「0001」 論文 アリストテレス著『ニコマコス倫理学』―エクィリブリアム、「中庸」の思想(1) 鴨川光(かもがわひろし)筆 2009年2月20日

 

 2004年(平成16年)、ウェブサイト「副島隆彦(そえじまたかひこ)の学問道場」(http://www.soejima.to/)内で「正義、ジャスティス(justice)」に関して議論が活発に行われていました。ジョン・ロールズ(John Rawls)などのレオ・シュトラウス(Leo Strauss)の弟子たちの「正義論」を下敷きに奥田氏や小山氏らが優れた理論を展開していたことを記憶しています。

 そうした議論の中から、近代社会の基本思想であるレイシオ(ratio、理性、合理)の正体はユダヤ人たちの拝金・強欲の思想であるということが副島先生によって喝破(かっぱ)されました。(ウェブサイト「副島隆彦の学問道場」 今日のぼやき「547」 論文「『正義(justice)とは何か―副島隆彦の正義論を読み解く―』。これは『日本の近代(a modern)への対策と副島隆彦の思想』の続編でもあります。」奥田勝典記 2004.4.3」をお読みください)

 副島先生は、このレイシオの思想からエクィリブリアム(equilibrium)という考えにつながっていく、という言葉を残してそれから約5年の歳月が過ぎました。

 このエクィリブリアムという考え方について私鴨川は同年8月にエッセイを「学問道場」に投稿しております。

 これからお話しするのはこの2004年当時に行われていたこの奥田、小山氏らによって行われていた議論に続くものであります。

 それはアリストテレス(Aristotle)の「中庸(ちゅうよう)」こそが、これらの議論の要であり、理性、正義、徳、エクィリブリアムの正体なのです、ということをお話しようと思います。

 

「中庸」とはエクィリブリアム、イコール・バランスのこと

アリストテレス

 アリストテレス(前384年―前322年)の思想の本質は彼の著書『ニコマコス倫理学』(Nicomachean Ethics)におけるエクィリブリアム・セオリー(equilibrium theory)にあります。一般的にアリストテレスは、「中庸」を説いたといわれています。この「中庸」がエクィリブリアムのことなのです。

『ニコマコス倫理学』

 その前に、この聞きなれないエクィリブリアムを説明しなければいけません。

 エクィリブリアムというのはラテン語のエクィ(equi-)という接頭語から来ています。難しい響きなのでなんとなく難しそうな言葉のように思えますがそうではありません。私たちが「物事にはバランスが大切だ」とよくいいますが、あのバランスのことなのです。

 正確には「イコール・バランス(equal balance)」という意味です。エクィがイコールでリブリアム(-librium)が重さ、バランスのことです。エクィとイコールのイコはアルファベットで表すとequとなるので同じものなのです。まさに「同じ、同等な」という意味を表します。

 アリストテレスは「均等にバランスを取ることが善であり、徳であり、そして正義である」と述べているのです。2300年ほど前のことです。

 「マネー、お金(money)」もこの考えからきています。「均等」という考えに微分されたものです。このことは後述します。

 エクィリブリアムというラテン語は、もとは「イソン、均、均(ひと)しさ」というギリシャ語からラテン語に移し変えられたものです。アリストテレスも『ニコマコス倫理学』の中でこのイソン(ison)という言葉を使っています。

 イソンは現代の英語では「アイソ」(iso‐)という接頭辞になって残っています。アイソトープ(isotope)というのがありますね。あのアイソです。孤立という意味のアイソレーション(isolation)もアイソが接頭辞です。

 このイソンがラテン語のエクィequi-に当たります。「等しい」という意味です。

 

バグダッドとイベリア半島でアリストテレスの翻訳が行われていた

 なぜ音韻がまったく違う言葉に移し変えられたのか、今のところわかりません。

 今わかっていることは、12世紀ごろバグダードから移動してきたムータジラ派(Mu'tazila)というイスラム教徒たちが、イベリア半島のトレドやコルドバという町で、新たに翻訳学院を作りました。そこでアリストテレスの著作のアラビア語からラテン語への移し変え作業と注釈作りが行われたのです。

 このムータジラ派というのは理性と信仰は矛盾しないという思想を唱えたイスラム教徒たちで、サアディア・ベン・ヨーゼフ(Saadiah Ben Joseph)というユダヤ教ラビ(rabi)に多大な影響を与えた集団です。アヴィセンナ(Avicenna)(イブン・シーナー、Ibun Sina)という医者が当地における最後で最大の人物でした。

 このバグダッドにてギリシャ語からアラビア語への移し変えが完了したのです。

 彼らがイベリア半島へ活動の拠点を移し、コメンテイターズ(Commentators)というアリストテレスの注釈を行う人物たちがラテン語への翻訳を完成させました。当地での大物はアヴェロエス(Averroes)(イブン・ルシュド、Ibun Rushd)です。

 このときにアリストテレスの「イソン、均等」が「エクィ」に変ったのです。

 この後、アヴィセンナ、アヴェロエスの影響を受けたモーゼス・マイモニデス(Moses Maimonides)というユダヤ人学者とトマス・アクィナスの師匠アルベルトゥス・マグヌス(Albertus Magnus)というキリスト教スコラ神学者が特に『ニコマコス倫理学』自らの著作にふんだんに引用し、注釈を書いています。

 

モーゼス・マイモニデス アルベルトゥス・マグヌス

 以上のことはクラウス・リーゼンフヴァー著『中世思想史』(平凡社)に詳しく書かれていますからぜひお読みになってみてください。(注記 『ニコマコス倫理学』のラテン語訳自体はオックスフォード大学の初代総長ロバート・グロステスト(1170年頃―一1253年)が1246―7年の間、イギリスで行っています。ですからイソンはアラビア語を通過せず直接ラテン語に移し変えられた可能性が高いようです。クラウス・リーゼンフヴァー著『中世思想史』309ページと326ページにこのことが書かれています)

 

アリストテレスと釈迦は同じことを言っている

 ところで話をひっくり返すようですがアリストテレスはこの「イソン、均等、均しさ」を最上のものといっていないのです。

 今「中庸」の正体は「イソン、エクィリブリアム」だといいましたが、これは間違いでした。本当は「中庸」は「メソン」という言葉のことをいいます。

 メソンとは物事や関係の「中(ちゅう)」という意味です。アリストテレスはこの中、中庸こそが大事で「何事も行き過ぎてはいけない。多すぎても少なすぎてもいけない」といっています。

 この「メソン、中、中庸」が善であり、得であり、正義であるといっているのです。その意味で一般的に言われるところのいわゆる「中庸の徳」を説いたというのは正しいと思います。

 「何だ、何事もやりすぎはだめなのか。当たり前のことじゃないか」といわれるかもしれませんがまさしくそのとおりのことなのです。私たちが子供のころから父母や先生からいわれてきた人間として当然のことを言っているのです。

 偶然かもしれませんがお釈迦様、ゴーダマ・シッダルタ(Gotama Siddhattha)も同じような言葉を述べられています。『ブッダのことば(スッパニパータ、Sutta Nipata)』(中村元(なかむらはじめ)訳、岩波書店刊)から引用します。

ブッダ

(引用開始)

 走っても疾(はや)過ぎることなく、また遅れることもなく、「世間における一切のものは虚妄(きょもう)である」と知っている修行者は、この世とかの世をともに捨て去る。―蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。(12ページ)

 賢者は、両極端に対する欲望を制し、(感官と対象との)接触を知り尽くして、貪ることなく、自責の念にかられるような悪い行いをしないで、見聞することがらに汚されない。(176ページ)

 師(ブッダ)は答えた。

 「メッテイヤよ。諸々の欲望に関しては清らかな行いを守り、妄執を離れて、常に気をつけ、究め明らめて、安らいに帰した修行者、―かれには動揺は存在しない。かれは両極端を知り尽くして、よく考えて、(両極端にも)中間にも汚されない。かれを、わたしは〈偉大な人〉と呼ぶ。かれはこの世で縫う女〈妄執〉を超えている。」(219ページ)

(引用終わり)

 速すぎることもなく、遅すぎることもなく、両極端を知り尽くして、中間にすら汚されない、行き過ぎの悪さを戒めるこの言葉は中庸の大切さを説いている部分です。

 この2人は4、5000年といわれる現代に続く文明が始まってからその中間地点、今から2000年ほど前にいた人物としては大きくは同時代の人と見ていいと思います。

 アリストテレスはこのメソン、やりすぎはいけない、というごく自然の考えを論証するために仕方なくエクィリブリアム・セオリーを導入しました。あの古代ギリシャのことです。アテナイにはおそらくは手ごわい論敵がたくさんいたのでしょう。

 エクィリブリアムというのはそれ自体がアリストテレスの説いたことではありません。「メソン、中庸」という思想をゆるぎないものとするために仕方なく敷いた理論でしかないのです。

 私は「エクィリブリアム・セオリー、均衡理論(きんこうりろん)」という言葉を使います。というのは普通エクィリブリアム・セオリーといった場合ニュートンの「力の均衡」(エクィリブリアム・オブ・フォーシズ、equilibrium of forces) のことか、ワルラスの経済理論「一般均衡理論(いっぱんきんこうりろん)」(ジェネラル・エクィリブリアム・セオリー、general equilibrium theory)の事を指すからです。

 熱いものを冷たいものに近づけると熱が低いほうへと移っていく、あの化学理論も同じです。

 ニュートンとワルラスこの二人がこの理論を使ってそれぞれ近代物理学と経済学を作り上げました。

 この近代科学の礎(いしずえ)となった「均衡理論」とはもともとはアリストテレスの「中庸」のことなのです、ということを強調するためにわざとエクィリブリアム・セオリーという言葉を使おうと思います。

 

「中庸」ということと「宜(よろ)しさ」

 アリストテレスの中庸、エクィリブリアム・セオリーについての記念碑的な発言を、『二コマコス倫理学』から引用します。
 
(引用開始)
 

 すべての連続的にして可分割的なものにおいては、われわれは「より多き」をも、「より少なき」をも、「均しき」(イソン)をも取ることができる。そしてそれも、ことがらそれ自身に即してであることもできるし、またわれわれへの関係においてであることもできるのである。「均」とは、過超と不足との何らかの意味における「中」にほかならない。

 いま、ことがら自身についての「中」とは、両極から均しきだけを離れているところのものの謂(い)いであり、(この意味における「中」は万人にとって同一である、)われわれへの関係における「中」とは、これに対して、多すぎず不足しないものの謂いである。

(中略)

 事実、われわれが見事な作品に対して「そこには取り除くべき何ものもなくふかすべき何ものもない」という言葉を呈するのを常とするのもこの故であって、これは、過超や不足は「よさ」を喪失せしめるに反して「中」それを保全するものなることを含意している。

(中略)

 もししかるに、「アレテー」というものは―自然もそうであるが―いかなる学問・技術よりもさらに精密な、さらにすぐれたものであるとするならば、それはやはり、「中」を目指すものたるのではなくてはならないであろう。

(中略)

 徳とは、それゆえ、何らかの中庸(メソテース)ともいうべきもの―まさしく「中」(メソン)を目指すものとして―にほかならない。(69−71ページ)


(引用終わり)

  アリストテレスが言ったのはこういうことです。

 世の中で何かを分けようとした場合、人よりも多くとりすぎたり、少なかったり、みな平等に分けられる場合があります。人と交わった場合にも、人よりも得をしたり損をしたり、五分五分であったりします。

 人と平等の分け前があるときが「中、中庸」といいます。極端に行き過ぎない、何事もほどほどに済ませましょう、それがいいのです、ということです。

 この中庸、ほどほどの状態はすべての人々に当てはまります。永久不変の真実です。

 よい作品や技術、学問も余計なものを付け足す必要もなければ取り除く必要もありません。それは自然の法則です。自然にのっとったものがよいのです。

 優れた人間はこの何事も過ぎることも欠陥のありすぎることのない人のことです。

 人の持つ徳とはこの「中庸」のことです。

 アリストテレスの思想には「中庸」よりも重要な思想があります。後にお話しますが、大事なことなので先に少し言っておこうと思います。

 アリストテレスが最上のもの、最上の善として挙げているのは実は「中庸」ではなく「衡平(こうへい)」なのです。

 本書でアリストテレスは正義とは何であるかについても説明しています。そして初めて自然法と人為法(じんいほう)について述べます。これは今日につながる法思想の記念碑的出来事でもあります。

 この「正義」の正体も先に述べた「均、均等、イソン」であると論じますが、最終的にはそうした正義や善より上であり、最善なものは「宜しさ(よろしさ)」だというのです。

 これでは何のことだかわかりませんね。「善」も「宜」も日本語では「よい」と読みますから。

 もちろんアリストテレス2000年前のギリシャ人ですからこれをギリシャ語で表しています。ギリシャ語で「善」はアレテーといい「宜」はエピエイケイア(epieikeia)といいます。

 アレテーはひとまずおくとして、エピエイケイアは現代の英語ではエクィティ(equity)と呼ばれています。エクィティは法律用語として非常に大切な言葉で、自然法やコモン・ロー(Common Law)、成文法とはべつのものとして存在しています。「衡平(こうへい)」といいます。厳密な意味では法ではありません。

 このピエイケイアのpの部分がいつしか左右反対に表記されてqとなっただけです。

 この「エクィティ」とは一言で言ったら「慈愛や人情」のことです。今も昔も世の中は法で解決できないことばかりです。法の枠組みでは解決できないことを「衡平、エクィティ」で補正しなさい、といっているのです。

 そして実はこの「エクィティ、エピエイケイア、宜(よろ)しさ」をこそ最もよいものだと本書『ニコマコス倫理学』で宣言したのです。『ニコマコス倫理学』から引用します。


(引用開始)

 「宜」ということは或る種の「正」よりはよきものであるにかかわらず、それはやはり「正」なのであって、何らかの別の類として「正」よりもよくあるのではない。だからして、同一のことがらが正しくあるとともに宜しくもあるといえるし、また、これら両者を比較して、どちらもいいが「宜」のほうがよりすぐれている、ということもできるのである。


(中略)


 かくして、「宜」とはなんであるか、すなわち、それは「正」であり、しかも或る種の「正」よりもよりよき「正」であることが明らかとなった。(208−210ページ)

(引用終わり)

 これも後述しますが、この「或る種の正」とは「配分的正義(distributive Justice)、人為法、人定法」のことです。人間の作った法の枠組み、成文法のことです。

 しかし「宜しさ、衡平、エクィティ」も同じように正義であり、すべての法と同じように「中庸」を目指します。そしてこの点で「宜しさ、衡平、エクィティ」のほうがよりすぐれた正義だとアリストテレスによってはっきり宣言されています。

 話がそれました。それではこの舌を噛みそうな言葉、エクィリブリアムに戻りましょう。

 アリストテレスは本書にて段階を追って話を進めていきます。それは「善、幸福、徳(卓越性)、中庸、均、正義、貨幣、法(自然法、人為法)、そして宜しさ」の順です。

 これらは後のすべての哲学上のキーワードとなるものです。つまりこの『ニコマコス倫理学』こそ哲学書の中の哲学書なのです。すべての学問、哲学、宗教の最も基本になるものです。アリストテレスの『政治学』もこの後に続くものなのです。まずは『ニコマコス倫理学』を読まなければ始まりません。
 

「すべての学問は善を志向する」

 それでは一つ一つ順を追って説明していきます。

 アリストテレスはまずあらゆるものは善を目指すといって話を始めます。『ニコマコス倫理学』から引用します。
 
(引用開始)

 いかなる技術、いかなる研究も、同じくまた、いかなる実践や選択も、ことごとく何らかの善(アガトン)を希求していると考えられる。(51ページ)


(引用終わり)
 
 どうでしょうか。すべての学問や人間の行為は「善」を目指します、とはっきり宣言しています。すべての人間行為の大前提です。大前提として「善」があります。これはいくら強調しても、強調し足りないほど大切な出発点です。

 これは人間の本性は悪であるとする性悪説を真っ向から否定する宣言です。人間は戦争をやめられない、人殺しをやめられない、そうした闘争本能があるのだとするような「悪」こそ人間の本性だという考えは間違いであり、人間は「善」を指向するといっているのです。

 

マイモニデス研究者レオ・シュトラウス (Leo Strauss)

 アリストテレスはこの「善」の中で最もよいもの、最高のものは何かということを引き続き問いかけていきます。
 
(引用開始)

 それは幸福(エウダイモニア)にほかならない。(20ページ)


(引用終わり)
 

 このように人間にとっての最高の善は「幸福」なのです。すべての学問、人間の活動は「幸福」を目指さなくてはなりません。

 アリストテレスの学問的曾、曾、曾、曾……曾孫(そうそん)といえるアーヴィン・クリストル(Irving Kristol)らネオコン達(Neoconservatives)は何故、この考え方の反対を行こうとするのでしょうか。

アーヴィン・クリストル

 私はネオコンの学問的源流レオ・シュトラウスこそアリストテレスの考えを捻じ曲げた現代における張本人であるということをつかんでいます。

レオ・シュトラウス

 レオ・シュトラウスはアリストテレスのことしか認めない、デカルト(Rene Descartes)もカント(Immanuel Kant)も、近代以降のどの学者も認めない。アリストテレスをじっくり研究することが大切だという立場を取る学者だと言われています。(『世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』副島隆彦、講談社+α文庫)

 しかしレオ・シュトラウスは、本当はアリストテレス学者ではなく、常に彼の頭の中にあったのはユダヤ人学者モーゼス・マイモニデスの『モレー・ネブヒム』(ア・ガイド・オブ・ザ・パープレックスド、A Guide of the Perplexed)という書物なのです。日本語では『迷える者たちへの導きの書』と呼ばれています。

 マイモニデスはユダヤ思想にアリストテレスのエクィリブリアム・セオリーを取り入れ、アリストテレスの思想をすり替えた人物であると私は疑っています。そしてユダヤ思想、ジューダイズム(Judaism)といいますが、このユダヤ思想という本来は健全な信仰体系が根本から崩れてしまった。

 シュトラウスの『リベラリズム古代と近代』(ナカニシヤ出版)という本が最近翻訳出版されましたが、その中の本当にかなりの部分が『モレー・ネブヒム』の注釈に割かれています。レオ・シュトラウスは自らもユダヤ人であり、敬虔なユダヤ教徒です。ユダヤ人としての自らの立場や態度もこの本の中で開示されています。

 レオ・シュトラウスは古代ユダヤのサンヘドリンやパリサイ派から続く筋金入りのリベラルズである、というのが本当のところなのです。

 さて話を『ニコマコス倫理学』に戻します。

 この幸福とは何かという疑問にアリストテレスは答えます。『ニコマコス倫理学』から引用します。
 
(引用開始)
 

幸福とは究極的な卓越性(アレテー)に即しての或る魂の活動である。(50ページ)


(引用終わり)
 
 卓越性(アレテー)には「徳」という訳語も与えられています。

 幸福とはよく生きること、つまり人間的に非常に優れたものを持つこと、徳を持つことが幸福であり善なのです。

 そしてこの「徳、アレテー」が「中、中庸」なのです。「徳」とは人間の情念でも能力でもありません。人間の「情態」のことです。過超と不足によって失われ、「中庸」によって保たれる「状態」のことだそうです。(『二コマコス倫理学』60、68ページ)

(つづく)