「0164」 論文 大きく間違いをして、副島隆彦だけではなく、『バーナード・マドフ事件 アメリカ巨大金融詐欺の全容』に関わった全員を貶めた藤沢数希氏 古村治彦(ふるむらはるひこ)筆2011年11月6日

※著者(本サイト管理人)から。今回のこの文章は論文というほどのものではありませんので、本来であれば私個人のブログである「古村治彦の酔生夢死日記」(http://suinikki.exblog.jp/)に掲載すべきでした。しかし、ブログの字数制限に該当したため、掲載できず、やむを得ず、ウェブサイト「副島隆彦の論文教室」をお借りしました。執筆陣の皆様、読んでくださっている皆様に対して、勝手なことをしてしまい、お詫びを申し上げます。

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 気鋭の経済評論家・経済学者藤沢数希氏が、『日本人がグローバル資本主義を生き抜くための経済学入門 もう代案はありません』(ダイヤモンド社、2011年10月)という本を出版したそうだ。藤沢氏は大学での研究者をしていた経験があり、著作を上梓するにあたっては、参考文献や引用などに気を遣い、丁寧に行っていると自らのブログで述べている。そうした「誠実な」態度が読者を獲得しているようである。著作が出版不況の中でもよく売れているのはそれを示す一つの現象であると言える。

 その藤沢氏は、ブログ「金融日記 藤沢数希が社会について日々徒然と書き綴る。」に、2011年11月5日付の記事として「副島隆彦(そえじまたかひこ)さん、ごめんなさい」というタイトルの文章を掲載した(http://blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/)。藤沢氏が出版した著書『日本人がグローバル資本主義を生き抜くための経済学入門 もう代案はありません』に、本来であれば参考文献として『バーナード・マドフ事件 アメリカ巨大金融詐欺の全容』(アダム・レボー著、副島隆彦監訳・解説、古村治彦訳、成甲書房、2010年4月)を掲載すべきだったのにそれをしなかった。それは、監訳者に「副島隆彦」の名前があったからだ、という内容の文章が掲載されている。ブログ記事から一部引用する。

(引用はじめ)

 この本自体は、バーナード・マドフの人間関係を詳細に追った秀逸なノン・フィクションなのだが、副島隆彦氏による解説文が常軌を逸していた。ユダヤ人差別の中でも、出身地の違いによるユダヤ人によるユダヤ人の差別があるらしく、副島隆彦氏によればこの事件はすべて、そうやって差別されたユダヤ人のマドフが、マドフを差別したエリートのユダヤ人に対する、最初から入念に計画された復讐劇だとされた。そんな、馬鹿な! 実際に本書を読み進んでも、そういった記述は全くなく、副島隆彦氏の荒唐無稽なストーリーがどこから湧き出してきたのか、僕には皆目見当もつかなかった。

 副島隆彦氏によれば、アポロ計画は実際には誰も月には行っておらずアメリカの茶番劇だし、ホロコーストもなかったし、オバマ大統領は世界を支配する巨大な闇の権力の操り人形(パペット)なのだ。長い時間をかけて一生懸命書いた、まだ一度もセックスをしたことがない美しい女子高生みたいなまだ僕と編集者しか読んでいない原稿に、どうしても「副島隆彦」という文字列を書きたくなかった。どうしても。それは何か汚らわしいことのように思えたし、恥ずかしいことのようにも思えた。「副島隆彦」という4文字、たった4文字を僕の本の片隅に少しでも書くことにより、僕の本が呪われてしまい、その他大勢のトンデモ本の仲間入りを宣告されてしまうように思えたのだ。それはレイプされる、とまではいかないけど、真っ白で柔らかい処女の肌に、薄汚れた二級市民の体液をかけられるような感覚だった。

 僕の本は、ミルトン・フリードマンやフリードリヒ・ハイエクという自由主義の巨人たちの系譜を引き、グレゴリー・マンキューやポール・クルーグマンの教科書と同じような、正統派の経済学のイントロダクションでなくてはならなかった。そこに「副島隆彦」という名前を書くわけにはいかなかった。だから僕は彼の翻訳を大いに参考にしたにもかかわらず、そのことを隠し、彼の存在を無視した。言論の世界で、僕はひっそりと誰にも知られることなく、彼の作品を盗み、そして彼を殺した。僕は最低の人間だった。最低の犯罪者だ。

(引用終わり)

 藤沢氏は引用した部分で、「副島隆彦氏によればこの事件はすべて、そうやって差別されたユダヤ人のマドフが、マドフを差別したエリートのユダヤ人に対する、最初から入念に計画された復讐劇だとされた。そんな、馬鹿な! 実際に本書を読み進んでも、そういった記述は全くなく、副島隆彦氏の荒唐無稽なストーリーがどこから湧き出してきたのか、僕には皆目見当もつかなかった」と書いている。

 藤沢氏が「荒唐無稽なストーリー」と呼んでいるのは、「差別されたユダヤ人のマドフが、マドフを差別したエリートのユダヤ人に対する、最初から入念に計画された復讐劇だ」という部分である。言い換えると、「マドフがユダヤ人内部の、ユダヤ人同士の差別を受け、それに対する復讐のためにねずみ講を行った」ということである。

 監訳者である副島隆彦が上記のような「荒唐無稽な」ストーリーを解説文に書くという常軌を逸した行動に出たために、『バーナード・マドフ事件』を参考文献に入れたくなくなり、それで意図的に入れなかった、と藤沢氏は書いている。

 私はこの藤沢氏の文章には大きな間違いがあると主張する。私は以下の内容を主張する。@監訳者である副島隆彦、訳者である古村治彦が藤沢氏の言う「荒唐無稽な」ストーリーを『バーナード・マドフ事件』のまえがき、あとがきに掲載していない。A藤沢氏の言う「荒唐無稽な」ストーリーは著者アダム・レボーの主張である。

 一番目の主張について書く。『バーナード・マドフ事件』には、監訳者まえがきと訳者あとがきがある。まえがきは副島隆彦が、あとがきは古村治彦が書いた。ここに全文を掲載するのが著作権上許されるのかどうかわからない。ずるい書き方になるが、是非この文章を読んでいる皆さんに判断していただきたい。今、私は自分の手元にある『バーナード・マドフ事件』の監訳者まえがきと訳者あとがきを読んでみた。どこにも藤沢氏が言う「荒唐無稽な」ストーリーなるものは書かれていない。そう私は判断する。そのように私は読む。どのページに藤沢氏の言う「荒唐無稽な」ストーリーが書かれているのか、大学の研究者としての経験があり、本をきちんと読まれる藤沢氏に指摘していただきたい。

 二番目の主張について書く。藤沢氏がブログに掲載した記事の中で、「荒唐無稽な」ストーリーと書いた内容は、著者であるアダム・レボーの主張であって、副島隆彦の主張でもなんでもない。

 私は『バーナード・マドフ事件 アメリカ巨大金融詐欺の全容』の訳者として、本の宣伝活動を、ウェブサイト「副島隆彦の学問道場」(宣伝文へはこちらからどうぞ)と「副島隆彦の論文教室(宣伝文へはこちらからどうぞ)」で行った。私は、「副島隆彦の学問道場」に掲載してもらった宣伝文の中で、藤沢氏が「荒唐無稽な」ストーリーとしている内容に該当する文章を書いている。それを以下に引用する。

(引用はじめ)

 この本全体がお勧めなのですが、私が本書の中で、読者の皆様に特にお勧めしたいのは、第1章の「稀代の詐欺師を生んだ街」と第10章の「なぜ人々は騙されたのか」です。第1章は、マドフが生まれ、活動した街ニューヨークの近現代史が克明に描かれています。著者のレボーは、ユダヤ人社会に焦点を当ててニューヨークの歴 史を描いています。その中で、ドイツから最初にアメリカに渡ってきたドイツ系ユダヤ人であるイェッケ(Yekkes)の東欧から遅れてやってきた貧しいユダヤ人移民に対する激しい差別、ユダヤ人マフィアの活躍の部分など大変読み応えがあります。この第1章から重要な部分を以下に引用します。

(引用はじめ)

  ドイツ系のイェッケと東欧からのユダヤ移民との間にある分裂は、歴 史の一コマ以上の重要性がある。ユダヤ人社会内部の悲しい分裂は、バ ーナード・マドフの人生にとって重要な要素であり、マドフたち移民三 世たちの世代に共通する感情をもたらした。今なお、マドフたちの世代 は同じユダヤ人から差別されたという悲憤を引きずっているのだ。(4 9ページ)

(引用終わり)

 バーナード・マドフは、自分の祖父母の代が受けた屈辱を忘れずに、復讐の気持ちを秘めながら、ユダヤ人の金持ちたちを騙していきました。彼の起こした事件が単純な詐欺、ネズミ講ではないのは、こうした壮大な歴史物語が裏側にあるからです。

(引用終わり)

 これは私、古村治彦が書いた文章であることをまずはっきりと宣言する。そして、私は『バーナード・マドフ事件』から引用してこの文章を書いている。しかし、藤沢氏流に書くなら、もっと「荒唐無稽」という表現に適切な、引用すべき部分が『バーナード・マドフ事件』第2章「平凡な青年の幸福な日々」にあった。それを以下に引用する。

(引用はじめ)

 かつて、お高くとまっていたアッパー・イーストサイドの上流ユダヤ人たちは、バウリー通りのシュターカー(ならず者)を侮蔑し、差別した。その復讐が、シュターカーの子孫であるバーナード・マドフによってなされるのは、聖書に出てくる物語のような、時代を超えたストーリーだといえるだろう。(76ページ)

(引用終わり)

 この部分は『バーナード・マドフ事件』から引用した。印刷してある通りに書いた。この文章はアダム・レボーが英語で書いて、私が日本語に翻訳したものだ。「お前のようなどこの馬の骨かもわからん人間の翻訳が信じられるか」と言われてしまえばそれまでだが、それなら原書にあたってみてもらいたいと思う。

 私は「副島隆彦の論文教室」での宣伝活動で、『バーナード・マドフ事件』の著者アダム・レボーが、ロンドンを拠点とするユダヤ系の新聞『ザ・ジューイッシュ・クロニクル』紙の2009年8月20日版に掲載した記事を紹介した。その記事のタイトルは、「マドフはどうしてネズミ講事件を起こしたのか?それは復讐のためである(What made Madoff do it? Revenge) 」というものだ。その記事から一部を以下に引用する。

(引用はじめ)

 マドフは、ホロコーストの生き残りでノーベル賞受賞者のエリ・ヴィーゼル(Elie Wiesel)さえも騙した。ヴィーゼルは彼自身の資産と、運営する慈善団体の資産のほとんどをマドフに投資して失ってしまった。バーナード・マドフの祖父母が移民船から上陸し、イェッケたちから差別されてから1世紀が経った。1世紀が経っても、マドフはシェターカーであり、イェッケたちに復讐(revenge)をしようとしたのだ。これはもう聖書に出てくる歴史物語のようなものなのだ。(翻訳は引用者・古村)

(引用終わり)

 アダム・レボーは『バーナード・マドフ事件』だけでなく、新聞への寄稿記事でも「マドフの行為は復讐であった」という主張を行っている。これはレボーの綿密な取材の結果、彼が辿り着いた結論だ。

 藤沢氏は、ブログの記事の中で、「この本自体は、バーナード・マドフの人間関係を詳細に追った秀逸なノン・フィクションなのだが、副島隆彦氏による解説文が常軌を逸していた。ユダヤ人差別の中でも、出身地の違いによるユダヤ人によるユダヤ人の差別があるらしく、副島隆彦氏によればこの事件はすべて、そうやって差別されたユダヤ人のマドフが、マドフを差別したエリートのユダヤ人に対する、最初から入念に計画された復讐劇だとされた。そんな、馬鹿な! 実際に本書を読み進んでも、そういった記述は全くなく、副島隆彦氏の荒唐無稽なストーリーがどこから湧き出してきたのか、僕には皆目見当もつかなかった」と書いている。

 ところが、藤沢氏が言う「荒唐無稽な」ストーリーを書いているのは著者のアダム・レボーなのである。そして「そんな、馬鹿な! 実際に本書を読み進んでも、そういった記述は全くなく」などと書いているが、これまでに示したように、『バーナード・マドフ事件』の本編(監訳者まえがきと訳者あとがきを除いた部分)には、藤沢氏の「荒唐無稽な」ストーリーが書かれているのだ。

 「そんな、馬鹿な! 実際に本書を読み進んでも、そういった記述は全くなく」という記述が上記の藤沢氏のブログ記事からの引用部にあるが、この記述を読む限り、藤沢氏が『バーナード・マドフ事件』を実際に「読み進めた」のか大変疑わしくなってくる。

 なにしろ、藤沢氏は、「この本自体は、バーナード・マドフの人間関係を詳細に追った秀逸なノン・フィクションなのだが」と書いておきながら、この本の著者アダム・レボーの主張である、「ユダヤ人内部で差別される方であった先祖を持つマドフが復讐のためにネズミ講を行った」という内容を「荒唐無稽な」ストーリーとして切って捨てているのだ。

 また、藤沢氏が言う「荒唐無稽な」ストーリーを生み出したのが、著者アダム・レボーではなく、「監修・翻訳」の副島隆彦だと言うのだ。そして、こんなおかしな「翻訳者」である副島隆彦の名前が自分の本の参考文献リストに載ることが耐えられないとして、本を参考文献リストに掲載しなかったのである。

 些末なことで恐縮だが、藤沢氏は、「監訳・解説」と書くべきところを「翻訳・監修」などと間違って書いている。研究者としての経験を基にして参考文献リストを作るなら、著者、監訳、翻訳などをきちんと区別し、いい加減にごちゃ混ぜにすることはない。今回は参考文献に掲載しなかったが、『バーナード・マドフ事件』について「翻訳・監修」などという形で掲載すればそれは誤字、脱字、誤植である。参考文献に参考にした文献を掲載しないことと著者、監訳・解説、訳をきちんと区別しないことは、どっちにしても大学の研究者としては初歩の初歩、容認されない、みっともないミスである。

 藤沢氏のブログ記事「副島隆彦(そえじまたかひこ)さん、ごめんなさい」から以下の文章を引用する。

(引用はじめ)

 長い時間をかけて一生懸命書いた、まだ一度もセックスをしたことがない美しい女子高生みたいなまだ僕と編集者しか読んでいない原稿に、どうしても「副島隆彦」という文字列を書きたくなかった。どうしても。それは何か汚らわしいことのように思えたし、恥ずかしいことのようにも思えた。「副島隆彦」という4文字、たった4文字を僕の本の片隅に少しでも書くことにより、僕の本が呪われてしまい、その他大勢のトンデモ本の仲間入りを宣告されてしまうように思えたのだ。それはレイプされる、とまではいかないけど、真っ白で柔らかい処女の肌に、薄汚れた二級市民の体液をかけられるような感覚だった。

 僕の本は、ミルトン・フリードマンやフリードリヒ・ハイエクという自由主義の巨人たちの系譜を引き、グレゴリー・マンキューやポール・クルーグマンの教科書と同じような、正統派の経済学のイントロダクションでなくてはならなかった。そこに「副島隆彦」という名前を書くわけにはいかなかった。だから僕は彼の翻訳を大いに参考にしたにもかかわらず、そのことを隠し、彼の存在を無視した。言論の世界で、僕はひっそりと誰にも知られることなく、彼の作品を盗み、そして彼を殺した。僕は最低の人間だった。最低の犯罪者だ。

(引用終わり)

 藤沢氏は、自分を「最低の人間だった。最低の犯罪者だ」と殊勝なことを書いているが、それに行きつくまでに書かれていることはなんともはや、副島隆彦への悪罵以外の何物でもない。今回の『バーナード・マドフ事件』について言えば、「副島隆彦が『荒唐無稽な』ストーリーを生み出した」というのは完全に言いがかりであり、それこそ、藤沢氏が「荒唐無稽な」作り話を基にして副島隆彦を侮辱したということなのだ。何か面白おかしく書けば、参考文献リストに参考にした本を掲載しなかったことが許されるとか、人々の目がそれに向かないとでも思ったのかもしれない。しかし、最も正直さからかけ離れた行為であり、副島隆彦の名前を良いように利用しただけのことだ。そんな人間がよく自分の本を「ミルトン・フリードマンやフリードリヒ・ハイエクという自由主義の巨人たちの系譜をひき」などと臆面もなく書けるものだ。

 藤沢氏は、著者、監訳者、訳者をそれぞれ証拠や根拠もないままに、自身の著作の参考文献に掲載しないという形で貶めた。副島隆彦が、藤沢氏の期待通りに、『バーナード・マドフ事件』の中で、「荒唐無稽な」ストーリーを書いた、だから参考文献に掲載しなかった、と藤沢氏は書いている。しかし、その藤沢氏の書いていることこそ、「荒唐無稽な」ストーリー、滑稽な作り話であった。私は、『バーナード・マドフ事件』の「訳者」でありながら、その存在を全く無視された(藤沢氏の表現を借りるなら「殺された」)。それで怒っているということはない。ただ、「この藤沢氏という人はゴリッパな方なのに何をしているのだろうか」と呆れているだけである。そしてただただ「苦笑い」をし、もしかして、藤沢氏のブログ記事の内容な壮大な、インターネット上で使われる言葉である「釣り」であり、この文章を書いた3時間ほどの時間は無駄だったのかという思いが湧き上がっている。

(終わり)