「230」 論文 やさしい日本現代史・日本国は万邦無邦の「デタラメ国家」である(12) 鳥生守(とりうまもる)筆 2014年3月21日

○昭和天皇の巡幸空間も官製である

昭和天皇巡幸の様子

 1946年(昭和21)2月19、20日、天皇は、神奈川県を巡幸(じゅんこう)した。これを皮切りに、巡幸が続いた。これを表にすると、次のようになる。

1946年1月1日、      天皇、人間宣言。
2月19・20日、   天皇、神奈川県を巡幸。
2月28日・3月1日、天皇、東京都を巡幸。
3月25日、     天皇、群馬県を巡幸。
3月28日、     天皇、埼玉県を巡幸。
4月10日、     戦後第1回の総選挙が実施される。
6月6・7日、    天皇、千葉県を巡幸。
6月17・18日、   天皇、静岡県を巡幸。
10月21〜26日、   天皇、愛知県と岐阜県を巡幸。
11月18・19日、   天皇、茨城県を巡幸。

 天皇は、その各地で熱狂的な歓迎を受けた。

《 天皇は四六年に一都八県、四七年に一府二十二県を訪問したが、各地で熱狂的な歓迎を受けた。「反響は、政府もGHQも予期しなかったほど爆発的であった。群衆は、列を崩して押し寄せ、帽子は飛び、靴はぬげ、老人子供は、押し倒されて悲鳴をあげた。警察官や侍従は、天皇のまわりを固めたが、動くことができなかった。侍従は、財布をすられた。群衆の熱狂に、天皇も側近も驚き、満足し自信を回復した」(升味準之輔『昭和天皇とその時代』山川出版社、一九九八年)。

 四七年六月の京都、兵庫、大阪、和歌山巡幸からは、主要都市に奉迎場が復活し、戦前さながらの光景まで見られるようになった。
(略)
 十万を超える人々が、君が代や万歳を媒介に天皇と一つになる「君民一体」が、各地で再現されたのである。
 東京で革命の恐怖におびえていた天皇は、地方を回るたびに自信を回復していった。同年十二月に訪れた広島では、まだ原爆の傷痕が生々しかったにもかかわらず、五万人もの市民が奉迎場に集まり、君が代を斉唱し、万歳を叫んだ(『広島新史 市民生活編』広島市、一九八三年)。 》(原武史『昭和天皇』)

広島での様子

 このように天皇は各地で熱狂的な歓迎を受けたというが、当然のことながら、この巡幸空間も資金を注がれた空間である。歴史学者たちはそれを明記しないが、そのことにわれわれ一般国民は注意しなければならない。

 結局昭和天皇は、1946年から1954年までに、沖縄を除く全都道府県を回り終えたのである。そして熱狂的な歓迎を受けたという演出がなされたのである。

○「ええじゃないか」も巨額の資金が注がれた乱舞

 また即位の大礼の乱舞は猪瀬直樹の指摘のように、幕末の〈ええじゃないか〉を思わせる乱舞である。討幕を目指す勢力によって、お札が舞い降りたからと言って、「ええじゃないか」踊りの乱舞が民衆に誘導された。ある一定数の民衆がその誘導を受け入れた。全体に対する比率が少なくても、ある程度の人数がいっせいに調子を合わせて踊りだすと、人身に強いインパクトを与えることになる。これで、江戸幕府の威信がまたひとつ崩れることになる。「ええじゃないか」は、英米など外国に通じた次期政権が仕組んだ乱舞だったのである。

○阿波おどりの起源

 「えらいやっちゃ、えらいやっちゃと乱舞乱舞」とは、現在の阿波おどりである。「阿波おどり」という言葉ができたのは、昭和初期であるという。また、阿波おどりの「戦後における復興は目覚しい」という。阿波おどりの歴史は通常400年といわれているようだが、阿波おどりの起源は、実ははっきりしていないのである。だから阿波おどりは、その起源は昭和天皇の即位の大礼であり、その目覚しい発展は戦後の「主権在民」をうたった昭和憲法発布以降からだと考えられる。

○現代の祭りや花火大会、スポーツなどのイベントも官製だろう

 現代の祭りや花火大会は、規模が大きくなっている。どこからそのような資金が出るのか、不思議である。だから、その資金は時の政府から、もっと正確に言うならば、官僚組織によってできている行政組織から、出ているものと思われる。つまり巨額の税金が注がれているのである。それ以外に考えられない。現代の祭りや花火大会、スポーツなどのイベントは、事実上官製であるだろう。税金の注入がなければ、それらのイベントは不可能だろう。

○大嘗祭

 猪瀬は前掲書で、大嘗祭について次のように言っている。

《  さらにクライマックスは、十四、十五日に行われた大嘗祭に架橋されていく。大嘗祭は、皇祖天照大神と一体になるための秘儀≠ナ、この儀式を昭和十七年発行の修身教科書(初等科六学年用)では「実に大神と天皇とが御一体におなりあそばす御神事であって、わが大日本が神の国であることを明らかにするもの」と、説明していた。 》(山口昌男・猪瀬直樹『ミカドと世紀末』)

 大嘗祭は「秘儀」であるという。だから天皇や皇室・皇族しか知りえない儀式である。それがクライマックスだという。秘密事がクライマックスとは、矛盾だとしか思えない。だから学校で教師たちを使っての「解説」で補うしかないのだ。このように、その「解説」があるだけでその実態は秘密であるというものは、すべて偽物である。

 猪瀬はさらに、「『天皇の宗教的権威とは何か』の著者山折哲雄は、(略)かつては、新帝が死んだ先帝の遺骸と添い寝をしたのではないか、と神人共寝による鎮魂の観念を読み取っている」と言っているが、それは好奇心をそそるだけの、国民生活にとっては無意味な言葉である。

 赤坂憲雄は、折口信夫の研究を糸口にして、つまり折口信夫に触発されて、「天皇家は農耕民族ではない異族の出自をもつ人たちなのだ」「天皇霊を穀霊としてではなく、異族を征討して服属を迫る際の呪力の根源としての魂=アラミタマとして規定される。『日本書紀』などに出てくる「天皇霊」に類する言葉は、つねに異族を圧倒したり、他の部族との戦いの場面で自分たちに守護する力を与えてくれるという文脈でしか出てきません」(吉本隆明・赤坂憲雄『天皇制の基層』)と述べている。これを明確に述べれば、天皇はもともと外部からやってきて、日本国民を圧倒し、支配する存在であったというのだ。これは現代史にも通じる、意味のある見方である。

 ということは、天皇は日本国民を守護する存在ではなかったということである。大嘗祭はその「秘儀」であった。そうすると、昭和17年発行の修身教科書(初等科六学年用)の「解説」で、「わが大日本が神の国である」とあるのは、当時の大嘗祭の説明として、あながち間違いではない。日本は「天皇一人だけの国」であったのである。新憲法(日本国憲法)は、これを真っ向から否定したのである。新憲法によって、日本は国民全体の国であると宣言されたのである。

●当時の政治・経済

 では、大正天皇の崩御、新天皇の践祚、改元、即位の礼、大嘗祭が行われていた当時の、政治・経済はどのような状況だったのだろうか。前述の三輪信太郎が思い出として、「御大典の前も其の後も、火の消えたような不況時代」とは、どんな時代だったのであろうか。前掲書の中村正則『昭和の歴史2・昭和の恐慌』などを参考にしながら、私見を交えて、ざっと見ていくことにする。

○日露戦後に続いた長期不況

 1889年(明治22)生まれの石原の原体験は日露戦争であった。多感な十代半ばの時期に、軍人の卵たる仙台幼年学校の生徒として目撃し体感した日露戦争である。そこで、石原がみたものは、

《 銃後の生活は日一日と苦しさの度を加え、至る所に働き手の不足と物資の欠乏と、がめだってきていた。仙幼校においても、はや炊事夫や小使までが次々と召集されてゆき、……兵舎内はもう老兵ばかりだ。……そして教練には銃はもちろん木銃さえが少ない。軍服も靴も少なく、全く人も物も一切が瀬戸際に立っていた。(藤本治毅『石原莞爾』三〇頁) 》

ということだった。このような敗戦国のような状態であったので、日本は実力で勝ったといえず、だから戦費の賠償金をロシアから取れなかった。

 結局、日露戦争は、大日本帝国に大きな長期不況をもたらしただけとなった。

《 日露戦争後のブームもつかのま、日本は慢性的な不況に見舞われていた。政府は、日露戦争いらいの公債負担と軍事費の増加による財政難になやんでいた。とりわけ、明治三十六年に一億円そこそこだった外債は四十四年末には十六億円をこえ、四十五年度の外債元利支払は七千三百万円、それに海軍省の海外経費二千万円が見こまれていた。しかも貿易は輸入超過がつづいた。政府・日本銀行の手持正貨は、紙幣発行準備の二億二千万円をあわせても三億七千万円で、兌換停止の危機さえ噂されていた。
 日露戦争中に課せられた非常特別税は、戦後は恒久税にくりこまれ、塩の専売や酒税の増徴による大衆課税もつづいた。不況のなかで生活難にあえぐ民衆は、弾圧をおしきってあちこちでストをおこしていた。実業家のあいだからは、行政・財政の整理と減税を要求する運動がおこり、しだいに軍国主義批判の方向に傾いていった。全国商業会議所連合会では、軍事費は非生産的だとして、これに歳出の大半をつぎこむ財政のあり方を批判した。(略)
明治四十四年の第二七議会では、専制政治にたいする非特権資本家や中間層の反感を反映して、普通選挙法案がはじめて衆議院を通過した。しかし、それは貴族院で全会一致で葬られ、さらに政党でも党内の普選運動をおさえた。 》(今井清一『日本の歴史23・大正デモクラシー』)

 日本は日露戦争後の10年間不況にあえいでいた。しかし他面においては、そこでは国民自立思想の萌芽が生まれつつあったのである。

○日露戦後の不況中の恵みとなった大戦景気

 そこに第一次世界大戦(1914年7月28日〜1918年11月11日)が勃発した。その大戦の勃発は、「大正新時代の天佑(てんゆう)」(井上馨の言葉)といわれたように、日露戦後の不況にあえいでいた日本経済に、旱天の慈雨のごとき経済的恵みをもたらした。(しかしその恵みは、新たな狂いの出発点になった。)

 ヨーロッパの交戦諸国が世界市場から後退した間隙をぬって、日本のアジア各国むけの輸出は急増した。さらに、英・独などの交戦諸国への軍需品その他の輸出も順調に伸びた。日本はいっきょに輸入国から輸出国に転じ、1915年(大正4)から1918年までの4年間の輸出額合計は54億円にまで達し、それ以前の10年分の貿易額に匹敵した。1914年に約11億円の債務国であった日本は、大戦後の1920年には、27億7000万円の債権国になっていた。

 事業の新設ならびに拡張も非常な勢いですすんだ。なかでも、工業の躍進はめざましい。工業生産高の伸びを、大戦の勃発した1914年と終戦の1918年とで比較すると、わずか5年間で13億3600万円から65億2600万円へと5倍に増加している。そして、景気の絶頂期1919年には、工業生産額は農業生産額を追いこし、日本経済の産業構成は大きく転換した。

○日本政府の無策

 しかし、作れば何でも売れるという状況も見られ、不良企業でも経営は成り立った。大戦中に二まわりも三まわりも大きくなっていた日本経済は、その過程でたくさんの不良企業を出現させていたのである。それらはたぶんに戦争に便乗した水ぶくれであり、文字どおりの成金的企業であった。これらの不良企業とそれにむすびついた二、三流銀行の経営は、いちじるしく悪化しており、日本経済は見せかけの繁栄の陰に脆弱な体質を露呈しつつあったのである。また物価騰貴がおこり、それが民衆の生活難をまねき、多数の貧乏を生んでいた。

当時の内閣は、
第二次大隈重信内閣(1914年4月16日〜1916年10月9日)
寺内正毅内閣   (1916年10月9日〜1918年9月10日)
原敬内閣     (1918年9月10日〜1921年11月4日)
である。

これらの内閣(および大日本帝国)は、手厚い保護を与えて重化学工業の育成をはかった。だが、成金企業が大戦景気に乗って巨万の富をわがものにする反面、それによる物価騰貴が民衆の生活難をまねいていた状況になっても、それを放置した。(もっとも、当時の世界は、「英米独仏その他の諸邦、国は富めるも、民は甚しく貧し。げに驚くべきは、これら文明国における多数人の貧乏である」(河上肇「貧乏物語1の1」『大阪朝日新聞』1916年9月11日)という状態だったから、日本だけの問題ではない。が、これが日本および世界の問題であった。これによって戦争が起こるのであった。)

 大戦景気の莫大な収益は、財閥および金持ちのものとなったのである。政府のものになったものも軍事費などになって、結局は財閥や金持ちのものになっていった。政府は、しなければならなかった民衆の保護をしなかった。巨万の富には課税をし、生活難の民衆には保護をしなければならなかった。つまり、国内経済を整えることはなかった。政府は、ドイツに宣戦布告、対華21か条要求、シベリア出兵などの外交、労働者や民衆弾圧に忙しかった。

(つづく)