「227」 論文 やさしい日本現代史・日本国は万邦無邦の「デタラメ国家」である(9) 鳥生守(とりうまもる)筆 2014年2月7日

○石原莞爾の実践、実績

 この石原莞爾という人はどういう人か、ここですこしみてみる。以下は、少し長い引用になるが、大谷敬二郎『皇軍の崩壊』からである。

《 (昭和6年9月18日勃発の)満州事変の計画とその遂行は作戦参謀石原莞爾を中心として進められた。(引用者注、一般に、そのように、首謀者は石原というような表現が用いられている。といっても、作戦参謀とは司令官らからの求めに応じて作戦を考案すること、それだけが任務である。作戦参謀には作戦を考え提出する以上の権限はない。その戦闘を開始するかどうか、その実戦でどの作戦を採用するかなどは、司令長官や統帥本部長、ひいては大元帥・天皇などが決めることである。したがって正確に表現するならば、「満州事変には、作戦参謀石原莞爾中佐が案出した作戦が用いられた」というような表現が正しい。このような不正確な歴史表現は歴史の歪曲につながる。歴史を見るには、細心の注意が必要である。満州事変そのものは、翌昭和7年5月には終結した。)そして翌昭和7年8月の定期異動では、関東軍首脳は総がわりとなった。(引用者注、満州事変という大きな出来事がありながら、その直後に関東軍首脳を総がわりにしたというのは、おかしい。日本国は、国際連盟や世界に向かって正面から堂々と、満州事変の正当性を説明できなかったからだと思われる。米英などは、結局はそれを許した。)石原中佐は陸大教官に転補され、松岡洋右の国連全権団の随員として、石原はジュネープへ行った。その松岡全権団は、昭和8年2月24日国際連盟臨時総会で、その議場を退場して日本の孤立化をもたらした。帰朝後間もなくの昭和8年8月、大佐となって仙台の歩兵第四連隊長に就任した。師団長は東久邇宮中将であった。そこで彼は昭和10年8月、林陸相人事により参謀本部第二課長になるまでの、約二カ年を、この連隊の統率に任じたのであった。
(略)そこでの石原連隊長の統率は見事なものであった。軍隊の形式主義、官僚主義を打破して、いわゆる石原流の統率に終始した。とくに、「兵」を愛し軍隊を楽しい軍隊家庭、居心地よい軍隊づくりに専念したことは、高く評価されている。(略)
 仙台連隊といえば、宮城県の農村子弟を主として徴兵としてうけ入れている。これがためこの連隊には「農事講習会」がもたれた。そして農村自治の立場からその講習は、果樹、園芸、農産加工、養蚕にまでおよんだ。さらに、これが実地演習として、営内およぴその周辺地区に模範農園がつくられ、やがて、そこからは、見事な野菜が収穫されて、兵の食膳をにぎわしていた。
 また、こうした農民兵には、野外演習などの場合、地方の農作物を荒すことが厳禁されるだけでなく、農繁期には農事休暇が満遍なくあたえられていた。さらに、その頃農村経済は不振で農村は困窮していた。石原はこうした情況において農村の負担を少しでも軽減しようと、長い間の習慣だった、兵隊たちの除隊みやげ≠廃止させた。(略)各中隊ごとにアンゴラ兎を飼育させ、除隊時には、すべてこの兎を「みやげ」に持ちかえらせることにしたというのである。
 こうして、この石原連隊は、軍人の鍛錬場であると同時に、農業学校農民道場の一面をもっていたといえよう。それは、軍隊生活を通じての優良なる農民の育成であった。このため、ここでは、連隊とその郷土民との関係も、きわめて良好であった。毎年行なわれる連隊の軍旗祭には、官民とくに兵隊家族や傷痍軍人を招く。このことはいずれの連隊でも行なわれる年中行事であったが、ここでの昭和十年のそれには、一般人の来隊者五万人をこえたというし、なかには営内に宿泊してかえるものもあったという。軍隊と国民との結びつきは、郷土連隊とその郷土に住む人々との交流から、そのきずなはできる。石原連隊のそれは、まさに、兵農一体、軍民の一体姿であった。
 石原大佐のこうした連隊統率は、その半面「実戦第一」であった。その訓練はきびしいものであった。後年、彼は師団長としての弟十六師団(京都)の統率も、対ソ戦に備えての猛訓練は徹底し、その団下の連隊長たちを驚かし、やがて、石原畏敬とかわっていったものだが、それにしても石原の連隊統率ぶりは、依然、極度に形式を重んずる軍隊にとっては一服の清涼剤であった。石原は身をもって「軍民一体」を実践した先覚であった。 》(大谷敬二郎『皇軍の崩壊』)

 「楽しい軍隊家庭」「居心地よい軍隊づくり」「農事講習会」「模範農園」「農業学校」「農民道場」「軍隊生活を通じての優良なる農民の育成」「軍隊と国民との結びつき」「兵農一体」「軍民一体」「実戦第一」「きびしい訓練」、このように、石原にとって、「きびしい訓練」と「農民の育成」は不可分一隊のものであった。

 このように、石原莞爾は王道主義を言葉だけではなく、身をもって実践できる人物であった。(その上軍事作戦もすごかった。)石原が描いた理想モデル国家満州国は、このような原則のものであった。それは2・26事件(1936年)の前に実証されていた。しかし、昭和天皇や政府、陸海軍はこの石原の才能と実力を生かすことがなかった。もし生かしていれば、2・26事件は起こらずに済んだだろう。

○鈴木貫太郎の官尊民卑思想

鈴木貫太郎

 当時の侍従長・鈴木貫太郎は、石原の思想と反対であった。鈴木は「いやしくも国家が外国と戦争する場合、後顧の憂い(たとえば、農村の疲弊)があるから戦いができないというような、弱い意思の国民なら、その国は滅びても仕方があるまい」という、民衆(民草)の暮らしを一切顧みることのない、民衆を酷使して恥じることのない官尊民卑(かんそんみんぴ)思想であった。それは覇権主義(悪政)の思想でもある。

 昭和天皇はこの鈴木貫太郎のような人々を重用した。2・26事件(1936年)で鈴木は襲われたが、反乱将校の温情で一命を取り留めた。2・26事件の後、官尊民卑思想による粛軍(軍隊の粛清)が激しく行われた。そのような粛軍がほぼ終ったころ、1937年の日華事変(支那事変)が始まり、日本は1945年の敗戦までの全面戦争に突っ走ることになる。昭和天皇は、石原の王道主義(善政)の実践を知っていたはずである。しかし、それを採用せず、捨て去ったのである。

 王道主義であれば、国土防衛の軍事力で済むことになり、中国侵略はなかったはずである。日本が帝国主義(覇権主義)戦争へ向かい、国家破滅に向かうのは、この天皇の選択によって決まるのである。昭和天皇は、明らかに鈴木貫太郎のような官尊民卑思想、棄民思想を選択したのである。

○「明治」という元号

 それはともかく、「昭和」という元号は、中国の王道主義の古典が出典であった。「明治」「大正」「平成」も、それらの出典は中国古典である。それをみてみよう。

 「明治」という元号の出典は、『易経』「周易説卦伝」の「聖人南面而聴天下、嚮明而治」からである。

《 (略)これをさらに細説すれば、万物は震(しん)において生れるというのは、震は東方であり、陽気が始めて発する春だからである。巽(そん)において形が整うというのは、巽は東南であり、整うとは万物の潔斉(鮮明整斉――きちんとはっきりそろうこと)することの意である。離(り)は明らか、万物がたがいに成長してその姿を示しあうというのは、離が南方の卦だからである。聖人が南面して 天下の政治を聴き、明るい方向に向って治めるというのも(聖人南面而聴天下、嚮明而治)、つまりはこの卦の意義にのっとってのことである。坤(こん)とは大地のこと、万物はみなその大地から養いを受けるから、本文には坤に致役(ちえき)す(養いを受ける)といってある。兌(だ)は盛秋・実りの時で、万物がその成熟収穫を悦び楽しむ。だから本文には兌に説言(えつげん)すと言ってある。(略) 》(高田真治・後藤基巳『易経・下』「易説卦伝」)

 出典は、万物が互いに成長してその姿を示しあっている、そういうものに面して(南面して)、政治を聞き治めること(聖人南面而聴天下、嚮明而治)を言っている。明治天皇および明治天皇制国家ははたして、この出典のように、すべての国民を成長し合うようにさせ、その人々の声を聴きながら、政治を行ったであろうか。

○「大正」という元号

 「大正」という元号の出典は、『易経』「周易上経 臨」の「大いに亨(とお)り貞正を得るのは、天道の自然である(大亨以正、天之道也)」からである。これは前後の意味が私には分かりにくいので、それをここには書かない。がしかし、それに続く文が「君子は民に臨む道を考え、民を教え導くこときわまりなく、民を包容し保護することかぎりないように心がける」となっている。したがっておそらく、「天道」はそのような意味につながるのはまちがいないだろう。そのような政治が大正時代の政府にあっただろうか。

○「平成」という元号

 「平成」という元号は、出典は『書経』の「大禹謨」の「地平天成」からである。

《 禹は言った。「ああ、帝よ。いまの益の言を心にとどめて下さい。帝王の徳は、個人としての善行に限られるのではなくて、民に善政を施すのも王者の徳であります。その政治の目的は、民の生活を豊かに養うことにあります。水火金木土と敷物の六者は、万物の生きてゆく基礎となるものでありますが、これを過不足なくあんばいしなくてはなりません。そのうえ、教育によって民の徳を正すこと、道具を作り、物品を流通させて民の生活を便利ならしめること、衣類・食塩を豊富にし不足なからしめること、この三つのことを円滑におこないます。前の六者とこの三つ、合わせて九つが順調に人々の間にゆきわたると、民はその九者の恩恵を讃えて歌いましょう。さらに、努力を惜しまぬ人には教えさとして一層立派な仕事をするよう誉めあげ、怠る者にはあやまちを正しておどしつけます。そして民の歌う静め歌を、うたい広めて絶えず激励し、さきの日の成功が永久にそこなわれることなきようにいたさねばなりません」。帝、「そのとおりである。さいわいに洪水はおさまり、天下の水陸ともに平穏となり、万物はそれぞれの成育を遂げている(地平天成)。生活の基礎である六者も、我々のなすべき仕事である三つのことも、共にうまくいっている(六府三事允治)。万世の後までもがこれを頼りとするであろうが、これも汝の功績によるものであるぞ」と。 》(吉田茂夫『書経』「大禹謨」)

 出典は、民を教化し、民の生活を豊かにすると、「天下の水陸は平穏となり、万物はそれぞれ成育する(地平天成)」ということである。要は、民の生活を豊かにし、民を(なんでもかんでも、やたら競走させるのではなく)正しく教育することである。現在の平成日本の政治が、この出典のいうように行われているであろうか。

 なお、「平成」という元号が法的根拠を持ったのは、1979年(昭和54)6月、大平正芳内閣によって定められた元号法によるという。その元号法は次のように2項からなり、日本の法律の中でもっとも短い法律である。

《 元号法
(昭和五十四年六月十二日法律第四十三号)
1  元号は、政令で定める。
2  元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める。
附 則
1  この法律は、公布の日から施行する。
2  昭和の元号は、本則第一項の規定に基づき定められたものとする。 》

 1945年(昭和)の、敗戦後における一連の旧法廃止によって、実は元号は法律的には無効だったというのである。しかし現実の社会は成文法のみで成り立っているのではない。そういう考えは、不文法を一切認めない、成文法以外は一切認めない、そういう思想である。これは、成文法のみで成り立つ社会にしようという考えであり、そんなことは不可能である。それは不自然で危険な、間違った考えである。

 普通の成文法などより、中身のある不文法(慣習法)のほうが、ずっと価値があるのである。

○日本の天皇制が元号を採用するのは自己矛盾の行為である

 日本の天皇制は、元号(年号)を中国古典の統治論から採りながら、その出典の統治論とは無関係な統治を行ってきた。それは今も変わらない。そして、日本の天皇制には、統治権が万世一系の皇統とか、三種の神器の継承者とかによって正当とされるだけで、その外装としている元号の統治論が正しくおこなわれているかの問いは完全にぬけているのである。

 元号「昭和」も、時に出展が語られるが、それは単なる外装であり、統治理論的、国家理念的にはまったく無意味な、単なる二文字漢字記号に過ぎなかったのである。江戸時代もそうであった。日本の天皇制は、そして江戸幕府も、統治理論や国家理念なき国家であり政府だったのである。日本の政府が、儒教的な元号を用いるのは、矛盾した行為である。昭和の改元を分析してみると、そのようなことが分かる。

 大内力は、前掲書で次のように書いている。「(「昭和」という)こんな結構な元号と歴史の現実とが、これほど見事に反対になったことも珍しい。一握りの金持ち<華族、官吏>や軍閥を除けば、万民がとたんの苦しみをなめ、そして万邦は血で血を洗う戦いをくりかえしたのが昭和の前半期だった。」「大正時代もその後半は明るい時代とはいえないが、昭和は、特にはじめの20年は、まさに暗黒の時代であり、動乱の時代だった。」(大内力『日本の歴史・ファシズムへの道』)まさにそのとおりである。このようなおかしなことが起こっても、何の不思議もないのである。起こるべくして起こったのである。

 日本では、元号は枢密院で慎重審議の結果決定された。すなわち国家の最高レベルの識者を集めて決定するのである。それを新天皇が承認して最終的に決定する。ところが、その元号の意味を政府や国民は知らず、そのうえ、その元号と現実が全く異なるのである。そんなことでは、日本国は何のために元号を制定するか、という疑問がわく。

大正天皇

 ともかくも、大正天皇が48歳の若さ(なぜこんなに若くして亡くなったのか、不思議である)で1926年12月25日に崩御され、その日から「昭和」が開幕したのである。昭和元年はわずか一週間にすぎなかった。したがって昭和の歴史は、事実上、昭和2年(1927年)からスタートすることになった。

 元号の話は一応以上で終わりであるが、天皇の崩御、新天皇の践祚、年号の改元には、「大喪の儀」と「即位の大礼」が不可分のものとして続く。したがって、それらを追っておかなければならない。

(つづく)