「221」 論文 やさしい日本現代史・日本国は万邦無邦の「デタラメ国家」である(3) 鳥生守筆 2013年11月15日

○日本現代史の戦争はすべて海外で始められた

 明治政府が成立した後の日本の出兵や戦争を挙げると、次のようになる。

台湾出兵(1874年)
江華島事件(1875年)
壬午の変(1882年)
甲申の変(1884年)
日清戦争(1994〜95年)
北清事変(1900年)
日露戦争(1904〜05年)
第一次大戦(1914〜18年)
シベリア出兵(1918〜1922年)
第1次山東出兵(1927年)
第2次山東出兵(1928年)
第3次山東出兵(1928年)
満州事変(1931年)
日華事変(1937〜41年)
太平洋戦争(1941〜45年)

 これらの事変や戦争はすべて海外で始まっている。日本領土で始まっているのではない。つまり日本は、攻められたから戦争を始めたのではなく、日本の戦争は侵略のための戦争、帝国主義戦争であった。

 このように、日本近代の歴史は膨張と戦争の歴史であった。つまり、近隣諸国から見れば、つねに日本の膨張と軍事的脅威にさらされてきたわけである。

○日本は戦争には向かない国家である。

 敗戦後三十年目の昭和五十年(1975年)暮、井上成美(いのうえしげよし)という太平洋戦争敗戦時の海軍大将が亡くなった。八十六歳であった。この井上というの残したテープの中には、次のような発言がある。

 

井上成美      『米内光政』

  『井上成美』          『山本五十六』  

《「アメリカ、イギリスとの軍備の比率は低い方がいい、戦をすれば負けるから、なんとか外交でしのいでいかにゃいかん、とわたしは思っていましたが、軍人としてそれを自分に言いきかせるということは悲しいです。そしてくやしいですよ。くやしいけれどもね、そういう国なんだから。自分(日本、引用者注)よりも技術が進み、富もあり、人口もたくさんある、土地も広いという国があるということは、仕方がない。もがいたって、これを脱(ぬ)けるわけにいかない。その中で、無理をしない範囲で立派な国になっていく方がいいんではないか。そういう風に考えた。(中略)どんどんどんどん軍艦が出来て海軍が強くなるのはいい気持ですけれども、そうはいかないんだからしようがないと思っていました」》(阿川弘之『米内光政』序章の六)

 まったくそのとおりである。アメリカ、イギリスが日本より(軍事)技術が進むのは、物的富があるからだ。アメリカ、イギリスは、あらゆる重要な資源物資を押さえ、それをいつでも必要なだけ入手する体制を持っている。資源物資を豊富に入手できなければ、技術競争に勝てるわけがない。この資源物資入手の点で、日本と、アメリカ、イギリスとの差は、比較ができないほど大きい。誰が見ても明らかな大技術革命が起こらない限り、日本は軍事技術の面において、アメリカ、イギリスに勝てるわけがないのである。自国より軍事的に強大な国がひとつでも存在する限り、その国は戦争を仕掛けてはならない。いずれは最強国との戦争が待っているからである。

 井上という人は、次のようにも言っている。

《「戦はしない方がいい、しかし、月月火水木金金で猛訓練をしている。そのジレンマは大変なもんだったろうと人はいうけれども、わたしはそれとはちがいました。国の存立のためには立つ。国滅びるというのなら、国が独立を脅かされるときには、とにかく立つ。そのためには軍備というものが必要だ。国の生存を脅かされ、独立を脅かされた場合には立つ。そのかわりに、味方をつくつておかなけりやいけない。自分じゃ勝てない。正々堂々の主張をするならば味方ができる、とわたしは考えています。弱い国家を侵略してそれを征服して自分のものにしようということをする者は、必ずほかの国の批判にあって、みそかの晩の金勘定の清算をさせられる時期が来る、と思う。軍備というものは要らないじゃないか、戦しないのなら――そういう意味じゃないですね」》 (阿川弘之『米内光政』序章の六)

 これも全くそのとおりである。自国が攻められ侵略されれば、その時は断固戦う。そのために、軍備は必要である。すなわち、自衛の戦争はやらなければならない。自衛の戦争でも、戦争は正々堂々の主張を掲げた上でやらなければならない。そうすると味方をする国ができる。また、敵国の国民からも味方ができてくる。これが正当性のある正義の戦争である。弱い国を侵略し征服する戦争は、あとで必ず返済させられることになる。それは利に合わない不正義の戦争である、ということだ。

『米内光政と山本五十六は愚将だった―「海軍善玉論」の虚妄を糺す』

 これらの井上成美の発言は戦後のものであるが、彼は、航空本部長中将であった昭和16年初頭においても似たようなことを発言している。

《航空本部長井上成美中将は、昭和十六年の一月末、「新軍備計画論」と題する意見書を起草し、大臣次官に提出した。
「帝国ハ其ノ国力ニ於テ英米ト飽ク迄建艦競争ヲ行ハントスレバ遂ニ彼ニ屈伏スルノ外ナキハ乍残念明瞭ナル事実ナレバ致方ナシ」
屈伏するのがいやなら、軍艦の建造なんかやめて海軍を空軍化しなさい、それ以外に道はありませんヨというのが骨子で、このまま対米戦争に突入した場合、どんなことが起るかの予測が詳しく書いてある。
「日本ガ米国ヲ破リ彼ヲ屈伏スル事ハ不可能ナリ、其ノ理由ハ極メテ明白簡単ニシテ」工業生産力が質量ともにまるきりちがう。その上、明治の頭で昭和の軍備をやっていて勝てるわけがない。これに反しアメリカは、藉(か)すに時日を以てすれば、
「@日本国全土ノ占領ガ可能 A首都ノ占領モ可能 B作戦軍ノ殲滅モ可能ナリ」
海相及川古志郎大将と次官豊田貞次郎中将が、これを読んでどんな感想を持ったかは伝えられていないけれど、井上の論旨は要するに、アメリカと戦争したら必ず日本が負ける、日本全土が米軍に占領され、帝国陸海軍は全滅するというので、いくら部内上層部限りの意見書とはいえ、どぎつ過ぎた。「新軍備計画論」がたたって、八月、井上中将は態よく洋上(第四艦隊司令長官)へ退けられ、米内がもう一度政治の表面に出て終戦工作の模索を始める時まで中央へ帰って来ない。》 (阿川弘之『米内光政』十四章の八)

 日本がアメリカを屈服させるのは不可能であり、その理由は簡単明白、工業力の質量における格段の差である。アメリカは、日本全土の占領、首都東京の占領、帝国陸海軍の全滅が可能であると、井上は、「新軍備計画論」と題した意見書を出しているのである。その後の経過からすれば、彼の分析・予測はまったく正確であった。

 このような分析・予測は、実は井上だけではなかったと言う。

《実は戦前、海軍大学校や聯合艦隊における対米戦想定の図上演習で、如何に上手に持ち駒を動かしてみても、最後はこれと同じ情況が出現していた。初め勢いのよかった青軍(味方)艦隊が次第に本州近海へ追いつめられ、日本の港湾工場施設も残存艦船も赤軍(アメリカ)の空爆にさらされて「天が下には隠れ家も無し」という有様になるのだが、審判部として「青軍艦隊ここに全滅、帝国アメリカに降伏」と宣するわけにはいかないから、「演習打ち切り」でお茶を濁すのが例であった。》 (阿川弘之『米内光政』第十七章の五)

 海軍大学校や参謀など、軍事専門家の間には広く、日本はアメリカと戦争すれば、必ず全滅するとわかっていたのだ。当時日本人の中で最も多くの情報を得られた人は、昭和天皇である。だから、昭和天皇は、全滅必至であることを知っていたはずである。昭和天皇は、日本を全滅させるために、対米戦争に踏み切ったと言える。

 いずれにせよ、日本はアメリカ、イギリス以上の軍事力を持っていなかった。今もそうである。したがって、日本は戦争を始められる国ではない。日本は、自衛の戦争、日本の領土領海付近での戦争しかしてはならない国なのである。これが日本現代史からわかる、ひとつの結論である。

 なお、上記の井上成美であるが、阿川弘之『井上成美』では、盧溝橋事件(日華事変)以来の日中戦争については、陸軍の愚考を罵るだけで、日中戦争(侵略戦争)を止めさせようとする発言や思想が見られない。よって井上成美も戦前には、戦後のように膨張主義(帝国主義)そのものは否定していなかったのである。彼は終戦までは、膨張主義を脱していなかったのである。また、戦後においても、脱し切れていない発言がちらほら見られる。彼は正しいことをたくさん言っているが、思想は完璧でなかったと思われる。

○日本現代史後半(70年間)の概要

 戦後の日本は、連合国に占領されて始まった。連合国とは実質米軍であった。

 1952年、日本は講和条約を結び、独立を回復したが、同じ日に日米安保条約(日米安全保障条約)を結び、米軍は駐留を継続し、米軍基地が存続した。

サンフランシスコ講和条約調印の様子

 この米軍駐留が日本に歪みをもたらした。

 アメリカは、イギリスと同様に、国際金融資本の本拠地であった。彼ら国際金融資本はもちろん、日本国が自立した国家になることを望んではいなかった。彼らは、憲法違反をさせながら(伊達判決裁判がそのひとつ)、日本を引きずりまわしてきた。彼らは、明治維新における西郷隆盛のような有能な人物を、社会的影響力を持たないように抹殺していった。

 1955年ごろから1990年ごろまでの30年間ほどは、日本経済は歪みを含んだままであったが、それなりの経済活況が続いたので、日本国民は、米軍駐留の問題と国際金融資本の支配をそれほど感じないで済んだ。

 ところが、前述したように、この間日本には新たなる形の「現代天皇制」が形成されていった。国民はこれに気づかなかった。

 ロッキード国会(1976年)は、その実質は核拡散防止条約批准の国会だった。リクルート国会(1989年)は、その実質は消費税導入の国会だった。ロッキード事件とリクルート事件は、眼くらまし(情報遮断)に使われたのである。両事件は、核拡散防止条約や消費税が国民に広く知られることがないように、官僚とマスコミと政治家たちが必要以上に騒ぎ立てたのである。

 しかしアメリカ本国の実物経済の衰退が深まると共に、日本はそのしわ寄せを受けることになる。すなわち、アメリカ国債の強制購入という、アメリカ政府(国際金融資本)による日本収奪が本格化した。現在日本が保有するアメリカ国債は、莫大な額であるが、しかし、そのアメリカ国債は、1円も回収される見込みがないのだ。アメリカは、露骨に日本を食い物にしだしたのだ。それが現在にも続いている。この現実を報道する大手マスコミは、NHKを含めて1社もない。この事実を知っている日本国民は、1割もいないだろう。

 日本の「現代天皇制」グループは、日本の国家権力の中枢(政・官・財・学・マスコミ)をにぎっており、それが国際金融資本の日本国内での実働部隊である。この実働部隊が日本政府の事務全般を統括しているのだ。日本の歪みが解決されないのも、そのせいであった。

 これが日本現代史後半(70年間)である。

○歴史を学ぶということ

 歴史学は、当時何があったかを正確に明らかにするだけでは、不十分である。それでは学問としての意味がない。正確に明らかにしたうえで、それは良かったのか悪かったのかを判定し、もし悪かったのであれば、どうすればよかったのかを打ち出さなければならない。そのためには平等性はどうなっているかという視点で、歴史を見なければならない。

 どのような時代でも尊敬さるべき偉人が存在するものである。しかしわれわれはその偉人になかなかめぐり合えない。それは偉人が歴史に埋もれてしまうからであり、あるいは歴史から抹殺されてしまうからである。それでも、歴史の中に生き残る偉人はいるものである。したがって歴史を勉強すれば、自分が尊敬できる偉人を見出すことになるはずである。もし自分が歴史研究を通じて偉人を見出すことができなければ、その歴史研究はどこか不十分であるといえる。読んでいる歴史書が悪いか、研究が浅いか、である。

 現在書店や図書館に並んでいる歴史学者が書いている歴史書のほとんどは、事実だけを描こうとした歴史書であり、また登場人物の実像が感じられない歴史書である。それは、それらの歴史書が、底の浅い薄っぺらな歴史書であるからである。それらの歴史書は、その点を注意して読まなければならない。

 それでは「やさしい日本現代史」の詳論に入る。といってもその範囲は140年に及ぶ長い時間である。そして国際金融資本に引きずり回されたので、動きのはげしい時代であった。歴史として取り上げるべき出来事は無数にあるといってよいほどである。したがって詳細が明らかになったところを適宜取り上げていくことになる。

 しかしその前に、天皇とは日本においてどういう存在なのかを知る必要がある。そのために、昭和天皇はどういう人であったかを、見ておくことにする。

(つづく)