「229」 論文 やさしい日本現代史・日本国は万邦無邦の「デタラメ国家」である(11) 鳥生守(とりうまもる)筆 2014年3月7日

○猪瀬の一見もっともらしい歪曲歴史観

 なお、われわれ国民は、猪瀬直樹の上記引用のなかの「新元号ができて今までつづいてきた時間が別の時間になる。それから、お葬式がイヴェントとしての昂奮みたいなものを伝える。なにか別の時間と空間に移行したような錯覚が生じるのではないでしょうか」という言葉には十二分に注意すべきである。

 これは事実上、天皇の崩御(および改元・大喪・大赦)によって時代が転換するのだと言っているのである。そして「いずれにしろ、恩赦、大喪、改元を、僕は天皇崩御の三要素と名付けました。そういう天皇崩御の三要素によって、大蕩尽が訪れ、気分が入れ替えられるということですね。ひとつの祝祭空間が、国家的規模で出現するわけです。どうでしょう」(猪瀬直樹『ミカドと世紀末』)というのである。一見、知的で、もっともらしい、かっこいい理論である。

 しかし天皇の崩御によって時代が転換するわけがない。時代はその社会を構成する人々の行き方の総計である。そのことをきちんと見ないでいい加減にしておくと、通俗歴史観に陥ってしまう。猪瀬のその言葉は、史実を隠蔽し歴史を歪曲する通俗歴史観をもたらし、その通俗的な偽装歴史観を人々に注入させるための言葉である。

 猪瀬は今、東京都知事である。人気があると思えないが、都知事選史上トップの得票で当選した。今、選挙資金問題で、苦境に立っている。マスコミは極力、猪瀬をかばっている。

猪瀬直樹

○即位の礼

 ウィキペディアによると、「即位の礼(即位の礼)は、天皇が践祚(せんそ)後、皇位を継承したことを内外に示す儀典で、最高の皇室儀礼とされる。諸外国における戴冠式にあたる。即位式(そくいしき)の後に、五穀豊穣を感謝し、その継続を祈る一代一度の大嘗祭が行われる。即位の礼・大嘗祭と一連の儀式を合わせ御大礼(ごたいれい)または御大典(ごたいてん)とも称される。明治以降、他の重要な皇室慶弔行事と同様に、即位の礼の日は、その年限りの祝日となることが慣例となっている。大正天皇と昭和天皇の時には勅令により、今上天皇の即位の礼の時は法律によって、祝日として定められた」とのことである。

 昭和天皇の即位の大礼は、11月10日に行われた。大嘗祭は、明記されていないが、その11月14・15日に行われたようだ。また、ウィキペディアでは、即位の礼は1月17日の「賢所に期日奉告の儀、皇霊殿・神殿に期日奉告の儀」から始まるとも記されている。この即位の礼も、われわれ一般には実はよくわからない。本当は専門家たちも考え方が統一されていないだろう。どうも勅令などで休日となる「即位の礼の日」の儀式が、国民や諸外国向けに行われる儀式として位置づけられていると思われる。そのほかは、皇室内部の儀式だと思われる。

○昭和天皇の御大典

 とにもかくにも、1928年11月に、昭和天皇の即位の大礼と大嘗祭の一連の儀式が行われたのである。そしてその即位の大礼の日はその年限りの祝日となり、全国的に盛大に祝われたようである。(ところで、「即位の礼・大嘗祭と一連の儀式を合わせ御大礼(ごたいれい)または御大典(ごたいてん)とも称される」とのことだが、即位の(大)礼のみを御大典と言う人々も多かったようである。ここでも言葉があいまいである。)そして大嘗祭は、皇室内部の儀式のようである。

《 明けて一九二八年(昭和三)、一年間の諒闇(天皇の両親が亡くなって行う喪のこと)がとけて、新天皇の即位式がおこなわれることとなった。即位の大礼および大嘗祭は、皇室典範の定めにより京都でおこなわれる。時の田中義一政友会内閣は約一一か月の準備期間、一六〇〇万円の経費をかけて、同年一一月一〇日、京都の御所で即位の大礼を挙行した。この日、皇族をはじめ東郷平八郎元帥・西園寺公望公爵・田中首相ら功臣・大官二千数百名、また、各国の外交団が参列した。この御大典に、日本国民はわきたった。それまでの重苦しい空気を吹き飛ばすかのように、国民は熱狂したといってよい。  明治神宮には十数万人の参拝者が訪れた。夜になると、東京全市には、街から街をねり歩く提灯行列がつづいた。花電車がくりだされ、銀座から上野・浅草へかけて、夜の人出は最高潮に達した。翌日の『朝日新聞』は「銀座ではいつものモボ、モガ連は探しても姿を見せず、家族連れの人々で街頭を占領された」と報じている。儀式のおこなわれた京都では、それを上まわる人出であった。 》(中村正則『昭和の歴史・昭和の恐慌』)

 その京都での祝いの模様はどのようであったのか。奉祝で賑わう京都府民は晴れ着に身をつつみ,獅子舞を楽しむ人々があり、山車や火焔太鼓・鳳凰を飾った花電車も出て,街は人波でうずまったという。そのころ京都三条通大宮にある染織屋に徒弟として奉公していた三輪信太郎は後年、御大典の思い出を、つぎのように記しているという。

《 当時、猫も杓子も御大典御大典である。私は当時、数え十三歳であったから猫か杓子に相当するが、毎日毎日御大典御大典と言ったものである。着物の柄は勿論、銭湯ののれん、おでん屋の提灯等何もかも鳳凰の鳥や焔付の太鼓(火焔太鼓)が大きく書かれていた。挙式そのものは私達に無関係に行われたが、その後に御所の一般参観があった。京都の人は勿論、地方から沢山の人が拝観に来た。
 私も家族と共に参加したが、拝観所へ入る迄が大変である。大勢の参観人があり、広い御所の中を、列についてグルグルグルグル蛇行である。今の表現で二粁以上は充分歩いた。やがて拝観の地域に入り、紫宸殿の高御座(儀式のとき天皇が座った椅子)が見えると、荘厳な雰囲気になる。一同は合掌しお祈りをする。私も神様に相対した様な気持ちで合掌しお祈りをした。椅子を神様である事を疑う人は一人も居ない様な光景であった。
 「御大典記念の踊り」と言うものがあったが、此れが又スバラシイ。一般市民が家族、或はグループで、思い思いの派手な長襦袢(じゅばん)の様な踊り用の衣裳を着て「ゴタンテンヤ ホイ」「エライヤッチャ ホイ」と、各人が口々に叫び乍ら、各自思い思いの手振り足振りで街中を踊り歩くのである。私も主人其の他と共に参加した。夕刻大急ぎで仕事を終り、踊りに出して貰えた。(中略)
 男も、女も、老いも、若きも、興奮して踊る大衆で、広い円山公園の中は厖大な渦であり行列の卍巴(まんじどもえ)である。
コタンテンヤ ホイ
バンザイバンザイ ホイ
エライヤッチャ ホイ
御大典ムードの最高潮であり、熱狂のルツボである。叫び、且つ、踊り、其のムードに陶酔の後、深夜の街を帰路につく。
 今想い返すと不思議でならない。御大典の前も其の後も、火の消えた様な深刻な不況時代であった。不況と書けば二字であるが、経済的に生活権も脅かされ己が計画や生命維持さえも自信の持てない暗い時代と、私は体験から感じている。其の時代の中で、御大典の時のみ、他に経済的に明るい理由もなく大衆が馬鹿騒ぎしたのは、何故であろうか。リーダーの笛や太鼓の力の偉大さか? 新しい天皇に大衆は総てを賭けて居たのだろうか。其の時私はまだ子供であり何も解らなかったし、五十歳を越した現在でも不思議でならない。 》(中村正則『昭和の歴史・昭和の恐慌』)

 この三輪信太郎は、東京の国立市公民館で、中村正則が担当した市民大学歴史ゼミナールの受講生の一人であって、この思い出の文章は、そのときの受講生の主婦たちがつくった『日本近代史の学習』(1969年)に収録されているものだという。

 その即位の大礼を、猪瀬直樹は前掲書で次のように描いている。

《 猪瀬――(略)国家的な祝祭空間ができるというのは、大正天皇が死んだときのことを調べてつくづく思ったんです。『ミカドの肖像』に書いたんですが、今度は昭和の天皇が即位するときにすごいお祭りをする。えらいやっちゃ、えらいやっちゃという感じで踊り狂うんだから。ジャーナリズムが一体となってやるわけですけれども、踊り狂うというのはすごいと思うんですよね。
――踊るというのは、本当に踊ったんですか。
猪瀬――当時の新聞記事には「えらいやっちゃ、えらいやっちゃと乱舞乱舞」とかかれています。民衆は踊り狂った。これは大変なことだと思うんだな。〈ええじゃないか〉を思わせるぐらいに熱狂する。即位は昭和三年の十一月なんですけれども、その即位もまた大祝祭空間になるんです。近代国家の光景としては不思議というか、妙なんですね。フロックコートがある一方で十二単衣(ひとえ)があり、また黒塗りの高級車と平安時代の牛車(ぎっしゃ)がある、という具合ですから。あらゆるものが登場して、混沌としたなかに猥雑なエネルギーを感じさせられるんです。 》(山口昌男・猪瀬直樹『ミカドと世紀末』)

田中義一

 即位の礼(御大典)は、時の政権の田中義一内閣が経費一六〇〇万円をかけて一年間準備し、全国的に挙行したものである。そしてその中の「即位の大礼の乱舞」は、最大の見せ場だったのである。その乱舞の規模は史上かつてないほどのものだったろう。

 当時13歳の三輪信太郎少年が、荘厳な雰囲気の参拝と熱狂のルツボの「御大典記念の踊り」に、面食らったのも無理はなかったであろう。三輪少年にとっては、経済的に生活権も脅かされ己が計画や生命維持さえも自信の持てない暗い時代に、「御大典の時のみ、他に経済的に明るい理由もなく大衆が馬鹿騒ぎした」ことは不思議なことであった。三輪少年たち一般国民にとっては、心から納得のいく祝祭ではなかった。

○官製の「祝祭空間」

 猪瀬直樹は、その一日の様相を「大祝祭空間」だったと言い、そして「混沌としたなかに猥雑なエネルギーを感じさせる」と言い、その「大祝祭空間」があたかも民衆の自発的行動によって発生したかのように描いている。

 しかしその「大祝祭空間」は、時の政権が巨額の経費を注ぎ込んだので、発生したのである。猪瀬の言うように、新天皇の即位を祝って「大祝祭空間」が自然に発生したのではない。それは明らかに間違った描写である。三輪少年は不思議がったが、それが正しいのである。時の政権であれ誰であれ、このように巨額の金を注げば、このような「大祝祭空間」を作ることは容易に可能なのである。それは官製「大祝祭空間」だったのである。

 猪瀬直樹は、次のようにも言っている。

《 「御大典」は、一連の儀式を数え挙げると、二十八あるとされているが、中心に位置するのは即位式と大嘗祭である。即位式のクライマックスは、京都御所紫宸殿(ししんでん)の高御座から統治者宣言≠ニもいうぺき勅語を読みあげ、総理大臣が国民を代表して「天皇陛下万歳」を三唱するという場面であろう。その瞬間、全国津々浦々で一斉に「万歳」の歓呼が沸き起こる手筈であった。そして、夜を徹して人びとは熱狂したが、そのありさまを新聞は、以下のように報じている。
 「大阪湾碇泊の軍艦三十五隻のイルミネーションは燦然(さんぜん)として昔に聞く筑紫の不知火の燃えたつばかり、その放射する紅、緑、青、朱、白色の探照燈は大空に(略)大阪は忽ちにして不夜城と化した。もみ合い押し合う人の波、人の渦……」「天上寺公園の上空に炸裂する大花火のとどろき、地上には南地北廓の美妓妍を競うて踊り出で、各町内からはどんつく囃子もはでやかに『エライヤッテャ、エライヤッチャ』とどよめき騒ぐ、ああ天地にみちみつる熱狂、熱狂、乱舞、乱舞、乱舞」(大阪朝日、昭和三年十一月十一日付) 》(山口昌男・猪瀬直樹『ミカドと世紀末』)

 11月10日の即位の大礼の日は、当時の田中義一内閣は全国各地津々浦々でお祝いをさせたのである。

 なお、現在の阪急京都本線の前身である新京阪鉄道と、近鉄京都線の前身である奈良電気鉄道は、この昭和天皇即位大典に間に合わせるようにして、それぞれ暫定開業をした。また、1925年(大正14年)から開始されたラジオ放送で、行列を直視しながらの実況は禁止されていたので、音とスケジュールだけを頼りに実況した。

 紫宸殿での式典の際には、各新聞は京都で撮影された写真を東京の本社にファクシミリ(当時は「写真電送機」と読んでいた)で送信し、その写真が掲載された号外をその日のうちに発行することができたが、これによって日本製のファクシミリの技術が大きく進歩するきっかけとなった。翌年の1929年(昭和4年)5月4日〜5日、宮城内旧三の丸覆馬場及び済寧館において御大礼記念天覧武道大会が開催され、武道史上最大の催事となった。このように確かに、官製の盛り上げはすごかったのである。それらが国民の眼から本質を覆い隠すのである。

○明治憲法発布の祝祭

 明治憲法(大日本帝国憲法)発布の日の「祝祭空間」も官製である。

《 「東京全市は、十一日の憲法発布をひかえてその準備のため、言語を絶した騒ぎを演じている。いたるところ、奉祝門、照明、行列の計画。だが滑稽なことには、だれも憲法の内容をご存じないのだ」(『ベルツの日記』二十二年二月九日)
 東京だけではなかった。ほとんど日本中といってよかった。国民は二月十一日にスター卜する近代日本の門出を祝おうとしていた。あいにく日本列島は前夜から雪にみまわれていたが、官民あげてのお祭り熱は、その雪をもとかすほどに高まっていた。
 式典は二月十一日の午前十時半から宮中正殿の大広間で挙行された。その宮殿は、この日にまにあわせるために、六年余の歳月と四百万円ほどの工費(鹿鳴館は十八万円)をかけて新築されたばかりの華麗な和洋折衷の大殿堂であった。玉座はフランスの絶対王ルイ十四世にまねたというだけあって豪華だったが、なにぶん地色が赤で暗すぎた。
 その朝、天皇は宮中の賢所で、まず皇祖皇宗の神霊にたいし告文を奏し、それが終わって軍服に着かえ、正十時半に憲法発布の式場に入り玉座についた。その時、「君が代」が奏楽された。
 天皇の前には、やや左方にむいて諸大臣・高官がならび、そのうしろに華族が整列していた。黒田清隆の紅潮した顔が、大隈・西郷・井上・山田・松方・大山・榎本らの各閣僚のなかに浮きだしていた。森文相だけがみえなかった。そのうしろの華族の列では旧将軍の徳川侯爵や、洋服にチョンマゲ姿の島津公の姿もみられた。天皇の左方は外交団で、広間のまわりのひろい歩廊は他の高官や外国人でうずまっていた。
(略)
 黒田が御前をひきさがると、天皇は一同に会釈し、皇后たちを従えて広間をでていった。このとき、ふたたび「君が代」が演奏され、祝砲がとどろき、市中すべての鐘が鳴り響いた。式はわずか十分ほどで終わったのだ。儀式は終始いかめしく、きらびやかだったが、そこにはなにか空しい、大きく欠けるものが感じられた。そこには、フランス大革命によって人民の憲法が獲得されたときのような、こみあげてくる歓喜も、深い劇的感動もなかった。
式が終わって参列者たちは、帝国憲法・皇室典範・議院法・衆議院議員選挙法・貴族院令・会計法の印刷された全文とその英訳文をいただいて退出した。そこではじめて日本国民もまたその内容に接したのである。
 宮城(きゅうじょう)の外にでると、すでに雪はやんで、町々には百余台の山車(だし)がくりだし、お祭りさわぎは高潮に達していた。しかし、だれも憲法の内容を知ってよろこんでいたのではない。(略)
 中江兆民は、「吾人賜与せらるるの憲法果して如何の物か。玉かはた瓦か、いまだその実を見るに及ばずして、まずその名に酔う。わが国民の愚にして狂なる、何ぞかくのごとくなるや」と書生の幸徳秋水に自嘲したという。
(略)
 その夜、黒田清隆は首相官邸で夜会を主催、内外の高官・知名人をよんでシャンデリアの下、シャンペンをぬき、奏楽にあわせダンスに興じた。そのにぎやかなパーティのホステスは、十年まえ深川小町≠ニうたわれた木場商人の娘タキで、いまは臈(ろう)たけた二十七歳の黒田首相夫人であった。徳富蘇峰はこのとき夜会に招待されて、このパーティの華やかさと黒田首相の意外の社交ぶりに感心している。 》(色川大吉『日本の歴史21・近代国家の出発』)

《 明治二十二年(一八八八年)二月十一日、午前六時。東京の気温は〇・二度。前夜から降りだした雪は止む気配もなく、皇居前をはじめ青山練兵場、日本橋、京橋、永代橋など、奉祝のアーチで飾りたてられた東京の街々を白一色に染めあげていた。
 帝国憲法発布記念式典の挙行される日の朝であった。
(略)
 午前十時四十分、皇居正殿では憲法発布式典が終了。百一発の祝砲がとどろいた。 》(森本貞子『秋霖譜・森有礼とその妻』)

 このように帝国憲法発布式典は、巨額の資金が投じられて催された官製の祝祭であった。お祭りさわぎは最高潮に達し、かつてないほどの賑わいであった。しかし、だれも憲法の内容を知っていて、その上で喜んでいたのではない。それは、おかしなお祭り空間だったのである。こういうのが官製のお祭りなのである。

(つづく)