「0162」 論文 サイエンス=学問体系の全体像(28) 鴨川光(かもがわひろし)筆 2011年10月22日

●奴隷、人間をモノとして所有するという非合理的思想―ただし現在も行なわれている

 人間の所有という行いは、古代からユダヤ人に嫌われていた。旧約聖書レヴィ記の記録も、ヘレニズム時代のユダヤの財務を取り扱ったヨセポスも、人間をそのまま奴隷として所有するのではなく、人間をお金に換算して、その頭数(あたまかず)から税を徴収することに切り替えるべし、ということを言っているのである。

 記述された最初の聖書である「七〇人訳聖書」(セプトゥアギンタ Septuagint)も、アレキサンドリアにいたユダヤ人傭兵(実質、奴隷であった。借金のかたに取られた人間ばかりであった)を解放して欲しいために行なった面がある。

(著者注記: 人間をお金に換算するという古代ユダヤ人たちの、私の実体験を含めて、論文120,121,122「ユダヤの歴史」に書かれています。現代の世界で、未だ人間をお金に代えようとしているのが、金融=ファイナンスの正体なのです。)

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 これに対して「損害保険」という考え方は、物にお金をかける。こちらの方は、近代的発想です。一六世紀オランダで発展した、コーポラチオーンという思想から来ています。船が沈んだ時に、船の建造費の出資率に応じて損害を被るという、有限責任(limited liability)、リミテッド(Limited)という考え方です。株式会社の原型です。これはモノに対する所有権(property right)、物権(real right)。だから、近代思想なのです。

 生命保険、ライフ・インシュアランス(life insurance)という考えがあります。人間にお金をかける、人間をモノとして見るから、人頭税の思想と変わらないのです。住宅ローンも、本質的に人間の労働期間の換算だから、人間にお金がかかっているのと同様です。アルバイト、派遣、契約社員、会社員の採用も、税務署に対して頭数(あたまかず)を揃(そろ)えるという意味で、人頭税の思想です。

 その他のFXを含めた金融商品は、モノや人間にかかったお金から派生した実体のない仮想空間、サイバー・スペースの取引でしかありません。「マネー」自体が「仮想現実」であり、フィクションなのです。特に、今私たちが使っている「不換紙幣(ふかんしへい)」(フィアット・マネー fiat moneyという)は、実体のないものなのです。ヴァーチュアル・リアリティの遊びで、ヴィデオ・ゲームと何ら変わりない。

 この古代ユダヤ人の思想は、人頭税であり、人間にお金をかけるという点で、実に前近代的である。 

 人間に税をかけるのが駄目ならば、何をお金、数字に換算し、税を徴収すればいいのか。それはモノにである。そこに所有権という考え方が出てくる。労働価値説(theory of work value)であり、ロック(John Locke)の思想である。

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ジョン・ロック

 土地を耕して、自分の労働力を投入したのだから、そこでの収穫と土地は自分のものである。であるから、人間の頭数(あたまかず)に税金をかけるのではなく、土地の面積や、収穫高、生産性に対して税金をかけるのである。

 人間も無償で働かせるのではなく、土地所有者は、人の働きに対してきちんと賃金を支払うのである。

 当然その税金を払うのは、土地の所有者ということになる。これでは、これまで人間を自由にこき使って、自分の土地で何をしようと王にも国家にも関係がないと思っていた特権階級、教会らはたまったものではない。

 平安時代の荘園領主たちの特権である「不輸不入の権」(ふゆふにゅうのけん)と同じことである。彼らがテュルゴーを失脚させるために、一致団結したのも無理は無いであろう。

 こう考えれば、従業員、そこで働かされている人に所得税や住民税を支払わせるのは、本当はおかしい、ということが分かるであろう。せっかく税金をモノにかけて、納税を雇用主の義務という近代的な仕組みにしたのに、被雇用者、従業員、アルバイト、サラリーマンに税金をかけるというのは、人頭税そのもので、全く意味を成さない。

 従業員に課される税金とは、立派な二重課税である。そもそも、所得税というのができたのは、二〇世紀に入ってからである。所得税の課税が普通に行われるようになったのは、戦後のことだ。税金のシステムとは、企業や地主などに課すだけでいい。それ以外には外国との取引税だけで、国家の台所は十分に賄(まかな)えたのである。

 IRS―内国歳入庁、インターナル・レヴェニュー・サーヴィス(Internal Revenue Service)―の廃止を訴えるロン・ポールの思想は、「近代」という伝統的思想なのである。この「課税の近代的解釈」の本質を知らずして、「IRSやFRBを廃止しろ」だの「ロン・ポール(Ron Paul)はやっぱり素晴らしい」などと叫んだところで、単なる「アイドルおたく」の「オタ芸」と変わらない。

 「テュルゴー潰し」のために連立を組んだのは、高等法院、特権階級(著者注記:貴族のことであろう)、教会、大土地所有者、そしてフィナンシャーズであるとブリタニカ(ミクロペディア)には書かれている。

 高等法院(Parlement)というのは、フランスで最高の司法権限を持っていた機関で、いわば最高裁判所ということになる。しかし、立法と行政に関しても口を出す権限を有していたため、フランス王と対立していた、などと言われている。

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高等法院の様子

 高等法院の官職の地位は世襲であり、王からその地位を購入していた。いわゆる売位・売官が行なわれていたのである。彼らのことを法服貴族(ほうふくきぞく Noblesse de robe)という。

●法律関係の仕事とは、他人の登記文書の「代書屋」になるということである

 法律関係の仕事、法曹界に身を寄せている人間たちの仕事の本質を説明しよう。

 「法律関係者」の仕事とは、法律や法令の登記である。現在の法曹界も同様に、法関係の仕事というのは全て何らかの登記(とうき)に関わっている。登記に関わるというのはつまり「代書する」ということである。

 免許の更新をするのに警察署に行くと、そのそばにたくさんの代書屋がある。彼らは主に行政書士である。たかが免許更新の簡単なフォームを書くのに、二、三千円とられる。行政書士の簡単な仕事でこれである。これが土地取引以上の法律上の手続き代行ということになると、莫大な額になる。

 弁護士、司法書士、行政書士、宅地建物取引主任者、社会保険労務士、裁判官、検察官、いずれもただの「代書屋(だいしょや)」なのである。他人の公的文書の代書でお金を稼ぐ。

 この中で最も極悪なのは、今も昔も裁判官、判事である。高等法院というのは、判事の集まりである。判事の仕事とは、結局のところ判決文を書く仕事に他ならない。その他、様々な登記文書を書く。判決文書というのも結局は登記文書の一つに過ぎない。

 彼らは判決、登記文書を書く代金、お代で生活しているのである。だから、裁判官などと偉そうなことを言っても、突き詰めて言えば、ただの法律文書登記人なのである。公証人役場(こうしょうにんやくば)の仕事と変わらない。法律家のことを代理人、エージェント(agent)だなどと最近では聞こえのいいことを言うが、彼らのさじ加減一つで、その人の運命の全てが決まるのだ。その中でも、裁判官が最も実権を握っている。

 かつて庶民は裁判官に、判決文を自分に有利に書いてもらえるように、お金を支払っていた。裁判官は、被告、原告、検事、弁護士、様々な登記申請者からお金をせしめていた。これが現在でも裁判の真実である。一般庶民だけではない。王にも同じようにしようとしたのが古代からの歴史である。

 古代ユダヤ王国で、パリサイ派が王も裁判に書けられべきだと考え、実行しようとしていたことに、大王ヘロデ(イエス・キリストを処刑にかけたヘロデ・アンティパスの父親。ユダヤ王国中興の祖)は怒り狂ったのである。

 中世から近代に至っての以上のような事実は、主にイギリスのことである。だから、私はフランスのことをもっと調べてみなければならない。

 フランスの法システムの根本は、イギリスの判例主義ではなく、ローマ法から続く成文法、人定法ポジティヴ・ロー(Positive Law)を土台としているが、高等法院の行ないを見ると、その実情は、判例主義と同じであろう。イギリスの法曹事情に関しては、私は、論文 「0087,88,89」 サイエンス=学問体系の全体像(12,13,14)にて、ジェレミー・ベンサムを書く際に述べた。

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●高等法院とは、人間を(王までを含めて)紙=登記文書という「モノ」に見立てた奴隷所有者

 王と高等法院が対立していたというのは、彼らは王の法律登記に際しても、実権を握っていたからである。王の行なう法律登記とは、「勅令(ちょくれい Edict)」である。

 王もカネになった、いや、王こそがカネになるのである。主権者が最もカネになる。ここから主権の簒奪者(ユーザーパー usurper という)という考えが出てくる。

 国際的金融業者、インターナショナル・フィナンシャーズ(international financiers)も金融の面で同じことを考えてきた。お金を貸し付けて、それを返せるほどの人間とは、一国の持ち主、主権者である。

 何なれば、お金を返してくれなくともよい。主権者が、国が、王様が返せなくなるまでお金を貸す。そうすれば、「王様、大丈夫でございます。王様の徴税権を預からせていただきとうございます。私たちが、もっと王様の懐にお金が入るようにして差し上げましょう」と言って、さまざまな、思いもつかなかった徴税細目を作る。そうして、王様の代理人となる振りをして、事実上、一国の主権、ソーヴリィンティ(sovereignty)を「簒奪」(ユーザープ usurp )するのである。

 王が破産するまでお金を使ってしまうのは、戦争である。だから、フィナンシャーズたちは戦争が大好きなのだ。今も昔も。

 これの法律版が、高等法院であり、イギリスでは近代に至るまで変わることのない、「自然法(Natural Law)」という名の判例法システムだったのである。「判決文」というのは「法律の登記」と同義である。「公文書の登記」である。判決を集めたのが判例集であり、それは「法律の登記集」である。

 「お前の言い分を正式なもの(文書)にしてあげるから、金をよこせ」と言うことである。つまり、法律をお前―原告、被告、弁護士、検事、警察、司法書士、行政書士、そして為政者=王―のために作ってやる、ということだ。

 人間を数字の書かれた紙切れとして考えること、マネーの思想は、人間を法律、判例法という文書、紙切れにして、モノとして考えることと同じである。法曹界にいる人間たちは、その本性の部分では、人間一人ひとりが判例であり、登記文書であり、金づる、いやカネそのものであるかのように思っているだろう。

 当然、法律を登記、法律を「作って」あげて、一番お金になるのは誰かと言うことになる。金融業者と考えは同じである。それは主権者、王である。

 王の言い分、王の命令、王の申請する登記文書とは、「勅令」である。これを登記する手続き―代わりに法律専門家である我々法曹界のトップ、裁判官が書いて差し上げようという意味―を握れば、国を乗っ取ったも同然である。自分たちが勅令を作って差し上げるのだ。勅令を作ること自体が、自分たち高等法院の仕事だったのだ。だから、高等法院は、それごとルイ一五世に追放されたのである。

 高等法院を追放したのは、ルイ一五世に任命された大法官ルネ・ド・モープー(Rene Nicolas de Maupeou)である。モープーは、一七七一年高等法院をトロアに追放した。代わりに自ら裁判所を新設し、裁判官には国庫から給料を支払った。ところが、高等法院は、ルイ一六世が即位すると、復活する。

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ルネ・ド・モープー

●テュルゴー本人は特権会階級を脅かすつもりはなかった―ただ純粋な自由主義経済推進者であった

 平凡社「世界大百科事典」によれば、テュルゴーは重農主義者ではあるが、もう一歩踏み出した考えをしている。彼は、所有権を「占有、あるいは最初の占有者の権利」と規定し、所有権を社会の基礎として自由放任論を導き出した。また、貨幣の所有権を認めたことから、利子をも認めている。

 「占有者の権利」とはロックの思想であり、「モノに対する所有権」である。労働価値説であるから、人間に対する所有権、つまり「奴隷の所有」は認められない。すべては貨幣、お金に換算するという、まさにレイシオ、合理の思想である。だから、金融に際しては利子を認めざるを得なくなる。

 結果的に、大土地所有者や教会の制度自体を脅かすものではない。ただし、テュルゴーは農民や労働者をお金に換算するということは認めていない。

 農民に仕事をさせるのなら、その生産性に応じて賃金を支払い、生産高や土地の面積に応じて雇い主、資産の所有者が国に税金を払え、ということになる。土地所有者は、土地で生産された上がりを市場で売れ、となる。だから、穀物取引の自由化とは当然セットになる。だから麦の大暴騰も起きた。これは自由主義経済政策の限界であり、失策である。

 フィナンシャーズ、金融業者らに対しては、利子を認めるというのだから、なぜ彼らがテュルゴーの政策に反対したのかが分からない。一七七四年の凶作のために起こった穀物価格の暴騰など、稼ぐチャンスだったはずである。

●いつの間にか、現状に逆行した「米先物取引試験上場」法案が可決している

 そうこうしている間に、いつの間にか、日本で米相場が復活した。二〇一一年八月八日月曜日のことである。八月二日にアメリカがデット・シーリング引き上げ期限を迎え、国家破産と世界大恐慌勃発の可能性が高まっているこのタイミングにである。

 正式名称は「米先物取引試験上場」(こめさきものとりひきしけんじょうじょう)と言うそうだ。

 言っておくが、幕末に諸藩が堂島のコメ市場に参加して、出来もしないバクチ打ちで失敗し、米価が大暴騰して、コメ市場が機能を喪失したことや、大正七年の米騒動時も、不作だったわけでもなくコメ価格が暴騰したのは、スペキュレイターズ、投機筋の仕業である。この時、富山の婦人たちが立ち上がり、時の内閣が倒れたのは有名な話だ。

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堂島米会所立会の様子

 これは、一七七四年のテュルゴーの政策と同じである。一七七四年の麦価格の暴騰は、不作が原因だと言われているが、私はそうは思わない。これはテュルゴーのリベラルな経済改革の一つが裏目に出た結果である。

 テュルゴーが穀物市場を自由化したため、国際的金融業者でありスペキュレイターズ(speculators)である人間たちの投機マネーの流入によって起きたのだ。

 この一五年後に同じようにパリの物価が高騰した時、数千人の婦人たちがヴェルサイユ宮殿を取り囲み、圧力をかけたため、ルイ一六世は人権宣言を承認し、マリー・アントワネットと共にパリのテュイルリー宮殿に強制的に移動させられたのである。

(つづく)