「222」 論文 やさしい日本現代史・日本国は万邦無邦の「デタラメ国家」である(4) 鳥生守筆 2013年11月29日
●昭和天皇の正体
昭和天皇はテレビなどでよく見かけたはずだが、本当はどんな人だったか、よく知られていない。専門家の間でも、1989年1月7日に天皇が亡くなられてから後に、昭和天皇を知る資料が出てきたという。昭和天皇はどういうことをした人であり、どんな人であったのだろうか。
昭和天皇
○昭和天皇の戦争関与は消極的だったのか
山田朗著『大元帥・昭和天皇』(新日本出版社、1994年)には次のように書かれている。
《昭和天皇の戦争関与とか、戦争責任という議論がなされると、必ずといっていいほど、次のような疑問が出される。
@天皇は軍事には素人で、戦争には主体的には関わらなかったのではないか。
A戦争は軍部の独走であり、天皇はそれをおさえようとした平和主義者だったのではないか。
B天皇は戦争について実態を知らなかったのではないか(軍部は天皇に情報を与えなかったので
はないか)。
C天皇が決断したからこそ戦争が終わり、平和になったのではないか。》(山田朗『大元帥・昭和天皇』まえがき)
われわれ戦後の日本人のほとんどは、昭和天皇の戦争への関与は消極的であった、確かに天皇は立場上戦争責任を持たざるを得ないが、戦争は軍部の暴走で行われたのであり、天皇はほとんど知らなかったのであり、天皇の戦争責任は軽微なものであった、というイメージを持っている。
江口圭一著『昭和の歴史4・十五年戦争の開幕』(小学館、1994年)には次のように書かれている。
《満州事変の問題は依然として現代の問題である。(中略)日本の民衆も明らかに戦争に加担し協力したのであり、戦争を遂行した当事者たち――軍部や政府や天皇や――とは異なった意味においてではあるが、その責任を負っているといわざるをえない。》(江口圭一『昭和の歴史4・十五年戦争の開幕』あとがき)
ここで著者は、日本の軍部、政府、天皇、日本の民衆に戦争責任があると言っている。権力を一切持たされず事実をほとんど知らされず自由な考えや発言をほとんど許されなかった日本の民衆にも戦争責任があるというのは問題であるが、ここではその問題は取り上げない。
ここで問題にしたいのは、戦争責任の順番が、「軍部、政府、天皇、民衆」になっていることである。日本の歴史学者が書く現代史はすべてこれである。すなわち、昭和天皇の戦争責任はそれほど重くない、というものである。天皇は戦争の実態を知らされていなかったのである、ということだ。戦争責任のほとんどは軍部と政府にあるということである。日本の歴史学者の書く現代史はほとんどすべて、そういう歴史観に立って書かれているのである。これは、われわれ一般国民が抱いている歴史観、歴史イメージに通ずるものである。われわれ一般の日本人は、歴史書やマスコミを通じて、知らず知らずのうちにこの歴史観にはまってきたのである。日本国では、このような歴史書を書かなければ歴史学者になれないのであろう。現在でも、日本国においては、歴史学者は統制されているのである。
では、その歴史観(戦争責任の順序)は正しいのだろうか。昭和天皇の戦争への関与は軽微だったのだろうか。
○いかにして対米戦争は始められたか
先ず、1941年、対米英戦争(アジア太平洋戦争)はいかにして始まったかを見てみる。
山田朗著『大元帥・昭和天皇』には、アジア太平洋戦争がどのようにして決まったか、その驚くべき事実が詳しく書かれている。以下は、それによる。
対米英戦争(アジア太平洋戦争)は、1941年後半の4回の御前会議を経て決まったのである。
@7月2日の御前会議
A9月6日の御前会議
B11月5日の御前会議
C12月1日の御前会議
1941年7月2日の御前会議は、独ソ開戦(6月22日、ナチス・ドイツが独ソ不可侵条約に違反してソ連に侵攻を始める)直後である。この会議で、「南方進出の体制を強化」(南部仏印へ進駐)するためには「対英米戦を辞せず」という重大決定をした。
実は日本はその前年の1940年には、欧州大戦勃発後の各国の輸出制限による物資不足が深刻になり、それによって、1937年に始まった中国戦線で行き詰まり、長期持久戦を考えるようになっていた。その一つの対応策が、南方に武力進出して、南方資源を確保し、資源物資自給自足体制の確立を目指すという政策であった。米内光政内閣が総辞職し(1940年7月16日)、第二次近衛文麿内閣が成立した(7月22日)直後の大本営政府連絡会議(7月27日)で、この武力南進政策は、決定されたのである。
したがって、米内内閣のときにその作戦研究を進めていたことになる。それはフランスのドイツへの降伏など、ナチス・ドイツの快進撃に影響されたものだった。そしてその決定を受けて、1940年9月23日、日本は北部仏印進駐を開始した。(その直後の9月23日に、日独伊三国同盟が締結された。)日本は前年に北部仏印までは進駐していたのである。
1941年7月2日の御前会議の南部仏印進駐決定は、その武力南進政策をさらに進めるものであった。日本はその決定に基づいて第三次近衛内閣成立(7月18日)直後の(1941年)7月28日に南部仏印進駐を始めた。アメリカ政府はこれらの動きに対して、7月25日には在米日本資産凍結令を公布し、8月1日には対日石油輸出の禁止(発動機燃料・航空機用潤滑油の対日輸出)を実施した。
9月6日の御前会議では、10月上旬までに日米交渉がまとまるめどが立たないときには直ちに戦争を決意すると決定する。じりじりと石油備蓄が少なくなるということで、早期開戦を決定したのである。
11月5日の御前会議で12月初旬の武力発動を決めた。
12月1日の御前会議では、開戦を最終的に確認したのである。
昭和天皇は、9月6日の御前会議までは、明らかに対英米戦争に慎重な態度だったのである。その戦争に勝てる見通しがなく、不安だったのである。しかし東条英機内閣の成立(10月18日)後の、11月5日の御前会議のころになると開戦論に理解を示し、戦争を容認するようになったのである。
東条英機内閣成立
天皇が9月の御前会議まで慎重だったのは、実は、統帥部が勝利のめどの筋道だった具体的な報告をしていなかったからであった。主戦論の中心である参謀本部(陸軍統帥部)作戦課では、10月になると、服部卓四郎作戦課長を中心に、作戦面で対英米戦に勝算があることを天皇に上奏するために課内で綿密な研究を始め、10月20日に「対英米蘭戦争に於ける初期及び数年にわたる作戦的見透しに就て」を完成させた。
これと同じ頃の10月19日、海軍統帥部も連合艦隊司令部が強く要請していた真珠湾奇襲攻撃案を正式に承認した。このような状況の中で、昭和天皇は10月13日には木戸幸一内大臣を相手に宣戦布告の内容について相談しており、この時、天皇はさらに、戦争になった場合、戦争終結にいたる戦争指導の基本を確立すべきことを論じている。(『木戸幸一日記』下)報告書が完成する前に、天皇はすでに戦争に積極的になっていたのである。(昭和天皇は統帥部内部の細かな動きも把握できていたようのに違いない。)そして11月5日の御前会議直前の11月2日には、天皇の様子は「御上(天皇、引用者注)のご機嫌うるはし、総長すでに御上は決意遊ばされあるものと拝察し安堵す。」とまでなっていたのである。(大本営陸軍部第20班『大本営機密戦争日誌』)天皇はもう対米英戦争を容認していたのである。
木戸幸一
陸海軍参謀本部の出した長期作戦案などの内容については、ここでは省略する。しかし、ここで重要なのは、昭和天皇が諸情報を熟慮の上で開戦の決意にいたったということである。昭和天皇は、あれこれすべての情報を得た上で、大元帥として対米英戦争(アジア太平洋戦争)の開戦を自分で決意していたのである。
そして12月8日、比島爆撃、マレー半島上陸、真珠湾奇襲を以て、対米英戦争(アジア太平洋戦争)へ突入したのである。もちろん、これらの具体的な作戦も、天皇はすべて裁可していたのである。
対英米戦争にいたる年表を示すと、つぎのようになる。
1940年5月10日、ドイツ軍、オランダ、ベルギーに侵攻。
6月10日、イタリアが、英仏に宣戦。
6月17日、フランスがドイツに降伏。
7月16日、米内光政内閣が総辞職。
7月22日、第二次近衛内閣が成立。
7月27日、大本営政府連絡会議で北部仏印進駐政策を承認(決定)。天皇、裁可する。
8月11日、ドイツが、英本土本格的空襲を開始。
9月23日、北部仏印進駐を開始。
9月27日、北部仏印進駐を開始。
1941年6月22日、ドイツが、ソ連に侵攻。
7月2日、御前会議で南部仏印進駐政策を承認(決定)。
7月18日、第三次近衛内閣が成立。
7月25日、在米日本資産凍結。
7月28日、南部仏印進駐を開始。
8月1日、米政府は対日石油輸出を禁止。
9月6日、御前会議で、早期開戦を承認(決意)。
10月初旬、長期戦勝利作戦の研究を開始。
10月13日、この頃から、天皇は開戦に積極的になる。
10月18日、東条英機内閣が成立。
10月20日、「長期戦見通し」が完成。
11月5日、御前会議で、12月初旬の開戦を承認(決定)。
12月1日、御前会議で、開戦を最終的に確認。
12月8日、太平洋戦に突入。
天皇は積極的に(深く知り尽くし検討をして)戦争に関与していたのである。結局、天皇の聖断よって太平洋戦争が始まったのであり、天皇の聖断がなければそれは始まらなかったのである。ゆえに、戦争の責任はと言うならば、天皇に最も責任があったのである。日本の歴史学者たちはこの点に関して、故意に間違ったことを書きつづけているのである。
○昭和天皇は個々の作戦や戦況をも深く知っていた
これも、山田朗著『大元帥・昭和天皇』に詳しい。以下、それにしたがいながら述べる。
1941年12月8日にはじまった太平洋戦争の緒戦は、各方面とも順調に進展した。天皇はそれを確認し、1942年1月16日には、「第一期作戦後はどうなるか」とか「よろしい、それはすみやかにやれ」などと、作戦計画の繰上げの必要性を参謀総長・杉山元大将に語り合っている。(戦史叢書35『大本営陸軍部B』)
杉山元
緒戦期において、日本軍の攻勢作戦が唯一難渋していたのが要塞化されたフィリピン・バターン半島とコレヒドール島の攻略であった。(マニラ入城は、1月2日である。)1942年1月13日、天皇は杉山参謀総長にたいして「バタアン攻勢の兵力は過小ではないのか」と下問している。バターン要塞の攻撃は、1月19日に頓挫した。この苦戦の状況を憂慮した天皇は「バタアン半島の攻略のため現兵力で十分なのか、兵力増加を必要としないか」と参謀総長に再度下問している。天皇は、日本軍が苦戦していることを米軍が海外放送で盛んに宣伝すること憂慮し、その後もしばしば早期攻略を促したのである。結局、バターン要塞攻略は4月9日、コレヒドール島攻略は5月7日であった。
日本軍の攻勢が順調に進展している間は、バターン攻略戦以外は、天皇の作戦に対する発言は比較的少なく、むしろ占領地行政と外交関係の発言が目立った。
ミッドウェー海戦(1942年6月5日)での〈赤城〉〈加賀〉〈蒼龍〉〈飛龍〉の四隻の空母喪失という敗北の報は、天皇には直ちに、かつ正確に伝えられた。(『木戸幸一関係文書』)士気の低下を心配した天皇は、6月8日、天皇は恐懼する永野軍令部総長に「これにより士気の沮喪を来さざる様に注意せよ、尚、今後の作戦消極退嬰とならざるように注意せよ」と命じている。(『木戸幸一日記』下)その後も、連合艦隊司令部に激励の声をかけ、艦隊の士気を鼓舞している。
以上は太平洋戦争緒戦の半年間の例のほんの一部であるが、戦況を知り尽くした適時な態度を示している。戦況をほとんど完全に誰よりも把握しているのである。このように見てくると、天皇には毎日、大本営陸軍部と大本営海軍部より両方からと、さらに侍従武官など別ルートから戦況が報告されていることがわかる。昭和天皇は戦争中、日本人の中で最も多くの重要情報を、常に、得ていたのである。そして天皇の発言によって、戦争方針や軍の配置、作戦が変更、微調整されることもしばしばであったのである。
ここでは太平洋戦争緒戦の半年間のほんの一部だけの例を述べたが、昭和天皇は、即位から太平洋戦争終戦まで(そして戦後も)、基本的にはこのような有様だったのであり、軍事と政治に深く関わり、そして用心深く軍人や大臣を使って、日本(大日本帝国)を動かしたのである。このことはこれから後も適時、必要のたびに述べられることになるだろう。
(つづく)