「0156」 論文 サイエンス=学問体系の全体像(27) 鴨川光(かもがわひろし)筆 2011年9月11日 

●「進歩の観念」(ジ・アイディア・オブ・プログレス)の歴史

 社会学の創業者(つまり、最初の商店を開いた人。「社会学商店」という看板を立てたのが弟子のオーギュスト・コント August Comte。「社会学株式会社」を設立したのがデュルケム)であるサン・シモンに何とか近づいていかなくてはならないのだが、その前に、テュルゴーと、「進歩の観念」について話さなければならなくなった。

 私鴨川は、テュルゴーこそが、社会学と社会科学にとって最重要の人物だと思っている。社会学の原動力となった「進歩の観念」と、革命前フランスに、最大の貢献をした人物だからである。

 テュルゴーは二つの点で偉大であることが、私にははっきりと分かった。

 一つは「進歩の観念」をパスカル(Blaise Pascal)から受け継ぎ、コンドルセ(Marie Jean Antoine Nicolas de Caritat, marquis de Condorcet)に受け渡したこと(コンドルセからサン・シモンが学んだ)。もう一つはアンシャン・レジームといわれるフランスの旧体制の解体に着手、実践した人物だということである。


コンドルセ

 まず、テュルゴーの略歴をざっと紹介する。アンヌ・ロベール・ジャック・テュルゴー(Anne-Robert-Jacques Turgot 一七二七〜一七八九年)は、学問的には百科全書派(Encyclopédistes)の中に入る人物で、重農主義経済学派、フィジオクラット(Physiocrat)である。政治的には、ルイ一六世時の財務総監(ざいむそうかん)を務めた。


テュルゴー

 テュルゴーは、フランスの名門貴族(ノルマン人の古い家系であるとミクロペディアには出ている)の子としてパリに生まれる。父は高等法院評定官やパリ市長まで務めている。初めは僧籍に入り、神学を修め、ソルボンヌ(Sorbonne)にて、科学、自由主義、寛容(おそらく宗教的寛容のことであろう)、そして、社会進化論といった、一八世紀当時流行した先進的思想に耽溺(たんでき)した。

 一七五一年には僧籍を離れて、行政官となり、パリ高等法院検事総長補佐官、同評定官、宮内審理官を務める。この間に、ディドロ、ダランベール等、百科全書派や、ケネー、グルネーといった重農主義経済学者と交流する。グルネーとは、プロヴァンス地方の視察旅行に同行している。この間に「富の形成と分配に関する省察」等の著作を著した。

 一七六一年、テュルゴーは、彼の行政手腕と知的活動が、ルイ一五世の目にとまり、リムーザンの地方長官に任ぜられる。同管区の主都リモージュにおいて、財政、経済、制度改革を行なった。当時のリモージュは、フランスの中でも、特に貧しい地域の一つであったらしい。

 一七七四年にルイ一六世が即位すると、財政総監という職に任命され、リモージュで行なった自由系税的改革を、パリを中心に、フランス全土で断行した。その後、特権階級や教会からの反発に遭い、表向きはアメリカ独立戦争支援政策に反対したことにより、罷免(ひめん)されたことになっている。

●モンテスキュー、パスカルから始まる「進歩の観念」の系譜

 まずは、テュルゴーが大きな位置を占めているフランス近代思想の流れの一つ、「進歩の観念(the Idea of Progress)」を説明する。この思想こそ、後にハーバート・スペンサー(Herbert Spencer)が「社会進化論」として体系立てた概念の元であり、現代社会に生きる我々一般人の持つ、常識的思想の源流なのである。


スペンサー

 「進歩の観念」の思想的源流は、モンテスキューである。この思想系譜は、まずモンテスキュー、パスカルが唱えて、それを百科全書派であるテュルゴー、コンドルセが受け継ぐ。コンドルセから、サン・シモンがコントに受け渡し、最終的にハーバート・スペンサーに到達した。ここで社会進化論となる。この流れを詳しく説明する。

 後にオーギュスト・コントによって開かれることとなる社会学は、フランスで発達した合理主義と切り離せない。近代的合理主義、レイシオの思想は、デカルトから始まった。ここからは、馬場明男著『社会学概論』(時潮社、一九六〇年)という本の、一七ページから、二一ページを参照する。


コント

 同書では、合理主義を、自然科学から社会研究に適用した最後の人物として、モンテスキューが挙げられている。

 モンテスキューは、デカルトに発するフランス合理主義を実証化し、思弁にのみ、頭の中で考えたことのみに頼ってきた社会哲学の研究方法を放棄した。自然科学ではガリレオ、ケプラー以来すでに行なわれているように、観察された具体的事実に基づいて社会の変動を説明しようとした。この方法を社会研究に用いた初めての人物である。

 同書一八ページには、「社会に内在している事実」とある。から、社会の変動の原因を社会そのものに求めた最初の人物である。これまで社会について述べてきた哲学者たちは、社会の変動を、神か偶然の結果として説明してきたのである。これにはローマン・カトリックの権力による影響もある。

 モンテスキューは、『ペルシャ人の手紙』『法の精神』『ローマ人の偉大とその衰退に関する考察』によって、社会の変動の原因を「社会に内在する事実」として設定した。これは後にエミール・デュルケムによって、「社会的事実」となる。


モンテスキュー

 「社会的事実」とは、「社会をただ観察して、実証的に証拠を突きつけて、証明していくものだ」などと、短絡的に考えてはならない。

 デュルケムの「社会的事実」とは、社会を一つの生き物=有機体として見ることを言うのだ。だから、デュルケムは社会有機体論の提唱者なのである。

 モンテスキューの「社会に内在した事実」がなぜ、進歩の観念として受け継がれ、社会有機体論となったと言えるのか。

 同書一八ページには、モンテスキューの思想は、「進歩の観念」という一連の思想体系になったと書かれている。(「進歩の観念」とはフランス思想の一つなので、リデア・ド・プログレl'idea de progres という。その語順のまま英語では、ジ・アイディア・オブ・プログレス the idea of progress となる。)

●パスカル―初めて社会を人間だと述べる

 「社会に内在した事実」を「進歩の観念」にしたのは、ブレーズ・パスカル(Blaise Pascal)である。「人間一本の葦である」で有名なフランスの科学者、哲学者である。一八ページに重要な一文がある。


パスカル

 「幾世紀の久しきにわたる人類の全継続は、常に生存し、絶えず習得する一個の人間のごとく考えられねばならぬ」

 人類の全継続とは歴史のことであろう。人間の歴史を見れば、過去と未来が何の関係もなく続くのではなく、何らかのつながりを持って、文明や知識を受け継ぎ発展させていく、その繰り返しである。それがあたかも一つの統一したもので、生命のごとく成長していくという意味である。

 この一文は、 "Fragment d'un traite du vide" という文章の中で宣言した有名な比ゆであるという。まさに比ゆである。

 パスカルは社会という言葉は使っていないが、人類の継続を一個の人間ととらえることが、後に「社会」と名を変え、それが事実として「在る」という前提を置いて(人間が神に頼らず、前提として人間の考えを置くこと=これをポジティヴィズム Positivismという)、有機的存在として成長していくという考えとなる。

 『社会学概論』の著者馬場明夫はさらに、パスカルを「人間を世界の中心たらしめた、アンシクロペディスト(著者注記:  Encyclopédistes エンサイクロペディスト、百科全書派のこと。パスカルの次の世代から)の人文派的精神の先駆者」「無限の社会進歩という人間の運命に関する新教理を編み出した」とべた褒めである。これは正しい。

 パスカルこそは、現代につながる社会進化論、進歩の観念、社会生理学、社会有機体理論の一番最初の唱道者である。

●テュルゴーの「進歩の観念」

 さて、テュルゴーである。彼が「進歩の観念」の中心人物である。テュルゴーはパスカルの思想を受け継ぎ、一七五〇年、ソルボンヌで二回にわたる「人間の精神の継続的進歩」という講演を行なった。

(引用開始)

 自然の現象は、恒常的な諸法則に従っており、したがってつねに同一変革の範囲に限定されている。すべては再生し、すべては消滅する。植物や動物が再生する継続的世代に於いては、時が各瞬間 に生ぜしむるものは、先に消滅した形象と同一の形態に過ぎぬ。

 これに反して人類の継続は、常に異なった一の光景を、各々の世紀に於いて現出している。理性や情 緒や、自由は、不断に新しい出来事を生み出している。あらゆる時代は、世界の現状態を、先行諸状態に結びつける因果の一連続によって、相互に連絡づけられている。

 実に言語および文字という自由なる符号は、人間にその思想を自ら保有し、またそれを他に伝達する手段を与えることによって、個々のあらゆる知識でもって、一の共有の宝庫をつくり上げた。

 この宝庫は、世代から世代へと順次に伝えられ、かくして伝えられたこの継承物は、各世紀においてなされた諸々の発見によって、非常に増大した。それ故に、人類をその始源から考察するならば、それは各個人と等しく、自らの幼時と成長とを持って、「一つの巨大なる全体」として、哲学者の眼に映ずるのである。(『社会学概論』、一九ページ)

(引用終わり)

 簡単に言えば、自然は常に同じことを繰り返す。人間は常に新しいことを始める、と言っているのです。

 テュルゴーの言わんとしているのは、こういうことである。自然現象を縛る法則は、常に一定で変化することなく決まっている。だから自然界で起こる出来事は、同じことの繰り返しなのである。これに対して、人間は、理性、情緒、言語、文字によって、知識を蓄積し、後代に継承し、人間の歴史の継承が、あたかも一つの人間のように成長する、ということなのである。

 この本を読んで発見したもう一つの重大なことは、コントで有名な「三段階の法則」は、実はもともと、テュルゴーの提唱したものなのである。

 テュルゴーは一七五一年に発表した Plane de deux Discours sur l'histoire universelle という著作の中ですでに、人間の知的進歩には三つの段階があると述べている(同書、一六ページ)。これはオーギュスト・コントが「三段階の法則」を発表した、七〇年も前のことである。

●百科全書派の最後―コンドルセ 

 テュルゴーとサン・シモンの間にコンドルセがいる。コンドルセは、テュルゴーの財政改革時に造幣総監に任命される。(著者注記: 「総監」というのは、「コンプトローラー」といい、単なる大臣という役職ではなく、「監査官」「検査官」の意味合いがある。)

 コンドルセはテュルゴーの友人であり、事実上の弟子であった。後世には数学者、教育改革者として有名であるが、社会学史上では「百科全書派の全哲学の創造者」とされている(同書 二〇ページ)。

 コンドルセは革命の聖書と言われる「人間精神の進歩の歴史」(一七九五年)の中で、人間の精神の無限の進歩の可能性を描いた。この著作にコントは多大な影響を受け、コンドルセのことを「精神的父」と述べている。

 コンドルセは、同著作の中で、人間の進歩段階を初めて詳細に描いた。コントの三段階に対して、コンドルセは人間の進歩の歴史を一〇期に分けている。

・「コンドルセの世界史的時代区分」(同書 二〇〜二一ページから作成)

第一期 部族的集合生活の時代。
第二期 遊牧種族の時代。
第三期 農耕種族の時代。
第四期 ギリシャにおける人間精神の進歩。
第五期 ヘレニズム期の諸科学の進歩。
第六期 知識の衰退(著者注記: ヨーロッパにおける中世のことであろう)。
第七期 西欧の学問の復興(ルネッサンスのことであろう)。
第八期 印刷術の発明と、科学・哲学が権威を脅かす。(コパーニカン・レヴォリューションとガリレオ裁判のことであろう)。
第九期 デカルトの登場から、フランス共和国の形成。
第一〇期 人間精神の将来における進歩(人間精神は、全世界革命の道を辿ることにより人間完成に向かう)。

 この一〇の区分を後にオーギュスト・コントが組織立てて、三つの段階にまとめあげる。この区分に私鴨川は不覚にも、「当たり前じゃないか」と思ってしまった。

 当たり前じゃないのである。現代の我々の知識は、一八世紀のフランス啓蒙思想家が作り上げたものである。フランスで起こった「進歩の観念」とは別に、生物の進化理論というのは一九世紀に至っても、未だ論争の渦中にあった。このことに関して私は、論文0056「学問の全体像・3」のラマルクとキュヴィエの論争のところで述べています。(論文へはこちらからどうぞ)

 人類の社会は、最初は家族を中心にした部族社会で、遊牧社会から、だんだんと農耕民族になって地域社会が広がり、科学技術が発展して、今のようにネクタイを締めるようになってという、現在当たり前となっている「社会進化理論(Social Evolution Theory)」は、この「進歩の観念」から始まったのである。

 コンドルセの言う第一期から第三期の思想は、後の文化人類学の学問領域である。エドワード・タイラーが一八七一年に「原始文化」(プリミティヴ・カルチャー Primitive Culture)を著して、文化人類学の父となる約百年前のことである。

 社会学は、文化人類学から学問的に分化している。文化人類学のほうが親である。後年、文化人類学が生まれ、その土台となった仮説は、コンドルセが提示したものである。この説に沿って、現代社会に生きる我々(コンテンポラリーズ Contemporariesという)は、今でも槍を持った裸の部族を、自分たちの昔の姿だと信じている。

 コンドルセはフランス革命でも指導的役割を演じ、立法議会、国民公会議員に選出され、教育改革などで有名になるが、ジロンド派であったため、ロベスピエールらジャコバン派が実権を握ると、失脚し、一七九三年逃亡、隠遁生活中に逮捕され、獄中で自殺する。

 『人間精神の進歩の歴史』はこの隠遁生活中に(つまり逃亡生活中、ポリティカル・アサイラム、政治的庇護を受けている最中)、身を寄せていたヴェルネ夫人宅で執筆された。

●それでいよいよ社会学の創業者サン・シモン―「社会」の発見者

 さて、ここまでが「進歩の観念」の歴史であり、社会学史にはまだ一歩も足を踏み入れていない。本当のことを言えば、社会学が学問として成立したデュルケムからが本当の社会学史の始まりで、サン・シモン、コントであっても、まだその前奏曲にしか過ぎない。

 それでもまだこのオーヴァーチュアーは長いのである。しつこくそれを続けます。

 馬場明男氏の『社会学概論』二一ページには、サン・シモンは「進歩の観念」をコントに受け渡す、橋梁(きょうりょう)的役割を果たしたと書かれている。サン・シモンは、知識人としては非体系的人物であったが、それまでのフランス啓蒙思想家の牙城(がじょう)であった百科全書派の思想を、オーギュスト・コントへと伝える媒介者であった。

 サン・シモンは近代社会主義の父と見なされ、フーリエ、ロバート・オーウェンらと共に、空想的(ユートピア)社会主義思想家と言われている。この三人が空想的だといわれる理由は、「彼らの理論が生じた社会が、未だ完全なる資本主義社会として発達していなかったから」(同書 二二ページ)とある。

 しかし私はそうではないと思う。サン・シモン思想がユートピアであるというのは、彼が百科全書派とは異なる、新しい思想の創始者であるからだと思う。サン・シモンは「社会」を「発見」したのだ。

 サン・シモンが「発見」した社会とは、後にテンニエスによってゲマインシャフトと名づけられる「コミュニティ(共同体)」のことである。

 フランス革命によって、社会を支えていた中間団体、ギルド、コルポラシオンといった利権団体が解体されたことによって、サン・シモンはこれら旧体制を支えた集団のことを、(この言葉は使わなかったが)「コミュニティ、旧社会」として存在したことを「発見」したのである。

 実は、これら旧社会、アンシャン・レジームと呼ばれる旧社会を解体したのは、先に私が述べたテュルゴーなのである。

●もう一度テュルゴーを登場させる―コミュニティの解体者

 テュルゴーは一七七四年、後に断頭台の露と消えるルイ一六世が即位した後、財務総監に就任する。財務総監というと、財務長官とか財務大臣、つまりミニスターなのかと思ったのだが、この英訳は「ザ・コンプトローラー・ジェネラル・オブ・ファイナンス」 the comptroller general of finance となっている。コンプトローラーとは「会計監査官」のことである。

 フランス語では Contrôleur となるから、実際にはコントローラー、管理者の意味だろう。この役職は、一七世紀半ば、ルイ一四世治下に重商主義(マーカンティリズム、略奪経済)を推進したコルベールによって創設された役職で、国家の財政のみならず、経済政策一般と、何よりも監査、オーディット(audit)を行なう役職となった。実質、国家規模のオーディターであろう。

 テュルゴーの経済政策は、重農主義理論に基盤を置きながらも、それを一派踏み出したよりリベラルな改革で、自由主義経済、自由放任主義、レッセ・フェール(laisse-faire)を目指すものであった。レッセ・フェールとは英語で「レディッビー・フリー」 let it be free となり、「自由に(市場で商取引)させてあげろ」という意味である。

 テュルゴー自由主義経済理論は、まず穀物取引、コーン・トレードの解放(そして開放、メイク・イット・モア・アクセッシブル make it more accessible、もっとより誰でも参入出来るように市場を開くこと)で実行された。しかし、一七七四年は不作のため、翌年、穀物価格が高騰して、民衆の暴動が起こってしまう。この政策は元々、農民の貧困を撲滅するために行なったものだった。

 古典経済学の典型的な失敗例である。不況時に市場の自由に任せてしまったら、大恐慌が起こりかねない。失業者も溢れる。こういう場合は政府が介入して、財政政策により、失業者を救わなければならない。そう主張したケインズが登場したのは二〇世紀のことである。

 ただしこの時、不作のために穀物市場で価格が暴騰したというのは、スペキュライターズ、国際的投機筋の存在を頭に入れなければならない。この時代、国際規模で投機を行なえたのは、頭角を現し始めていた国際的金融業者、マイアー・アムシェル・バウアー、後のマイアー・アムシェル・ロスチャイルかオッペンハイマー商会であろう。

 テュルゴーの政策がフランスの近代化にとって上手く作用したのは、財政政策、フィスカル・ポリシー(fiscal policy)だった。これをフィナンシャル・ポリシーと混同してはいけない。フィナンシャル・ポリシー(financial policy)とは金融政策、つまり中央銀行による金利の上げ下げのことだ。

 財政政策とは、税金のこともあるが、テュルゴーの方針では、国債発行も増税もしない。財政削減が中心だった。無駄な省庁・役職を廃止することである。無駄な役人の首を切ることと、特権的集団が受けている利権の解体である。

 それでもテュルゴーの財政政策の基本的考えは、「保守的特権階級の制度基盤を破壊することなく、国家の支出を削減し、租税徴収法を変更すること」であった(Macropedia p193 Franceから)。

 また、都市の賃金労働者のために物価を下げ、農民に対しても、様々な負担を減らすという方針であった。彼はそもそもは、自由主義的改革を掲げながらも、特権階級の制度を打ち壊すつもりはなかったのである。

(ただし、金持ちには課税し―特権階級からは、今まで税金を取っていなかったから―市場は自由にし、低所得者には税金を減らし、というまことに優れた実現可能な政策であった。自由主義経済と後の、ケインズ経済学をすでに理解し、実行していたのである。)

●六つのテュルゴー勅令―ギルドの解散は誰からも歓迎された

 一七七六年、テュルゴーは「破産せず、増税せず、借入せず」のスローガンを掲げ、「六つの勅令」(Six Edicts of Turgot)を布告する。この勅令のためにテュルゴーはその名を歴史に残し、自らの政治生命を絶つことになる。

 ブリタニカによれば、勅令のうちの最初の四つは、大したものではなかった。特定の税や官職の廃止であって、財政支出削減のための通常の改革であった。

 注目すべきは五つ目の「ギルドの廃止」である。テュルゴーの改革に関して、日本版ブリタニカ等の通常の説明を見ると、このギルドの解体によって、特権階級の利権が脅かされ、反発にあった、ということになっている。ところが真相は違う。

 ギルドはフランスでは「メチエ」(metier)というようだ。テュルゴーが廃止したのは、パリに集中して存在した「宣誓ギルド」といわれるものである。この制度は、一七世紀にコルベールが作ったもので、 メチエ・ジュレ(metier jure)というのが正式名称らしい。

 宣誓ギルドは、王からの特許状があるのが特徴で、「王権によって与えられた規約を保有し、その遵守を宣誓した者から成るためそう呼ばれた。

(著者注記:メチエやギルドといったかつてフランスに存在した職能組合や中間団体に関しては、先に紹介した千葉大学大学院の学生が、上手くまとめている。http://mitizane.ll.chiba-u.jp/metadb/up/ReCPAcoe/43kazumi.pdf#search='宣誓ギルド')

 この特権的ギルドはパリに多く、実際にはこのメチエが邪魔をして、その世界の職人になれず、職人の世界での競争があまり行なわれなかった。これらの理由で、パリにおける宣誓ギルドの廃止に対しては、大きな反対は見られなかったという。

 パリのような都市部では、リベラルな思想や、自由競争というような意識が発達していたのであろう。むしろ、近代的市場経済が成長し始めて久しかったこの一八世紀では、ブルジョワが多数を占めていた都市部では特に、ギルドの解体は自分たちの利益になりこそすれ、反対する理由などなかった。

 テュルゴーにとって命取りになったのは、六つ目の勅令であった。それは「コーヴェイ」と呼ばれる「強制労働義務の廃止である。

●テュルゴーは奴隷を開放した―コーヴェイ「強制無償賦役」=「租庸調」の庸(よう)の廃止

 コーヴェイ(corvee)とは、日本版ブリタニカによれば「公賦役」とか「国王賦役」(コーヴェイ・ロワイヤル corvee royale)といわれる。英語版のブリタニカには「農民に課された無償道路整備」(unpaid work required of peasants for the upkeep of roads)と書かれている。テュルゴーはこれを廃止して、土地税に変更し、それを地主、教会、特権階級、金融業者らに課したのである。これがテュルゴーの財政改革の本質であり、フランス革命の改革の本質であった。

 この六つ目の勅令「コーヴェイの廃止」が、特権階級からの大反対に遭ったのである。特権階級と言われた集団は、もともと自由主義経済を主張したテュルゴーの敵であったため、これを機に、一致団結してテュルゴーを潰しにかかった。

 コーヴェイとはロワイヤル(ロイヤル、王に奉仕すること)という名分を掲げながら、実は農民を奴隷にしていたのである。奴隷とは、人間をモノとして所有する考え方であり、近代的経済学(税法なども含んで)とは基本的に相容れない、非合理的思想なのである。つまり、奴隷は金がかかりすぎ、特権階級にとっても土地税のほうが、理にかなっていて、実際には楽なのである。

 平凡社刊「世界大百科事典」のテュルゴーの項目には、コーヴェイの廃止を「絶対王政下の改革としては、近代化の極限状態の試み」と書かれている。実に正しい評価である。

 コーヴェイというのは、古代から世界のいたるところで行なわれていた。古代エジプトやギリシャの奴隷制は有名であるし、アメリカの奴隷解放宣言もほんの一五〇年前の出来事である。ロシアの農奴制もよく知られていたし、日本の場合は「租庸調(そようちょう)」といわれる中世の税制のうちの「庸(よう)」である。

 このコーヴェイがフランス革命の要であり、アンシャン・レジーム崩壊そのものなのである。それは、人間をモノとして扱うという、「奴隷の所有」を禁止したからである。奴隷所有、人身をお金に換算するということが前近代であり、旧体制であり、かつての「社会」であったのだ。

 特権階級の最もおいしい利権とはこれだったのである。人間そのものだった。テュルゴーは特権階級の「タマ」をつかんだのである。特権階級とは、教会、地主、貴族、金融業者、そして高等法院(最高裁判所)である。高等法院にいたっては、ルイ一五世によっていったん追放されている。

 「タマ」をとられそうになった彼らは、改革者テュルゴーに猛然と襲い掛かった。

(つづく)