「224」 論文 やさしい日本現代史・日本国は万邦無邦の「デタラメ国家」である(6) 鳥生守筆 2013年12月27日

○天皇の役割

 ところで、統帥権は天皇の大権であるとはいっても、日本はヨーロッパと違い、大元帥・天皇が実際に軍隊の先頭にたって戦うわけではない。では、日本において、天皇による統帥権の行使とか天皇親率とか言われることの実態は、どういうものであったのか。そのアウトラインを示しておけば、天皇自身による実際の統帥権の行使とは、@最高命令の発令(大本営命令等の発令)、A下問などを通しての作戦指導、B将兵の士気の鼓舞、ということになろう。@とAは、おおむね戦時に限られるが(平時の作戦計画にたいする変更指導も含まれる)、B士気の鼓舞は戦時・平時を通じてのことであり、将兵に天皇親率を実感させるものである。したがって、平時における大元帥の仕事として特に重要なものは、この士気の鼓舞に関連するものである。

 日本の天皇は、実際に先頭にたって戦うわけではない。また先頭に立って政治を行うのでもない。したがって、何があっても責任を問われるわけではない。国家無答責という法理がある。これは法律上、国家は、すなわち国家権力を行使する人たち(天皇や官僚)は、一切責任を問われない、という法理である。日本はそういう国であった。イギリスやアメリカも当時はそうだった。日本は(イギリスもアメリカも)そういうデタラメな国家であった。今でも似たようなものである。

 だから日本において、天皇とか摂政とかは重責を負っているようであるが、実は責任を問われる存在ではないから、あわてさえしなければなんとかなるのである。天皇があわてさえしなければ、皇室財産が莫大であり、またマスコミや、警察権や司法権などほとんどの国家権力をがっちり支配しているので、天皇の側近や家臣たちは安心なのである。だから常に平常心を失わなず、乗馬や詔書朗読の技術を身につけた昭和天皇は、摂政という大任を、なんなく無事にこなせたのである。

 天皇という地位は確かに側近たちを安心させなければならないから、たいへんな才能が必要である。側近たちを安心させることはなにかと微妙な問題があるから、昭和天皇は非常に優れた才能を持っていたと思う。しかし昭和天皇と同等の能力を持つ人は、日本国内を探せば、何百千人といただろう。そういう人たちの中には、昭和天皇と同等の立場であれば、もっとうまく国を導いた人がいただろう。そういう意味で、天皇の役割は、昭和天皇以外の人はできないというものではない。また天皇は、重要情報を得ることができ、しかも自分は何事にも世事の先頭に立たないのであるから、ある意味で世の動きをよく見られる立場にいたといえよう。

 ともかく、昭和天皇の役割は、将兵の士気を鼓舞すること、余計な発言は慎むこと、常に平常心でいることだったのではなかろうか。

○関東大震災の場合の、昭和天皇(摂政)の足跡

 この昭和天皇が摂政の時代の、1923年9月1日の午前11時58分44秒に関東大震災が起こった。被害が大きかったのは、東京湾沿いの地盤の弱い埋立地で、地震発生が昼食のしたく時であったので火の手が上がり、その火が街々をなめつくしたからであった。火災被害は震災被害をはるかに上回り、東京市(当時の東京市は今の東京都よりはるかに狭い)の被害は65パーセント、横浜市はほぼ全滅であったという。

関東大震災の被害の様子

 震災の日にはもう、社会主義者や朝鮮人の暴動が起きているというデマが流れた。「朝鮮人暴動説」は「朝鮮人虐殺騒ぎ」になった。政府はこの動きを利用し、戒厳令第9条・第14条の施行を、9月2日、東京市および東京府下の隣接5郡に、そして翌3日には神奈川県、4日には埼玉・千葉の両県で実施した。戒厳令は、一種の臨戦態勢で、外患あるいは内乱に際して適用されるものであるが、震災はどちらでもない。この戒厳令によって、民衆は法律に認められている一切の権利を奪われることになった。9月5日、労働組合員ら数百名が殺害される亀戸事件が起き、9月16日、アナーキストの大杉栄夫妻ら3名が殺害される大杉事件が起こった。

大杉栄

 1923年11月10日、「国民精神作興(さっこう)ニ関スル詔書」が発布された。これは摂政であった昭和天皇(摂政宮裕仁親王)の名で出されたのだろうと思われる。その内容は、「国民精神がともすれば堕落し、贅沢に流れて放縦に走り、危険思想がはびこり、さらに一般の風潮として勤労をさけ安逸をむさぼる享楽主義が流布するなかで、未曽有の被害をだした関東大地震がおきたのであるから、国力の振興をはかるためには、精神をひきしめなければならない」というものであった。これは震災天罰論の考え方である。関東大震災は人災であり、国民が享楽主義や危険思想に傾いているから、天がわが国民に向かって譴責(けんせき)し警鐘(けいしょう)を鳴らしているのだという思想である。

 当時の政財界の指導者たち(財界の大御所渋沢栄一、実業之日本社社長増田義一ら)は、大方このような「震災天罰論」「震災天譴論」の考え方をしていた。関東大震災は国民の責任だというのである。これは、けが人に怪我をしたのはおまえの責任だから、養生などしていないでもっとしっかり働けというようなものではないか。それを言うなら、被害が大きかったのは為政者の、自分たち、天皇および政財界の指導者たちの責任だったというべきであろう。日本はどんでもないデタラメ国家であった。日本(大日本帝国)は、震災復興は十分に行われないので復興景気を呼び起こすこともなく、昭和の不況につながっていった。(これは、平成の大震災復興如何と同じであり、現在においても再現されている。)昭和天皇は、このようにとんでもない帝国主義国家にふさわしい天皇だったのである。

 その詔書の発布直後の、11月16日、戒厳令は解除された。

 この戒厳令と詔書は、昭和天皇が裁可したものと思われる。これらには、民衆に対する冷たい眼が感じられる。

○将兵の士気を鼓舞する天皇

 山田朗著『大元帥・昭和天皇』には、「平時においても大元帥としての天皇は、決して暇なわけではない。たとえば、一九三〇年(昭和五)を例にして、一年間の天皇の主要な軍務を追ってみよう。」として、次の表を掲載している。

1月8日 毎年恒例の陸軍始(はじめ)観兵式。代々木練兵場において近衛師団・第一師団の将兵約一万 を親閲(まず馬上より閲兵し、そのあと将兵の分列行進に挙手の礼で応える。他の観兵式も同 じ形式)。
2月19日 宮中にて金谷範三参謀総長の親補式。
3月10日 陸軍記念日 陸軍戸山学校での奉天会戦二五周年祝賀会に出席。
4月29日 天長節 代々木練兵場での観兵式(毎年恒例)は雨天のため中止。
5月27日 海軍記念日 海軍・水交社での日本海海戦二五周年記念祝賀会に出席。
5月29日 静岡行幸 安東練兵場にて静岡県下の学生・青年団員一万八〇〇〇人の武装分列行進を親閲。
7月19日 陸軍士官学校卒業式に出席、分列行進を親閲、優秀卒業生徒の御前講演を聞く。
10月18日〜21日 海軍特別大演習(関東〜四国沖)を統裁。御召艦(霧島)。
10月24日 江田島の海軍兵学校を視察、生徒による観兵式を親閲。
10月26日 神戸沖での特別大演習観艦式を親閲。勅語を出す。
11月14日〜16日 陸軍特別大演習(岡山・広島)統裁。勅語を出す。
11月17日 岡山練兵場にて特別大演習観兵式(第五師団・第一〇師団など約三万人参加)を親閲。
11月19日 岡山練兵場にて中等学校生徒・青年団貝・在郷軍人など約五万人の分列街進を親閲。
11月27日 陸軍大学校卒業式に出席。卒業生らによる図上戦術(戦史上重要な戦闘を図上で再 現すること)を見学。
11月28日 海軍大学校卒業式に出席。卒業生の図上演習を見学。
12月1日 宮中にて海軍司令長官(佐世保鎮守府司令長官、第二艦隊司令長官)親補式(海軍の司 令長官以上の補職は、天皇がみずからおこなった)。
12月22日 宮中にて師団長(第四師団長)親補式(陸軍の師団長以上の補職は、天皇がみずから
おこなった)。

 このほかに、毎年二月頃に「帝国陸海軍年度作戦計画」の裁可(許可)をすることになっている。一九三〇年は、天長節の観兵式が中止になったが、例年、陸軍始・天長節・陸軍特別大演習の際に大規模な観兵式がある。天皇が統裁する特別大演習は、陸軍が毎年秋に、海軍が三年に一度これも秋におこなわれる。特別大演習は地方巡幸もかねており、とりわけ、陸軍特別大演習には、首相はじめ政府の高官も陪席するのできわめて大がかりなイベントになった。

 天皇は、平時のこれらの軍務を通じて、陸海将兵の士気を鼓舞するようにつとめたのである。

 ここには、陸軍の師団長以上の補職と、海軍の司令官以上の補職は、天皇が自ら行ったとある。だから、それらの人事にはいつでも天皇が意のままに介入できたと思われる。

 昭和天皇には、このほかにも、宮中祭祀という年中行事があった。原武史著『昭和天皇』(岩波書店、2008年)には、「昭和天皇が出席した主な宮中祭祀」として、次のような表にまとめている。

1月1日 四方拝 早朝に天皇が神嘉殿南庭で伊勢神宮や四方の神々などを遥拝する年中最初の行事。
1月1日 歳旦祭 早朝に宮中三殿で行われる年始の祭典。
1月3日 元始祭 年始に当たって皇位の大本と由来を祝い、国家国民の繁栄 を宮中三殿で祈る祭典。
1月30日 孝明天皇例祭 孝明天皇(明治天皇の先代)の命日に皇霊殿で行われる祭典。
2月11日 紀元節祭 紀元節(建国記念の日)を祝って宮中三殿で行われる祭典。 一九四八年に廃止されるが、臨時御拝という形でその後も 継続。
2月17日 祈年祭 宮中三殿で行われる五穀豊穣祈願の祭典。
2月21日 仁孝天皇例祭 仁孝天皇(明治天皇の先々代)の命日に皇霊殿で行われる祭 典。
春分の日 春季皇霊祭 春分の日に皇霊殿で行われる先祖祭。

春分の日 春季神殿祭 春分の日に神殿で行われる神恩感謝の祭典。
4月3日 神武天皇祭 神武天皇の命日とされる日に皇霊殿で行われる祭典。
4月29日 天長(節)祭 天皇の誕生日を祝って宮中三殿で行われる祭典。
5月17日 貞明皇后例祭 一九五一年に死去した貞明皇后の命日に皇霊殿で行われる 祭典。
6月30日 節折(よおり) 天皇のために行われるおはらいの行事。
7月30日 明治天皇例祭 明治天皇の命日に皇霊殿で行われる祭典。
秋分の日 秋季皇霊祭 秋分の日に皇霊殿で行われる先祖祭。
秋分の日 秋季神殿祭 秋分の日に神殿で行われる神恩感謝の祭典。
10月17日 神嘗祭 賢所に新穀を供える神恩感謝の祭典。
11月3日 明治節祭 明治節(明治天皇の誕生日)を祝って宮中三殿で行われる祭 典。一九四八年に廃止されるが、臨時御拝という形でその 後も継続。
11月23日 新嘗祭 最も重要な祭祀。
12月中旬 賢所御神楽 夕刻から賢所で御神楽を演奏して神霊を慰める祭典。
12月25日 大正天皇祭 大正天皇の命日に皇霊殿で行われる祭典。
12月31日 節折 天皇のために行われるおはらいの行事。

 軍務と政務と祭祀、昭和天皇は本当に多忙であっただろう。若いからこなすことができたと思われる。

○昭和天皇を支えるスタッフ

 天皇は、国務については政府、統帥については軍令機関の補佐をうけ、その大権を行使するわけであるが、これとは別に、つねに天皇の近くにいて天皇の政務・軍務を支える集団がある。元老・内大臣・侍従長・侍従次長・宮内大臣・侍従武官長・侍従武官などの人々である。「常に天皇の近くにいて」とあるので、これらの人々は、天皇の「私的な側近」という性格を帯びているということだろう。

 山田朗著『大元帥・昭和天皇』には、次のように書かれている。

 元老とは、天皇にとっては国家運営をおこなう上での最高顧問である。昭和天皇にとって元老はただ一人、西園寺公望である。天皇にたいして後継首相の推薦をおこなう元老・西園寺は、1940年(昭和15)に死去するまで、重要な決定にさいしては常にその意見が求められた。

 内大臣は、政務に関する補佐を主な仕事とし、天皇の相談相手であり、天皇と政府要人との連絡役である。牧野伸顕・斎藤実・湯浅倉平・木戸幸一、歴代の内大臣はいずれも天皇に大きな影響を与えた。

 侍従長・侍従次長は、天皇に仕える侍従たちをまとめるとともに、政治的な問題をふくめ天皇の日常的な活動全般の補佐をする。戦前、天皇につかえた侍従長五人のうち1929年に就任した鈴木貫太郎以降の3人はいずれも海軍大将であった。これらの侍従長のうち鈴木は、政務・軍務の両面で、天皇に与えた影響は大きかった。

鈴木貫太郎

 宮内大臣は、皇室財産の管理と皇族・貴族の監督を主な仕事とするため、天皇の国務・統帥には直接はかかわらない。

 天皇の軍務に非常に大きな影響力をもったのが、侍従武官長である。武官長には、慣例として陸軍の中将以上の将官が就任した。また、天皇の傍らには、武官長のほか少佐〜少将クラスの陸軍4人・海軍3人の侍従武官が交代で勤務し、天皇の軍事問題に関する下問に対応するほか、陸海軍の要人、軍機関の責任者との連絡にあたった。

 このうち、侍従武官長の役割は非常に大きく、大元帥・天皇の軍事顧問として、天皇の軍事的判断に影響を及ぼした。昭和天皇につかえた5人の武官長のうち、天皇が皇太子時代から一一年間にわたり武官長であった陸軍大将・奈良武次は、大元帥としての昭和天皇の行動様式を作り上げたと言っても過言ではない存在であった。また、侍従武官には、天皇の目となり耳となって各地に視察に行き、天皇の「聖旨」を伝達し、天皇が直接には赴けないような地方(戦地・植民地)の将兵の士気を鼓舞するという重要な任務もあった。昭和天皇につかえた侍従武官の人数は、皇太子時代の東宮侍従武官が陸軍8名、海軍8名、天皇になってからが陸軍25名、海軍18名にのぼる。

奈良武次

 以上が山田朗氏の記述であるが、特に、政府要人との連絡は「内大臣」を通じて行ったこと、「侍従長」は天皇の活動全般の補佐であり主として海軍軍人がなり鈴木貫太郎侍従長は政務・軍務両面で与えた影響は大きかったこと、「宮内大臣」を通じて財産の管理と皇族・貴族の監督が行われたこと、「侍従武官長」は天皇の軍事顧問とされ陸軍軍人がなったこと、「侍従武官」は細かなところで重要な任務を帯びていたことに、注意したい。

 侍従武官長よりも侍従長のほうが重要な働きをしている。人数においては陸軍のほうが海軍よりはるかに多数であったが、昭和天皇は海軍のほうを重用していたと言える。

 戦前期において昭和天皇につかえた側近たちのうち内大臣・侍従長・侍従武官長の氏名と在任期間、前職は次の通りである。

内大臣
牧野伸顕  1925年3月30日 〜 1935年12月26日  宮内大臣
斎藤 実  1935年12月26日 〜 1936年2月26日  総理大臣、海軍大将
湯浅倉平  1936年3月6日 〜 1940年5月1日  宮内大臣
木戸幸一  1940年6月1日 〜 1945年11月24日  宮内省宗秩寮総裁
侍従長
徳川達孝  1922年3月22日 〜 1927年3月3日   大正天皇侍従長
珍田捨己  1927年3月3日 〜 1929年1月16日  東宮大夫、駐米、駐英大使
鈴木貫太郎 1929年1月22日 〜 1936年11月20日  海軍軍令部長、海軍大将
百武三郎  1936年11月20日 〜 1944年8月29日  海軍大将
藤田尚徳  1944年8月29日 〜 1946年5月3日  海軍大将、明治神宮宮司
侍従武官長
奈良武次  1922年11月24日 〜 1933年4月6日  東宮武官長、陸軍中将
本庄 繁  1933年4月6日 〜 1936年3月23日  関東軍司令官、陸軍中将
宇佐美興屋 1936年3月23日 〜 1939年5月25日  第七師団長、陸軍中将
畑 俊六  1939年5月25日 〜 1939年8月30日  中支那派遣軍司令官、陸軍大将
蓮沼 蕃  1939年8月30日 〜 1945年11月2日  駐蒙軍司令官、陸軍中将

 以上のような昭和天皇のスタッフが、山田朗『大元帥・昭和天皇』に書かれているのだが、そのほかに公的ではないだろうが、天皇のスタッフとして、右翼「玄洋社」の頭山満もいた。頭山満は、昭和天皇の結婚式に招かれており、天皇を裏から強力に支えたのである。したがって、昭和天皇は、表の世界と裏の世界をほぼ完全に支配していたといえる。そのことが未だ広く一般国民に明らかにされていないのは、現在もそれが続いているからであると、考えざるを得ない。

頭山満

 以上で昭和天皇の正体が少しは分かったと思う。このような昭和天皇の性格が、日本現代史の(帝国主義的な、あるいは陰湿な)性格を規定し、決定しているのである。

 そのことを念頭に、日本現代史を具体的に追っていくことにする。

(つづく)