「0114」 論文 日本政治研究の学者たち:チャルマーズ・ジョンソンとジェラルド・カーティス(2) 古村治彦(ふるむらはるひこ)筆 2010年11月15

 

■ジェラルド・カーティス(Gerald Curtis):現実政治にのめり込む日本研究者

●ミュージシャン志望だったカーティス、典型的なユダヤ移民の子として育つ

ジェラルド・カーティス

 ジェラルド・L・カーティス(Gerald Curtis)は、米国の国益のために日本を管理するアメリカ人の日本専門家たちであるジャパン・ハンドラーズの中でも重鎮として知られている。日本語がとても堪能で、日本のテレビにもよく出演しているので、顔を見たことがある人も多いだろう。カーティスは、最近の若い日本人がほとんど使わない四文字熟語を駆使し、訛りのない、日本人が話すような日本語を話す。彼はミュージシャン志望で、セミプロであった。おそらく、言葉を音として捉え、それを再生する能力が高いのだろう。簡単に言うと、耳が良いのだろう。

 カーティスは最近、『政治と秋刀魚 日本と暮らして四五年』(二〇〇八年、日経BP社刊)という自伝と現在の日本政治の評論を併せたような著作を出した。この本は大変面白い本である。この本の中に、彼の生い立ちや日本とのかかわりがちょこちょこ出てくる。それらを参考にしてまずカーティスの経歴を書いていく。

『政治と秋刀魚』

 カーティスは、一九四〇年にニューヨーク市で生まれ、ブルックリン(Brooklyn)で育った。父親は幼い時にウクライナから移民してきたそうだ。カーティスの両親はともにユダヤ系だ。父親は食料品店で働いたり、タクシー運転手をしたり、と働きづめの人生だったとカーティスは書いている。家族の中で大学に進学したのはカーティスが初めてだった。両親は共働きだったが生活は苦しかったと述懐している。

 やがて、ブルックリンの治安がどんどん悪くなり、また学校でもユダヤ人であることを理由にしたいじめが酷くなったため、家族はブルックリンからクィーンズ(Queens)に引っ越した。カーティスの家族は、典型的な東欧からのユダヤ人移民の家族の歴史をそのままなぞっている。ユダヤ人たちは、貧しい生活をしながらも、子どもたちに良い環境と良い教育を与えようとしてニューヨークの郊外に引っ越していった。こういうところは、日系人たちにも見られる特徴である。

 カーティスはニューヨーク市郊外のロングアイランド(Long Island)にある公立高校ファーロッカウェイ高校(Far Rockaway High School)を卒業した。この高校の二年先輩には、バーナード・マドフ(Bernard Madoff)という人物がいる。マドフは、六五〇億ドル(約六兆円)もの被害を出した金融詐欺事件を起こした。二人とも同時期に、ニューヨークのクィーンズ地区に住み、越境入学をして当時の名門校ファーロッカウェイ高校に通っていたことになる。

 

ファーロッカウェイ高校        バーナード・マドフ

 ファーロッカウェイ高校は公立高校で授業料が安かった。そのため、貧しい家庭に育った優秀なユダヤ系の若者たちが多数入学し、アイビーリーグ(ハーバード大学やイェール大学)の一流校に入学するのが当たり前という雰囲気の学校であった。しかし、カーティスもマドフも一流校には進学していない。カーティスは、自伝で高校の卒業式で成績優秀で表彰される同級生たちを見ながら、「自分より何倍も頭が良いのだろう、と切ない気持ちで見ていた」と書いている。

 カーティスはプロのジャズピアニストになりたくて、一九五八年にニューヨーク州立大学音楽学部に進学した。カーティスは高校のころからバンドを組み、結婚式やパーティーで演奏してお金を稼いだそうだ。また、今現物は残っていないが、レコードを出したこともあるそうだ。音楽家労働組合に加入していたそうだから一応プロとして認められていたのだろう。アメリカでは俳優も組合(スクリーン・アクターズ・ギルド、SAG)を作り、それに入っていないとアメリカでは仕事ができない。だから、SAGに加入して初めてプロとして認められる。

 しかし、カーティスは自分の音楽の才能が中途半端なものだと悟り、プロミュージシャンの道を諦めた。そして、思い切ってニューヨークから遠く離れたニューメキシコ州のニューメキシコ大学(University of New Mexico)で社会科学を猛勉強したとある。夜はナイトクラブで演奏していたそうだから、音楽の腕が役に立った。その勉強ぶりが認められて、一九六四年大学卒業後、コロンビア大学の政治学大学院に進学した。大学院で日本研究のジェイムズ・モーレイ、中国研究のドロシー・ボーグに出会い、日本研究を進められて、そこで初めて日本研究を志すことになった。

 カーティスの日本研究の方法は、政治学というよりも文化人類学の手法だと言える。文化人類学と聞くと難しく思えるが、簡単なことである。次のようなイメージを持ってもらえれば良い。南洋の島々にある文明化されていない人々の集落にある日、白人の若い学者が訪ねて来る。そして一緒に住まわせて欲しいと頼み込み、集落の一角で生活を始める。学者は現地の言葉を覚え、文化になじみ、人々の中に溶け込んでいく。時には現地の女性と結婚したり、現地の社会で指導的な地位に就いたりする。学者がやっているのは観察であり、人々の生活の様子や現地人に質問して得た答えをノートに書き写していく。そして、学者は2、3年をその集落で過ごした後、母国に帰っていく。

 カーティスがやっていることはこうしたイメージ通りのことである。簡単にいえば、彼は日本政治という「集落」に住む政治家という「種族」を「観察」し、何か面白いものを見つけたらそれを母国アメリカに報告するという仕事を四五年にわたって行ってきたのである。だから、私は、カーティスは政治学者というよりも人類学者だと思う。

 カーティスが学び、教鞭を執っているコロンビア大学は、人類学でも大変に有名な大学だ。コロンビア大学は全米で初めて人類学部を創設した。著名なドイツ人人類学者フランツ・ボアズ(Franz Boaz)が指導し、多くの人類学者が育った(ボアズについては、「0101」 論文 サイエンス=学問体系の全体像(21) 鴨川光筆 2010年9月13日 をお読みください。論文へは、こちらからどうぞ。)。その中には著書『菊と刀』(The Chrysanthemum and the Sword: Patterns of Japanese Culture)で有名なルース・ベネディクト(Ruth Benedict)がいる。カーティスがコロンビア大学で伝統的に強い人類学の手法を使うのは当然であると言えるだろう。

  

フランツ・ボアズ      ルース・ベネディクト

 カーティスがコロンビア大学に提出した博士論文は、『代議士の誕生』(一九七一年、サイマル出版会)という題で出版された。この本は、カーティスが大分で衆議院選挙に立候補した自民党の候補者の家に泊まり込んで、選挙運動を観察したものをまとめたものだ。その候補者は、佐藤文生(さとうぶんせい)元郵政相である。当時の佐藤は地方政治家として力をつけ、国政に挑戦する若手政治家であった。

佐藤文生

 カーティスは、戦後の日本の選挙における政治家個人の後援会について注目している。カーティスは、後援会が、保守系の政治家たちにとって、戦前の地主といった地方名望家に代わる新しい支持基盤であることを指摘している。戦後の農地改革で地主は地方における影響力を失っていった。カーティスは後援会について地方名望家に代わる存在になったこと以外にもう一つのポイントを指摘している。彼は『代議士の誕生』で、次のように書いている。

(引用はじめ)

 地域社会の有職者が果たす役割を重視するこれらの分析には、後援会の“近代性”に正当な注意を払っていない欠点がある。その近代性とは、特定の衆議院選候補に代わって一般権者多数を組織化する機能を、会員多数を擁する組織に任せるという特徴である。(一五一ページ)

 しかし後援会が“近代的”政治組織であるのは、そのような“実力者” 
会員がいるためではなく、じつに四万人を数える会員がいるという事実によるのである。(一五三ページ)

(引用終わり)

 カーティスは政治家の個人後援会の誕生を日本の政治の変化の結果として捉えている。戦前は地主たちが決めた候補者が当選する仕組みになっていたが、戦後、そのような機能はなくなった。そして、政治家たちは一般有権者たちを組織するという方法を取るようになった。これはアメリカで言うマシーン選挙と似ている。ここにカーティスは日本政治が民主化した証拠を見つけたと主張しているのである。

 カーティスは佐藤の家に一年近く寄宿し、佐藤の子供たちから大分の方言を勉強した。また、カーティスは佐藤の選挙運動について回り、支援者の集まりでお酒を飲んで酔っ払ったり(カーティスはここで「お流頂戴します」という言葉を覚えたという)、支援者の前で演説や挨拶をして回ったりするなど、佐藤が当選するように、一生懸命選挙運動に参加していた。カーティスは、「日本の選挙運動の研究をしているのに、研究対象の候補者が負けてしまったら博士論文として提出できない」という思いで必死だったそうだ。また、選挙事務所の奥の部屋で行われる秘密の会議にも出席し、お金のやり取りを実際に見ている。

 カーティスがここまで行動の自由が赦されたのは、彼が佐藤の選挙運動の観察できるように佐藤に頼んだのが、派閥の領袖である中曽根康弘だったからだ。具体的な計画を立てずに来日したカーティスは、コロンビア大学で博士号を取得した先輩のナサニエル・セイヤーを訪ねた。セイヤーは当時、駐日アメリカ大使館に勤務していた。セイヤーはカーティスに中曽根康弘の秘書だった小林克己を紹介し、小林がカーティスを中曽根に引きあわせた。カーティスは選挙運動に張りつかせてもらえて、しかも当選する可能性が高い政治家を紹介してくれるように中曽根に頼んだ。中曽根は自派の候補者の中から、佐藤文生をカーティスに紹介し、自ら佐藤に電話をかけてカーティスに便宜を図ってくれるように頼んだ。

  

ナサニエル・セイヤー        中曽根康弘

 カーティスの人脈は大変に広い。日本の政界にはほとんど張り巡らされている。カーティスは、一九八七年に『「日本型政治」の本質』(TBSブリタニカ)という本を出版している。この本は一年後の一九八八年にコロンビア大学出版局から英語版であるThe Japanese Way of Politicsとしてアメリカでも出版された。この本は自民党と社会党について書かれている。カーティスは安東仁兵衛(ルビ:あんどうじんべえ)という元共産党員のフィクサーと友人となり、彼から社会党の派閥争いや硬直性などを聞き出している。戦前の労農派から起源を持つことから社会党の派閥争い(右派の追放、構造改革派、社会主義協会の盛衰)まで事細かに記録し出版する様子は人類学者そのものである。そして、カーティスは日本社会党について次のように書いている。

(引用はじめ)

 万年野党の地位が与える相乗効果と、党の行動に影響を持つ特殊な歴史条件との組み合わせを背負い込んだ社会党は、発展する社会の説明もままならず、社会が抱える問題と自党の提言とがますます離反していくのを横目に見ながら、社会のなかで果たす役割を手探りで追い求めている。(『「日本型政治の本質」』、一七五ページ)

(引用終わり)

 日本社会党の研究は、アメリカでも一部で行われていた。カーティスは、社会党について、簡潔に重要な点を外さすに、うまくまとめている。彼の真骨頂である、「現地の住民に溶け込んで話を聞き出す」とい人類学的手法が活かされていると言える。

 その後、一九九九年には『永田町政治の興亡』(新潮社)が出版された。これは同じ年にコロンビア大学出版局から出されたThe Logic of Japanese Politicsの日本語訳である。この本では、カーティスは、一九九四年に非自民連立政権が崩壊する一端となった、会派(parliamentary caucus)に注目している。そして、カーティスは会派の歴史や機能を調べ、「日本では、政治システムを円滑に運営するため、法的な機構を変えるのではなく、インフォーマルな制度を付け加える傾向がある」(一七六ページ)と書いている。日本の国会の研究はアメリカでも行われていたが、カーティスはそれまで余り誰も注目しなかった会派に注目を集めさせた。これも何か面白いことを発見し、報告するという人類学者のような働きである。カーティスは会派について次のように書いている。

(引用はじめ)

 会派システムの重要性は、国会にある政党数に応じて変わる。小政党が乱立しており、なおかつ政党再編成の圧力の強い時が最も重要で、反対に少数の政党が優位を占める政党システムが安定しているときに最も価値が下がる。(『永田町政治の興亡』、一七三ページ)

 先の民社党の例でも明らかになった会派システムの二つの特徴は、強調
に値する。まず、政党が有権者向けの活動とは無関係に、国会内で他の政党と連立することは頻繁にあるということだ。そして、統一会派の結成は、その場限りの政策協力ではなく、政党の国会組織の正式な統合だということである。(『永田町政治の興亡』、一七九ページ)

(引用終わり)

 カーティスは、Policymaking in Japan: Defining the Role of Politiciansという本を出している。この本は二〇〇二年に、日本国際交流センター(Japan Center for International Exchange)から出版されている。表紙の次のページには、日本財団(The Nippon Foundation)からの資金援助に感謝すると書かれている。前書きは、日本国際交流センター理事長の山本正(やまもとただし)である。

 この本は、カーティスの編著であり、共著者は当時の自民党と民主党の有望な若手議員たちである。自民党からは根本匠、伊藤達也、馳浩、民主党からは古川元久、前原誠司、公明党からは上田勇が参加している。彼らは一章ずつを担当し、英語で自分の得意分野の政策について書いている。

  

古川元久         前原誠司

 カーティスは第一章を担当している。そのタイトルは、「政治家と官僚:何が間違っていて、何がなされてきたのか」というものだ。ここでは、官僚主導の政治から政治家主導の政治への転換について書かれているが、どっちつかずの話が書かれている。

(引用はじめ)

 日本の状況は何も特別ではなく、政治家と官僚との間の関係をどのようなものしていくかについて簡単に答えは見つからない。日本語の「政治主導」が意味するような何でも政治家がやるということは不可能だし、望ましいものではない。近代民主政治体制国家では、高いスキルを持った効率的に機能する官僚が必要である。行政改革の名の下に強力な官僚制度を弱体化させることは合理的ではない。しかし、日本の行政改革は官僚の弱体化を目的にして進められている。

 近代民主政治体制国家ではまた、政治的な説明責任が必要である。官僚たちは政治的な指導者たちに対して説明責任を果たす必要がある。なぜなら、政治家たちだけが政府の行動に対して責任を取ることができる存在だからだ。(五ページ)

(引用終わり)

 現在は国会議員ではない人がいるが、この若手たちをカーティスが見込んで本を出してやったのだ。しかし、カーティスは、「日本の若手政治家たちが何を考えているのかをアメリカで知らしめよう」などと本気で考えている訳ではないだろう。「私は彼らと交流があっていつでも会えます。こうした議員たちが将来、日本をリードするんです。名前くらいは覚えておいても損はないですよ」と品評会にカタログや見本の商品を出しているようなものなのだ。実際、民主党から選ばれた前原、古川の両氏は、現在外務大臣と内閣官房副長官という重要なポストに就いているし、前原氏は次期総理の呼び声も高い。古川氏は、民主党の次世代のリーダーと目されている。

古森義久

 古森義久著『透視される日本 アメリカ新世代の日本研究』(文藝春秋、1999年)という本がある。この本は、1990年代後半に三〇代から四〇代であった、日本研究の若手専門家たちにそれぞれインタビューをしてその内容をまとめたものだ。この中で、若手研究者たちは、カーティスを批判する一方で、ペンペルを評価する声が収められている。そのなかで若手研究者のレオナード・ショッパ(Leonard Schoppa)の言葉を紹介したい。

(引用はじめ)

 またごく最近まで日本政治の研究でも、政党や選挙の仕組み、政治家の実態などをとにかく詳しく知らせればよかったが、今は理論が求められるのです。たとえば日本で良く知られたコロンビア大学教授のジェラルド・カーティス氏らがデビューしたころは、日本の政治家や派閥の状況をただ詳細に報告すればすんだようですが、いまではその調査のうえになんらかの理論を打ち出さねばならないのです。(八九−九〇ページ)

(中略)

 日本のマスコミに頻繁に登場するカーティス氏はアメリカの日本政治関連の学界では存在感はきわめて希薄です。カーティス氏と同じ世代のミシガン大学のジョン・キャンベル教授やワシントン大学のT・J・ペンぺル教授は、逆にアメリカの学界では日本政治の研究でもっともよく知られ、活発な著作活動も展開してきました。でも日本ではあまり知られていないでしょう。(九〇ページ)

(引用終わり)

 カーティスは、一九六九年に、ペンペルは一九七二年にそれぞれ政治学博士号をコロンビア大学で取得している。二人は同期の学者たちなのである。それなのに、専門家たちの間でこれだけ評価が違うのはかえって不思議なくらいだ。カーティスに対する、若い世代からの批判はまとめると、「カーティスの日本研究は、日本政治の細かい状況や面白い現象を、英語で書いてアメリカ人に伝えるだけのものだ」ということになる。また、私は、ある日本政治の研究者が「カーティスがやっていることは研究とは言えない。ただの新聞の切り貼りとインタビューをまとめただけのものだよ」と言っていたことをよく覚えている。

 カーティスは、著書『政治と秋刀魚』(日経BP社、二〇〇八年)の中で、自分を日本研究の第三世代と位置付け、ペンペルを自分と同じ第三世代であると書いている。カーティスは、自分たち第三世代について次のように書いている。

(引用はじめ)

 我々第三世代の日本研究の動機を一言でいえば、好奇心であった。

 日本は世界史に前例がないほど経済的に躍進し、アジアで唯一の民主主義国になっていた。凄い勢いで近代化はしたが、それは必ずしも西欧のモデルに従う近代化ではない。いったい、日本はどうなっているのか。固定観念はなく、ただ好奇心があったのが我々第三世代の日本研究者だと思う。(五五ページ)

(中略)

 後にミシガン大学の教授になった私より二年くらい後輩のジョン・キャンベル教授は、政治学の観点からそれまで誰も手をつけようとしなかった大蔵省と予算形成過程の徹底的な研究をした。カリフォルニア大学教授になっている後輩のT・J・ペンペルは文部省、トロント大学のマイク・ダナリー教授は農業政策を研究し、それぞれが博士論文を書いた。第三世代は実態調査を重視して、日本学の観点からではなく、社会科学の比較政治学のアプローチで日本の政治、社会、経済構造を本格的に分析しようと試みた。

(引用終わり)

 カーティスは自分がアメリカの学界ではほとんど無視され、後輩である若い世代からは、批判を受けていることは知っていると思う。自分のほぼ同期であるペンペルとキャンベルの方がアメリカの政治学界で有名で、若手研究者たちからも評価が高いことも知っているだろう。しかし、日本人向けに日本語で書かれた『政治と秋刀魚』の中では、いかにも自分が第三世代を代表するかのような印象を与える表現をしている。

 もっと言うと、カーティスの『政治と秋刀魚』には日本政治研究の泰斗チャルマーズ・ジョンソン(Chalmers Johnson)の名前が全く出てこない。カーティスは、エドウィン・O・ライシャワー(Edwin O. Reischauer)、ドナルド・キーン(Donald Keene)、エドワード・サイデンステッカー(Edward Seidensticker)の名前は本の中に書いている。カーティスは、ライシャワーのように戦前から活動している研究者たちを第一世代、キーンやサイデンスデッカーなど第二次世界大戦中に軍で日本語を学んで戦後活動を始めた研究者たちを第二世代としている。

  

ライシャワー      キーン       サイデンスデッカー

 チャルマーズ・ジョンソンは、年齢、経歴から第二世代に分類される。日本政治研究の金字塔である『通産省と日本の奇跡』を発表したのが一九八二年であるが、それまでも中国と日本、両方についての研究を旺盛に行っていた。一九六四年には、An Instance of Treason: Ozaki Hotsumi and the Sorge Spy Ring(邦題『尾崎・ゾルゲ事件』)を発表している。

 古森義久の『透視される日本』でインタビューに応じている日本研究者の多くは、チャルマーズ・ジョンソンの業績を高く評価している。たとえ、自分とは考えが合わなくても、ジョンソンが与えた衝撃についてはきちんと評価している。しかし、カーティスは、ジョンソンの名前を全く出していない。

 しかし、カーティスは、ジョンソンについて全く意識していないという訳でもない。彼は、自分が属する第三世代の下の第四世代に、いわゆるリヴィジョニストと呼ばれる人たちを分類している。彼らは、「日本は西洋とは違う基準で動く国だ。日本は西洋基準で見てフェアな国ではない」という「日本異質論」を唱え、一九八〇年代にアメリカを席巻した「日本脅威論」を煽った人々であると言われている。リヴィジョニストというのは、日本語で言うと、「修正主義者」である。彼らは、何を「修正」したのか。それは、「日本は西洋と同じ近代国家となりつつある」という考え方である。

 「日本は西洋と同じような近代国家になる(なりつつある)」という考え方は、エドウィン・O・ライシャワーが唱えた。日本は無謀な戦争を起こし、敗北したが、戦後、デモクラシーと資本主義を受け入れて、民主的な近代国家になっているという報告をライシャワーはし続けた。もちろん、歴史や文化は独特だが、

 カーティスは、ジョンソンを「目の上のたんこぶ」のように思っているのだろう。日本研究の第一世代、第二世代、第三世代は、日本の特殊性や西洋世界にはない面白い慣習や文化を紹介していれば良かった。しかし、それだけの話である。日本政治の研究者たちは、大きな枠組みとか理論といったものは何も生み出さなかった。

 しかし、チャルマーズ・ジョンソンが「発展志向型国家」という概念を生み出し、産業政策の重要性を研究者たちに認識させた。そして、アジア各国の経済発展を分析する際に、発展志向型国家概念が使われるようになった。日本政治研究が、日本の紹介以外に政治学界にした唯一の貢献がこの概念であった。

 研究者という立場なら、素晴らしい研究に対しては表面上でも賛辞を送るべきだが、カーティスは全くそのようなことをしていない。『政治と秋刀魚』では、他の研究者たちの名前は出しているし、その業績も認めているのに、チャルマーズ・ジョンソンの名前を一切出していない。

 研究者としての嫉妬と悔しさがあるのだろう。カーティスがジョンソンの名前に言及していないことが、逆に、ジョンソンが政治学界に与えた影響の大きさを示しているのかもしれない。

 更に言うと、カーティスにとって、チャルマーズ・ジョンソンは、「裏切り者」のような存在であり、嫌悪しているのかもしれない。チャルマーズ・ジョンソンは、自著の中でたびたび触れているように、冷戦期、CIAの中国分析官として働いていた。香港に駐在し、その頃は国交がなかった中国の情勢分析をしていた。その後、日本の経済成長について研究し、通産省と産業政策が重要であることを発見した。しかし、ジョンソンはアメリカがやっていることは間違っているという主張をするようになった。

 一方、カーティスは日本政治の観察者という立場からやがて、深く関与するようになっていった。彼は、日本の政治家たちの多くと親交を結び、アドバイスを送っている。また、コロンビア大学に日本の官僚たちを数多く受け入れ、教育している。その中で若手の有望な人材を見出していることだろう。現在の前原外務大臣、古川官房副長官の出頭ぶりは大変なものである。彼は、アメリカの対日戦略に関与している、ジャパン・ハンドラーズの大物である。しかし、学者としては、同僚の学者たちからは高い評価を受けていない。だからこそますます現実政治にのめり込んでいるのではないか。俗な言い方をすれば、「ミイラ取りがミイラになった」ということだ。

(終わり)