「226」 論文 やさしい日本現代史・日本国は万邦無邦の「デタラメ国家」である(8) 鳥生守(とりうまもる)筆 2014年1月24日

○元号の誤った解釈がもたらすもの

 われわれ現代の日本人はすばらしい元号と出典をもちながら、このように出典に関係ない(出典を無視した)解釈を平然としているのである。それは余りにも身勝手な解釈であり、完全な誤りである。こういう政府や日本の権威ある学者による解釈や、一般に流布されている解釈は、単なる願望や目標になってしまうだけで、それに至るためにはどうすべきかという方針や手段がほとんど感じられず、それゆえ現実的な意味が全くない、ただ言葉の上だけの解釈に終るのである。つまり、薄っぺらな解釈なのである。

 身勝手なただの願望や解釈では、すべてを傍観する態度になり、主体的な態度を失ってしまうことになる。「憲法を守れ」という叫びがただの願望にすぎないならば、それは叫びだけに終ってしまう。しかしどうしたら憲法を守れるかという視点をもっていれば、「日常的に憲法を活かそう」という主体的態度が生まれる。われわれ現代日本人は主体性のない解釈に陥りがちになっており、主体的態度を失っている。政府や学者や指導層の主体性のない解釈や説明は、単に正しいかどうかというにとどまらない、たいへん危険な行為である。それは、国家目標の喪失につながる。事実、日本は国家目標のない国となっている。

○元号は単なる漢字二文字となりはてた

 米国の雑誌は、「昭和」を「輝ける平和」(Radiant Peace)と翻訳した。これは字面だけでの翻訳である。これは、欧米人の歴史の浅さを示している。ヨーロッパ人の学問はルネサンス期から始まった。2000年、3000年のオリエントの学問を受け入れながら、それに挑戦しつつ、あるいは否定しつつ進められた学問だ。それは高々700年でしかない学問であり、しかも排他性の強い闘争的な学問である。それはやはり、どうしても薄っぺらな学問である。それゆえ、アメリカの雑誌記者は表層的に捉えたのだろう。

 しかし、これは日本人が外国人にちゃんと出典を説明し教えないから、そうなるのである。なぜ日本人はそれを教えないのか。それは、実は、日本人も元号に対して、明治の時代から(あるいは、もっとはるか以前から)アメリカ人並みの認識だったからである。年号とは多少気の利いた漢字を並べた、単なる記号であったのである。出展を知っている学者や指導層ですら、出典無視の認識だったのである。日本人自身が、アメリカの雑誌と五十歩百歩だったのである。日本人ははるか以前から真の学問を失っていたのである。

○真の学問のない世界

 真の学問のないところには国家目標は生まれず、国家目標のない国においては、真の学問は育たない。もし真の学問があっても、それは片隅に追いやられ、場合によっては冷酷な弾圧を受けるのである。そのような国家・社会では、偽学問が蔓延し、賞金目当てや収入(所得)増加を目指す学問になってしまう。真の学問は決して賞金や収入増加を求めるのではなく、ただ人々の納得と尊敬と精神的服従を求めるだけである。真の学問は金銭的収入増加を見込まない学問である。真の学問から得られる出世は、精神(権威)上の出世だけである。

 学問が賞金や収入増加を目指すようになると、必ずや偽学問に陥るのである。そこでは、奇抜さ競走や新説競走、受験競争が起こり、学問は戦いの場となる。そこでは、権力者や金持ちに好まれて彼らとつながりを持った学者だけが頭角を表すことになる。その学問は当然のことながら、全国民、全人類のための学問ではなくなり、それによって偏狭奇怪な学問になっていくのである。たとえば、その農薬で野菜を育てるが、その農薬で付近の住民の飲み水が有毒水になる、そういう農薬をつくる農学が好まれて、そういう学問に巨額の研究費が注ぎ込まれていく。現在の日本や欧米先進国の学問は、この状態に陥っている。この偽学問の巨大な組織が、国単位や世界規模で出来上がっている。これがヨーロッパ人の勧めた学問の到達点である。

○真の学問がある世界

 日本の統治者(支配者)、すなわち天皇制の構成員(天皇および皇族、華族、官吏たちと、それに密接につながる大企業、学者、マスコミ人、右翼、左翼などの人たち)が、この賢帝・堯のような、広く一般国民が了解できるような、好(よ)き長期目標を決然として高く掲げ、それに見合った好き政策(手段)を示しながら順次それに真摯に取り組むのであれば、私はその統治者を尊敬し支持する。日本の天皇制(政治)がそうであれば、私はその天皇制(政治)を尊敬し支持する。しかしそうでなければ、私はその天皇制を支持できない。

 民主制(政治)でも同じことだ。長期的大目標をもたない民主制(政治)であるならば、その民主制(政治)は支持できない。長期的大目標を持ちそれに真摯に取り組む民主制(政治)であれば、私はその民主制(政治)を尊敬し支持する。要するに、しっかりとした正しい長期目標をもって取り組んでいるかどうかが非常に重要なのであり、おそらくそれによってのみ、尊重するかどうか、支持するかどうかが決まるのである。それは真の学問があるかどうかでもある。

○真の学問を失った国家

 明治、大正、昭和の我国の天皇制国家は、長期の国家目標を持っていなかった。だから国民の大半は、学問に近づけなかった。それはその時間が持てなかったことと、偽学問が多くて若者たちにとっては学問を見失ったこと、この両面があったからであった。そしてこの両者で後者の理由のほうが、格段に大きな比重を占めている。

 若者たちは偽学問にさえぎられて真の学問に触れ得なかったのである。今も変わりない。学問は(受験)競争の場になっている。競走好きの若者しか、はびこる偽学問を好きになるはずはない。偽学問をいくらこなしても、真の学問に至ることはない。

○学問なき国家は戦争を目標とする

 このように日本の天皇制国家には真の学問はなく国家目標はなかったが、実は秘めた国家目標があった。それは(隣国の独立や国防の名を借りながらの)中国侵略、これが明治以来の天皇制国家の国家目標である。このような目標は、そのまま公表はできない。これは英米の協力・支援によって、日華事変(支那事変:1937〜1941年)の1938年ごろまではなんとか成功した。

日華事変(支那事変)の様子

 「朝鮮独立」「ロシアの不義」「暴支膺懲」などと、領土を攻められたわけでもないのに中国で戦争を仕掛けた。ただ相手国が悪いとか不正義だと決め付け、それを理由として戦争を始めるのであった。しかし中国は広いので、太平洋戦争にはいる前には、すでに戦線は行き詰まり、膠着(こうちゃく)した。そこで今度は、天然資源・鉱物資源を求め、「自給自足的国防国家の建設」を語り、東南アジアへの侵略を大目標にした。それが太平洋戦争(大東亜戦争)であった。

○不思議な、歪む作戦

 しかし不思議なことに、東南アジアへの侵略であるはずなのに、その火蓋はハワイ真珠湾奇襲攻撃、すなわちアメリカ領土への攻撃であった。おかしな話だ。実に不思議な話である。攻撃は成功し勝ったというのに、しかも、同時にアメリカに対して宣戦布告をして対米戦争の意志を明確にしたにもかかわらず、ハワイを占領しようともせず、その時の攻撃隊である連合艦隊は全部、のこのこと負けた如く日本へ引きあげて来たのである。

真珠湾攻撃の様子

 おかしい、実に不思議な作戦である。それでも、皇族や華族、陸海軍や政府、議会(貴族院、衆議院)など日本の指導層は、何の不思議も感じなかった。「成功」したことに、ほっとしたのだろう。それだけ、「対米戦争」に重圧を感じていたことでもある。

○侵略戦争は敗戦(破滅)まで続く

山県有朋

 このように天皇制は、中国侵略、次いで東南アジア侵略を大目標とした。日清戦争の末期に陸軍大臣となった山県有朋は、戦後の軍備充実をうったえて、「そもそも従来の軍備は、もっぱら主権線の維持を根本としたものであった。しかし今回の戦勝を効果的にし、進んで東洋の明主となろうとするなら、かならずまた利益線の拡張を計らなければならない。ところで現在の兵備は今後主権戦を維持するにも足りない。まして利益線を拡張し、東洋の覇者となるには足りるはずもない」と、軍制改革を上奏している。(隅谷三喜男『日本の歴史・大日本帝国の試煉』)

 ここにおいて、山県が何をもって主権線や利益線といっているのか不明であるが、東洋の覇者となるのが国家目標であるといっており、それに向けた軍備をしなければならないといっている。日清戦争の直後なのに、もう更なる軍備拡張なのである。この明治の元勲の一人山県有朋は政界や陸海軍に数多くの後進を育てた。だから、この山県の個人的言葉は、すなわち「明治大帝」および大日本帝国の意志そのものと化すのである。これが昭和の太平洋戦争まで続くのである。

○国家目標なき国家

 しかし当然ながら、これらの(戦争という)目標は表向きに明言できるものではない。だから、それらの日本の行なった戦争は、本当は理由なき戦争だったのであり、それらの国家目標は本当の国家目標と言えるものではなかったのである。だから、明治、大正、昭和の天皇制国家には、国家目標といえるものはなかったのである。

 戦後の象徴天皇制、すなわち現在の日本も、国家目標と言えるものはない。世界平和とか貿易立国とか、願望らしきことは言ってきたが、結局それらはせいぜい願望論に終った。学問のない(偽学問だけしかない)国だからである。それらの願望は一時的に実現したかのようであっても、真の学問がないので、あっという間に消えてなくなるのである。いろんなことを願望してきたが、時とともにそれらの願望は現われては消えていく有様で、今では何を願望しているのか、分からなくなっている。日本は元号制をとって古今に通じた文明国であるらしく装っているが、日本には明治以後今まで、国家百年の大目標や大計画がない。日本は情けない国なのである。

 ただし、英米の欧米先進国にも国家百年の国家目標をもつ国はない。日本が真の国家目標を持ってこなかったのは、これら英米先進国を学び、彼らに誘導されたからである。

 しかし、中国やロシアには長期国家目標があるのかもしれない。それら西側以外の国々の実態は、西側メディアによって情報遮断されているので、われわれはなかなか知ることはできない。信用できない情報はあるが、真の情報が足りない。

○石原莞爾の描いた国家目標

 腰痛になったとき、揉んでもらえば気持ちよくなり、治った気分になる。しかしすぐにまた痛くなり、また揉んでもらうことになる。その繰り返しになる。つまり、腰痛は治っていないのである。ところが、ラジオ体操(特に、体を前後に曲げる運動とか体をまわす運動とかのところ)を正しくして、腰の筋力を鍛えると、腰痛はさっぱりとなくなる。このように自分の体を正しく整えると、揉んでもらうということや医者の世話になることがまったく必要なくなる。

 それと同様に、他国がどうのというより、自分の国がどうなっているかが、本質的に重要な問題だ。他国のことは参考までのことにすぎない。自国を整えることが、もっとも大切なことである。

石原莞爾

 石原莞爾は、欧米は覇権国家で、アジアは王道国家であると考え、王道国家の代表国日本が、覇権国家の代表国アメリカに勝つことによって、世界の戦争は終ると考えた。その戦いが石原のいう「世界最終戦争」であった。日本はそれを目標に努力・準備しなければならないと考えた。

 現実の歴史は、その準備が全くできていないうちに、日本は日華事変(支那事変)を起こし、さらに太平洋戦争(大東亜戦争)を起こし、惨敗を喫した。日本としては、何の準備もなしに、そして王道国家を代表するという確認なしに、言わば「世界最終戦争」を行ったのである。それは日本国家(大日本帝国)の事実上の破滅であった。

 石原の頭の中の構想では、アジア(中国)へのこれ以上の膨張を避け、アジアの国々と仲良くして同盟し、産業を起こし国力をつけ、戦力的に欧米を上回って勝つ見込みができたとき、欧米の覇権主義を倒し、欧米の国々も平和に暮らせる国にするようにする、それが目標だった。戦力が整うまではアジアは防御に専念しながら平和産業と軍事産業を育てる、というものだった。基本は、普通の(平和)産業を育てながら、その余力の範囲内で軍事産業を育てることである。

 この王道主義を貫けば、いつかは覇権主義に勝てるという考えである。しかし、現実は日本が準備のないまま性急に対米英戦争に突入したのであって、それゆえに覇権国アメリカが勝った。戦史研究家の佐治芳彦は「この石原の軍事科学的予測が的中しなかったのは、陸軍のアンチ石原派の梅津美治郎、東条英機、武藤章らが強引におこした日中戦争と、その結果としての早過ぎた日米戦争のためであった」(太平洋戦争研究会『石原莞爾と満州事変』)と述べている。

 なので、その後約70年間、覇権国家アメリカ主体の不正義な戦争が定期的に起こっている。だから、世界には戦争が終っていない。そのアメリカは年を経るとともに、益々不正義な国家になってきている。覇権国家が存在する限り、戦争はなくならないのである。

 石原莞爾のいう王道国家は、高らかに公言できる長期(平和)国家目標を持っている国家である。そういう国家であれば、それを継続すれば、50年とか100年後にはどの覇権主義国家にも負けない、そしてそれらに勝てる国家になる。だから、日本がそういう国家になるべきである。それは「昭和」と元号にふさわしい国家である。石原は、自分のこの考えが天皇およびその周辺に理解され受け入れられると考えていた。

 ところが、日本の天皇制国家は、その石原の思想を容れなかったのである。ここに、石原莞爾の誤算があった。日本の天皇制の中心グループの人々の中で、石原の思想に理解を示した実力ある人たち、むやみに中国と戦争すべきではないと考えた人たちは、次々と要職を追われた。二・二六事件前後に要職を追われた人々である。

 天皇およびその周りの人々には、石原のいう王道主義を全く理解せず、明治、大正以来の覇権主義に流される人々が残った。二・二六事件で死刑になった青年将校や真崎甚三郎・勝次兄弟などが、王道主義を理解でき、当時の情勢(満州事変後から日華事変直前まで)のなかで、膨張を停止すべきという思想の持ち主だった。石原莞爾は、日華事変の戦火拡大に反対したので、要職を追われて予備役にまわされていった。

 上述の佐治芳彦は前掲書で、「石原は二度と軍の中枢に復帰できなかった。太平洋戦争については、不敗の戦略を抱きながらも、海軍の拙劣な戦略に引きずられた東条首相や参謀総長杉山元らが、石原の再起用に否定的だったため、それも生かせなかった」(太平洋戦争研究会『石原莞爾と満州事変』)と述べている。傾聴に値する言葉である。

 昭和天皇は、梅津美治郎や東条英機、武藤章、杉山元らを選択、登用したのである。それら、およびその他において、昭和天皇の選択が、敗戦(国家破滅)の最大の原因だった。

(つづく)