「0032」 論文 リバータリアニズムに関する一考察 古村治彦(ふるむらはるひこ)筆 2009年5月7日
序章 何故リバータリアニズムに興味を持ったのか
昨今、二十世紀を総括する動きが盛んである。「二十世紀とはどのような世紀であったか」という問いが様々な分野において、盛んに提起されている。筆者は、社会思想的、政治思想的に総括してみると次のように言えるのではないかと考える。二十世紀とは「国家」の世紀であった、と。具体的に述べたい。二十世紀を支配した政治イデオロギーは、社会主義(共産主義)、ファシズム(全体主義)、そして福祉国家主義である。この一世紀の間、多くの国々でこれらの各イデオロギーが採用され、これらに基づいて国家運営がなされてきた。これらのイデオロギーはそれぞれが対立するものと考えられ、共通点を見出されることはなかった。それどころか、このイデオロギー対立のために多くの国家が対立し、人類は二度の世界大戦を経験した。その結果、多くの人命が失われた。
しかし、ハイエクが述べているように、これら三つのイデオロギーは全体主義的、中央集権的という面と市場原理を否定するという面で共通の性質を有している。具体的に言うと、これらのイデオロギーは、社会の全ての領域に対し、中央集権的な国家や政府が干渉し、介入することを促した。その干渉、介入を遂行するために、行政府の規模は拡大し、官僚制度は肥大し続けた。この結果、「大きな政府」は絶望的な財政赤字(累積債務残高)を国民に課すこととなった。また、経済効率、自由競争、財の希少性といった市場原理の根幹をなす諸概念を否定した結果、産業の競争力は失われ、創造性を喪失させることとなった。
その結果、国家の収支バランスは崩壊し、不足分は赤字国債の形で補われるというパターンに陥った。その後には、天文学的な額の累積赤字のみが残された。当然、現在の日本に生きる私たちの目の前にも巨額の財政赤字は突き付けられている。私たちはその数字の大きさと将来に対して、言い知れぬ不安を抱えている。敢えて一言するならば、二十世紀はこれらのイデオロギーの壮大な実験が行われてきたと言っても過言ではない。
こうした実験の結果はどうであっただろうか。答は明白である。これら三つのイデオロギーによる国家運営は失敗したのである。ファシズムは、人々を狂気に導き、人類史上最悪の大量虐殺を引き起こした。社会主義は、その目的である平等すら達成できず、経済を悪化させ、人々の支持を得られずに崩壊した。福祉国家主義は財政赤字を増大させた。更にその福祉政策によって人々から自立の気概を奪ってしまった。1970年代の「英国病」などはその典型である。現在は、これらの負の遺産を精算し、転換しなければならない時期である、と筆者は考える。それは、私たちの抱く漠然とした不安感はこれらの要因によるものだからである。こうした状況を好転させるためには、これらの要因を取り除くことが重要である。
日本においてもこうした状況は例外ではない。現在、日本は政治、経済両面で混乱状況にある。政治面においては、既存のいわゆる「五十五年体制」が崩壊した。具体的には、自由民主党による一党独裁体制が崩壊した。また、その対抗勢力であった社会民主的、社会主義的政党も衰退した。保守勢力の分裂により、政局は不安定の度合を増大させている。経済面に目を向けると、長年、日本の企業経営の特徴であった、終身雇用制度、年功序列制度は崩壊した。各企業は人員削減、採用数の激減などのいわゆるリストラ策を断行し、それに起因する失業率の悪化は大きな社会不安を引き起こしている。その原因を特定することは大変に困難である。政府は官僚たちや利益団体の妨害に遭いながらも、規制緩和、省庁再編を遂行しようとしている。これはダウンサイジングによる財政支出の削減という政府の「リストラ」である。経済面においても、諸外国の圧力に応じる形になっているが、「金融ビッグバン」によって、経済活動の根幹である金融から、これまでの日本型と呼ばれる、諸外国から見て特殊な経営システムを見直し、新しいスタイルを取り入れようとしている。その具体策として、前述したように各企業では人員削減、経営合理化が進行中である。このように、現在は、既存のシステムの限界を認識し、それに代わる新しいシステムが構築される途上にある。こうした状況に対して、既存の様々な思想が対応しきれなくなっているのではないか、と筆者は考える。
既存の諸思想が破綻した現状の中で、将来に向けて私たちを導くような思想はあるのか、もしあるとすれば、それは一体何であろうか。これが筆者を捉えた問題意識である。この問題意識に対する解答の端緒として、筆者は、「リバータリアニズム」(Libertarianism)について注目したい。「リバータリアニズム」とは、アメリカ合衆国を中心として発達し、大きな影響力を持つ思想潮流である。その諸特徴を敢えて一言するならば、個人主義及び個人の諸権利、法の支配、制限された政府、完全自由市場の諸観念を強く主張するところにある。筆者は、これらの諸特徴が現在の日本の状況に対する一つの「処方箋」になり得るのではないかと考える。筆者は、リバータリアニズムの大枠を確定し、その基底にある諸概念を明らかにしていきたい。これまで日本においてリバータリアニズムについて語られる際、研究者はそれぞれの専門的見地から語ってきた。それがリバータリアニズムの全体像を正確に理解する上での制約になってきた感は否めない。筆者は社会科学研究科に学んだ特性を生かして、リバータリアニズムを俯瞰し、整理していきたいと考える。
尚、表記上の注意をしておきたい。Libertarianismを筆者は「リバータリアニズム」とするが、先行研究者たちの中には「リバタリアニズム」と表記している人々が存在するを断っておく。また、リバータリアニズムを主張する人々を「リバータリアン」と表記する。これも「リバタリアン」とする人々がいる。
第一章 リバータリアニズムの位置付け
第一節 リバータリアニズムについての概観
この節では、リバータリアニズム(Libertarianism)の誕生の経緯について概観したい。自由主義(Liberalism)は、1688年の名誉革命後のイギリスにおいて成立し、定着した。それには、スコットランド啓蒙学派の思想家たちの影響があったことは疑いようもない。
しかし、19世紀に入り、自由主義という語に大きな変化が生じることとなった。「大きな政府」論を支持し、自由市場への制限を求める、J・S・ミルに代表される、社会民主主義者たちと呼ばれる人々が自分たちの思想を表す言葉として自由主義を使用し始めたのである。彼らは、今日の福祉主義国家の基礎を築いた人々である。そこで、本来の個人主義的な自由主義者たちは、社会民主主義者たちと自分たちを区別するために、古典的自由主義(Classical Liberalism)という語を使用するようになった。中には、「古典的」という語を使用することを嫌い、保守主義(Conservative)を使用する人々も存在した。それは社会民主主義者の推進する大きな政府に向けての改革に対して、現状維持を求めた結果であった。(注1)こうした動きは欧米において、保守主義(Conservative)と自由主義(Liberalism)という語の意味的な捻じれ現象を生み出した原因の一端である、と筆者は考える。私たちの理解する政治勢力の分類、即ち「左翼」、「右翼」という観念では、こうした状況を正確に説明することができない。
こうした潮流は、イギリスのみならずアメリカ合衆国においても見られた。1920年代からのニューディール政策、そして太平洋戦争下での集産主義的政策などがそれである。戦後、1950年代、経済教育財団(the Foundation for Economic Education)(注2)の創始者であるレオナルド・リード(Leonard Read)(注3)が自分自身をリバータリアン(Libertarian)と呼び、ここにリバータリアニズムという語の誕生を見たのである。また、この時期共産革命が勃発したロシアから亡命してきた女流小説家であるアイン・ランド(Ayn Rand)(注4)が活躍した。1938年に『賛歌』(Anthem)、1943年に『源泉』(The Fountainhead)、1957年に『肩をすくめたアトラス』(Atlas Shrugged)などの個人主義的な色彩の濃い一連の小説を発表した。彼女は自分自身をリバータリアンと呼ぶことはなかった。しかし、彼女が提唱した哲学である客観主義(Objectivism)(注5)の中にはリバータリアニズム的な要素が多く含まれている(注6)。彼女の哲学はアメリカ建国の父祖たちが唱えた自助の哲学の継承し、かつ純化していて、アメリカ人たちに大きな影響を与えたとする研究者も存在する。(注7)
こうした一連の動きが二十世紀前半のニューディール政策や戦時下の集産主義的な政策を経験したアメリカで発生したこと、及びマス・ヒステリーとも言うべき反共運動、いわゆる「赤狩り」であった「マッカーシズム旋風」が同時期に発生したことは筆者にとって興味深い。そこには、全体主義との対決という大義名義の下に、国家による強制が強化され、それに対する国民の反感がその根底にあったのではないかと考える。そして、現在、増大し続ける財政赤字、増税といった政府に関わる現実的な政治的問題に対して、多くのアメリカ国民が怒りを持っている。こうした中で、アメリカ国民は自由主義の本来の型であるリバータリアニズムに注目し、支持しているのである。(注8)こうした状況は、現在の日本の状況と同様である。同様に、現在の日本でも、既存の体制を見直そうとする改革の潮流の中にある。
第二節 リバータリアニズムの分類
この節では、リバータリアニズムの自由主義思想の中における位置、分類をこれまでの先行研究を用いながら述べていきたい。まず、リバータリアニズムが現在の政治思想における潮流の中でどのような位置にあるのかについて述べていきたい。アスキュー・デイヴィッドは、リバータリアニズムを現代自由主義の一潮流として捉えている。(注9)また、足立幸男はリバータリアニズムを「小さな政府」論者たちの中の、福祉の原理をトータルに否定しようとするラディカルなグループとして捉えている。(注10)具体的に叙述していきたい。アスキュー・デイヴィッドは、現代自由主義を「国家論」を用いて、三つの潮流の分類している。(一)国家の完全廃止を求める流れ、(二)国家の役割を司法・治安・国防(この内の1つか2つ)に制限しようとする流れ、(三)国家の役割を貨幣の供給、若干の福祉活動などの幾つかのサーヴィス機能を認めようとする流れ。彼は(一)の流れを「アナルコ・キャピタリズム(無政府資本主義)」、(二)の流れを「最小国家論」、(三)の流れを「古典的自由主義」と呼び、その内、無政府資本主義と最小国家論のみを「リバタリアニズム」と分類している。また、彼は、自由主義原理の正当化理論をも用いて分類する。(注11)(1)基本的自由権に訴えかける「自然権論」を想定する道徳哲学、(2)自由を尊重する社会の方がその結果として人々が幸福になるとする「帰結主義」、そして(3)理性的な人々が合意するのはそのような自由社会の原理であるとする「契約論」に基づく議論、という3つの分類である。以上の国家論及び自由主義原理の正当化理論に着眼し、整理している。デイヴィッドは、こうした整理を用いて、日本におけるリバータリアニズム理解の現状に修正を加えている。(注12)彼は、日本において、リバータリアニズムが専ら「道徳哲学」に基づく「最小国家論」の思想と看做されてきたとし、彼自身は、無政府資本主義の国家論に重点を置いている。彼は次のように書いている。「リバタリアニズム論の多くは、自然権論者であるノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』を分析の対象としている。そのせいか、リバタリアニズムをノージックの立場と同一視し、自然権を第一義とする立場である、と看做す傾向がある。これを匡ことも、本稿の目的である」(注13)彼は、リバータリアニズムを一枚岩の思想潮流ではなく、多様なものであるとしている。彼の研究は、ノージックの著作を研究するのみで、リバータリアニズムを一面的にしか捉えてこなかった日本の状況に一石を投じ、リバータリアニズムの持つ多様性やその本質を私たちに認識させるという重要な役割を果たしたと言っても過言ではないだろう。
筆者は森村進の精緻な分析も取り上げたい。彼は基本的にはアスキュー・デイヴィッドの分類、分析を踏襲している。(注14)その上で、彼は、現代の自由主義思想を精神的自由と経済的自由という概念を用いて分類している。その内容は次の通りである。まず、「自由主義」とは、精神的自由と経済的自由の両方を支持し、これらの自由への公的介入に基本的に反対する立場である。これは元来「リベラリズム」が意味していたものである。しかし、最近では「リベラリズム」は精神的自由を主張する一方で、経済的自由の制約には肯定的な立場を取る。これは福祉国家論、もしくは社会民主主義と呼ぶべき立場である。また、「保守主義」は経済的自由を尊重するが、精神的自由への介入するを容認する立場を取る。最後に「全体主義」は精神的自由、経済的自由の両方に反対する立場である。こうした分類を当てはめて、森村はリバータリアニズムを「元来の意味での自由主義」である、としている。(注15)こうした分類を用いて、森村は、数人のリバータリアンたちや研究者たちを「自然権論的アナルコ・キャピタリスト」、「自然権論的最小国家論者」、「自然権論的古典的自由主義者」、「帰結主義的アナルコ・キャピタリスト」、「帰結主義的古典的自由主義者」などに分類している。そして、森村は自分自身を自然権論的古典的最小国家論者であるとしている。(注16)足立幸男は基本的にアスキュー・デイヴィッドの分類を踏襲している。(注17)
この三人の分類、分析結果の相違点は次の通りである。アスキュー・デイヴィッドは、彼の分類のうち、(一)無政府資本主義(二)最小国家論をリバータリアニズムに分類している。そして現代自由主義は大きく分けて「リバータリアニズム」と「古典的自由主義」の二つの陣営から成り立つと考えている。(注18)一方、森村は(一)、(二)に加え、(三)古典的自由主義をもリバータリアニズムに分類している。その理由を彼は次のように説明している。(1)今日の国家は古典的自由主義が認める以上の機能を持っているので、それよりも制約された国家を唱える思想の総称があると便利である。(2)上記の(一)、(二)と(三)の間の相違よりも、(三)と福祉国家的リベラリズムとの間の相違の方が重要な問題である。(3)リバータリアニズムという言葉は現実的に古典的自由主義を含むような広い意味で使用されている。(注19)これに対して、筆者は、リバータリアニズム内の相違の方が重要なのではないかと考える。それは、リバータリアニズム内の相違を明らかにすることが、その本質を明らかにすることにつながると考えるからだ。
こうした結果から、リバータリアニズムがその内部に多様性を抱えた思想潮流であるということが容易に理解される。しかし、こうした分裂もこれまで福祉国家主義、リベラリズムなどの主張者たちによって歪められてきた自由主義という言葉の本質を見直そうとする動きの結果なのである。筆者はこうした自由主義に対する再検討の潮流を全体としてリバータリアニズムとして捉えても良いのではないかと考える。この多様性こそが、リバータリアニズムの本質であるとも言えるだろう。
第三節 リバータリアニズムの諸特徴の概観
ここからはリバータリアニズムの基本的な諸特徴を概観したい。様々な研究者たちが様々に主張しているので、祖述することは困難である。しかし、敢えてその共通の諸特徴を要約すると次のようになる。哲学的的には、個人主義(Individualism)、個人の権利(Individual Rights)、所有権論(Property Rights)であり、制度論的には自生的な秩序(Spontaneous Order)としての自由市場(Free Market)、法の支配(Rule of Law)、制限された政府(Limited Government)最小国家論(Minimal State)、権原理論(Entitlement Theory)である。(注20)
一つ一つを簡単に記述していきたい。まず、哲学的側面から見ていこう。「個人主義」についてであるが、個人を社会の基本的単位と考え、その個人のみが選択をし、それに対して責任を負うことができるという考えである。つまり、権利と責任の両方を伴う個人の尊厳を重視する観念である。次に、「個人の権利」であるが、これは個人主義と関連している。ここで述べる「個人」は道徳の発動主体であり、生活、自由、資産について安全を保証されるという権利を有しているということになる。「所有権論」は、「個人の権利」に関連している。その基礎にあるのが、「自己所有権」である。これは、個人はそれぞれの肉体や精神を所有する権利を有するというものである。
次に制度的側面について述べる。「自由市場」は自生的に発展した制度である。自由市場は、一定の経済的諸問題を解決すべく進化する可能性を持つ、社会制度である。そして、自由市場は、無数の諸個人の様々な願望を調整するのである。(注21)これは、国家による強制的、計画的な配分に反対するリバータリアニズムにとっては、それに代替する、重要な制度である。「法の支配」についてであるが、これは個人主義に対する誤解への抑制装置となる。つまり、個人主義は、「人間は自分の望むことを好き勝手に行うことができ、それに対して他人は何も言うことができない」というような考えではない。そうではなく、各個人は「他の人々にも同等の権利を認める限りにおいて」自分の人生を望むように生きることができるとするものである。つまり、ここでは「法の下における人間に自由をもたらす社会」を想定しているのである。ただ、ここで言う「法」とは、当然存在すべきもので、それに規制されるということではあっても、強制的な命令と同義ではない。また、法は決して特定の結果が生じるように意図的に作られるものであってはならない。「制限された政府」は「すべての権力は腐敗する。絶対的な権力は絶対的に腐敗する」という有名なアクトン卿の言葉(注22)を基にしていると筆者は考える。権力は腐敗するものであり、それが政府に集中していた場合、より大きな腐敗を招く結果になる。また、中央集権的な政府は失敗を重ねてきたことは歴史が証明している。そのために、権力を分散し、制限し、政府を規制しなければならないとする「制限された政府」という考えが生み出されたのである。
最小国家論、権原理論についてであるが、これはロバート・ノージックの理論を用いて見ていきたい。最小国家論は、国家の役割を司法・治安維持・国防に限定するとするものである。これは、外部からの強制力を抑制する機能のみを政府の正当な機能として限定することである。これによって、公共福祉制度、道路網、公共教育制度などを民間部門に委ねるということになる。ノージックは、この最小国家を「自然独占」から成立するものと想定している。(注23)権原理論について述べたい。これは、所有権論における正義に関する理論である。ノージックは、正義論、より具体的には分配的正義(配分的正義)を次の三つに分類している。@財の取得・移転の経緯に不正がない限りその配分は正義に適っているとする「歴史原理」(Historical Principles)、A財の最終的な分配のあり方を問題にする「最終結果原理」(End-Result Principles)、B「〜に応じた分配」というような分配の結果を一定の範型に押し込める「パターン付き原理」(Patterned Principles)である。そして、ノージックは権原理論を「歴史的・非パターン化原理」としている。続いて、彼はこの権原理論を次のように定義している。@「獲得の正義」(The Principle of Justice in Acquisition)の原理に従って保有物を獲得する者は、その保有物に対する資格(権原)を持つ。A 財に対して権原を有する者から「移転の正義」(The Principle of Justice in Transfer)に関する原理に従ってその保有物を得る者は、その保有物に対する資格(権原)を持つ。B @、Aの適用の場合を除いて、保有物に対する資格(権原)を持つ者はいないとする「匡正の原理」(The Principle of Rectification)、と展開される。(注24)
前述したように、リバータリアニズムは一枚岩の思想ではない。よって、リバータリアニズムの主張者たちは、上述した諸特徴を全て認める訳ではなく、それぞれの思想基盤に基づいて、認めるものと認めないものがある。しかし、リバータリアニズムを理解する上で、これらの諸特徴を明らかにしていくことは重要である。
第二章 リバータリアニズムの諸特徴
第一節 リバータリアニズムの諸特徴の選択
この章では、リバータリアニズムの諸特徴について具体的に見ていきたい。第一章第三節において、リバータリアニズムの諸特徴といわれるものを祖述した。しかし、その全てを見ていくことは大変に困難な作業である。よって、ここでは、筆者が特にリバータリアニズムの基底をなすのではないかと考える四つの諸特徴を見ていきたい。その内容は、所有権論(Property Rights)、自由競争市場(Free Market)、最小国家論(Minimal State)、権原理論(Entitlement Theory)である。その理由は、これら四つが他の諸特徴を包含していると考えるからである。具体的に言うと、所有権論、権原理論を見ていくことで、個人主義や個人の権利を論じることが可能である。また、最小国家論について考えることで、制限された政府について考えることが可能となる。よって、筆者は、こうした諸特徴を見ていくことで、リバータリアニズムに対しての理解が深まるのではないかと考える。
第二節 所有権論(Property Rights)について
まず、所有権という言葉自体について見てみたい。これはProperty Rightsを訳したものであるが、所有権ではなく、「財産権」としても誤りではないと筆者は考える。「所有権」と「財産権」に言葉を区別した理由は次の通りである。筆者は、所有権は、財産権よりもより広い意味を持つと考える。筆者は前述したように、所有権論を論じることで、個人主義や個人の権利についてまで論じたいのだが、そうした中に、財産権も包含されていると考える。しかし、筆者は、財産権という言葉の中に、自分自身を所有するという意味が包含できるのかという疑問を持つのである。よって、筆者は、所有権を用いるのである。
これに対して、森村進は次のように述べている。その内容は次の通りである。(注1)彼は法哲学者の立場から、まず日本の法体系における区別を行っている。所有権は民法における物権の一つであり、「所有者は法令の制限内に於いて自由に其所有物の使用、収益及び処分を為す権利を有す」と総括的に規定されている。一方、財産権は基本的人権の一つとして憲法二十九条で規定され、「経済的自由」と総称されている。そうした中で、彼は「所有権」と「財産権」を使い分けている。彼は「財産権」を「所有権」よりも広い意味で用いている。所有権は、対象物への強い支配権を意味する。これに対して財産権は財産への権利すべてを意味するが、債権よりも物権を指すことが多い。そして彼は、所有権を財産権の典型だから、議論の焦点を合わせるために、所有権を中心として財産権を論じていきたいとしている。また、法的な権利ではない、道徳的権利としての所有権や財産権の観念も用いている。こうした道徳的・前国家的権利は、伝統的に「自然権」と呼ばれている。森村は、私的財産権は自然権であり、それゆえにこそ法的権利として認められなければならないと主張している。
リバータリアニズムの立場から、所有権論について議論する上で「自己所有権」(Self-Ownership)という考え方が重要である。これは所有権論の基礎をなす重要な考え方である。また、それのみならず、個人主義や個人の権利の基礎をもなすと筆者は考える。個人は「自己所有権」を持つゆえに、その意志決定や自由を、他者は尊重しなければならないのである。また、この自己所有権によって、個人は、国家を含む他者からの強制や侵害を受けないのである。それでは、ここで言う所有権を保有する単位は何で、それは、何に対して所有権を保有するということになるのか。
この質問に対する解答は明白である。それは、全ての個人が、自分自身、自分の肉体、自分の財産に対して所有権を持っているのである。これが「自己所有権」の大きな前提である。この自己所有権という考え方はジョン・ロックによって提起された。彼は『市民政府論』の中で次のように述べている。「たとえ地とすべての下級の被造物が万人の共有のものであっても、しかも人は誰でも自分自身の一身については所有権を持っている。これには彼以外の何人も、なんらの権利を有しないものである。彼の身体の労働、彼の手の働きは、まさしく彼のものであるといってよい」(注2)彼は、この考え方を用いて、天然資源の個人による原始取得を正当化した。また、この自己所有権という考え方は、ロックの主張する「自然権」の基礎をなすものである。しかし、同時に彼は、「理性」の法である「自然法」の存在をも認めていた。ロックは、自然法が生命、自由、財産など、それぞれの自然権を侵害することを禁じているとした。言い換えると、自然法が自然権の源になるということである。
森村は、このロックの自己所有権の考え方を利用しながら、ロックよりも厳密な用語法を使用している。彼は、自己の身体や自由への権利を「狭義の自己所有権」とし、そして狭義の自己所有権とそこから導出される財産権とを総称して「広義の自己所有権」と呼んでいる。そして、ノージックは、このロックの所有権についての考え方を用いているのである。(注3)筆者は、この前提から次のように展開する。「ある者を他の者のために犠牲にするのは不正である」と。言い換えると、人間は、他の人間を「手段」として扱ってはならないということになる。
上記のように展開される理由を述べたい。全ての個人の所有権、特に自己所有権は全くの平等であることは誰も疑問を挟めない。その上で、ここに誤解が生じてしまうのである。それは、この自己所有権を「生存権」と混同してしまうことである。つまり、生存権を「自分が生きていく上で必要ならば、自分自身の肉体を保有するためには何をしても良い」と誤って解釈してしまう人々が存在する。こうした解釈によって、国家の強制的な徴税による財の再分配や、福祉制度が正当化されてしまうのである。言うまでもなく、こうした解釈は、リベラルたちや社会主義者たちによってなされている。しかし、そうなると、ある人間が、別の人間に対して、自分にものを与えるように強要する権利があるということになる。これは、人間を「目的」としてではなく、「手段」として扱うことになる。財の再分配を主張する人々は平等主義者であるはずだ。しかし、財の配分の結果を平等にする過程で、人間を不平等に扱うことになってしまうのである。デイヴィッド・ボウツは次のように述べている。「生きる権利とは、それぞれの人には自分の人生を促進し、豊かにするために自ら行動を起こす権利があることを意味するのであって、決して、自分の必要を他の人に世話するよう強いることではない」(注4)一方、ロバート・ノージックは次のように述べている。「色々な付随制約は、それらが[それぞれ]規定している方法では、他人が不可侵であることを表現しているのである。この型の不可侵性は次のような命令で表わしうる。『人々を特定の方法で利用するな。』他方、結果状態論は、人々が単なる手段ではなく目的なのだという見解を(ともかくその見解を表現する気になるなら)、異なった命令、『人々が特定の方法で手段として利用されるのを最小化せよ』によって表現することになろう」(注5)また、ノージックは個人の自己所有権が基礎となって、それぞれが不可侵の存在となることを付随制約(Side Constraint)と定義している。
ロックの主張した自己所有権という考え方は、ノージックによって、再び舞台に登場することとなった。リバータリアンたちの主張する個人主義や個人の権利は、この自然権的な自己所有権を基礎としている。ロックの『市民政府論』はアメリカ独立宣言に影響を与えたと言われている。そして、この所有権論は、リバータリアニズムの特徴の一つである。よって、前述したように、リバータリアニズムをアメリカの建国の父祖たちが唱えた哲学の継承・純化であるとする研究者たちが存在するのも当然であろう。
この自己所有権には二つの考え方が存在する。ノージックは、自然権からこの考え方を展開しているので、所有権を道徳的な権利としている。一方、そうではなく、所有権をもっぱら効率的な資源配分の手段として考えている研究者たちも存在する。ノーマン・バリーは次のように述べている。「市場による調整プロセスを理解するためには、財産の私的所有という概念が不可欠であるにもかかわらず、[新古典派経済学やオーストリア学派内には]私的財産の道徳性に関する、何らの理論も見られないのである」(注6)新古典派経済学やオーストリア学派は、それぞれの個人を市場に参加するという面で重要な存在としているが、それぞれの個人を、権利を保有している存在として尊重してはいない。つまり、彼らは、自然権を前提として理論を構築してはいないのである。「市場」については後述する。
第三節 権原理論(Entitlement Theory)について
この節では、所有権論における正義に関する理論である、「権原理論」(Entitlement Theory)について見ていきたい。この権原理論はロバート・ノージックが主張したものである。正義に関する理論はいくつか存在する。また、私たちは社会において、資源や財を配分している。その際に利用するのは、配分的正義の原則である。この配分的正義は正義論の大きな部分を占める。配分的正義に対しては、多くの見解が存在する。しかし、そこには共通の問題がある。それは即ち、「財や資源はどのように分配されるべきか」ということである。彼は、権原理論を次のように主張し、展開している。
ノージックによると、保有物の正義の主題は、三つの中心的論題からなる。@「獲得に関しての正義の原理」(The Principle of Justice in Acquisition)、A「移転に関しての正義の原理」(The Principle of Justice in Transfer)、B「所有における不正の匡正」(The Rectification of Injustice in Holdings)である。「獲得に関しての正義の原理」には、保有されていない物が保有されるに至る一つまたは複数の手続や、特定の手続によって保有されるに至る物の範囲などが論点として含まれる。「移転に関しての正義の原理」は、いかなる手続によって、人は別の人に保有物を移転することができるのか、人はいかにして、ある保有物を保有者から得ることがきるのか、という論点が含まれる。そして、これら三つの主題に関する真理を(一)「所有の獲得の原理」、(二)「所有の譲渡の原理」、(三)「最初の二つの原理の侵害の匡正の原理」とも言い換えることができる。そして、ノージックは、「もし世界が総体として正しいのであれば」という条件付きではあるが、次のような帰納的定義を行っている。「1、獲得の正義の原理に従って保有物を獲得する者は、その保有物に対する資格[権原]を持つ。2、ある保有物に対する資格[権原]をもつ者から移転の正義の原理に従ってその保有物を得る者は、その保有物に対する資格[権原]を持つ。3、上述の1、2の(反復)適用の場合を除いて、保有物に対する資格[権原]をもつ者はない」(注7)彼は、こうした帰結に適った正義の理論を「権原理論」としている。ジョナサン・ウルフは、権原理論を次のように要約している。「ある人物の、ある特定の財の保有の正当性はすべて、それがどのようにしてその者の所有に帰するに至ったかに依存する、というものである。もしそれが正当に獲得されたのであれば、それは正当に所有されている」(注8)ノージックは続けて、権原理論を配分的正義の諸理論と比較、検討し、権原理論の性格をより明確にしようと試みている。
ノージックはまずその配分的正義の原理を二つに分類する。それは、「歴史的原理」(Historical Principles)と「非歴史的原理」(Unhistorical Principles)である。この分類は、配分がどのように生成したか、という歴史によって区別されている。歴史的原理は、財の取得・移転の経緯に不正がない限り、その配分は正義に適っていることになる。一方で、非歴史的原理は、正義に適った配分が、過去の情報と無関係に、現時点での正しい配分(Current Time-Slice Principles of Justice)についての何らかの構造的原理による、というものである。つまり、財の最終的な配分のあり方を問題としていることになる。これを最終結果状態(End-Result Principles)、もしくは結果状態原理(End-State Principles)としている。この非歴史的原理によって、功利主義は効用の極大化を、平等主義は平等な配分の結果を正しい配分とする。これに対して、歴史的原理は、人々の過去の環境や行為が、色々なものに対する差異を伴う権原と資格を生み出しうるとする。ノージックによると、権原理論は歴史的原理に分類されている。(注9)
更に彼は「パタン化」(Patterning)という区別を用いている。これは、歴史的原理を更に区別をし、権原理論を明確化しようとする試みである。ノージックは次のように述べている。「ある配分原理が、配分は何らかの自然的[属性の]次元、複数の自然的次元の辞書編纂的順序づけに従って変化すべきだとするなら、我々はその原理をパタン[範型]付き(patterned)と呼ぶことにしよう」具体的に言うと、道徳的功績に応じた配分という原理はパタン付きの歴史的原理であり、知能指数に応じた配分は、配分の行列に含まれない情報に目を向けるパタン付き原理ということになる。つまり、「…に応じた配分」という型ということになる。(注10)彼は、権原理論を非パタン化原理としている。よって、権原理論は、ノージックの正義論の分類によると、歴史的・非パタン化原理ということになる。
ノージックは、権原理論が非歴史的、あるいはパタン化した配分的正義よりも優れていると考えている。配分的正義は初めから配分のパタンの探求に向かい、調達の問題とは切り離している。つまり、生産と配分を分離して議論していることになる。しかし、生産と配分は別々の問題ではない。彼は次のように述べている。「保有物の正義についての歴史権原説の観点からすれば、『各人に…に従って[分配せよ]』の空欄埋めを全く新たな作業として始める者は、対象となる様々な物が、どこでもなく何もない所から生じたかのように、それらをとりあつかっていることになる」これに対して、権原理論は、生産と配分の両方の問題を切り離さずに内的に統合しているということになる。(注11)
ノージックは、配分の正義の諸理論と権原理論を単純化して比較するために次のようなスローガンを提示している。「各人からは、その者が[提供]する気になるものに応じて[調達し]、各人へは、その者が自分で(場合によっては契約による他人の助力を得て)手に入れたものと、他人がその者のために[提供]する気になるもの[サービス]や、以前に他人が(この公準に従って)[さらに他から]与えられてまだ費消も譲渡もしていないもので、その者に与える気になるもの、に応じて[与えよ]」とし、これを要約し、「各人からはその選択に応じて、各人へは[他人から]選択を受けるに応じて(From each as they choose, to each as they are chosen.)」としている。(注12)デイヴィッド・ボウツはこの「生産と配分を統合する公正なシステム」を重要視している。そして、ボウツの著書『リバータリアニズム入門』の翻訳者である副島隆彦はこのシステムを、もっと明確に「市場」システムについてのスローガンとして捉えている。このノージックの提示したスローガンをデイヴィッド・ボウツも著書の中で用いている。そして、副島は次のように翻訳している。「自分で選択して市場に提供する、から、自分自身のために自分で作る、へ。ただし他の人々との契約に拘束されて。すなわち、他の人々が自分に期待しているものを他の人々に与えよ。他の人々もまたこれと同じ法則(マキシム)で動いているのだから」これもまた要約されている。「彼が自分で選ぶ、から、彼が市場に選ばれるままに、へ」(注13)
筆者は、このスローガンを非常に重要だと考える。ノージックは、このスローガンが意味するものを「市場」と考えていたかどうかは明らかでない。しかし、彼の権原理論を考察してみると、そこには歴史的、非パタン化というキーワードが存在する。この内容は、私たちが「市場」の成立要件として理解できるものである。配分的正義は、人為的な計画によってなされるということも市場の要件とは対照的である。よって、彼は、これまでの配分的正義についての諸理論を検討し、権原理論を明確化するという作業によって、副次的に「市場」による分配という結論を導出したと筆者は考える。ここから、現代の福祉国家への批判も導き出すことが可能である。具体的には、納税者たちは、強制的な徴税をされ、それを納税者たちの意志の届かないところで使途を決定される。これは、上述したスローガンに明らかに反している。また、これらは彼らの自己所有権をも侵害する行為となる。それは自己所有権によって、それぞれ個人の行った意志決定は尊重されるからなのである。
これらの所有権論、自己所有権論、権原理論を敢えて一言でまとめると、「全て人には、他者が等しく持っている権利を侵害しない限りにおいて、自分の人生を自分の選択したとおりに生きる権利がある」ということである。ここから次のように帰結される。「人は誰も、他の人やその財産を侵害する権利を持っていない」と。これをデイヴィッド・ボウツは、「侵害しない公理」(The Nonaggression Axion)と名付け、リバータリアニズムの中心となる原理であるとしている。(注14)これは、何も個人間だけのことではない。政府にも同じ様に適用されるべき公理である。リバータリアニズムの立場から見ると、自由とは、個人的な自己所有権や所有権、財産権が侵害されない状態のことである。国家による強制的な徴税、再分配などは、この原理を侵害していると筆者は考える。自分の所有物、財産の使途を自分で決定できない状態が果たして自由な状態であると言えるだろうか。こうした考えに基づいて、リバータリアンたちは国家の干渉に反対するのである。
第四節 自由市場(Free Market)について
リバータリアニズムには、様々な特徴があり、多くの考え方を内包している。つまり、リバータリアニズムは「一枚岩」の思想ではない。それでも、全てのリバータリアンたちに共通しているのは「自由市場」を徹底的に擁護するということである。全てのリバータリアンたちにとって、自由市場は重要な「装置」なのである。この節では、自由市場について、オーストリア学派の主張を用いながら概観していきたい。それは、多くのリバータリアンたちがオーストリア学派の影響を受けたからである。尚、「市場」という用語を使用することもあるが、これも「自由市場」と同義である。
市場についての様々な考え方を整理したい。歴史上、「市場」を発見し、体系化したのはアダム・スミスであることは疑いようがない。彼は、1776年に『諸国民の富』を著した。この著作は、彼の実践志向的な政治経済学を反映している。それと同時に、彼は、市場=社会であることを発見し、市場が社会システムを成していることを発見し、その成り立ちについて深い洞察を示したのである。彼は、自分自身の利得のために行動することが、「見えざる手」によって、意図していなかった社会利益の増進につながる、という逆説的命題を打ち立てた。この命題に含意されているのは、自己利益はあくまでも自分自身にのみ関わりを持つところの利益であることと、自己利益の総和が社会的利益だというのは、恒等式というよりもむしろ因果関係を表わす式であること、自己愛が分業と交換を促進し、結果として社会的利益を増進するということであった。彼は次のように述べている。「かれは自分自身の利得だけを意図しているわけなのであるが、しかもかれは、この場合でも、その他の多くのばあいと同じように、見えない手(an invisible hand)に導かれ、自分が全然意図してもみなかった目的を促進するようになる。かれがこの目的を全然意図してもみなかったということは、必ずしもつねにその社会にとってこれを意図するよりも悪いことではない。かれは、自分自身の利益を追求することによって、実際に社会の利益を促進しようと意図するばあいよりも、いっそう有効にそれを促進するばあいがしばしばある」(注15)
そして、スミスが最終的に行き着いたのが、「自然的自由の制度」としての市場社会であった。彼は、次のように述べている。「優先させたり、あるいは制限したりするいっさいの体系が以上のようにして完全に撤廃されれば、自然的自由という自明で単純な体系がおのずから確立される。あらゆる人は、正義の法を犯さぬかぎり、各人各様の方法で自分の利益を追求し、自分の勤労および資本の双方を他のどの階級の人々のそれらと競争させようとも、完全に自由に放任されるのである」(注16)また、スミスは、分業と交換のシステムは、社会的利益を増進するだけでなく、分配の公平さをも生み出すと述べている。つまり、市場経済の下では、市場の自動調整機能を通じて、市場にもたらされる商品の量は自然的に有効需要に一致する傾向があるということである。よって、市場のシステムが生産における各人の貢献を正しく評価しながら、同時にその時々の需要をもっともよく満たすという点において人々の満足の極大化にも貢献しうるとされる。市場価格は公正価格ということになるのである。(注17)筆者は、こうした一連の記述にリバータリアニズム的な諸特徴を見る。前述した「自然的自由の制度」とは市場のことではないかと筆者は考える。アダム・スミスは彼の経済学の体系の中で、リバータリアニズムが主張するような社会を理想としていたと言えるのではないかと筆者は考える。
経済学において、「市場」を重視した人々に、オーストリア学派の人々がいる。彼らは、計画経済論が隆盛を極めた1920年代から1930年代にかけて、それに反対し、「市場」概念を深化させた。オーストリア学派を代表する経済学者ルードヴィッヒ・フォン・ミーゼスは、社会主義経済の弱点を経済計算の点から明らかにした。その内容は次の通りである。中央計画当局下の計画経済においては、市場が存在しない。市場が存在しないということは、価格が存在しない。価格が存在しないということは、需給を調節する価格メカニズムも存在しない。よって、社会主義経済下では、市場と同等の効率性をもって諸資源を配分できないということになる。これに対して、次のような批判がなされた。社会主義経済下での、各企業が生産の指標とする計算価格を得ることは可能であり、この計算価格を用いることによって、社会主義経済下でも市場経済と同等の効率的な資源配分を達成することは可能である。これに対して、フリードリッヒ・A・ハイエクは社会主義経済でも経済計算の形式的な解決は可能であるとしたが、その実際的な解決については疑問をもった。その内容は、社会主義経済下での、経済計算は成立することは理論的には可能であるが、実際には無数の統計データを用いて、無数の方程式を解かねばならない。これは不可能である。市場経済では、人為的に数百万の方程式を解く必要はない。ハイエクは次のように述べている。「仮に、このメカニズムが人間の計画的な設計の結果であるならば、そして仮に、価格変化によって導かれる人びとが、かれらの意志決定はかれらの直接的目的をはるかに超える意義をもつことを理解しているとするならば、このメカニズムは人間の知性の最大の勝利のひとつとして拍手を浴びたであろう、と私は信じる。このメカニズムの不幸は二重であって、このメカニズムが人間の設計の産物ではないこと、かつ、このメカニズムによって導かれる人びとが、なぜ自分たちがしていることをするように仕向けられるかを通常は知らないことである」(注18)彼は計画経済の理論の幻想を打ち砕いた。
それでは、オーストリア学派は市場をどのように見ていたか。彼らは、市場を一定の経済的諸問題を解決すべく進化する可能性を持つ、人間の社会制度であるとしている。そして、市場は、無数の諸個人の様々な願望を調整するのである。中でも、ハイエクは、市場を含む、社会的、文化的諸制度を、進化のメカニズムに見られるのと同じ自然選択という基本原理を体現しているものと見ている。つまり、市場は、人間の意図的な行為を通じて実現されたものではなく、自生的な制度ということになる。こうした主張に対して、「市場の失敗」という言葉に代表される、多くの批判が寄せられた。具体的に言うと、「市場は配分システムとしては本質的に非効率であり、信頼できず、浪費的である」というものや「市場は利己的態度や不平等を助長し、『真の』自由を抑圧する」というものである。(注19)前者は効率性の面からの批判であり、後者は道徳性の面からの批判である。前者の批判は、上述したように、実際的ではないことが理解され、現実の社会主義経済下での非効率が明らかになるにつれ、勢いを失った。
しかし、後者の批判は現在もなされるものである。市場への批判の基礎が効率性から道徳性へと変化して来ているのである。こうした批判に対するオーストリア学派の反論は次の通りである。(注20)第一に、批判者たちは、市場の参加者が「利己的」であることを批判している。しかし、市場における「利己的」というのは、「相手の利益に関心を持たない」ということである。分かりやすく例えると、それはチェスやフットボールをしている人間と同じなのであり、彼らは自分のキングやゴールを守っているが、その行為を「利己的」とは言われない。つまり、利己心に従う市場交換は、それ自体が道徳的でも不道徳でもない。それは、手段であって、目的ではないからである。第二に、利己心やエゴイズムは善悪で判断できる問題であろうか。また、社会システムを変えることで利己心を修正することができるだろうか。利己心は善悪の問題ではなく、事実なのである。よって、利己心を悪、利他心を善とする考え方は道徳的ではないのである。また、人間をより利他的にできるシステムとして社会主義経済が登場したのであるが、結局はエゴイズムが別の形で現われたに過ぎなかった。第三に、市場は他の制度に比べて危険が最も少ない。市場は、確かに情緒的には道徳的な面が少ないであろうが、「潜在的に危険で四足不可能な結果を導く社会工学的計画」に比べて、消極的ではあるが、「その下では悪人が最小の害しかなし得ないシステム」なのである。第四に、「利他心」という言葉を注意深く検討すると、私たちが利他心を発揮しようとする動機は「自己関連的利他心」(Self-Referential Altruism)である。これは、利他心は通常、自分の家族などの自分と関連する人々に対する心である。つまり、私たちの利他心の及ぶ範囲はごく限られている。これは、普遍的利他心には至りにくい。この利他心をより大きな集団にまで適用しようとすると、より大きな形での敵対心に変質する。
第五に、オーストリア学派の人々は、利己心を「人間の知識の限界」に基づいて擁護している。つまり、「それはまさしく、各々の経済主体は必然的に限定された知識しか持ち得ず、従って限定された目的しか持ち得ないという事実の認識から得られているのである」ということである。彼らは、利己心という言葉で、「人間の精神が実際上できることの全ては、自分を中心とする狭い範囲の事柄である」という事実、「一人の人間の努力は、たとえ彼がどれほど他人に負けない善意を持っていたとしても、彼が何を知ることができるかによって本来的かつ不可避的に限定されている」という事実である。従って、オーストリア学派の人々が利己心を擁護するということは、人間は限定された知識しか持ち得ないという事実を「謙虚に」認めるということである。よって、計画経済における計画者の存在を「誰が最も良く知っているかということを、誰も知ることができない」として退ける。第六に、より利他的な行為をなすように人々を強制することが果たして道徳的な行為か、という問題がある。利他的に行為することは道徳的であるかもしれないが、それを強制することは道徳的ではない。それでは、強制することなしに、人々を利他的に行為するように促すシステムは存在するのか。理論的には、二つ考えられる。一つは、普遍的な宗教のシステムであり、もう一つは自由市場システムである。自由市場システムは、利己的な人間を特別な強制や命令なしに、ある程度利他的に行為するように仕向ける最良のシステムなのである。これはどういうことか。市場において、利潤の追求はそれ自体として利己的な行為であるが、相手が満足するような財・サーヴィスを提供しなければならない。そこには、利潤を追求するという利己心を満足させるには、利他心を働かせねばならないということなのである。ここで逆転が起こっているのである。これははっきりと意識されるものではないので、市場が不道徳であるように考えられるのである。一言するならば、市場は利己心と利他心を融合させるものなのである。
このように、「自由市場」は、「強制」や「計画」なしに人々の欲望を調整できることが明らかにされた。リバータリアンたちは、強制を排除することを主張している。従って、リバータリアンたちにとって、「自由市場」は非常に重要な社会的システムなのである。また、これまでの集産主義に対しての強固な反対の基礎ともなるのである。次の節で見ていくリバータリアニズムの主要な主張である「最小国家論」においても、自由市場のシステムが重要な役割を果たしている。
第五節 最小国家論(Minimal State)について
この節では、「最小国家論」(Minimal State)について見ていきたい。リバータリアニズムの強制に反対する考え方を推し進めると、国家の廃止にまで行き着く。国家という存在は、その存在基盤である徴税という制度が既に強制であるからだ。つまり、国家は存在するだけで、人々を強制し、権利を侵害してしまう。しかし、「最小国家論」を主張するリバータリアンたちは、国家の完全廃止には反対だが、国家統制主義に終止符を打つことを第一義とし、先に行使される強制力の抑制のみを政府の正統な任務と考えている。(注21)具体的には、国家の役割を司法、治安維持、国防に限定している。人々は、自分たちの権利をこうした制度によって保護することが可能となる。しかし、国家が存在しないということになれば、警察も司法制度もないということになる。無政府主義者の中には、国家が諸悪の根元であり、国家さえなければ誰も他者の権利を侵害しないと考える人々もいるが、これは空想的過ぎるであろう。(注22)こうした無政府主義者たちを除いて、リバータリアンたちの多くが一致して行っている主張は、国家の正統な役割は、司法、治安維持、国防に限定し、その他現在の福祉国家の行っている公共福祉制度、公共教育制度などは民間に委ねるべきだというものである。これは思想史の上で伝統的な「夜警国家論」と共通するものである。後述する無政府資本主義は、司法、治安維持、国防をも市場化できるのではないかと主張する思想である。
最小国家論には二種類の国家論が存在する。一つは、自発的な政府財源の提供に基づく「自発的政府論」であり、もう一つは、「自然独占」として成立する最小国家を想定する「自生的政府論」である。「自発的政府論」を主張する人々は、強制力、暴力の行使を排除し、個人の諸権利を保護するために、ある機関が必要であるとしている。そして、彼らは、物理的な力の行使を個人の恣意的な裁量に任せられず、「客観的統制の下に」置く必要があるとしている。これが「国家」である。ここで、問題となってくるのがその財源である。国家は、「強制力を行使することなしに」財源を確保することができるだろうか。これに対していくつかの解答がなされている。非現実的なものとして宝くじを運営し、その収益を財源に当てるという方法がある。より現実的な方法として、「契約制度」が提示されている。具体的に言うと、政府と「契約」して、その保護を求めるかどうかを国民が選択する制度である。よって、その政府から保護を求めない人々には、政府は行政上のサーヴィスを提供しない。(注23)しかし、筆者は、この制度にも欠陥があると考える。それは、政府と契約した人々と契約していな人々との間の紛争などをどのように解決するかということである。国家に保護を求めない人々は、自分たちで警察や裁判所に代わる独立的な機関を持つことになるだろう。そういった場合に、保護を求めない人々の間の紛争ならば、解決の糸口を見つけることは可能となるだろう。しかし、国家と独立的な機関とで相違があった場合、それを話し合いだけで解決することは困難なのではないだろうか。
次に、「自生的政府論」について述べる。ここでは特にロバート・ノージックを取り上げる。彼は、次のように主張している。彼はまず、ロック流の自然状態を想定している。そこでは、諸個人は、「他人の生命、健康、自由、財産を侵害してはならないという自然法の制限内で、許可を求めたり他人の意志に依存したりすることなく自分がふさわしいと思う通りに、行動を律し財産と一身を処分するについて、完全に自由な状態にある」これらの制限を越えて、「損害を蒙った個人は、それに対する賠償となりうる範囲で侵害者から取り戻すことができる」しかし、「自然状態においては、個人が自分の諸権利を実行する力を欠いている場合がある。つまり、自分より強い相手が権利を侵害した場合にこれを罰したり、そこから賠償を取り立てたりすることが彼にはできないかもしれない」(注24)こういう状況に陥った場合、人々はどういう行動を取るのか。
人々は、個人の諸権利の保護を目的として「保護協会」(Protective Associations)を設立することになる。こうした保護協会は、初期の段階では複数設立される。これらの保護協会は、同質なものではなく、その内容も、そのメンバーも、紛争解決の手段も様々に異なる。加えて、保護をサーヴィスとして提供する企業家たちも出現するだろう。それらの間でも、方針や価格は異なるであろう。こうした状況下で、それぞれの保護協会との間で「競争」が行われる。言い換えれば、様々な保護協会を通じて、警備サーヴィスという特殊な市場が誕生することになる。(注25)そして、この市場において、「自然独占」によって、一つの「支配的保護協会」(Dominant Protective Association)が誕生する。それでは、支配的保護協会は、「国家」なのであろうか。国家の特徴は物理的な実力行使の独占にある。しかし、ここで想定する支配的保護協会は、あくまで個人の権利を自分の力で保護することができない人々のために存在する。そうすると、この支配的保護協会に参加しない人々がいることも充分に想定できる。彼らは、自分たちを自分自身で守ることができ、罰することができる人々、ノージックの言葉では「独立人」(Independents)である。リバータリアニズムの立場からすれば、支配的保護協会といえども、彼らに参加することや、自衛権を放棄することを「強制」することは不可能である。従って、支配的保護協会は、物理的な実力行使を独占することができないので、「国家」とは言えない。そこで、ノージックは次のように述べている。「夜警国家のことを最小国家と呼ぶことが多いから、このもう一つの制度は超最小国家(The Ultraminimal State)と呼ぶことにしよう。超最小国家は、緊急の自己防衛に必要なものを除いて、すべての実力行使を独占している。それゆえそれは、不正に対する報復や賠償の取立を私人(またはその代理機関)が行うことを排除するが、保護と執行のサービスを、それの保護・執行[保険]証券を購入した者のみに提供する」(注26)ここで、支配的保護協会について、直接言及していないが、その内容を見れば、支配的保護協会を指していることは明らかである。つまり、ノージックは、支配的保護協会を自然状態から最小国家へと移行する過程で発生する中間的な存在として「超最小国家」としているのである。それでは、支配的保護協会、換言すれば超最小国家と独立人たちは、どのような関係になるだろうか。
独立人たちの自衛権や処罰方法を認めるとすると、次のような想定ができる。独立人たちが、その自衛権を行使し、処罰方法を行う場合、自然法の範囲を超えてしまうことがあるのではないか。彼らの誤解から、何の関係もない無実の人々も罰してしまうこともあるのではないか。こうした行動を通じて、超最小国家に属している人々の権利が侵害される可能性は十分に想定される。超最小国家は、こうした行動を取った独立人に対して賠償を請求すれば良いが、そのような状況になる前に、超最小国家は先手を打とうとすることは容易に想像できる。その方法は、独立人たちに対して、彼らの自衛権などの行使を禁止し、超最小国家に属する人々に対して、その実力行使が正当であることが超最小国家に対して証明できない限り、誰でも処罰すると宣言することになる。(注27)つまり、超最小国家は、独立人たちの実力行使を制限し、やがて禁止する方向へと進むことになるだろう。そうなると、超最小国家は、独立人たちに対して、彼らの自然権を制限することへの賠償、つまり彼らの実力行使を禁止したことへの賠償として、保護サーヴィスを提供することとなる。ここにおいて、超最小国家は、物理的な実力行使の独占、その領域内に住む全ての住民の保護という国家の役割を達成する。従って、ここに、超最小国家は、「最小国家」となるのである。ノージックは、こうした一連の国家生成の説明をアダム・スミスに因んで、「見えざる手説明」(Invisible-Hand Explanations)と呼んでいる。彼は、次のように述べている。「全体のパタンまたは構案は、個人や集団がそのパタンを実現すべく試みて成功することによって[はじめて]形成されねばならぬと考えられがちだが、右のような説明は、これとは異なって、『心の中に[宿る着想として]』全体のパタンや構案など全く存在しない過程によってそれらが形成され維持されることを示すのである」(注28)彼によれば、最小国家は、「計画」や「設計」の産物ではなく、全く自生的なものである。
ここで、次のような問題が生じてくる。それは、超最小国家から最小国家へと進む段階で、そこに再配分的機能が加わったように見えるということである。ノージックは次のように述べている。「説得力のある非再分配的な理由づけを見つければ、我々はこの[再配分的という]ラベルを外して良いことになろう。ある者から金銭を取ってそれを他の者に与えるような機構を、我々が再分配的であるというか否かは、その機構がなぜそうすると我々が思うかに依存する。盗んだ金銭を返すことや権利侵害に対する賠償を行うことには、再分配的な理由はない」(注29)つまり、最小国家が独立人たちに保護サーヴィスを与えるのは、再配分的な理由からではなく、賠償という理由からなのである。長尾龍一は、次のように述べている。「この自然状態と国家状態の間のmissing linkの発見までには、ロックが最初にこれを説いて以後、三百年近くもの時間がかかったのである」(注30)長尾は生命科学の分野の用語を用いながら、ノージックを評価している。「保護協会」という概念は、ある意味で、社会思想史上の「発明」であり、「発見」であったと言えるだろう。しかし、筆者は次のように考える。複数の保護協会から一つの支配的保護協会へと移行するというのは、現実的であろうか。もちろん、ノージックは理論的に述べているだけなのは充分に承知している。しかし、市場を完全に独占するような企業体など存在しないし、人々は独占を排除することを志向する。それは、市場において、独占状態よりも、競争状態にある方が消費者にとっては有利だからである。保護サーヴィスという特殊な市場であっても、市場原理が働くのであるから、独占という方向へと簡単に移行するのだろうか。この市場は、「暴力」をも商品として流通させてしまうのではないか。しかし、筆者は、ノージックが国家の生成を説明する上で、市場原理を導入したことは、リバータリアニズム的であり、重要であると考える。
この第二章では、リバータリアニズムの諸特徴を概観してきた。リバータリアニズムの基本的な概念を筆者なりにまとめてみると、「個人の諸権利」や「自然権」を非常に重視するものと言えるのではないかと考える。また、「個人の自由」を基礎として様々なことを考えていくということにもなるだろう。また、自然権という概念を発見したジョン・ロックの影響を多く受けている。それは、ノージックの思想に顕著に表れている。これを考えてみると、それはつまり、アメリカ合衆国の建国の理念と合致するのである。とすると、ニューディール時代の集産主義を経験した人々が、アメリカ建国の父祖たちの思想を現代に蘇らせた思想であると言うことができる。また、こうしたことから、リバータリアニズムが決して新しい思想などではなく、伝統的な自由主義の正統な嫡流であると言うこともできるであろう。
リバータリアニズムが一枚岩でなはいことは前述した。そこで、次章においては、リバータリアニズム内の相違点と論争を中心に概観してみたい。それは、筆者は、相違点や論争を概観することで、リバータリアニズムの本質を見ることができるのではないかと考えるからだ。また、論争や相違点を見ていくことで、リバータリアニズムがこれから進む方向性が少しでも明らかになるのではないかと筆者は考える。
第三章 リバータリアニズム内の論争
第一節 何故リバータリアニズム内の論争を取り上げるのか
リバータリアニズムが一枚岩の思想ではないことは既に述べた。そこで、この章では、リバータリアニズム内の論争点や相違点を概観していきたい。第一章第三節で述べたように、リバータリアニズムは多くの場合、次のように分類される。まず、「国家論」で分類すると次のようになる。@国家の廃止を主張する「アナルコ・キャピタリズム(無政府資本主義)」A国家の役割を司法・治安維持・国防だけに限定することを主張する「最小国家論」Bある程度の行政サーヴィスを行う小さな政府論を展開する「古典的自由主義」となる。続いて、「自由主義の正当化理論」で分類すると、次のようになる。(一)基本的自由権に訴えかける「自然権論」、(二)自由を尊重する社会の方がその結果として人々が幸福になるとする「帰結主義」、(三)理性的な人々が合意するのはそのような自由社会の原理であるとする「契約論」となる。
こうした分類を行った上で、古典的自由主義をリバータリアニズムに含むのか、アナルコ・キャピタリズムをリバータリアニズムに含むのかという問題が発生してくる。それは、各研究者によって答が異なる。また、第二章を通じて見てきたように、リバータリアニズムの諸特徴の基礎にあるのは、「自然権」理論である。しかし、これも第二章第四節で見てきたように、個人を「自然権」という道徳的権利の所有者であるから尊重するのではなく、市場の参加者であるから尊重するというように、「自然権」に基礎を置かないリバータリアンたちが存在することもまた事実である。そこで、この第三章では、今まで余り議論されてこなかったアナルコ・キャピタリズムと「自然権」以外に基礎を置くリバータリアニズムについて概観していきたいと思う。それによって、リバータリアニズムがどのような方向へと進んで行くのかが、明らかになるのではないかと筆者は考える。
第二節 アナルコ・キャピタリズム(Anarcho-Capitalism)とは何か
この節では、アナルコ・キャピタリズム(Anarcho-Capitalism)について概観していきたい。アナルコ・キャピタリズムを日本語に訳すと、「無政府資本主義」となる。しかし、この言葉からだけでは、明確なイメージが湧かない。そこで、先行研究を用いて、アナルコ・キャピタリズムとはどのような思想であるのかを見ていきたい。尚、アナルコ・キャピタリズムを主張する人々、つまり無政府資本主義者たちを「アナルコ・キャピタリスト」と呼ぶことを断っておく。まず始めに先行研究を用いてアナルコ・キャピタリズムについて概観していきたいと思う。
そもそも、アナーキズム(無政府主義)には、二つの潮流が存在する。一つは、集産主義的無政府主義であり、もう一つは個人主義的無政府主義である。集産主義的無政府主義は、財産の私的所有を廃止することを主張している。こうした主張は、マルクス主義の影響に由来していることは疑いようがない。ノーマン・バリーは『自由の正当性』の中で、これら二つの潮流を次のように分析している。集産主義的無政府主義の主張は、次のようなものである。それは、市場社会において必然的に生じる不平等な財産所有は、政治権力と癒着し、「市場」権力の一形態を形成し、また、社会的権力のせいで、交換システムの下では自律的な選択は不可能であるというものであった。一方、個人主義的無政府主義の主張は、次のような内容である。それは、個人が相互の利益のために自発的に合意するような交換以外のいかなる関係であっても、それは個人の主権を弱めるというものである。(注1)この個人主義的無政府主義が、アナルコ・キャピタリズムへと受け継がれたのである。このアナルコ・キャピタリズムは、「既成」のリバータリアニズムを不徹底であると主張する「過激」なリバータリアンたちによって主張されている。アナルコ・キャピタリズムは、全ての国家活動の不道徳性と非効率性を前提としている。そこから次のように展開される。国家は自生的に生成されるものではなく、国家の存在それ自体が権利の侵害になり、国家の肥大化を抑制する手段は存在せず、逆に、国家の機能を代替する機関は存在するというものである。(注2)
続いて、アスキュー・デイヴィドは、方法論からアナルコ・キャピタリズムを分析している。彼は、それを「無政府主義を展開するための幾つかの戦略」(注3)としている。それらは次の通りである。@国家なき司法・治安維持・国防に関する歴史的考察を行い、アナルコ・キャピタリズムの作動可能性を論ずる法制史的方法、A司法・治安維持・国防の市場化の現状に関する実証研究、B「法と経済学」や「公共選択学派」などの理論を駆使して、法制史研究や実証研究の成果を解釈・説明しようとする方法、C思考実験的な仮想議論的戦略である。これらの方法を用いながら、アナルコ・キャピタリストたちは、国家なき秩序の実現可能性を論じる。続いて、アスキュー・デイヴィドは、アナルコ・キャピタリストたちの主張を概観している。アナルコ・キャピタリストは、政府に代替する機関が各個人の自発的合意に基づいて、強制力なしに機能するならば、その機関は政府ではないとする。従って、最小国家が、ノージックの言う「見えざる手」過程、即ち市場過程を通じて生成されるならば、それは、国家でも政府でもなく、自由な機関ということになる。また、彼らは、政府の役割の市場化は、歴史的にも可能であるし、そのコストも質も優れているとしている。(注4)
笠井潔は、ピエール・ルミューの分析を用いて、アナルコ・キャピタリズムを概観している。彼は、今日のリバータリアンたちは個人主義的無政府主義の伝統から生まれたとしている。そして、リバータリアニズムを伝統派、中道派、革新派に分類している。そして、アナルコ・キャピタリストを革新派に置いている。この革新派は、リバータリアニズム内の伝統派や中道派を不徹底であるとして批判している過激派であるとしている。この革新派について、笠井は次のように述べている。「リバータリアニズムの原理を徹底化し、『国家なき資本主義社会、国家の廃止、資本主義的無政府状態』を理想とするアナルコ・キャピタリストの一群が存在する」(注5)この革新派がアナルコ・キャピタリズムを主張しているのである。
こうした分析を踏まえて、笠井は、次のように述べている。「可能性は、たぶん個人主義的アナーキズムの方向にのみ残されている。市場が国家を解体するというアナルコ・キャピタリズムのラディカルな発想は、だから、今日、きわめて新鮮なものとして感じられる」続けて、彼は、これまでのイデオロギー的な政治思想の分類方法、つまり、「右」であるのか「左」であるのか、が概念的に捻じれ現象を起こし、実際的な意味を喪失しているとしている。国家を保守し、肥大化させるという論点に立つと、社会主義が最も「右」に位置することとなる。つまり、これまでの「左派」、つまり社会民主主義やリベラルは、経済的には「大きな政府」を主張することで自己矛盾を抱え、一方の「右派」も、思想や表現に関しては保守的であることで自己矛盾を抱えてしまう結果になった。笠井は、経済的にも思想的にも自由の理念を最高価値として掲げるラディカルな自由主義に期待している。(注6)
次に、代表的なアナルコ・キャピタリストである、マーレー・ロスバード(Murray Rothbard)(注7)の国家に対する考え方を概観していきたい。アレクサンダー・シャンドは、現在の急進的右派の中に、アナルコ・キャピタリズムを分類し、代表的なアナルコ・キャピタリストとして、マーレー・ロスバードとデイヴィッド・フリードマン(David Friedman)(注8)の名を挙げている。(注9)ロスバードは、オーストリア学派に属する経済学者である。ロスバードは、彼の言う「特殊アメリカ的な」無政府主義を主張した。それは、アメリカの歴史に由来するものである。アメリカ合衆国には建国以来、封建制度は存在せず、広大な土地を開墾することで、人々は自営農地を手に入れた。これは極端な個人主義を醸成する土壌を生み出した。これによって、国家に対する否定的な思想、即ち無政府主義が発達した。(注10)彼の主張をまとめると、個人の諸権利は絶対であり、法や正義をも含む全ての財やサーヴィスは、強制力を行使する政府の存在なしに供給しうるというものであった。彼は次のように述べている。「リバータリアン的な考えに立つと、国家は、多くの人々の人格や財産に対しての、最高の、永久不変の、最も組織化された侵略者ということになる。全世界のどこにあろうが、民主政治だろうが、独裁政治だろうが、君主政治だろうが、赤色であろうが、白色であろうが、青色であろうが、茶色であろうが、『全ての』国家は侵略者なのである」(注11)それでは、政府とその他全ての社会の諸機関との相違は何だろうか。ロスバードは次のように述べている。「政府『のみ』が、強制や暴力によって収入を得ている。これを『徴税』と言う。政府『のみ』が、国民に対して暴力を振るうための予算を行使することが可能である。政府『のみ』が、社会において、国民の所有権を侵害するために、歳入を得るために、道徳体系を課すために、政府に対する反対者たちを殺すために、権力を与えられている」(注12)ロスバードは、全ての国家活動は平和的な市場への暴力的な介入であり、また国家活動は「公共財」を生産するためにでさえ不必要であると論じている。 ロスバードは、アナルコ・キャピタリズムをアメリカ合衆国の個人主義的な伝統の中に位置づけようと試みている。こうしたロスバードの思想を通じて、筆者は次のような感想を抱いてしまう。それは、個人の自由と国家が並立し得ないのではないかというものである。
ロバート・ノージックは、こうした無政府主義に対して批判を加えながら、国家を正当化しようと試みている。。彼は、権利侵害がなされることなく、無政府状態から国家が出現しうることを示そうとしている。そして、このための最善の無政府状態、即ち自然状態を特定しようとする。まず、ホッブズ流の自然状態、つまり万人の万人による戦争状態を想定するのだが、これでは、人々は安易に国家を望ましいものと考えてしまう。一方、ウイリアム・ゴッドウィンのような楽観的な仮定も説得力を欠いてしまう。そこで、ノージックは、ロック流の自然状態を選択するのである。ロックはこの自然状態の中に様々な不都合が生じ、それらを解決するために市民政府が必要であると主張した。ノージックは、基本的に、ロックのこうした考えを継承し、国家の正当化を行っている。(注13)ノージックは、無政府主義者と同じ様に、自然状態を前提としているが、結果は異なったものとなっている。しかし、自然状態から国家が形成されるということに、筆者は疑問を感じる。
最後に、アナルコ・キャピタリズムを筆者なりにまとめてみたい。この思想は、まず、国家が肥大化し、存在するだけで既に権利侵害を行うことを前提としている。言い換えると、政府は強制の場であるということになる。そこから、「秩序は国家なしに維持されるのか」、「国家なしに秩序が維持されるならば、国家は必要なのか」という問題が提起される。今まで見たきたように、ノージックなどに代表されるように、国家の存在を肯定するリバータリアンたちが存在する。しかし、筆者は、いくら政府の役割を司法・治安維持・国防だけに限定するにしても、政府を維持していくためには、財源を確保せねばならず、そのためには強制的な徴税を行わねばならない。国家が肥大化を避けられない存在であるならば、それを維持するために自発的な納税だけで、維持していくことは困難ではないだろうか。こうした考えを踏まえて、リバータリアニズム的に考えを突き詰めていくと、思想的には、国家を廃止する方向へと進まざるをえないのではないかと筆者は考える。
また、前章で見てきたように、保護サーヴィスは、特殊な性質のものではあるが、市場を形成しうる。秩序は、この市場によって充分に形成される。そこでは、人々は、保護協会と契約を結び、保護サーヴィスを受ける顧客となる。換言すれば、人々は市場に参加するプレーヤーとしての役割を果たすことを求められる。もし、人々が、その契約に違反したら、市場への参加の資格を失ってしまう。つまり、契約違反をした人々は、次回から保護協会と契約を結ぶことができない。保護サーヴィスを受けることができなくなるのである。こうした制裁が市場の強制力の本質となり、これによって、秩序が維持されることになる。よって、国家は必要ではなくなるのである。また、前述したように、アナルコ・キャピタリストたちにとって、市場過程を通じて形成されるのは国家ではなく、自由な機関である。(注14)アナルコ・キャピタリズムは、「国家」という論点から自然権理論を批判しているのである。
第三節 リバータリアニズムにとって自然権は必要か
ここまで見てきたように、ノージックなど代表的なリバータリアンたちは、「自然権」理論を基礎として、様々な議論を展開している。しかし、同時にリバータリアンに分類される人々で、自然権を主張の基礎に置いていない人々が存在することも見てきた。そして、これが、リバータリアニズム内における大きな相違点となっているのである。日本において、リバータリアニズムが正しく理解されていないという批判がなされているが、これはこうした論争や相違点を理解してこなかったからに他ならない。そこで、そうした自然権に基礎を置かない人々が依拠する、自然権に対する批判を概観していきたい。それは、人定法に基づく批判と、功利主義に基づく批判という二つに大きく分けられる。
歴史上、自然権思想に対して批判を加えた、代表的な思想家はジェレミー・ベンタム(Jeremy Bentham)である。彼は、「最大多数の最大幸福」という言葉に表わされるように、功利主義者として知られる。彼は、1789年に『道徳および立法の諸原理序説』を著し、その中で、善悪の基準は人間の快と不快の感覚に求められること、社会とはそもそも「それを構成する諸個人からなる擬制団体」にほかならず、それゆえ立法の目的は彼らの快を増し、不快を減らすことにあるなどと主張した。彼の功利主義は、個人の快楽主義と社会の唯名論に基づく社会改革の論理として理解されている。(注15)
同時に、彼は、自然権に対しての激しい批判を行っている。彼は、1776年に親友であるジョン・リンド(John Lind)が出版した『独立宣言への返答』の中に自然権理論に対する批判の小論を掲載している。この中で、ベンタムは、自然権理論を、一部は自己矛盾に陥った無意味な理論として、また一部は理解可能であるが、真面目に受け取ると如何なる政府の権力行使とも全く両立不可能な危険な理論として批判している。その後、1791年に出されたフランス人権宣言に対しても、著書『無政府主義的誤謬論』の中で批判を展開している。この中で、彼は、自然権理論は、部分的に無意味であり、また部分的には善き政府も悪しき政府もともに崩壊させてしまうような危険な無政府主義であるという批判を行い、自然権理論は、「紙上のわめき声」に過ぎず、単に「無意味」であるのみならず「大言壮語のたわ言」であると断定している。(注16)ベンタムは、人々が権利を政府の存在に先んじて有し、その権利を保護するために政府を形成するのではなく、むしろ、政府と立法機関による法律が存在しなくては、人々はいかなる権利も持つことができないと主張したのである。
ここで、ベンタムの自然権に対する批判を具体的に概観してみたい。彼の批判の論点は二つに大別される。第一に、人定法の創造物ではなく、人定法を批判しそれに反対するために用いることのできる権利を持つという考えは、馬鹿げた概念上の混乱である。つまり、ベンタムは、人定法に先行し、あるいは独立している自然権やその源である自然法は、現実には存在しないと主張している。それは、自然権の存在を証明するための客観的な手続が存在しないからである。よって、自然権理論は、人々の感情や願望や偏見を表現することはあっても、客観的制限基準として役立たないということになる。第二に、自然法理論は、「政治的誤謬」であって、政治的議論と思考の堕落の源になり、特に政治的文書で現実化されたり、立法府や政府の行動を制限するために基本法の中に転嫁されたりする際にそうなる。つまり、人々の主張する自然権が絶対的な形態のものであって、如何なる例外もなく他の諸価値との妥協がなされないとすると、危険な無政府状態に陥ってしまうということになる。また、自然権が絶対的な形態として提示されることなく、一般的な例外を承認するのであれば、自然権は立法者にとっても法に服する人々にとっても無益で空虚な指針にしかならない。従って、政治権力の行使は常に自由や所有権の何らかの制限を伴うので、自然権は秩序ある政治と両立不可能であるか、もしくは全く役立たないかのどちらかにしかならないのである。(注17)ベンタムが功利主義と人定法の理論に基づいて、自然権理論に対して批判を、いや激しい非難を加えた理由の一つに歴史的背景がある。フランス革命後の、ジャコバン党による恐怖政治が革命の理念を打ち砕いた。ベンタムもフランス革命の理念に共感しながら、その悲劇的な結末に裏切られたのである。それでも、1790年には、功利主義に基づく民主政治を正当化する理論を行うようになった。しかし、無政府状態への不安感と恐怖政治の行き過ぎへの嫌悪によって、極端に保守的な言説をも行うようになった。ベンタムが、幻想でしかない人権を基礎とするのではなく、功利主義に確固とした基盤の上に民主主義を根拠付けることを確信し、急進的な民主主義改革の熱烈な主唱者となったのは1809年のことである。(注18)彼は、自然権や自然法を幻想であるとして切り捨てた。そこには、それらの理論に一度は幻惑されたことへの反省と、そして怒りがあると筆者は考える。
こうしたベンタムの思想を基礎としながら、自然権を基礎としないリバータリアンたちは、自由を尊重する社会の方が、その結果として人々を幸福にするという、帰結主義的な功利主義を主張している。ここで、重要なことは、自然権理論を用いるにしても、功利主義を用いるにしても、結論は同じであることだ。それは、「強制」に対して反対の立場であることだ。その基礎を自然権に置くのか、功利主義や人定法に置くのかに、非常に大きな相違点がある。同時に、この相違点を明確にすることは非常に困難である。それは、両者の結論が同じになるからである。副島隆彦は、この相違点を自然権に基づく方を「ロッキアン・リバータリアニズム」、功利主義や人定法に基づく方を「ベンサマイト・リバータリアニズム」と呼び、区別している。(注19)功利主義や人定法理論は、自然権理論を幻想であるとして批判している。そうした幻想を基礎にして、国家や政府を形成することの恐怖がその根底にあると筆者は考える。ここでの相違は、リバータリアニズムが西洋思想における各法概念の伝統を継承し、内包していることを明らかにしている。
これまでの議論をまとめると、次のようになる。第一に、リバータリアニズムはアナルコ・キャピタリズムと最小国家論との対立を内包している。第二に、最小国家論の中には、ロック流の自然権理論を基礎としている流れと、功利主義と人定法を基礎としている流れが存在している。これらの結論と第一章第二節でのアスキュー・デイヴィッドの分類を筆者なりに組み合わせると次のようになる。@アナルコ・キャピタリズム、A自然権論的最小国家論、B功利主義的最小国家論、C古典的自由主義となる。@とA、B、Cとの間には厳然とした区別がありそうである。しかし、自然権理論を突き詰めていくと、無政府主義へとつながるのではないかと筆者は考える。それは、ノージックが主張している市場過程による「国家」という独占形態が形成されうるのか、疑問を感じるからである。
終章 結論
近年、アメリカ合衆国の政治の現状を評論する場合に、リバータリアニズムに言及される機会が増加している。リバータリアニズムという言葉は、学術誌だけでなく、一般誌でも目にするようになってきている。(注1)しかし、異論はあるだろうが、リバータリアニズムについての研究は、日本において立ち遅れているのが現状であると筆者は考える。
この論文で、筆者は、これまでの既成の諸思想に代わる新しい思想としてのリバータリアニズムを筆者なりにまとめてきた。まだ、疑問に思う部分や文献に当る作業が不足している部分を多く抱えている。しかし、最後に筆者なりのリバータリアニズムのついての理解と展望を結論として書くことで、この論文を締めくくりたいと思う。
この論文で筆者は、第一章で先行研究を用いて、リバータリアニズムの位置付け、その分類を概観した。これによって、リバータリアニズムが、その内部に、多くの思想潮流を抱えた、一枚岩ではない思想であることを明らかにしてきた。続いて、第二章で、所有権論、権原理論、自由市場、最小国家論などのリバータリアニズムの諸特徴を概観することで、その本質を明らかにしようと試みた。第三章では、リバータリアニズム内の論争点や相違点、特にアナルコ・キャピタリズムと自然権に基礎を置かないリバータリアニズムについて概観した。これによって、リバータリアニズムの新展開を明らかにしようと試みた。
筆者なりのリバータリアニズム理解を書くと、次の通りになる。第一に、リバータリアニズムは、一枚岩の思想ではないということである。言い換えれば、リバータリアンたちがいれば、その人数分だけのリバータリアニズムの主張がなされる。このことが、リバータリアニズムの研究を阻害しているとも言えるだろう。それぞれの専門分野、例えば政治学や法学であれば、ノージックの研究が中心的に行われるのは当然であろうし、経済学であれば、オーストリア学派の理論を中心にして行われるのが自然である。しかし、そうなると、リバータリアニズムについての理解がそれぞれで噛み合わないことは明白である。そこで、これらの研究成果を融合していくことが非常に重要である。リバータリアニズムは、経済学にも、政治学にも、法学にもその範囲を広げる思想なのである。
第二に、第一の論点とも絡んでいるが、リバータリアニズムは無政府主義と紙一重の思想であるが、同時に国家を正当化する思想でもあるということだ。筆者なりのリバータリアニズムの分類は前章で行った。そこで、アナルコ・キャピタリズムと最小国家論との相違を述べた。これらは、「国家論」という論点から言えば、全く正反対の思想であり、本来は同じ潮流に数えることなど不可能である筈だ。また、これも前述したが、最小国家論の中の、ロック流の自然権論的最小国家論は、無政府主義にもつながる可能性を持った理論である。最小国家論という、国家擁護論を唱えながら、無政府主義的な要素をも含んでいることは筆者にとって大変興味深い。リバータリアニズムは、単純に反国家的な思想として捉えられがちであるが、詳細に見ていくと、それが全く的外れであることが明らかとなる。最小国家論は少なくとも、国家の役割を認めているのである。
第三に、リバータリアニズムは決して目新しい思想などではないということである。この論文で、これまで見てきたように、リバータリアニズムは西洋における、社会思想の多くの要素を含んだ、伝統的な思想潮流の中に位置づけることができると筆者は考える。具体的に述べると、このリバータリアニズムを研究することで、ジョン・ロックやジェレミー・ベンタムの思想の現代への継承が研究することができる。また、これまでの自由主義やリベラルといった思想潮流の展開をも研究することができる。分子生物学で例えるならば、ある生物の遺伝子を研究することで、その進化の歴史が明らかになるのと似ていると筆者は考える。リバータリアニズムの諸特徴が自由主義を明らかにするための「遺伝子」となり得るのではないだろうかと筆者は考える。
第四に、リバータリアニズムは、アメリカ合衆国建国以来の、アメリカ的な、アメリカ独自の政治思想潮流であるということである。アメリカ独立宣言やアメリカ合衆国憲法など、アメリカ合衆国の性格を規定する文書は、近代ヨーロッパの啓蒙思想、特にジョン・ロックの自然権理論に影響を受けて完成したことは前述した通りである。ノージックによる最小国家形成の理論は、ジョン・ロックの自然状態を前提としている。アメリカ合衆国建国の理念と最小国家形成の理論は、多くの共通の要素を持っている。アメリカ合衆国における理想的な政府の形態は、最小国家論に主張される、国防、治安維持、司法に限定された政府と言うことになるのではないだろうか。そう考えると、アメリカ合衆国における「最古」の、「最も伝統のある」思想はリバータリアニズムであると言えるのではないかと筆者は考える。
筆者はもう一つ、リバータリアニズムを研究することで、現在の日本の閉塞状況を打破するための「処方箋」を発見できるのではないかという問題提起も、この論文の冒頭で行った。この問題についても考えてみたい。筆者なりのリバータリアニズム理解で最も重要であると思われるのは、「最小国家論」と「自由市場」の徹底的な擁護である。現在、日本は国をあげての「リストラ」の途上にある。このリストラやダウンサイジングの理論的支柱に、「最小国家論」と「自由市場」の徹底的な擁護がなり得るのではないかと筆者は考える。しかし、リバータリアニズムの「国家論」などを直接的に採用し、国家運営が行えるかは疑問である。それは、その内部に無政府主義的要素を多分に含んでいるからである。ただ、これまでの国家運営の誤りを匡し、自立的な社会関係や人間関係を構築するための指針として、これから重要度を増す思想であることは間違いないであろう。また、日本においても、大きな思想潮流になっていくのではないだろうか。
筆者の今後の課題としては、アナルコ・キャピタリズムの諸特徴をより正確に把握すること、具体的には、アナルコ・キャピタリズムの治安維持や司法制度の市場化の研究を検討すること、功利主義的リバータリアニズムと自然権的リバータリアニズムとの比較検討を行うこと、アメリカ合衆国建国の歴史とリバータリアニズムの関係を明らかにすることが残されている。こうした課題に取り組むことで、筆者なりの正確なリバータリアニズム理解を構築していきたいと考える。
(脚注)
第二章
1 森村進著『財産権の理論』、3−5ページ。
2 ジョン・ロック著『市民政府論』、32−33ページ。
3 森村進著『財産権の理論』、19ページ。
4 デイヴィッド・ボウツ著、副島隆彦訳『リバータリアニズム入門』、115ページ。
5 ロバート・ノージック著、嶋津格訳『アナーキー・国家・ユートピア−国家の正当性とその限界』、51ページ。
6 ノーマン・P・バリー著、足立幸男監訳『自由の正当性−古典的自由主義とリバタリアニズム』、188ページ。
7 ロバート・ノージック著、嶋津格訳『アナーキー・国家・ユートピア−国家の正当性とその限界』、255−257ページ。
8 ジョナサン・ウルフ著、森村進・森村たまき訳『ノージック−所有・正義・最小国家』、127−128ページ。
9 ロバート・ノージック著、嶋津格訳『アナーキー・国家・ユートピア−国家の正当性とその限界』、260−263ページ。
11 同上、270ページ。
12 同上、271ページ、原文160ページ。
13 デイヴィッド・ボウツ著、副島隆彦訳『リバータリアニズム入門』、129−130ページ。
14 同上、130ページ。
16 同上、502ページ。
17 藤原保信著『自由主義の再検討』、26−27ページ。
18 間宮陽介著『市場社会の思想史−「自由」をどう解釈するか』、146−147ページ。F・A・ハイエク著、田中真晴・田中秀夫訳『市場・知識・自由−自由主義の経済思想』、69ページ。
19 アレクサンダー・H・シャンド著、中村秀一・池上修訳『自由市場の道徳性』、86−94ページ。
20 同上、120−138ページ、368−372ページ。
21 アスキュー・デイヴィッド著「リバタリアニズム研究序説(二)」『法学論叢』第137巻第2号、97ページ。
23 アスキュー・デイヴィッド著「リバタリアニズム研究序説(二)」『法学論叢』第137巻第2号、100ページ。
24 ロバート・ノージック著、嶋津格訳『アナーキー・国家・ユートピア−国家の正当性とその限界』、15−18ページ。
25 アスキュー・デイヴィッド著 「リバタリアニズム研究序説(二)」『法学論叢』第137巻第2号、101ページ。
26 ロバート・ノージック著、嶋津格訳『アナーキー・国家・ユートピア−国家の正当性とその限界』、41ページ。
27 ジョナサン・ウルフ著、森村進・森村たまき訳『ノージック−所有・正義・最小国家』、75−76ページ。
28 ロバート・ノージック著、嶋津格訳『アナーキー・国家・ユートピア−国家の正当性とその限界』、28ページ。
29 同上、42−43ページ。
30 長尾龍一著「ロバート・ノージックと『人生の意味』」『UP』1987年6月号、17ペ ージ。
第三章
1 ノーマン・P・バリー著、足立幸男監訳『自由の正当性−古典的自由主義とリバタリアニズム』、208−211ページ。
2 同上、212−214ページ。
3 アスキュー・デイヴィッド著「リバタリアニズム研究序説(二)」『法学論叢』第137巻第2号、103ページ。
4 同上、104−105ページ。
5 笠井潔著『国家民営化論』、127−128ページ。
6 同上、129−130ページ。
7 マーレー・ロスバード(Murray Rothbard)は、1926年ニューヨーク生まれ。ルードヴィッヒ・フォン・ミーゼスに師事する。1956年コロンビア大学より経済学で博士号を授与される。1963年から1985年までニューヨーク・ポリテクニック・インスティチュート・イン・ブルックリンで教鞭を取る。その後、ネヴァダ大学ラス・ヴェガス校経済学部教授、オーヴァーン大学ルードヴィッヒ・フォン・ミーゼス研究所副所長を歴任。1995年にニューヨークにて死去。代表作として“Man, Economy, and State”(1962)、“Power and Market”(1970)などがある。
8 デイヴィッド・フリードマン(David Friedman)は1945年ニューヨーク生まれ。父親はミルトン・フリードマン(Milton Friedman)である。1965年、ハーバード大学卒業。シカゴ大学大学院で物理学を専攻。1967年に修士号、1971年位は博士号を取得。その後、経済学に転身。現在、サンタ・クララ大学法学部教授。代表作として“The Machinery of Freedom”がある。
9 アレクサンダー・H.・シャンド著、中村秀一・池上修訳『自由市場の道徳性』、Aページ。
10 ノーマン・P・バリー著、足立幸男監訳『自由の正当性−古典的自由主義とリバタリアニズム』、222−224ページ。
11 David Boaz eds,The Libertarian Reader、37ページ。
12 同上、38ページ。
13 ロバート・ノージック著、嶋津格訳『アナーキー・国家・ユートピア−国家の正当性
とその限界』、4−8ページ、15−18ページ。
14 アスキュー・デイヴィッド著「リバタリアニズム研究序説(二)」、『法学論叢』第137巻第2号、104−105ページ。
15 山脇直司著『ヨーロッパ社会思想史』、110−111ページ。
16 H・L・A・ハート著、小林公・森村進訳『権利・公理・自由』、36ページ。
17 同上、62−63ページ。
18 同上、39−40ページ。
終章
1 枝川公一著「インターネットが生む米国新政治潮流」、『中央公論』1999年5月号、140−149ページ
参照文献
デイヴィッド・ボウツ『リバータリアニズム入門−現代アメリカの<民衆の保守思想>』
副島隆彦訳(洋泉社、1998年)
ロバート・ノージック『アナーキー・国家・ユートピア−国家の正当性とその限界』嶋津格訳(木鐸社、1996年)
ノーマン・P・バリー『自由の正当性−古典的自由主義とリバタリアニズム』足立幸男監訳(木鐸社、1990年)
アレクサンダー・H・シャンド『自由市場の道徳性−オーストリア学派の政治経済学』中村秀一・池上修訳(勁草書房、1994年)
ジョナサン・ウルフ『ノージック−所有・正義・最小国家』森村進・森村たまき訳(勁草書房、1994年)
ジョン・グレイ『自由主義』藤原保信・輪島達郎訳(昭和堂、1991年)
ミルトン・フリードマン『資本主義と自由』熊谷尚夫・西山千明・白井孝昌訳(マグロウヒル好学社、1975年)
H・L・A・ハート『権利・功利・自由』小林公・森村進訳(木鐸社、1987年)
F・A・ハイエク『市場・知識・自由−自由主義の経済思想』田中真晴・田中秀夫編訳(ミネルヴァ書房、1986年)
アダム・スミス『諸国民の富』大内兵衛・松川七郎訳(岩波書店、1959年)
ジョン・ロック『市民政府論』鵜飼信成訳(岩波書店、1968年)
足立幸男『公共政策学入門−民主主義と政策』(有斐閣、1994年)
笠井潔『国家民営化論−「完全自由社会」をめざすアナルコ・キャピタリズム』(光文社、1995年)
藤原保信『自由主義の再検討』(岩波書店、1993年)
副島隆彦『世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』(講談社、1999年)
森村進『財産権の理論』(弘文堂、1995年)
間宮陽介『市場社会の思想史−「自由」をどう解釈するか』(中央公論社、1999年)
山脇直司『ヨーロッパ社会思想史』(東京大学出版会、1992年)
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長尾龍一「ロバート・ノージックと『人生の意味』」、『UP』(1987年6月号、1987年)
川本隆史「哲学的説明 −ロバート・ノージック」『現代思想』(1986年vol.14-4、1986年)
枝川公一「インターネットが生む米国新政治潮流」、『中央公論』(1999年5月号、1999年)
(早稲田大学社会科学研究科 1999年度修士論文、おわり)