「0028」 論文 前3000年頃に、エジプトによる大遠征があったのではなかろうか(2) 鳥生守筆 2009年4月19日
これまで述べたように、ヘロドトスはメンフィスのヘパイストス神殿(Temple of Hephaestus、プタハ神殿)の祭司(神官)からエジプト王の「大遠征」を聞かされて、特別疑いを持った雰囲気はなく、むしろ当然のように聞いている様子である。おそらく、ヘロドトスの時代、すなわち紀元前5世紀には、人々の間ではそのようなことは、広く人びとが共有する記憶であり、常識であったのではなかろうか。
ヘパイストス神殿
そのヘロドトスは、先の4つの証拠を挙げたが、現在の歴史学からあげると、次の2点が挙げられると思う。
(1)第一の証拠は、といっても状況証拠であるが、エジプトの人口増加と国家統一である。
前3000−1000年頃までは、世界の総人口の過半がメソポタミアとエジプトの狭い地域に集中して住んでいて、その人口はそれぞれ数百万人あるいは1000万人以上であった。それに対して、それ以外の地域の総人口は、数百万人規模でしかなかったという。つまり、当時はメソポタミアとエジプトが突出して栄えていたというのだ。佐藤次高&鈴木董ほか『都市の文明・新書イスラームの世界史1』(講談社現代新書、1993年)から引用する。
(引用はじめ)
メソポタミアとエジプトの当時〔前3000年頃のこと−引用者〕の人口は、それぞれ数百万人規模とも、1000万人をこえていたとも想定されている。世界のその他の地域の総人口は、数百万人規模であったろう。それぞれが百万ヘクタールの、二つの地域に、世界総人口の過半が集中して、そこだけに文明があった時代がおよそ2000年間〔前3000−1000年頃のこと−引用者〕続いたのである。この中東の歴史は重い。(38ページ)
(引用終わり)
このようにこの時期は、メソポタミアとエジプトだけが世界に抜きん出て力があったのだ。
実は、メソポタミアにしてもエジプトにしても、その可住地域は狭い。それぞれチグリス・ユーフラテス両河流域、ナイル河流域に沿った狭い地域なのである。しかしここで灌漑農業(田畑を耕作するのに必要な水を水路から引き、土地をうるおすなど、水利をはかる農業)が始まると、非常な余剰生産をもたらし、ここだけが栄え、大人口増加をもたらしたのだ。
このような時期にエジプトは世界ではじめての国家統一がなり、これによってエジプトは圧倒的に優位にたったのである。
メソポタミアは文明の発達はエジプトよりも早かったのであるが、チグリス・ユーフラテス両河の激しい氾濫と、北東(山岳地帯)と西南(乾燥地帯)からの異民族(蛮族)の侵入があり、その対応に追われていた。それで都市国家を脱して統一国家の形成に至ることはなかった。都市国家に分立したまま外敵に備え、また都市国家同士で不和抗争が絶えない状態であった。外の世界に対して遠征をおこなう発想と余裕はなかった。岸本通夫ほか『世界の歴史2・古代オリエント』(河出文庫、1989年)から引用する。
(引用はじめ)
シュメール人は灼熱の太陽の下、土と水を相手に「エデンの園」の建設にはげむ。しかしそれは決して容易なことではなかった。彼らの生活を脅かすものが絶えず周囲に存在した。害虫、猛獣、毒蛇、病原菌の類がそれである。それに、この地に侵入をはかる異民族があとを絶たなかった。
シュメールの地をも含めて、メソポタミアは、エジプトのように周囲を自然の防壁で保護されているわけではない。西からは遊牧民がうかがっていた。北や東からは山岳民がねらっていた。それにシュメール人どうしでも、水や土地の問題をめぐって、早くから不和抗争が絶えなかったであろう。
しかし、かれらの生活をおびやかす最大のものは、またしても水であった。エジプトが「ナイルのたまもの」といわれるように、たしかにメソポタミアも、ティグリス、エウフラテス両河のたまものであったにちがいない。けれども、エジプトのナイル河の氾濫は文字通り定期的で、その年ごとの増水の速度も緩慢なものだった。だから古代エジプト人が恐れたのは、氾濫ではなくて、むしろ氾濫の不足、つまり「低いナイル」であって、それは飢饉、飢餓を意味していた。反対に「高いナイル」は、豊作を示すものであった。
ところが同じく肥沃な沖積土を運んだと入っても、チグリス、エウフラテス両河は、ナイルにくらべてはるかに始末におえなかった。川はそのコースを絶えずかえたし、また川が運ぶ泥土の沈殿が水路をすぐにだめにしてしまう。そしてさいごには、土砂の堆積のため浅くなった川を流れる水が、堤防自体を破り、いっさいのものをのみつくす。
当時のシュメール人は洪水の危険に絶えずおびやかされていたことは、考古学的調査によっても知ることができる。
(中略)
メソポタミアは、一方では聖書の作者に「エデンの園」のイメージをあたえていながら、他方では「ノアの洪水」の伝説も、この地が起源となった。シュメール人の住みついた土地は、最初から楽園であったわけではない。楽園にするために、かれらは土と水を相手にし、そしてこの地に侵入してくる人たちと争わなければならなかった。これらがシュメール人のすべてを決めていった。(31−33ページ)
(引用終わり)
このようにメソポタミアは、異民族と洪水に悩まされた。
しかしエジプトは、ナイルは穏やかな河であった。ナイルの東西は砂漠であり、エジプトの南端以南には6つの急端(滝にような早瀬)があって航行不能であり、外敵の進入路はナイル河口からしかなかった。そういう自然の防壁で保護されていた。それゆえ外敵の侵入は比較的簡単に防ぐことができた。その自然的、地理的条件はメソポタミアよりはるかに恵まれていた。それが、エジプトに世界最初の統一国家ができた大きな要因であったのだろう。
だから統一されたエジプトだけが、この時代世界の中で圧倒的に強かった。それで、先述した前3000−2800年頃の「大遠征」が可能であったのだ。
(2)第二の証拠は、メソポタミアには、初期王朝時代にキシュ第1王朝が成立したことである。
年表によると、これは前2900年である。キシュはシュメールの北方、のちのアッカド地方に位置する都市である。キシュ王国成立のときから、メソポタミアの地に王権という覇権の概念が登場したというのだ。そしてそれ以後「キシュの王」の尊称は長く続いたという。大貫良夫・前川和也・渡辺和子・尾形禎亮『世界の歴史1・人類の起源と古代オリエント』(中央公論社、1998年)から引用する。
(引用はじめ)
ウバイド期は、0、1、2、3、4期に分類されるが、つづくウルク期(前3500年〜前3100年頃)やジャムダド・ナスル期(前3100年〜前2900年頃)にいたるまで、南部メソポタミアでは文化の大断絶はない。(151−152ページ)
最古の粘土板記録が成立したウルク後期の最末期(おそらく前3100年頃)から初期王朝期V期までが、シュメール人による都市国家時代である。(165ページ)
「洪水が襲った。洪水が襲ったのち王権が天より降りきたった。王権はキシュにあった」。キシュでは計23王が即位したという。「洪水」後はじめてのこの王朝を、われわれはキシュ第T王朝とよんでいる。キシュはシュメールの北方、のちのアッカド地方に位置する都市であった。(166ページ)
キシュには、ごく古くからセム人が住みつき、彼らが強大な王権をうちたてたのであろう。王朝表では、キシュ第1王朝初期のほぼすべての王たちに、セム後の名前が与えられている。けれども、王朝創始者であるかのように位置づけられているのは、第13代エタナであった。彼は「牧人であり、天に昇り、国々を平定し」、1560年治世した。前2000年紀のはじめまでには、『エタナ物語』がアッカド語で書かれた。これによれば、神々によってキシュの王権を与えられたエタナが、のち「子宝の草」を求めて、鷲(わし)にのって天にのぼったのである。(168ページ)
エタナより数えて9人目のエンメバラゲシ、そしてその息子のアガは、確かに実在したのであろう。アガのときにキシュの覇権は終わる。「キシュは武器もて打たれ、王権はエアンナ(=ウルク)へうつった」。ウルク(第1王朝)では、まず太陽神ウトゥの息子が324年統治したという。けれどもアガと同世代だったのは、第5代のギルガメッシュである。(168ページ)
セム人はおそくとも前3000年紀〔前3000年−前2000年までのこと−引用者〕のはじめには、南メソポタミアの北部地方、つまりのちのアッカド地方に住みついていた。王朝表は、大洪水の後、北部の都市キシュが全土の覇権を得たとしているが、たしかにセム人が強大な王国をキシュに建設していたのであろう。セム人ははやくからシュメール地方の一部にまで進出している。(182ページ)
マリ出土碑文ではメスカラムドゥは「キシュの王」を名のっていたが、その息子とおもわれるメスアンネパダも、ウル出土の円筒印章で「ウルの王」でなく「キシュの王」とされていた。都市国家ラガシュやウルクの支配者のなかにも、「キシュの王」という称号をもったものがいる。北方にまで支配権を及ぼそうとした諸都市王が、好んでこの称号を用いたのである。古い時代には、キシュの強大な王権がシュメール南部にまで影響力をもっていた。この記憶のために、「キシュの王」という尊称が生まれたのであろう。(175ページ)
《年表》(548−549ページ)
・3300−3100年
ウルク期後期。シュメール南部ウルクで大公共建設物がさかんに作られる。ウルク後期最末期(エアンナWa層時代)のウルクで粘土板文字記録システムが成立。シュメール都市国家時代の開始。
・3100−2900年
メソポタミアでジャムダド・ナスル期。シュメール都市文化が各地に伝播。
・2900−2750年
シュメール初期王朝T期。このころアッカド地方で強大な王権が存在(キシュ第1王朝)
・2750−2600年
シュメール初期王朝U期。このころエンメルカル、ギルガメッシュらのウルク第1王朝か
・2600−2350年
シュメール初期王朝V期。このころウル第1王朝。シュメール・アッカド諸都市国家の抗争も活発化。すこし後に、シュメール北部のシュパルク(ファラ)やアブ・サラビクで最古のシュメール文学テキスト成立。(サルゴン大王のアッカド王朝が成立するまで)
(引用終わり)
この歴史書は恐る恐るキシュ王国のことを書いているようだ。
がともかくここでは、セム人は早くからシュメール地方の一部にまで進出し、前2900年頃、強大なキシュ王国を建設し、メソポタミア全土の覇権を得ていたということが書かれている。
おぼろではあるが、これがエジプト王の「大遠征」の証拠ではなかろうか。この「大遠征」の時に、この「大遠征」を背景としてキシュ王国を中心にして、セム人が、メソポタミア全土を征服した。ということではないだろうか。
ちなみに、その後メソポタミア文明で重要な役割を果たしたアッカド人、バビロニア人、アッシリア人などは、セム系の諸民族である。また、フェニキア人もイスラエル人もセム系の民族である。
引用文中では、ウルク後期の最末期から初期王朝期V期まで(前3100年−2350年頃)が、シュメール人による都市国家時代であるとする一方で、ウバイド期(前5300−3500年頃)、つづくウルク期(前3500年−3100年頃)やジャムダド・ナスル期(前3100年−2900年頃)にいたるまで、南部メソポタミアでは文化の大断絶はないとも言っている。
だとするならば、前2900年頃、文化の断絶があったということだろう。この断絶は、「セム人の進出」だったのであり、それはすなわち、エジプト王の「大遠征」によるメソポタミア支配だったのではなかろうか。
だから、キシュ王とは、エジプトから見れば、総督(地方長官)であったのだろう。(この総督を従属する異民族に任せたのが、エジプトの失敗だったかもしれない。それは長く続くことはないからだ。長い目で見れば、失敗だろう。エジプトから見れば、総督は自民族で構成すべきであったろう。)
以上の2つが、現代の歴史学から見た証拠である
この時期、エジプトはメソポタミアを征服し、支配したのだろう。だとすれば、世界人口の過半がメソポタミアとエジプトに集中していたこの時期に、エジプトがその他の地域を征服することは比較的簡単であっただろう。
以上によって、ヘロドトスの『歴史』における、エジプトは前2900年頃、メソポタミアを支配し、その他にも広大な地域を征服、支配したという記述はほぼ間違いないとみていいのではなかろうか。
このようにみると、エジプト王セソストリスによる「大遠征」は、前2900年頃の出来事ということになる。第1王朝と第2王朝の境目である。そのどちらになるかは判らない。
ところが、この「大遠征」はなかったことのように否定されている。この否定説が一般である。訳者の松平千秋氏も訳注で「異論はある」としながらも、第19王朝のラムセス2世のことだとしている。また、藤縄謙三氏も同じくラムセス2世の遠征だろうとしている。ヘロドトス『歴史・上』(岩波文庫、1971年)と、藤縄謙三『歴史の父 ヘロドトス』(新潮社、1989年)から引用する。
(引用はじめ)
[訳注]セソストリスは普通第19王朝のラムセス2世(前14世紀後半〔ママ−引用者〕)のこととされる。ただし異論はある。(ヘロドトス『歴史・上』(岩波文庫、1971年)、425ページ)
さて、右の王名表に続く時代の王たち十代になると、様相は一変し、神官たちは詳細に事蹟を物語る。例えば、その第一代目のセソストリス王は、名前から言えば、第十二王朝の Senwosret を指すらしいが、国外へ大遠征を敢行しているから(巻2−102〜110)、その点から言えば、第十九王朝のラムセス二世(前1290−24)を指しているようである。遠征から帰ったセソストリス王は、捕虜たちを強制労働に使役し、全土に縦横に運河を開削させて灌漑し(巻2−108)、国民の各々に同面積の方形の土地を分与して、年貢を課したという(巻2−109)。要するにエジプト王国の経済や財政の基礎は、この王によって置かれたことになる。(藤縄謙三『歴史の父 ヘロドトス』(新潮社、1989年)、168ページ)
(引用終わり)
藤縄氏は、国外への大遠征はラムセス2世のこととし、遠征で連れてきた捕虜たちを使役したのは、セソストリスだというのである。そして遠征の記述に対してはなにも論及しない。これは変な論理である。
これが世界の学界の動向なのであろう。だから普通、この大遠征を書いた歴史書はないのだ。エジプト王で最大の遠征をしたのはラメセス2世だということだろう。
しかし、ラメセス2世は、北シリアのカデシュで五分五分の激戦をしたのみで、それ以上北に進めなかった。つまり、小アジアへさえも進めなかったのである。また、紅海やアラビア海への遠征もないようだ。岸本通夫ほか『世界の歴史2・古代オリエント』(河出文庫、1989年)から引用する。
(引用はじめ)
この(第19)王朝が理想としたのは、第18王朝時代の繁栄を取りもどすことであった。夢よもう一度というわけである。ラメセス1世(在位前1303−02年ごろ。ギリシア名、ランプシニトス)が在位わずか2年で死んだあと、セティ1世(在位前1302−1290年ごろ)、ラメセス2世、メルネプターの諸王は失地回復につとめた。かれらはたびたび西アジアに出兵したが、南下するヒッタイト国の勢力と衝突して、戦局は思うようにはかどらなかったらしい。
ラメセス2世(在位前1290−24ごろ)がヒッタイト軍とまじえたカデシュの戦い(前1285)はことに壮烈をきわめた。その模様は両国の記録にくわしくとどめられて、今日まで伝わっている。戦機いよいよ到来したとき、ファラオは、敵のスパイの偽情報をまに受けたばかりに大敗を喫し、奮戦のすえ、やっと危地を脱することはできたものの、この戦いでエジプト軍は甚大な損害を受けて、南に退いた。
このように何度も戦いが繰り返されたのち、両国間には平和条約が結ばれた。ラメセス2世はのちにヒッタイト国の王女を第一婦人に迎え、永遠の友好関係を誓っている。(245ページ)
(引用終わり)
このように、『歴史』の「大遠征」とラメセス2世の遠征は全く違う。なのにどうして、これらを同一視しようとするのであろうか。そして、この「大遠征」の記述に対しては論評を避けている。
エジプトの神官がこれをラメセス2世の事績として話したのならば、ヘロドトスにはそれはウソだと判ったはずで、この記述はなかったか、もっと異なったものになったであろう。ヘロドトスは初期王朝期の事績として聞いたはずである。
この「大遠征」がラメセス2世の遠征のことであるとするならば、ヘロドトスがウソを書いた、あるいはエジプトの神官に騙されてそのままウソを書いたということになる。実際、一般には、『歴史』のこの部分(巻2−102〜110)は事実無根の架空の話、間違いだらけの記事として扱われているのだと思われる。そしてそれゆえ、この部分は歴史学から無視されているのだろう。
このように、ヘロドトス『歴史』に書かれたエジプトの「大遠征」は、なかったことになっている。
初代エジプト王が建てたヘパイストス(プタハ)神殿は、今はほとんど跡形もなく、ナツメヤシが茂る畑地になっているようだ。セソストリスの建てた6体の巨大石像も跡形もないのだろう。尾形禎亮監修『ナイルの遺産−エジプト歴史の旅』(山川出版社、1995年)から引用する。
(引用はじめ)
メンフィスは、統一王朝の成立後間もない時期に上下エジプトの境界に建設された都であった。この都は初め「白い壁」インブウ・ヘジュとよばれたが、のちにペピ1世のピラミッド名をとってメンネフェルとよばれるようになり、これがさらに転訛(てんか)してメンフィスとなった。メンフィスの町は、古王国時代まで首都として栄え、その後も長らく下エジプト第一州の州都として重要な位置を占めていた。
ミート・ラヒーナ村の近くにあるメンフィスの遺跡には、かつての繁栄をうかがわせるものはほとんど残っていない。わずかに、メンフィスの主神プタハの神殿跡とそのまわりにいくつかの遺物、たとえば石灰岩製のラメセス2世の横たわる巨像や、アメンヘテプ2世のものとされるスフィンクス、聖牛アピスのミイラづくりに使用された解剖台などが散在しているだけである。(79ページ)
第1王朝成立後(前3000年頃)首都であったメンフィスの主神プタハを祀った神殿のあったといわれる遺跡跡。かつての繁栄を物語るものは残っていない。(巻頭・写真でみるエジプト−メンフィス)
(引用終わり)
これは、エジプトが最も栄えた時代の遺跡が徹底的に破壊されたということである。いつごろだれがなぜ破壊したのだろう。
この破壊とともに、エジプト初期王朝時代の歴史が消えてなくなったようだ。これによって、この「大遠征」の具体的証拠はなくなったのだろう。
しかしそれでも、私はこの「大遠征」はあったと思う。
さらに、ヘロドトスの『歴史』は、この「大遠征」はトラキア、スキュティアまでだとしているが、私は、艦隊を率いて、ギリシア、イタリア、フランス、スペイン、アルジェリア、チュニジア、リビアと地中海を廻ったのではないかとさえ考えている。当時それがあったとしても、ちっとも不思議ではないと思うのだ。(言うまでもなく、このころはまだ、ギリシアの地にギリシア人はいなかった。ローマ人はローマの地にいなかった。)
私は、歴史知識があるわけではない。歴史学者からみれば、中学生程度の知識しか持ち合わせていないだろう。ここ数年、ウェブサイト「副島隆彦の学問道場」で得た知識によって、歴史にウソがかなりありそうだと確信し、それから歴史を批判的、多面的に読み出したばかりである。だから、エジプトの支配があった場合どういう意味になるのか、またエジプト文明の評価がどうなされているのか、どうなされるべきか、そういうことは判らない。
またエジプトを深く知るにはどんな本がよいかなど、知らない。
しかし少ない知識でもそれらを丹念につなぎ合わせれば、見えなかったものが見えてくる。無視され抹殺されたところも見えるようになる。
そのわずかの知識・情報を検討した結果、エジプトの征服が、その頃(前2900年頃)あったのではないかと思うのだ。またそう考えれば、この時代の人類史の据わりがよくなると、感じてのことだ。
(おわり)