「0002」 論文 アリストテレス著『ニコマコス倫理学』―エクィリブリアム、「中庸」の思想(2) 鴨川光筆 2009年2月27日
「正義」とは人為的に均等に割ること
さてここで、先週掲載した、「0001」論文の冒頭にお話した「イソン、均」と「メソン、中、中庸」が何のことであるかを再度引用して確認しておきます。
先に引用した「中、中庸」に関する説明によれば(『二コマコス倫理学』70、71ページ)、アリストテレスは物には多すぎること、少なすぎること、均しいことの三つがあり、その中でも「均、イソン」であることが最もよいといっています。「均」の本質とは「極端に行き過ぎず」「多すぎず、少なすぎない」状態だといっているのです。それによって人間の節度が保たれる。そして徳とはまさしくこの「メソン、中、中庸」を目指すことだとはっきり宣言しています。(『二コマコス倫理学』71ページ)
その中からそれた状態、つまり、「過超と不足」の状態が「悪徳」なのです。(『二コマコス倫理学』77ページ)
この「均等、イソン」にふれた後、アリストテレスは『ニコマコス倫理学』第五巻にて、正義について論じ始めます。正義とはディカイオシュネーといって、現代の英語ではダイコトミー(dichotomy、二分法)という言葉の語源になっています。
ダイ、ディdiというのは二という意味で、二つのものに切り分けるということです。ディカイオシュネーというのは物事を正と不正の二つに切り分けて区別するという意味になります。
もともと正義はディケー、dikeといってギリシャ悲劇の「オレステス三部作」に出てくる裁判、審判の女神に由来します。
欧米の裁判所に飾られているユスティティアという目隠しをして天秤棒(てんびんぼう)を持つ女神は「レディ・ジャスティス(Lady Justice)」と呼ばれていますが、本当はこのディケーがそのオリジナルです。
ユスティティア
この「ものを二つに切り分けること=正、正義」が均、イソン、エクィリブリアムなのです。均等に切り分けバランスよく比例配分すること本来の「正、正義、ジャスティス」です。
この「正、正義、イソン」は同時に「適法的、ノミモン」という意味も含んでいて、この三つの言葉「均、正義、適法」は本来同じものです。
さらにこの「ノミモン、適法」という言葉は、同時に「人為的」という意味でもあります。自然法に対して人間が作った法、「人定法、ポジティヴ・ラー」のことを意味します。『二コマコス倫理学』から引用します。
(引用開始)
不正なひとであると考えられるものには、一方では「違法的なひと」があり、他方では過多をむさぼりがちな「不均等的なひと」があるのであって、したがって正しいひととは、「適法的なひと」(ノミモス)、ならびに「均等を旨とするひと」(イソス)であることは明らかであろう。(171ページ)
してみれば、正とは、適法的(ノミモン)ということと均等的(イソン)ということとの両義を含み、不正とは、違法的ということと不均等的ということとの両義を含む。(171ページ)
(引用終わり)正しい人、正義の人とは物事をとり過ぎない、すべて均等にするのがよいと考える人であり、それこそが法にのっとった態度だということです。
「正、正義」とは同時に「均、均等、イソン、エクィリブリアム、バランス、過不足のない状態」、つまりは「中庸」ということになります。
先に述べた「多すぎず少なすぎない、過不足のない状態」が正しい法、適法である、ということです。
ノミモン、適法という言葉はノミコンという言葉でも言い表されています(『二コマコス倫理学』194ページ)。ノミコンとは人為法という意味で「人間が作った法」という意味です。自然法に対立する概念です。
自然法とはもともとはフュシコンといって自然本性のものであり変動しないただ一つの物ということです。フィジクス(physics)、物理学とも同語源です。人間によって変えられない自然の法のことです(『二コマコス倫理学』195ページ)。このことは後でまた説明します。
エクィリブリアム・セオリーとは天秤棒のこと
正義の話に戻ります。
アリストテレスは正義には二種類あって、一般的正義と特殊的正義があるといいます。彼は後者である特殊的正義を問題にします。
この特殊的正義にもまた二種類あります。『二コマコス倫理学』から引用します。
(引用開始)
特殊的な「正義」の、ないしはこれに即した「正しい」ということの一種は、名誉とか財貨とかその他およそ国の公民の間に分かたれるところのものの配分におけるそれであり、他の一種は、もろもろの人間交渉において矯正の役目を果たすところのそれである。そして後者はまた二つの部分に分かれる。(177ページ)
この二つの特殊的正義とは比例配分的正義と矯正的(きょうせいてき)正義です。前者の比例配分的正義が重要です。なぜならこちら正義は人間関係の正義であり国政を行う際の要だからです。アリストテレスは「実際、国の維持されてゆくのは比例的な仕方でお互いの間に「応報(おうほう)」の行われることによってなのである」(『二コマコス倫理学』186ページ)と述べています。
ですからこの配分的正義を解説しようと思います。まず『二コマコス倫理学』から引用します。
(引用開始)
「正」ということは「比例的」(アナロゴン)ということの一種に他ならない。比例(アナロギア)とは、すなわち、比と比との間における均等性であり、それは少なくとも四項からなる。
(中略)
たとえば線分Aが線分Bに対するは線分BのCに対するごとくであるといったように―。
(中略)
「正」ということも、だから、少なくとも四項からなり、その比が同一なのである。すなわち、人間と人間の間、配分されるべき事物と事物の間の区分の仕方が同様なのである。だからしてAがBに対するはCがDに対するがごとくであるだろうし、だからまた、これを置換すれば、AのCに対するはBのDに対するごとくであるだろう。したがって全体の全体に対するもまた同様である。全体とは配分を受けてそれと結合された全体を意味する。
(中略)
かくしてAをCに、BをDに組み合わせるということが配分における「正」なのであり、この場合の「正」は比例背反的なものに対する「中」に他ならない。けだし、比例的ということが「中」なのであり、「正」は、しかるに、比例的ということなのだからである。
このような比例を数学者は幾何学的比例(アナロギア・ゲオーメトリケー)と呼んでいる。(180ページ)
(引用終わり)先ほど正義の女神の女神、レディ・ジャスティス・ユスティティアが天秤棒を持っていると述べましたが、この四つの項、ABCDとは天秤棒の力点と作用点のことなのです。
「AとBがCとDならばAとC対BとDも同じでなければならない」これが比例配分のことなのです。
本当のバランス、釣り合いというものは、この四つの項がなければ成り立たないものなのです。
『二コマコス倫理学』の277ページにこれを説明した注があります。引用します。
(引用開始)
AとBを人間、CとDを「配分さるべきもの」とする。いまA:B=C:Dならば置き換えによってA:C=B:Dであり、またA:B=C:D=A+C:B+Dである。A+C,B+DはAがCを得、BがDを得た状態を示す。かようにAとBとの比はそれぞれがCとDを獲得して後も獲得しないときと同じであるとき、A・Bに対するそれぞれC・Dの配分は正しい―。(277ページ)
(引用終わり)もう少し噛み砕いて説明してみましょう。
例えば1メートルの天秤棒の両端に5キロと3キロの重りをつるして、片方にずり落ちないようにつりあわせようと思ったら、5キロの方を支点、中心から30センチ離れたところへ近づければ釣り合います。
なぜこうなるかというと簡単な数字による計算でわかります。
5キロのほうは中心から30センチ離れているのだから5:30です。もう片方の3キロのほうは1メートルの一番端っこにあるのだから中心から50センチ離れています。ですから3:50です。
5:30と3:五50の比が数学的にも物理的にも同じなのです。両方をかけてみると5×30と3×50はどちらとも150になり数字上も同等になります。
5×30=3×50なのです。この等式、恒等式、イクォーリティ(equality)といいますが、この4つの項、5、3、30、50でそれぞれ両辺を割ってもまったく同じ結果になります。
アリストテレスはこのことを説明しているのです。
ニュートンの物理学、力学のことをメカニクス(mechanics)といいます。力の学問ではありません。自然界を、空間をシステムと仮定して考えていく学問です。
このメカニクス、力学は惑星や衛星の運動をアイザック・ニュートン(Isac Newton)が微分積分を使って説明したことも、大本はこの天秤棒の4つの項からきているのです。
アイザック・ニュートン
衛星軌道というのがあります。大砲の弾の起動、弾道軌道をどんどん延ばしていったものですが各種人工衛星やスペースシャトル、そしてもちろんお月様が地球の周りを落ちることなく回っています。あれが衛星軌道です。
この衛星軌道に乗った状態、それがエクィリブリアム、バランスの取れた状態の典型です。
ニュートンの作ったとされるこの物理学の理論を私が冒頭で述べたエクィリブリアム・オブ・フォーシズ(equilibrium of forces)といいます。力、フォースがバランスの取れた状態でいるという仮説と理論です。
衛星軌道では何と何がつりあっているのかというと、重力と重力を脱出しようとする推進力が釣り合っているのです。その釣り合いもおおもとは天秤棒の4項の釣り合いになるのです。
分数、ラショナル・ナンバーもこの天秤棒の考えから来ています。ラショナル、レイシオは物事を分けた後の比を表すもので、それは「均、均等、エクィリブリアム」がその根底にあるということはお分かりかと思います。このことが強欲の思想へと変貌していったというのが副島氏の説です。そのことは後で説明します。
これを「ラショナル、合理、合利、理性的思考」というわけです。
この考え方は「メソン、中庸」という思想を支える、非常に大切な理論です。
とくにこれまで述べてきた比例配分的正義は国の維持、政治、ポリス、ポリティコスを執り行うために、必要なものだとアリストテレスは言っています。『ニコマコス倫理学』から引用します。
(引用開始)
実際、国の維持されてゆくのは比例的な仕方でお互いの間に「応報」の行われることによってなのである。
(中略)
比例的な対応給付が行われるのは対角線的な組み合わせによる。Aは大工、Bは靴工、Cは家屋、Dは靴。この場合、大工は靴工から靴工の所産を獲得し、それに対する報償として自分は靴工に自分の所産を給付しなくてはならない。それゆえ、まず両者の所産の間に比例の即しての均等が与えられ、その上で取引の応報(アンティペポントス)が行われることによって、いうところの事態は初めて実現されるであろう。(186、187ページ)
この天秤棒の四項ABCDは、上の引用のように今度は社会の中の人間の役割、人と職業に当てはめられています。それぞれの報酬が靴屋や大工といった仕事に比例して均等に配分されることで国、政治が維持されるとあります。まことに当然のことを1300年前にアリストテレスは唱えたわけです。
しかしこれでは人は一人ひとり違うものですし、職業も異なっています。そうした皆ばらばらな人の間で取引が行われるわけですから、物事を均等に配分することは不可能に思われるかもしれません。
そこで登場するのが「マネー(money)」なのです。『二コマコス倫理学』から引用します。
(引用開始)
かような共同関係の生ずるのは二人の医者の間においてではなくして、医者と農夫との間においてであり、総じて異なったひとびとの間においてであって、均等的なひとびとの間においてではない。かえってこれらの人々は均等化されることを要するのである。
交易さるべき事物がすべて何らかの仕方で比較可能的たることを要する所以(ゆえん)はそこにある。こうした目的のために貨幣は発生したのであって、それは或る意味においての仲介者(メソン=中間者)となる。
事実、貨幣は、あらゆるものを、したがって過超や不足をも計量する。(中略)このことはしかるに物品が何らかの仕方において均等なものでないならば不可能であろう。(187ページ)
この部分が実に重要です。「あらゆるものを計量するひとつのもの」、それが貨幣、マネーなのです。それは「均等、イソン、エクィリブリアム」の思想を借りてきて実行されたものなのです。
「均、イソン」とは「総じて異なった人々を均分化する」力を持っています。アリストテレスのこの思想の部分が後世ユダヤ人たちの思想、ジューダイズムに引き継がれて「強欲・拝金思想、レイシオ、ラショナリズム」へと変質して言ったのです。このことは後述します。
そしてさらに大切なのがこれです。
「マネー」は「均等・イソン」を実現したもの
貨幣はノモス、人間によって変更したり取り消したりできるもの、現実的なものに過ぎない、ということです。貨幣は本性、自然のもので変えることのできない真実ではないということです。
貨幣とは人間が正義(比例配分の)のために、人に役立つために作ったものでしかなくて、なくすことが出来るものなのです。本来存在しないものということです。
この「中、均、正義」の思想はこの貨幣のことから近代から始まる自由貿易につながる考えにもつながっていきます。『二コマコス倫理学』から引用します。
(引用開始)
あらゆるものに価格を付しておくことの必要なのはそのゆえである。すなわち、そうすれば交易は常に可能となるのであり、しかるに交易あって共同関係はあるのである。かくして貨幣はいわば尺度として、すべてを通約的とすることによって均等化する。
(中略)
かくも著しい差異のあるいろいろのものが通約的となるということは、本当は不可能なのであるが、需要ということへの関係から十分に可能となる。その際、すなわち、何らかの単一なものの存在することを要するのであって、このものは協定(ヒュポテシス)に基づく。ノミスマという名称のある所以である。(189ページ)
協定というのは現在ではアグリーメント(agreement)という言葉がありますが、これはプロトコル(protocol)という言葉が元です。プロトコルというのは議定書とか協約という訳がつけられていますが本来取り決めという意味です。IP電話とか、インターネットのIPアドレスのP、あれがインターネットの取り決めという意味です。
なぜこのような取り決めをしなければならないかというと、インターネットという紙のない実体のないところ、それをサイバースペースというのですが、そのような実体のないところでの通信を行うと容易に国を飛び越えられてしまうので、法の違う、一国の法では縛られない国家同士のやり取りの場合に問題が出てしまうのです。
そこでプロトコルという基本的な物事の取り決め、協定が必要なのです。この協定が国家間同士で正式に文章で調印するような場合にはアグリーメント(合意、協定)となります。さらに大きい正式な縛りのある取り決めとなると条約、トリーティ(treaty)になります。
大事なのは取り決めというのはあくまでも人為的なものでしかなく、法ではない。自然の本性のはずがない、人間が勝手に取り消せる類のものでしかないということです。
アリストテレスはヒュポテシス(hypotesis)という言葉を使っています。これはハイポシーシーズ(hypotheses)、仮説という意味です。
仮説、ハイポシーシーズとはすべてのテーマ、シーシーズ(thesis)の上にあるもの、コントロールするという考えで、とりあえずここから出発していきましょうということです。ここからはじめて、これにはとりあえずは疑いを持たずに(疑いを持って閉まったら話が先に進まないから)考えを作り上げていきましょうという取り決め、合意でしかありません。
これがモダーン・サイエンス(modern sciences)、近代学問を発展させていったので、今も仮説思考の大切さを訴えるハウツー本がたくさん出版されていますが、大切といえば大切なものです。
もっと言えば仮説に疑いを抱いてはいけないのですから真実、神様のことです。人為、人工的な神様のことです。これが数学では公理、アクシオム(axiom)、物理では原理、プリンシプル(principle)といわれます。
この人口の神については昔から今に至るまで論争が行われていて、公理を公準、ポスチュレイト(postulate)と言い換えたりしてきました。
それですから科学はあくまでもポジティヴ=人為的なものであって、絶対的真実ではない、絶対的なものであるはずがないし、数学においてすらユークリッドの5つの公理、数学上の最終的な神はロバチェフスキーの新たな神が並び立つことによって絶対性がなくなりました。
いずれにしろ現代の科学はエンピリカル・ポジティヴィズム(empirical positivism)といって、経験(=科学、エンピリシズム)と理論(=数学、ポジティヴィズム)が合体したもので、あくまで人為的なもの、アリストテレスがノミモンなものだといったことを忘れてはいけないのです。
だから科学上の理論、仮説が変更されるということが起きます。これをパラダイム・シフト(paradigm shift)といいますが、この人工的な神を変更することも取り消すことも人間の自由なのです。
(つづく)