「216」 論文 核融合と「進歩の観念」(1) 鴨川光(かもがわひろし)筆 2013年8月12日

 福島第一原子力発電所の大惨事から、一年と四か月(これを書いているのは二〇一二年七月現在)が過ぎた。現在、日本を揺るがしている問題は、関西電力の所有する大飯原子力発電所(福井県大飯郡おおい町)の再稼働が決定したことである。

 この文章が日の目を見るときは、もうそのような出来事はなかったかのような過去のものとなっているかもしれませんが、二〇一二年の時の、原発騒動の目玉は、この関電による大飯原発再稼働と、それに対する様々なリアクションであったことをもう一度思い出して下さい。

大飯原発

関西電力「大飯発電所」ホームページ
http://www1.kepco.co.jp/wakasa/ooi/ooi.html

 関電による再稼働の決定の報を受けて、二〇一二年七月六日、首相官邸の前では、二十万人のデモが起こっている。(主催者側の発表。警察の発表は二万人弱。)

 二〇一一年の福島原発事故以来、様々な方面や立場から、原発や核開発、放射線問題に関する議論がなされている。一方では、小出裕章(こいでひろあき)氏や児島龍彦(こじまたつひこ)氏、広瀬隆氏のような、放射線の危険性を声高に訴えて止まない立場。

これには、核エネルギー廃止運動及び、風力をはじめとした「環境に優しい」(著者鴨川注記:エンヴァイロンメンタル・フレンドリーenvironmental friendlyという九〇年代初めにできた言葉。今はエコ・フレンドリーeco friendlyというらしい)自然再生エネルギー推進運動が歩調を合わせる。

 これらと真っ向から対立するのが「原発は安全、日本経済のためには原発は、何としても推進すべき派」がいる。この立場には、渡部昇一氏や桜井よしこ氏、日本財団といった、なぜか反中国的(そして親米、親安保・米軍と米軍基地)ナショナリズムが付随(ふずい)していることが多い。

 そして、副島隆彦氏のように、二〇一一年三月一一日にいち早く現地に赴き、ガイガーカウンターで放射線量を計測し、「現在の福島は安全である」と住民寄りの宣言をした人もいる。専門領域が核物理学ではなく、放射線が人体に及ぼす影響に関する分野である山下俊一教授も、その分野からの立場では同じである。副島氏の核開発に関する立場はわからない

 一人だけ立場を異にしている人がいた。吉本隆明氏である。

吉本隆明

 吉本氏は、一九八六年のチェルノブイリ原発の際の左翼運動に対して、「文明史に対する反動」だとする。人類が核開発を続ける理由は、大きくは、進歩であり、文明を築いた人類はもはや後戻りできないとする主張である。

 これは夏目漱石から続く「文明開化」した、明治以来日本人に流れる思想でもある。副島氏にも、進歩が止まってしまっていいものなのだろうか、という文明史の立場が垣間見える。

●核物理学とその応用技術は、その価値判断とは別に「文明」である

 核開発、原子力発電とは、本質的に文明論である。「文明からただの民族文化には後戻り出来ない論」であり、夏目漱石のジレンマである。このことも取り立てて目新しいことではない。むしろ、古臭い色合いのある主張で、かなり言い古されてきたことだ。

 これに対して、左翼、進歩的文化人、市民団体、環境保護派からは、伝統的に次の声がある。

 独自の文化、自然に囲まれた生活で良いではないか。科学技術は、自然保護と自然利用エネルギーのために使えばいいではないか。地球環境に優しいテクノロジー、それが本来の文明ではないのか、で「文明派」と「進歩派」の議論は終わりである。(著者注記:ただし、ウランを使う核燃料も、自然エネルギーであることに変わりはないが。というより、たとえ人工的な方法や物質を使ったとしても、自然の本質である原子核を使ったエネルギーこそ、本来の自然エネルギーなのだが。)

 しかしそうではない。伝統的に「進歩」を標榜し、そのように言われてきた、いわゆる「左翼的」な思想に近い人々は、やはり「進歩」や「文明」という、本来の考えからは矛盾している。

 原子力エネルギーや、素粒子探究をなぜやり続け、そうしなければならないのか。それは文明論というべきではなく、その根底にヨーロッパ近代の「進歩の観念」(リデー・プログレl’idee de progres、ジ・アイディア・オブ・プログレスthe idea of progress)という思想の流れがあるのだ。

 そしてもう一つ。それと対立する「ロマンティシズムromanticism」(東洋には「ロマン主義」という訳語で伝わっている)という伝統的思想潮流がある。核開発と文明論の真実とは、この二つの大きな近代思想がその本質なのである。

●「進歩の観念」と核融合

 西欧化とか文明化、戦後は民主化というような、明治以降の近代化を表す言葉がある。多くはそれに対する、何とも明言しきれない嫌悪感と、便利さ、憧れが混ざり合って、日本人(もちろん他のあらゆる民族―イギリス人だって、ドイツ人だってある)のインファリアー(劣等inferior)とスペリアー(優越superior)の両コンプレックスとなって今に至っている。

 しかしこの近代化(あるいは合理化)の正体は、一八世紀末に主にフランスで現れた、「進歩の観念」なのである。

 「進歩の観念」とは、一般的な名詞ではない。大きな思想の潮流のことである。一言でいえば、フランス革命直前のフランス財務統監(財務大臣ではなく、監査、オーディットであった)ジャック・テュルゴー(アンヌ=ロベール=ジャック・テュルゴー Anne-Robert-Jacques Turgot, Baron de Laune, 一七二七年〜一七八一年)による一連の改革である。

 その根本は、コーヴェイcorvée という賦役労働の廃止、つまり奴隷の廃止と、大土地所有者をはじめとする、特権階級への課税であった。

 一般庶民、貧乏人から税を取るな、その方が合理なのだという思想である。この際の政治体制は、王制、共和制、民主制のどれでも構わない。

 では、税の取得者、歳入の取得者はだれなのか。そこにルソーの「ヴォロンテ・ジェネラールVolonte generale」(一般意思、ジェネラル・ウィルGeneral Will)という思想が流れ込んで、フランス革命の素地となった。

 これがなぜ核開発問題と関係があるのか。現在の核開発の歴史は、一九世紀からのエネルギー革命の流れにある。これは事実である。一九世紀、ジェイムズ・ワットによる蒸気機関の発明によって、薪炭(しんたん)をやめ、より効率の良いエネルギー源である石炭を取り入れてから産業革命が始まった。産業革命というのは、その本質は薪から石炭へというエネルギー革命である。

 このエネルギー革命、産業革命のレールにあたるのが「進歩の観念」である。「進歩の観念」は、テュルゴーとその同士で後継者であるコンドルセの後、サン・シモン(Claude Henri de Rouvroy, Comte de Saint-Simon)とオーギュスト・コント(Auguste Comte)に受け継がれ、「ポジティヴィズム(Positivism)」という思想によって、サイエンスとテクノロジーの進歩に大きな影響を与えた。

     

サン・シモン    コント

 コントは、聖職者や貴族は何も生産することのない無駄な存在である。彼らの代わりに、技術者や科学者、芸術家のいる社会こそが正しいのだ、と主張した思想家であり、「神」などというまがい物に支配され、その「運命」なるものに人間の人生や考えが支配される必要などなく(実質的にローマ教会や、プロテスタント諸派を含む聖職者、貴族などの支配層による支配)、人間が自分の意志で物事を決めて(考えの前提を自分で=神、聖職者、支配者ではなく、人間の力で決めていいというのが、ポジティヴの元々の意味)よいとした。

 こうした「進歩の観念」と「ポジティヴィズム」という思想の流れがある。そして、エネルギーの革命は、大きくは民=ピープルに課されていた「足枷(あしかせ)」(無償賦役労働や人頭税、十分の一税など)からの解放、いわば「奴隷の解放」とフリーダムを目指したものから来ているという、大きな思想の流れがあるのだということを念頭に置いてほしい。

 一九世紀ジェイムズ・ワットによる蒸気機関の発明によって、エネルギー燃料は薪から石炭に代わり(くどいようだが、実は今も石炭が最も多く使われている)、二〇世紀、一九一〇年代、または一九二〇年代くらいから、石油に取って代った。

 原子力エネルギーは、一九四五年の原爆の開発から、四九年の原発の建設で始まり、二〇一三年で六八年の歴史がある。実際に原子力発電所がアメリカで稼働したのは一九五〇年代であり、日本では六〇年代から。日本で本格的に原発中心に頼り出したのは、九〇年代からである。その間、高速増殖炉や、プルサーマルといった新世代の原子力発電が開発された。

 薪のような自然燃料を、人間は今からほんの一五〇年前まで、何千年間も生活の主力エネルギーとして使っていた。(実際に身の回りの生活レベルとなると、一九五〇年代、いや六〇年代いっぱいまで使っていただろう。)

 近代とは、石炭から始まる。石炭、石油、原子力、高速増殖炉というエネルギー革命の流れは、「進歩の観念」という近代思想の大きな流れに乗ったものである。

 これは、嫌であろうがなかろうが、そういうもので、事実である。全ては夏目漱石の「嫌でも引き返せないもの」の一言が集約している。吉本隆明の言わんとしたこともそれである。

●「進歩」だから原子力発電は続けるべきなのか

 正当な文明史を背景にした、核開発継続と原子炉を作り続けるべきとする主張をまとめると、以上に述べたことになる。

 しつこいようだが、「原子力発電」は続けるべきで、原子炉も作り続けるべきだという主張がある。渡部昇一、桜井よしこ、日本財団などなど、いわゆる日本の保守言論人たちや団体である。

 「原発は安全であろう」「安全管理をしっかりすればよい」「大した事故は起きないし、放射線や原子力ということの知識をしっかり知っておくべきだ。そうすれば、原子力をなくして、薪や七輪の生活に舞い戻るべきだなどという、現実離れした子供っぽい考えは持たないだろう。今更、そんな逆戻り生活に本当に戻れるのか。進歩していこうという気概はないのか。権利、権利で、勤労の義務を果たさないつもりか」という、そういった「現実志向派」である。

 これは一面では真理である。いまさら薪の生活に戻りたいわけがないし、戻れるわけがない。そうする必要もない。だから国家は原子力開発を進めるし、原子炉は作り続ける。

 いや、そうではない。真実はこうである。「原子力エネルギーは開発してきたし、原子炉も高速増殖炉も作った。そしてその有効性も危険性も、チェルノブイリ、スリーマイル島、福島の三大事故をはじめとした様々な出来事、事故によって証明され、私たちはそれの恩恵に預かり、その被害も被ってきた」ということだ。

 つまり、最早、現行の核分裂技術開発も、その使命を終わった。学問的探究も、細かなもののみで、核分裂分野の学問も技術開発も、その使命を終えた。あとはその維持、管理、保全技術のみが発展するだけである。

●核分裂炉の役割は終わった。しかし、核開発は続ける・・・・核融合を

 ここで勢いづくのが、小出裕章(こいでひろあき)氏や児玉龍彦(こだまたつひこ)氏などといった、脱原発、反原発の、いわゆる戦後の「伝統的左翼」である。大江健三郎も再び勢いづいている。

 原子力などという危ないものはやめて、静かな自然の生活に帰ろう。多少不便でもいいではないか。科学技術は世界に害悪をもたらしたのだから、文明などというものは捨てて、文化を大切にして、地域に根差し、地球環境に優しい生活をしよう。そういった伝統的左翼・進歩的知識人の主張である。

 科学技術の限界、科学は人類に悪をもたらしているという思想は、二〇世紀初頭に生まれ、トマス・カーライル(Thomas Carlyle)らが唱えていった。左翼思想は、それらと少し交わっている。

 そこで保守と右翼は反論する。「安全保障の問題があるではないか」と。勢いづく中国との経済戦争と、軍拡への脅威にどのように対処するのだ。国力、経済力が弱くなることは、日本の安全保障を脅かすぞ、というものだ。親米、現実路線、反中国、反アジアといった、これまた日本の伝統的「保守」思想である。

 双方とも心配しなくともよい。核開発は続ける。原発も一部は厳重な管理の下に、期限付きで再稼働するだろう。まあ二〇年である。いやせいぜい一〇年かもしれない。

 左翼の人々にとっても、決して薪の生活に逆戻りすることはない。彼らが伝統的に大好きな、太陽光を中心とした環境エネルギー技術を、今後も推進していくことになる。

 さあ、これはどのような意味を持つのか。環境に優しい自然エネルギー技術が軌道に乗るまでは、原発を一部維持して、電力を補うのか。これも一面的である。

 電力を原発で補うというのは、少しはある。が、火力、水力でも十分に賄える。まあ、そこに原発が少しあれば十分すぎる、というものだ。

 現行の核分裂炉には、そこに関わる法人から何からの利権集団がいて、これはそう簡単には(たとえ、今回のようなことがあろうとも)手放すわけがない。爺さんたち(六〇歳以上の役人、法人、民僚たちだ。電事連の幹部たちや、エネルギー官僚たち。住宅ローンや子供の学資保険などを抱えている)も必死である。

 そう、彼らは、あと二〇年分の原発利益の分け前の残りをよこせ、と言っているだけだ。それだけくれ、と。ただそれだけなのだ。あとちょうど二〇年。これがまさに正しいタイム・スパンの把握なのだ。

 その間、彼らは散々に非難され、ボロクソに言われるだろう。それでも、必死に耐えながら、死ぬ時まで、最後の利権の分け前に預かる。そして、やがて彼らも死滅していく。彼らは時代遅れなのだ。彼ら自身が、彼らの信奉する「進歩」の流れに乗れず、置いていかれ始めている。

 対するは、一見その流れに乗っているように見える環境エネルギー派だが、これもまあ正しい。これからの二〇年の間に、環境エネルギー開発はどんどん進んでいくだろう。

 それは、火力(環境保護派が火力を言うのがすでに矛盾している。酸性雨、温暖化を懸念するのであれば、石炭、石油、薪や木炭だって駄目だろう)水力、風力、太陽エネルギーを組み合わせた「スマート・エネルギー(smart energy)」の推進である。

●「スマート・エネルギー」構築に東芝府中が取り組んでいる

 今から三年前(二〇一〇年)に、府中(最寄り駅はJR武蔵野線と南武線の府中本町。東芝府中工場の専用駅のような作りになっている)の東芝工場見学、グランド・ツアーの機会に預かったことがある。

 駅から二つの大きな塔が見えるのだが、それはエレベーターの実験棟である。入り口付近にはグラウンドがあり、そこでは東芝府中の社会人ラグビー・チームが練習をしていた。社会人ラグビーは、今では「トップ・リーグ」という。

 東芝府中工場で私は、電車の床の下の部分にある発電装置の組み立てなども見た。電車の車体に関するものは、東芝や日立が作っている。しかし、何よりツアー担当者が説明に力を入れていたのが「スマート・エネルギー」の仕組みだった。

 「スマート・エネルギー」とは、私がこれまでに挙げた、複数のエネルギーを組み合わせて、地域単位で(主に都市から始めるだろう)電力需要に応えようという試みである。主に太陽エネルギー、太陽光パネルから生み出される電力との兼ね合いを、その他のエネルギー源や発電システムと、上手くやっていくという説明だった。

 このシステムには風力も含まれる。たとえば、全てを太陽エネルギーで賄(まかな)おうとすると、曇りの時や夜間といった、太陽光を十分に期待できない時間帯がある。その際、火力その他の電力や、余った電力や他から電力を買ってくるなどして、包括的に電力需要をカバーするという説明だった。

 そのためにまず、データを取って統計作業をしている段階だという説明だった。ただし、ヨーロッパのある都市でのことだそう。日本でもモデルの小規模な地方都市で実験を始めるとも言っていた。地方のどこかの都市だったが、覚えていない。

 さて、自然エネルギー活用の本当の動きはこれである。「スマート・エネルギー・システム」の構築である。

 左翼言論人や学者らがいかに「自然に帰れ」(著者注記:これは見事にジャン・ジャック・ルソーJean-Jacques Rousseau の影響であろう。ただしルソーは自然に帰れとは一言も言っていない。自然に帰ることは出来ないと言ったのだ)と声高に主張し、勢いづこうとも、実際には国と産学が一体となって、「何々プロジェクト」という名称がつけられて、正式に大掛かりに進められていくのは「スマート・エネルギー」というシステムの構築なのだ。

 原発の再稼働とは、実はこの試みの一部として存在している。それが私の考えである。現在の出来事と文明史、思想史の大きな潮流から見れば、どうしてもそうなる。

 原発への利権集団という、政治的要素も存在する。核分裂炉である原発の再稼働の動きは「スマート・エネルギー」という、電力需要カバーの包括的な仕組に組み込まれたものの一つだと思っている。(著者注記:ただし核分裂という、すでに学問的にも技術的にも、時代遅れの原子力は、それに関わるもの以外、その存在意義があまり感じられるものとは言えない。)

●「スマート・エネルギー」と原発廃炉の流れは、次のステップへの布石

 それでいて、一方では、原発廃炉の大きな流れがある。これも徐々に進んで行く。完全に無くなるには五〇年くらいかかるかもしれないが、原発の必要な一部は残して、少しずつ廃炉にしていくだろう。

 そういう理由から「脱原発(副島隆彦氏の言う)放射能コワコワイ派」の人々も、いきり立って首相官邸前でデモをしなくても(ほとんど効果ない)、東電の株主総会でワイワイ騒がなくとも、核分裂炉はなくなるのです。

 利権集団も、これからの二〇年間に老いさらばえて、核分裂炉と共に滅び去る。それは文明到達点と、歴史との必然かとも思えるが、それ以上に「進歩の観念」という、一八世紀中盤からヨーロッパで発生した思想の流れに乗ったものなのです。

 「進歩、プログレス」というものには、それが生活を便利にしてきたという厳然とした事実がある以上、今更、薪を燃やして七輪と五右衛門風呂を沸かすことは出来ない。現在の私たちは、生活の今以上の便利さに向かうことには、抗(あらが)えないのです。

 この二〇年間にスマート・エネルギー・システムを徐々に確立していき、自然エネルギーを商業ベースに乗せ、(いろいろトラブルは起こるだろうが)非常に優しい、近代文明としてのエネルギー・システムが確立するだろう。

●核分裂炉問題の本質

 一般的なテレビ報道などでは「核分裂は危ない」「放射能コワイ」という主張が主流である。その本質はどこにあるのだろうか。原子炉の爆発の問題ではない。爆発それだけならば、どこでも、何にでも爆発の危険がある。化学工場のほうがよっぽど危ない。

 核分裂反応は、非常に効率よく熱エネルギーを放出し、国民のエネルギー需要に寄与するところが大である。しかし、それに使う燃料、ウラン、プルトニウムの管理と、使用済み核燃料、核廃棄物の処理問題が、その「エネルギー投入/産出比率」の(それなりの)高さを補いようのないくらい、圧倒的に上回ってしまう。

 問題の一つは核燃料棒。これは常に冷やし続けていなければ、発熱を初めて、燃料棒が自分で自分を溶かし、いわゆる炉心溶融(ろしんようゆう。メルトダウンmeltdownの訳語。「炉心融解」とも「炉心融解」とも言わない)を起こす。

 一九七九年に、映画「チャイナ・シンドローム」が公開されたとき、アメリカのある原発が、もしも炉心溶融を引き起こした場合、理論上そのまま地球を突き抜け、裏側の中国にまで貫通するという「チャイナ・シンドローム」が起こるなどと言われた。

 この時映画の主演だったのが、ジャック・レモンで、その迫真の演技に当時注目が集まった。偶然にも、公開直後にスリーマイル島で原発事故が起こり、この映画の内容が髣髴(ほうふつ)とされた。

映画「チャイナ・シンドローム」

 チェルノブイリ、もんじゅ、福島第一で深刻な原発事故が起こるたびに、この時の映画で、原子力発電所の制御室に籠城したジャック・レモンの姿を思い出した人も多いのではないだろうか。

 原子力発電所の問題のもう一つは、使用済み核燃料。核廃棄物の処理問題である。

 これはどうあっても地下深くまで埋めて冷やして、放射線崩壊(主にアルファ崩壊。ヘリウム原子核―陽子と中性子が二つずつある、でかい原子核―を放ちながら、別の元素に変わっていく)を起こし、その半減期を待つしかない。

 現在では、どこの国でも原子炉の中などに、中間貯蔵施設として使用済み燃料を「地上」で保存しているという、極めて危険な状態のままである。

 フィンランドが地下400メートルに穴を掘って、最終処分場を作っている。そこで頭をよぎるのが、福島の20キロ圏内を立ち入り禁止区域にするというのは、いずれこの最終処分場を作るのではないかという疑いである。

 副島隆彦氏が事故直後、福島に最終処分場をアメリカ軍主導で、それと結びついたエネルギー官僚がやるのだろうということを、いち早く見抜いた。そしてそれは事実として明らかになっている。

 副島氏は、福島第一原発の状況を見張るために、二〇キロ圏内の件網所から五〇〇メートルの地点に人を常駐させている。

 しかし、それに関する私の考えはこうである。いずれや最終処分場は作られるであろう。これから二〇年間に、一部再稼働をさせた原発分の使用済み燃料のための最終処分場だ。必ず作られるであろう。その分だけは日本自身に作らせろ、ということだ。

 最終処分場を作って、半減期を待てばいいではないかということではない。半減期は二十万年もある。つまり、人類の歴史にとっては「永遠」ということである。永遠に放射性物質は半減しない。永遠に放射性物質は、安全にならないということである。

 中には半減期何十億年のものもある。つまり「最終処分」とは、ウランから放射線を出なくさせるための施設ではなく、私たちに直接害を及びにくくさせるために、ほぼ人間の営みに影響を及ぼさせないように、地下深く埋めただけでしかない。

 ただし、もうこれ以上大規模に核廃棄物は出さないだろう。そういう世界的な流れになっていくだろう。これから発展していく国に関しては、まだまだ原発を建造して、核廃棄物を出していくはずである。

 しかし、日本に関しては、これからの二〇年間、一部の原子炉から出た灰のみを保管するだけだ、ということである。アメリカやヨーロッパなどの、これまでの先進国はそうしていくことだろう。

 原発の一部再稼働に問題があるとしたら、この燃料管理処分問題だけである。原発の施設自体の安全管理は、大丈夫であろう。この二〇一一年の震災で起こった原発事故の問題点は、冷却用発電機の問題であった。他にも問題があったようだが、施設の安全管理、セキュリティーは大丈夫だと思う。(断層の上などにある、地域的には危険性が指摘され、住民の不安が消えないところに建ててある原発は、結果的には稼働させないことになるだろう。)

 左翼活動家や言論人、学者は、この廃棄物問題を突いてくる。原発の再稼働が、いくら期限付きで(これも定かではないが)であっても、そしてその発電量が小規模ではあっても、スマート・エネルギー・システムに、わざわざ原子力発電を組み込む必然性がないからだ。

 天然ガスなどを利用すれば、一部再稼働原発の存在意義はなくなる。節電などやらなくても大丈夫である。もし必要とあらば、計画停電を短時間で、地域とスケジュールを決めてやってもいいだろう

 だから、原発の存在意義は、原発利権集団の「俺たちの残りの分け前をよこせ」しかないのである。だから、彼らは今後の二〇年間、様々な方面から非難されながら、ふんぞり返って生き延び、老いて、少しずつ消滅していくだろう。

 では、これからの二〇年間にスマート・エネルギー・システムが確立し、原発は無くなることで、エネルギー問題は永遠に無くなるということになるのだろうか。

 そんなことはない。原子力開発は引き続き行われる。それはその是非と好き嫌いはともかく、文明の到達点と「進歩の観念」という大きな流れの中で見れば、核分裂炉はその技術的発展の一時しのぎの中途のものでしかなく、一方の自然エネルギーは、そのシステム確立と環境利用、保全という点以外では、何の進歩でもないからである。

 では、「進歩の観念」における、次のフェイズとは何なのか。それは核融合、ニュークリア・フュージョン(nuclear fusion)である。

(つづく)