「220」 論文 やさしい日本現代史・日本国は万邦無邦の「デタラメ国家」である(2) 鳥生守筆 2013年11月1日

 「デタラメ国家日本」をつくっている大本は、国際金融資本(欧米の権力者たち)である

 これまで書いたように、日本の権力者グループは、「現代天皇制国家」を形成して、自国を破滅へと向かわしめているのだが、そのように誘導し仕向けているのは国際金融資本(欧米の権力者たち)である。日本の権力者だけで、そのような破滅への道に進んでいるのではない。日本の権力者たち、すなわち「現代天皇制」グループは、世界の動きや誘導に合わせているのである。

 国際金融資本が支配している現代の世界は、常に、どこかの国のある種の破滅を求めているのである。国際金融資本が支配している現代は、常に、国家的な破滅と再生という巨大な不幸を必要としているのだ。これなしに、国際金融資本は生きていけないからである。国際金融資本は、常に国家的規模の破滅という巨大な不幸がなければ、生きていけないのである。日本の「現代天皇制国家」グループは、その家来になって忠実に働いている、売国の輩たちである。日本の富を、国際金融資本に差し出す輩たちなのだ。現在の日本国民は、この「現代天皇制」グループに苦しめられているのである。

 これが現代世界史の姿である。

○現代史を見れば現在のことが分かる

 この、世界のあちこちで国家破滅を仕組む現代世界は、突如として出現したのではない。長い歴史を経て形成されてきたものである。その姿は、現代史を追えば簡単に見えてくる。

 二つの世界大戦も、欧米の世界支配者がデタラメな(政府の)国家郡をつくって仕組んだ戦争であったのだ。またベトナム戦争、アフガン戦争、イラク戦争のように、欧米の支配者のデマによって仕組まれた局地戦争も数知れずあった。

 欧米の世界支配者は、このように世界をスクラップ・アンド・ビルドしてきたのだ。このスクラップ・アンド・ビルドが多くの損害や不幸を人類に与えてきた。欧米の支配支配者はこれによって莫大な利益を得て、生きながらえてきた。これが現代史の実像である。それは、欧米の世界支配者(国際金融資本)の力で推し進められた歴史である。

 ただし、21世紀になってからは、欧米の支配者の思うままに世界が動かなくなっているように見える。彼らの思いのまま動いているのはわが日本国など、わずかの国である。欧米の支配者に仕組まれないためには、彼らの実像を明らかにすることである。それはそんなに難しいことではない。

 その現代世界史が日本において現われたのが日本現代史である。以下、それをみていくことになる。

○日本現代史の前半(80年間)の概要

 太平洋戦争終了まで明治天皇は「明治大帝」と呼ばれていた。我々現代の日本人は、教育水準が高いはずなのに、この簡単なことを知らない。また、その明治天皇のことを具体的には、全くといってよいほど知らない。万事がこのような調子で、維新の三傑(西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允)や明治の元勲(伊藤博文、黒田清隆、山縣有朋、西郷従道、松方正義、井上馨、大山巌、桂太郎、西園寺公望)についても、それらの人のことをほとんど知らない。つまりこれは、われわれ日本人は、日本近代を総括していないということである。

  

明治天皇肖像        維新の三傑

 従って、われわれ現代日本人にとっては、幕末・維新からが現代史なのである。私は、われわれ日本人にとって、現代とは、太平洋戦争終了後のことだと思っていたのだが、しかしそれは間違いだったと思う。日本近代史が未だ総括できていないのだから日本現代史とは、決して太平洋戦争終了後だけのことではない。幕末・維新からが日本現代史なのである。

(江戸時代)

 江戸時代は、身分制の社会であった。かつては士農工商の身分と言われていたが、これは間違いである。これは、明治時代に創作された架空の身分名である。江戸時代は農工商の区別意識はなかった。もちろん、百姓は農を行うのだが、工商も百姓が行っているという意識であったから、農工商の間に区別意識は存在しなかったのだ。しかし士とその他の職業の間には厳しい身分格差が存在した。実際は、武士、百姓、町人という身分分類で、百姓身分と町人身分そのものには上下関係はなかった。これ以外の職業である公家(くげ)・僧侶・神主・検校(けんぎょう、盲人に与えられた最高の官名)・役者、穢多(えた)、非人なども相当数いたが、これらも公認の身分を保持していた。

 このように江戸時代の身分制はかなり錯綜したものであった。そして、さらにそのそれぞれの身分のなかにも細かく序列(上下関係)がきめこまかく格付けされていった。すべてのものに序列をつけなければ落ち着かないという社会(国柄)だった。いずれにせよ、少数のものが特権を与えられる身分制社会だった。そこで対等な人間関係が局所局所で見られたとしても、それは余りも狭い世界でのことであり、社会的意味を持つものではなかった。江戸時代は序列社会であり、格差社会であった。また生活保障は基本的にない社会であった。生活保障なき格差社会だったのである。弱者切捨て格差容認社会だったのである。従って日本というのは豊かな国土なのに、経済がうまく回らなかった。

 そこでは、人々は幕府や藩や代官所などの命令の網の中で暮らしていた。当時の人々は、自らの生活や生存の危機に直面して初めて、上意下達の命令や掟に反対の意思を示し、代官所や庄屋に訴え、一揆を起してはつぶされるだけであった。

 江戸時代は所得に対して税金をかけるという発想がなかった。商人の中には所得が莫大な大商人がいたが、その所得に対して税をかけなかった。税は主として農民(百姓)にかけられたのであり、町人や金持ち商人、高所得者などに対しては、課税が少なかった。これは弱者切捨て格差容認の思想がもたらした結果である。それが、社会を行き詰らせ、経済を衰退させた。

 このように江戸時代では、身分や、序列と格差、差別が常識とされ、人間の多様性と共通性、そして平等性などについて深く留意されることはなかった。その結果日本人は、平等性が無く、自然で自由な人間性や能力を発揮できなかった。また、このような身分制社会では、身分の上下いかんにかかわらずほとんどの人々は、日常生活において、多くの社会情報を得ることは困難であった。したがって、将軍や藩主とその取り巻きたちもそのほとんどは、時間と権力とを有り余るほど持っていながら、多くの社会情報を得てそれを政治に生かし社会を発展させる能力を持つことはなかった。平等性のない社会は、社会経済の自然な発展を抑えていた。衰退するしかなかった。だから江戸時代は決してよい時代ではなかった。

(幕末、攘夷・開国)

 その日本に、外国船が開港や通商を求めて出没するようになった。つまり、鎖国という江戸幕府の掟(祖法)に反する要求が押しよせてきたのである。当時は、外国船の技術進歩は目覚しく、蒸気船になり、大砲や火器、武器が強力になった。やがて、ペリーの東インド艦隊の黒船がアフリカ南端、インド洋周りで日本の開国を目的としてやってきた。軍事的に撃退できないことが分かった幕府は、この事態に直面して、対外政策の方針を打ち出せなかった。

  

黒船来航の様子       松平春嶽      島津斉彬

 幕府はそのときまでに、松平春嶽や島津斉彬の考えをたたき台にし、対外政策を展開させることはできなかった。対策を研究する時間はたっぷりあり、情報もあったのに、先送りしてきただけだった。対外政策の研究をしようとした者は、追い掛け回して、犯罪者として処罰し、押さえ込んだのだった。

 それでもその時、一般の日本人(武士階級の人たち)は幕府を盛り立てて、幕府の対外方針にしたがって行動し、身を捧げようとしていた。それなのに、幕府はその国論をリードできなかった。対外方針において国論をリードするには、幕府は余りにも、無学で愚かだった。将軍は大奥の女たちの中で育ち、重臣(老中、大老)たちも大奥が絡んだ出世競争で勝ち残った者たちだった。幕府には、学問を修めた者を選ぶ習慣や機構がなかった。

 その幕府は国論をリードできる展望をもたないままに、条約を結び開国に向かった。鎖国という祖法を破って開国したのであるが、幕府はこの時、その開国方針を、例えば横井小楠のように明確に示せなかった。それどころか幕府は自ら、安政の大獄を起こして、日本人同士の結束を壊す行為をした。幕府は、分裂の流れを作ってしまった。

 薩摩藩も長州藩も幕府を討つつもりでなかったが、幕府の短慮が日本国内の分裂を深めた。そのうち、将軍徳川家茂と孝明天皇が公武合体で接近し、攘夷実行で一致した。開国方針を撤回し鎖国的方針を掲げるようになった。幕府と皇室の、この方針転換は明らかに無定見だった。またしても幕府の無定見、これによってこの時点において、開国を進めていた薩摩藩と長州藩は幕府と対立せざるを得なくなった。幕府を見限った薩摩は長州とともに将軍と天皇を排除(暗殺)し討幕する流れになったのである。

(明治維新)

 この時、イギリス公使ハリー・パークス(Sir Harry Smith Parkes、1828年〜1885年)が薩長を勝たせて、明治維新となった。江戸城無血開城も、横浜にいたパークスの演出だった。

ハリー・パークス

 薩長は摩り替えた天皇(後の明治天皇)を立てて、王政復古の大号令を出した。王政復古とはすべての制度を古代に復すということであり、江戸時代の役職・地位・制度はすべて無に帰すということである。つまりそれは、幕府を倒すという意味である。討幕は成功し、天皇をトップに立てた時代になる。古代の制度といってもそんな昔(六〇〇年前)の制度が復元できる訳がない。実際は結局、古代の制度名を語りながら、その実、すべて新たに国家制度を作るというになったのである。つまりこの時点で、国家を勝手にデザインできる状態になったのである。これが明治時代の始まりだった。

 ここで島津斉彬の薫陶を受けて育てられた西郷隆盛の思い描く、人間の多様性を容れた平等国家を目指せば、日本は、日本独自の、且つアジア大陸に侵略することのない、アジア諸国から信頼される、自立したソフトで強い立派な大国になったであろう。外国の物質面の進歩を急ぐことなく研究摂取しながら、国民のそれぞれの多様な能力を生かすことのできる強力な自衛国家となっただろう。西郷隆盛には、弱者を切り捨てる思想と格差を容認する思想がなかった。西郷は、それらん思想を否定する思想の持ち主だった。

 しかしイギリスのパークスはそれを見逃さなかった。イギリス(大英帝国、国際金融資本)にとっては、日本がそんな立派な国になっては困る。イギリスは、遣欧視察使節団組の、伊藤博文、大久保利通、岩倉具視らを直接、間接に使って、西郷とその同調者や理解者たちを明治政府から追い出し、そしてつぶした(明治6年政変から西南の役まで)。それ以後、日本政府のデタラメぶりが始まるのであった。

  

伊藤博文         岩倉具視

 国家には、頑迷で時代遅れの者も必要であるのに、明治政府は、そういう時代遅れの士族を、イエスマンや扱いやすい平民を使って、排除し抹殺した。そしてまた明治政府は、そこで死んでいった士族たちの霊を弔い、礼を尽くすこともしなかった。敗者(弱者)切捨ての思想であった。ただ、明治天皇だけが明治憲法発布のときに、西郷隆盛の名誉回復をわずかに行っただけであった。

 これによって日本の政府は決定的に、イギリスやアメリカなど外国が扱いやすい、愚かで薄っぺらな政府となった。そして現在に至る。日本政府は未だその当時からの間違いを糺していないのである。ここに、日本のデタラメの始まりがある。日本のデタラメぶりは、この明治政府から現代まで続いているのである。

 明治政府(明治の元勲たち)は、本当に、頭が良いとはいえなかった。軍事や交通などの物質面の近代化を恐ろしいほど急いだ。そしてそれに比べて、憲法や議会制などの、精神面、文化面での近代化は著しく緩慢、すなわち恐ろしいほど怠慢であり不作為(あえて積極的行為をしないこと。法律で言う、消極的行為)であった。つまり、近代化が著しくアンバランスであったのだ。必然的に日本は、軍事や物質面を尊重するが、政治や精神面を軽視する国家(政府)になった。

 明治政府は、江戸時代の身分制を壊したが、新たな身分制をつくった(明治2年の版籍奉還から明治17年の華族令に至るまで)。明治2年に、国民を、特別な存在の皇族、華族、士族(卒族を含む)、平民の四つの身分に分けた。この時は四民平等をうたった。しかし、明治政府は軍事強化(帝国主義、膨張主義)に走ったので、四民平等にはできなかった。そこで明治政府は、明治17年に華族令をつくり、華族の中に公、侯、伯、子、男の爵位を設けた。そして国家に勲功のあった政治家、軍人、官吏、実業家なども列することができるようにし、その華族に、種々の特権を設けたのである。これで、一方で、皇族、華族に大きな特権を与えるとともに、他方で、士族、平民を全く尊重しなくなった。政治家、官吏、実業家など以外は、尊重されない社会になった。

 江戸時代は、将軍と武士の特権による身分制だったが、明治憲法下では、皇室と華族の特権による身分制となった。結局、これによって、明治維新は身分制度の形を変えただけに終ったのだ。江戸時代と同等の国家になった。華族は多いときでも1000家族に満たなかったという。実際には、官吏(役人、軍人)にも華族と同様に大きな特権が与えられた。この、天皇とその周辺の華族・官吏に権威と権力(莫大な資金)が集中することになったのである。

 慶応4年3月14日、江戸城総攻撃の前日発表された明治創業の宣言というべき、「五箇条のご誓文」が発せられた。それは、次のような誓文だった。

1.広く会議を興し万機公論に決すべし
2.上下心を一にして盛に経綸を行ふべし
3.官武一途庶民に至る迄各其志を遂げ人心をして倦まざらしめんことを要す
4.旧来の陋習を破り天地の公道に基くべし
5.智識を世界に求め大に皇基を振起すべし

 この明治の身分制は、この「上下心を一つにして」という「五箇条のご誓文」に反したものだった。上に大きな特権を与えれば、上下が「心を一」にできるわけがない。明治政府は、ヨーロッパの悪いところを取り入れたのである。

 明治時代前半は所得税がなく、税は地租が大部分(80%以上)であった。その後、所得税ができてもその税率は少なかった。これで農民が没落し、商人や実業家が潤い、財閥の出現を促し、財閥は華族令に従って天皇周辺に加入することになった。富と権力がさらに集中し、偏在することになった。これで経済が回るわけがなかった。

 このように、明治政府(明治の元勲たち)は、身分制と税制において、江戸幕府と同じ過ちを犯した。明治政府には、江戸幕府の誤りを見通しそれを糺す能力も意志もなかったのである。

 このように、明治政府は、帝国主義に染まり、税金の多くを軍部に使い、それによって生じる国民の不満を抑えるため特権層を設け、そこに富と権力を集中偏在させ、物質面を尊重し精神面(の多様性)を軽視するという間違いを犯した。以後、この間違いを糺した政府は、現われなかった。この間違いが、形を変えつつ現在まで続いているのである。

(明治のデタラメな飛躍)

 明治政府は、英・米に誘導され、朝鮮半島と沖縄と台湾とを足がかりに大陸に進出することを国家方針とした。先ず、接触の多い台湾と朝鮮(李氏朝鮮)に出兵した(1874年の台湾出兵、1875年の江華島事件)。朝鮮を開国したのは、日本(明治政府)だった。朝鮮は中国(清)と関係が深かったので、朝鮮植民地化と中国との戦争に、それを利用できる。明治政府は中国と戦争することを国家目標にし、準備(軍備拡大)を重ねた。日清戦争への道は早くから始まっていた。日本は朝鮮に絡みついた(1882年の壬午の変、1884年の甲申の変)。1887年の銀本位制開始も、軍艦や兵器の輸入のためであった。日本を勇気づけるかのように、イギリス(大英帝国)は、日清戦争直前に、条約改正(治外法権の撤廃)に応じた(1894年の日英新条約)。そして軍備が完了すると、「朝鮮の独立を守るため」という詭弁を掲げて、中国との戦争に持ち込み、日本はこれに勝った(1894年からの日清戦争)。

日清戦争の様子

 日清戦争勝利よって、日本は巨額の賠償金と領土の割譲を得た。ところが仏独露(フランス、ドイツ、ロシア)からの三国干渉に会い、中国から獲得したはずの遼東半島をロシアに奪われた。英米はこの干渉とロシアの満州進出を黙認した。その時、日本はロシアとの一戦を決意し、中国より得た賠償金を軍備拡張に注ぎ込むことにした。このように日本では、日露戦争は、日清戦争終了直後から、すでに始まっていた。日本は、1897年に金本位制を開始し、戦艦や兵器を輸入し、1902年に日英同盟を結び、それらを通じて英米のバックアップが得られる。満州に進出してきたロシアとも「朝鮮における日本の軍事行動の一切を認めよ」という詭弁を用いて戦争に持ち込んだ。最後は国力を使いきり戦争継続が不可能の状況に陥ったが、イギリスとアメリカに支えられて、何とか「勝利」の名目を勝ち取った(1904年からの日露戦争)。

日露戦争の様子

 日露戦争の莫大な戦費は、戦時増税だけでは到底足りず、戦費の大部分は国際金融資本(マフィア)のクーン・ローブ商会からの借金で賄った。しかし、「敗戦国」ロシアから賠償金を取れず、莫大な借金が残った。国民の肩の上には、借金返済と戦時増税の継続が待っていた。日露戦後も、国民の苦しい生活が続いた。

ジェイコブ・シフ(クーン・ローブ商会)

 欧米の先進「文明」国は、「日本人が穏和な芸術にふけっているころは、野蛮国とみなしていた。しかし日本が、中国東北の戦場で大殺戮をはじめてからは、文明国と呼」ぶようになった(岡倉天心)。日本は二度の大戦争をしたことによって、世界から「文明国」と呼ばれるようになった。イギリス王室(ビクトリア女王)は、明治天皇に対して「ガーター勲章」を授与した。当時の世界最強で最先進国の大英帝国に、日本は称賛されたのである。

岡倉天心

 満州や朝鮮の権益が増えると必然的に、新たな軍備の必要が発生する。そのため国民には重い税がのしかかる。日清戦争の前から、「政費削減・民力涵養(地租軽減)」が叫ばれていたが、そのいとまなく軍事力増強と戦争が繰り返された。

 要するに、明治政府は海外侵略を基本政策にしたのである。まさに「脱亜入欧」だった。欧米帝国主義の真似事に終始したのである。明治政府は、無謀で愚かな政府であった。

 このように明治の「飛躍」はデタラメであったが、世界金融資本は、日本を持ちあげた。それに誘われて、日本は太平洋戦争で破滅するまで、愚かな侵略政策に突っ走った。それが太平洋戦争敗戦までの日本現代史の前半(80年間)であった。

(つづく)