来るような余裕は企業にも行政にもなく、そういった話はSFに近い感覚で受け止められていた。

 石炭は、CO2という点をとれば、原子力の性能にはるかに劣る。この二〇年間にCO2削減運動、地球温暖化防止の宣伝は、石炭に代わる主力電源としての原子力のアピールとしては申し分なかったのだ。

 原子力エネルギーの稼働率の異常な高さは、太陽光がいくら環境に優しいエネルギー源のチャンピオン(風力よりもすごい)だとしても、まったく太刀打ちできない。

●無視できないコストの壁、そして稼働率

 太陽光のコストは、1000キロワット毎時の発電で396.1ドルかかる。エネルギー産出と発電までに至るコストを合わせると、膨大な金額になるだろう。

 しかし、太陽光は、「投入/産出比率」が10倍で、単純にお金に換算することができれば、収益率90%だから、これはすごいじゃないか、コストをかけても、いわゆる原価が低いのだから、十分すぎるほど元が取れるということになる。

 ところが、天候に左右されることを運命づけられている自然エネルギーである。その稼働率は、たったの21.7%。原子力とは及びもつかない。

 一二三ページの表における稼働率は、一時間途切れることなく発電できたとしたら、1000キロワット発電できるということである。とぎれとぎれで発電したとしても、合計で一時間当たり1000キロワット発電した場合にかかるコストを表にしたもので、そこに稼働率がのしかかる。

 原子力の稼働率は90%なので、ほぼ一時間ぶっ通しで発電できるといってもいいくらいである。実際には一時間の90%で発電時間は54分。

 太陽光の場合、稼働率21.7%(一時間のうちならば13.2分)ということなのだから、実際には217キロワット分しか発電出来ないことになる。

 一時間にかかったコストも、単純に実際の稼働率をかけられると考えてみよう。太陽光の一時間の発電コスト=369.1ドル×0.217時間(13.2分)だから、80.0947ドル。ほぼ80ドルである。

 それでは、一基が13.2分で止まってしまったとして、太陽光を一時間の間フル稼働させるためにあと四基を一基が止まるごとに連続して動かせば、コストはともかくとして、稼働はできるではないかという主張が出来る。

 0.217時間×5基=1.085時間(65.1分、約1時間5分)動かせるとしよう。理論的にも実際的にも不可能なはずはない。

 すると後はコストだけが問題ということになる。一基で80.0947ドルだから、80.0947×5基=400.4735ドル。約400ドルである、というふうにはならない。たとえこうだったとしても、太陽光のコスト高が他の発電方法と同等か、下回るということはあり得ない。

 それどころか、コストはこんなものではないだろう。実際には1時間1000キロワット発電して396.1ドルかかったところを、単純に時間で割ることなどできないだろう。

 もしできたとしても、同じようにもうあと四基を同時であれ継続的であれ、13.2分稼働させて、80ドルで済むわけがないのだ。コストにはそれまでのエネルギー産出にかかったものや、管理、維持、人件費といった様々なものがかかってくる。

 だから、太陽光を一時間フル稼働させようとして、五基を設置、稼働させた場合、コストにかかった発電時間以外の要素を加味しなければならず、実際には400ドルの二倍、三倍くらいのコストが楽々かかってくることが予想される。

 だから、太陽光それのみでの発電運用は脆弱(ぜいじゃく)過ぎで、稼働率を賄(まかな)おうとすればするだけ、様々な発電方式の中でも、396ドル(一時間、1000キロワット)という、群を抜いた莫大なコスト高をさらに押し上げることはあっても、減らすことは不可能である。

 ここでは太陽光と原子力の比較を行っているわけだが、「エネルギー産出/投入比率」でも、原子力は太陽光の2.6倍ほどのエネルギーの産出が可能である。だから原子力の太陽光に対する優位は変わらない。

 しかし、これで太陽光を完全否定する必要はない。では両方やればよいということになろう。そこで最初の八基準のメリット、デメリットに戻る必要がある。

●原子力と太陽光の戦争―結局は環境負荷が論点

 送電その他の問題は後で述べるとして、単純な「エネルギー産出/投入比率」を考えれば、太陽光も原子力も両者とも悪くはない。太陽光のコスト、稼働率の数値はひどいものだが、「産出/投入比率」が一〇倍という数値は高い。だから筆者が書いているほど太陽光利用はデメリットだらけということはない。

 太陽光が原子力に太刀打ちできるのは(そしておそらくその他のあらゆるエネルギー源にも)、やはり(8)の「環境負荷」と(9)の「供給安全保障」である。

 太陽光発電は、エネルギー源の本体と言える、(5)「エネルギー密度」、(6)「出力密度」、(7)「出力安定性」での脆弱性と原子力との圧倒的大差を、コストと投入比率で補うことはできなかった。それどころか、稼働率で大差がまた開いてしまった。かろうじて投入比率だけが原子力と同様、他のエネルギー源に比べて小さいというだけの「差」でしかない。

 太陽光発電に残されている原子力発電に対決できるカードは、環境への影響と危険性の検討のみである。

 原子力エネルギーの環境負荷の高さは、二〇一一年三月一一日に起こった東日本大震災による福島第一原発の災難でもう解ったはずである。

 確かに、福島の第一原発から半径二〇キロ圏内からの立ち退きや、事実を無視した放射能への過剰反応(マイクロシーベルトといった、ほぼ自然界の状態に等しいレベルや、人体にほぼ何の影響もないことへの過剰な恐怖心)といった問題は無視できない。

 しかし、それとは別に、現在も廃炉(の方向しか有りえないはず)に向けての作業を続けている状態の第一原発に、今後何の作業も施さなかったり、作業を誤ったりしてはならず、そのままにしておけば炉心溶融後、あくまで理論上ではあるが、チャイナシンドロームが起きるという懸念がある。

 原子力発電の環境負荷は△ではなく×だ。放射性物質、ウランとプルトニウムの危険性は、CO2排出量の比ではないことは、昔から知られたことである。(筆者注記:それでも、放射性物質の怖さが本当にわかっている日本人は、実際にはもんじゅの時の犠牲者とその家族だけである。ビキニ環礁で被爆した第五福竜丸の犠牲者にしても、それが本当に放射性物質によるものであったのか、はっきりしていない。)

 プルトニウムで半減期何億年、ウランで二〇万年などというのは、放射性物質は永遠に危険なままだということである。国際的な核拡散の懸念は、最早慢性化している。

 それでも、太陽光ではエネルギー源としては脆弱ではないか、という議論は尽きない。そこで、あくまで環境エネルギーの有効性を考察するという視点から、太陽光に風力を足してみよう。

●太陽光と風力の連合軍にしてみた

 風力の九基準は太陽光と同じ。「環境負荷」8、「供給安全保障」9だけが○。「エネルギー産出/投入比率」が、最高で15倍。太陽光の1.5倍と考えればよい。

 コストは1000キロワット毎時発電で、149.3ドル。稼働率は34.4%。コストは原子力に近づいたが、稼働率がこれまた圧倒的に低い。太陽光に比べれば高いかな、くらいのものである。

 風力の稼働率が太陽光よりも高いというのが、逆に驚きなくらいである。太陽はどこにでもあるが、風、と言っても強い風は、いつどこにでもあるわけではない。風力は稼働率だけの問題ではなく、九基準でいう4の「ユビキタス性」(いつでもどこでも使えること)が一番の問題である。

 風力で太陽光を補えるかといえば、それも無理。風力は太陽光より、「産出/投入比率」で1.5倍、コストで100ドル程度安く、稼働率で12〜3%高い程度であって、それすらも、風力のユビキタス(いつでもどこでも使える)性の圧倒的悪さで吹き飛んでしまう。

 それでも環境保護派、自然エネルギー推進派はこう主張する。「足りないエネルギー分は生活程度を落としたり、節電したりしよう。昔の生活に戻ろう」という究極の主張である。

 環境、つまりCO2のことも考えれば、火力さえも制限して、昔の生活に戻ろう。薪(まき)、薪(たきぎ)、炭、木炭の生活をして、素朴な田舎生活をしよう。本来の自然の中で、自然と共存した生活をしよう。人類は数千年以上そのような生活をしていたではないか、ということになる。

 これは左翼的知識人の伝統的脱原発、反文明、反進歩派の標語である。ただし、こういう生活、質素、倹約、質実剛健な生活は、倫理的価値観的には悪くはない。むしろ嫌いな人はいないだろう。人間のモラルや、人の心、生き方、人付き合いなどが非常によくなると思う。

 この主張は文明、そして進歩という思想に対する根本的な反対論だから、ここに日本の安全保障や経済産業の衰退懸念を主張して、反文明環境保護派に反駁しようとも無駄である。

 日本が大国になる必要はないではないか。昔通りの生活に戻ればいい、で話は終わり。「保守派」と「進歩派」の話は永遠の平行線をたどる。ここにロバチェフスキーはいない。

(つづく)