「231」 論文 やさしい日本現代史・日本国は万邦無邦の「デタラメ国家」である(13) 鳥生守(とりうまもる)筆 2014年4月4日

○戦後反動恐慌

 そして大戦は終わった。しかしながら、大戦の終結によって有利な条件が失われると、海外貿易の躍進や国内産業の拡大は頭打ちとなり、日本経済の前途に翳(かげり)が生じてきた。1919年には一時的に狂熱景気が見られたが、1920年3月15日、東京株式取引所の株価暴落をきっかけに、戦後反動恐慌がおこった。

 平均株価は、同年6月までに半値以下に暴落した。主要商品の価格崩落も大きい。なかでも、日本の輸出をささえる産業部門の商品の暴落ぶりはひどく、生糸価格は75パーセント、綿糸価格は66パーセントも下落した。それにつれて、取引銀行にたいする信用不安が増大し、預金取付け騒ぎが全国各地でおこった。4月7日、増田ビルブローカー銀行の破綻をきっかけに、4月から7月にかけて、本支店あわせて169行が取付けにあい、21行が休業におちいった。5月には、生糸滞貨の増加・輸出の激減によって、横浜の茂木商店とその機関銀行である七十四銀行が破綻した。

原敬

 戦後恐慌がおこると、財界からは政府および日銀の救済をもとめる声があがった。原首相は、政友会近畿大会で財界救済を声明し、日本銀行は金融緩和のために銀行に救済融資をしたばかりでなく、個々の企業にたいしても事業資金を特別融通した。そのために、従来の慣行を破って預金部資金が動員された。その救済融資は総額三億六千万円以上にのぼった。

 財界救済のねらいは、大戦中に異常に発展した産業を維持することであったが、それは財界の整理をおくらせ、不健全な企業を存続させることになり、日本経済の国際競争力を弱めた。その後も不況がつづいたため、日本興業銀行経由の事業貸出についてみると、現金償還できたのは貸出の三割にも足りず、あとは社債に転化したり普通貸付としてこげついたりした。

○日本経済の泥沼化

 この影響はただちに生糸問屋・製糸家・絹織物業者・養蚕農民に波及した。なかでも、全国200万戸におよぶ養蚕農家の窮乏は深刻化し、以後、農業問題は日本資本主義の存立にかかわる根本問題となっていくのである。

 日本経済は大戦景気で見せかけの繁栄であったのであり、1920年恐慌以降、財界整理はわが国経済最大の課題となっていた。だが政府は、経済界の要請に従い、不良企業の整理をおこなおうとはせず、むしろ、日本銀行の救済貸出しや特別融資などによってその破綻をとりつくろった。大企業を救済したのである。そのため、日本経済は以後、不況から立ち直れなかった。また産業の合理化はすすまず、企業の対外競争力は低下し、国際収支の悪化が進行した。

 物価の暴騰によって民衆が苦しんでも救済の声はおこらず、民衆が生活難を訴えて賃金引上げを要望すれは、不穏だとして圧迫・弾圧される。ところが恐慌で物価がさがると、政府はすぐに資本家の救済にのりだす。そうするとふたたび物価があがり、多数民衆の生活苦をまねくことになる。財界救済は、少数の資本家を保護するために多数民衆の生活苦をますものではないか。そういうことで当時から、政府や日本銀行の放漫な財界救済を非難する声は高かった。

 本来は、政府は企業の倒産は経済法則に任せ、倒産で生じた失業者は保護・救済すればいいのである。倒産すべき企業は、倒産してもいいわけである。政府は常に、失業者や生活難(所得不足)の民衆を、購買力ある国民にしておかなければならないのである。保護・救済費用は、政府が紙幣を増刷して直接配るべきである。政府はこのことで借金をするわけではない。

 そうしておけば、無数の中小企業が興(おこ)り、国内産業は力強く根強く活動するのである。そうすると、(可能な範囲で自由貿易はするが、)たとえ貿易が衰えたとしても、なんら問題ない国家となる。

 結局、巨万の富に課税し、企業(の存続と倒産)は冷酷な経済法則に任せ、生活難の民衆は保護・救済し、すべての国民を(ある一定水準以上の)購買力ある国民にしておくことが基本である。しかし当時の政府はこれと反対のことをしているので、日本経済は不況から抜け出せるはずはなかったのである。

○関東大震災の影響

関東大震災の様子

 そのような不況の中、1923年(大正12)9月1日正午2分前、相模湾西北部を震源地とする、マグニチュード7・9の大地震が、関東地方の南部をおそったのである。東京・横浜を中心に、罹災者340万人、死者・行方不明をあわせると10万人をこえた。また家屋の全焼44万7000余戸、全・半壊あわせて24万戸にのぼる大惨事となった。

井上準之助

 山本権兵衛内閣の蔵相井上準之助は、9月7日、被害地の銀行・会社を救済するため、支払猶予令を出して、債務の支払いを1か月猶予する措置をとり、つづいて9月27日には、震災手形割引損失補償令を勅令のかたちで公布した。これは、震災前に銀行が割引いた手形のうち、震災のために決済できなくなったものは、日本銀行が再割引して銀行の損失を救い、それによって日銀に損失が生じた場合には、一億円を限度として政府が補償することをさだめたものである。これを震災手形とよんだ。

 このように時の政府は、またも「震災手形」で銀行や会社を救済しようとした。これが誤りであった。政府の予想を上まわって、1924年3月末までに日銀で再割引された震災手形は、4億3081万円の巨額に達した。というのは、靂災手形といわれるもののなかには、震災前からの不良賃付・放漫経営による不良手形がふくまれており、それらが、震災手形の名のもとに再割引されてしまったからである。そのうえ、震災手形の振出人は、経営悪化のため、なかなか手形を決済することができない状態であった。結局、不良企業を救済し、ひいては大銀行・財閥を利したのである。

 政府は、当初の勅令で震災手形の満期日を1925年9月30日限りとさだめていたのを、期限を延長し、結局、1927年9月をもって最終期限とすることにした。しかし、震災手形の整理はいくらかすすんだものの、1926年末には、なお2億700万円の震災手形が残っていたのである。時の政府である若槻礼次郎内閣は、震災手形の整理に動いた。そこで金融恐慌が起こった。

○昭和の金融恐慌

 1927年3月15日、東京渡辺銀行・あかぢ貯蓄銀行が休業する。これが第1次金融恐慌すなわち3月恐慌のきっかけである。

 若槻内閣が提出した震災手形を整理する、震災手形損失補償公債法および震災手形前後処理法が、3月23日に貴族院を通過し、3月30日に公布された(この52議会では、片岡直温蔵相問責問題で、乱闘騒ぎあった)。

  

片岡直温         取り付け騒ぎ

 そしてその直後の4月18日、台湾銀行が休業する。これが第2次金融恐慌すなわち4月恐慌のきっかけであった。

 この2度にわたる金融恐慌で、残っていた震災手形は決済されずにおわったことにしたと思われる。

 結局、震災手形は、大銀行・財閥を利しただけで、それだけ被災者や一般国民の生活難は増したのである。(2011年3月11日の東日本大震災も、大企業を利するだけで、被災者や一般国民の暮らしを苦しくする政策が行われている。本質として現在も当時と同じことが起こっている。)

○誤った道を歩み続けた日本政府

 以後財政において、緊縮財政(憲政会・民政党)と積極財政(政友会)が入り乱れて行われるが、購買力ある一般国民を生み出す政策ではなかった。一般国民を見捨てた政策だった。外交において、国際協調外交(憲政会・民政党)と自主積極外交(政友会)が入り乱れたが、ともに膨張主義に変わりなかったのと同じである。最も肝心な論点が抜けていたのである。財政・外交ともに、誤った道の中で右往左往していたのである。

高橋是清

 日本は日露戦争のとき、22億円の外債募集に成功した。(これを成し遂げたのが、当時日銀副総裁だった高橋是清であった。これによって高橋は実力を認められた。)その残額は、1930年において、2億3000万円(満期は1931年1月)であった。これは正貨(金)で返さなければならず、返せなかった。そこで、第2回四分利付き外債の借り換えをすることになった。

 このように、第1次大戦の大戦景気があったにもかかわらず、日本政府は日露戦争時の外債を償還しなかったのである。昭和に入っても、まだその残額を抱えていたのである。日本政府がこんな調子であるので、日本経済が正常になるはずはなかったのである。

 前述の三輪信太郎は、「御大典の前もその後も、火の消えたような不況時代」と言ったが、そのとおりであった。そしてそれは、政府が誤った政策を行っていたからもたらされたh今日であった。そして、政府が正しい政策を行わない限り、その不況はいつまでも続くのであった。

○本当に国を動かしているのはだれか

 ところで、このように歴史を追っていくと、本当に日本国を動かしているのは誰かが、少し見えてくる。それは歴史学者が書かない人物たちである。だからそれは表に顔を見せることはない。隠された存在である。それは、官僚組織である。この官僚組織が、日本政府を動かしているのである。

 震災手形のなかに震災前からの不良賃付・放漫経営による不良手形がふくまれたのは、大蔵省や日本銀行、そして会計検査院がそれを許したからである。(会計検査院は、天皇直隷の特別機関であった。現在は、憲法上の機関となっている。この「憲法上の独立機関」というのはおかしいのである。デタラメである。)

 また衆院議会で乱闘が起きるのは、また、見当違いなあるいは荒々しく粗雑な質疑・答弁が行われるのは、衆議院事務局がそれらを許すからである。

 平野貞夫はその著書『昭和天皇の極秘指令』において、「(衆議院・参議院)事務局というのは、衆参両正副議長や各委員会の委員長の発言をつくり、与野党の議員の質問づくりを補佐し、議事の段取りを含む議会運営に関わるすべての調整を行うなど、議会政治を円滑に運ぶために欠かせない存在だったからだ。というのも、国会という場で議事を滞りなく進めるためには、過去の前例を踏まえて適宜対応する必要がある。衆議院事務局には、この膨大な前例が完璧なまでに整理され、待機している。だからこそ、国会で起こるトラブルを解決することができるのだった。」と述べている。

 つまり当事で言えば、天皇、天皇の側近、そして衆議院正副議長、衆議院事務局がその気にであれば、衆議院のトラブルを解決することができるのである。国会(当時は議会という)が正しく運営されるかどうかは、それらの官僚組織のはたらき次第なのである。現在も国会は正しく運営されていない。(正副議長や)事務局が正常に機能していないからである。

 大正時代や昭和時代は、内務省は、警察を使って選挙支持動向を調査していた。それに基づいて与党が選挙干渉・選挙介入していたのである。与党政党(財閥)と内務・警察官僚は密接な関係にあった。選挙が官僚組織によって歪められていたのである。これは大手マスコミによって隠されているけれども、現在も見られることである。

 このように官僚組織が日本をデタラメな方向に動かしている。歴史学者はそれを描くことはないが、それが見えてくる。官僚組織が日本国を動かしていることは戦前も現在も変わらない。

 江戸時代以降の、日本の歴史のどの時期をとっても、そのデタラメぶりは見えてくるだろう。その詳細を追究することは貴重なことだ。そして、戦前、戦後、現在の各時代において、本質的によく似ているところが多々見られる。しかし現在に直結するという意味で、戦後の歴史追究が急がれる。

 そういうことで、次回からは、戦後の歴史を主軸にたどりながら、日本歴史を描くことにする。

(つづく)