「0055」 論文 サイエンス=学問体系の全体像(2) 鴨川光筆
2009年12月5日
太陽には黒点(sunspot)が見えた。黒点の位置の移動が観測されたため、太陽も地球同様に自転していることがはっきりした。それまではクリスタルの球に張り付いていなければならないのだから、太陽の自転も考えられなかった。
金星と彗星に目を向けると、月と同様の満ち欠けをして見せた。そして何より重要な発見は木星の四つの衛星を見つけたことである。
これによってガリレオは「衛星を伴った惑星が地球だけではないこと、そして地球だけが宇宙の運動の中心ではないこと」を立証した(『西洋思想事典』一巻 二六〇ページ)。
ガリレオの発見した衛星にはイオ(Io)、カリスト(Callisto)、エウロパ(Europa)、ガニメデ(Ganymede)という名前がつけられている。
左から:カリスト、ガニメア、木星、イオ、エウロパ
ガリレオは当時ヴェネチアのパドヴァ大学の数学教授であった。パドヴァ大学は解剖学の権威ヴェサリウスがいたところで有名であり、ヴェネチア自由都市の中にあって学問的に先進的な場所であった。コペルニクスがここにいたことからも、近代学問の発展に非常にゆかりに深いところである。
ガリレオはこの功績により大学に終身雇用されるのであるが、それを蹴ってしまう。ガリレオはフィレンツェ(Florence)のトスカナ大公コジモ二世(Cosimo II de' Medici)にこの四つの衛星を献上し、大公の庇護を受けることに成功する。
コジモ二世はメディチ家の人間である。木星の衛星は「メディチ家の星」(シデラ・メディチア、sidera medicea)と名づけられた。
ケプラーとガリレオが説明できなかったものがある。もしも地球が回転しているというのなら、どうして地球上の物体は振り飛ばされないのか、というものである。
地球が東に向かって回っているというのなら、高い塔から落っこちた物体はなぜ西側に落ちないのか。地球はどうやって空虚な何もない宇宙空間というところかにぶら下がっているのだ。それでいて誰からも力を加えられていないのに、なぜ太陽の周りを回っているのだ、おかしいではないか、という反論である。
ガリレオは地球上の物体は地球と回転を共有している、だから船のマストから物を落としてもマストの下に落ちるのだと答えた。
そしてガリレオはこのことからある重要な考えを演繹する。摩擦のない水平で物体に運動が与えられたら、永遠に動き続けるというものである。
これは現在高校物理で最初に習う等速直線運動(uniform linear motion)のことである。ある物体にひとつの力だけ働いている時は、一定の速さで永遠にまっすぐ移動を続ける。ところがそこに別の力が働くと、角度を変えたり、加速したり、減速したりするという現象が起こる。
等速直線運動
こうしてガリレオは投射体の運動を二つの成分に分析することができることを示した。放物線を描いていく投射体に働く力はひとつではなく、重力(gravity)と水平方向(parallel)の二つの成分に分けられる。この水平方向の力を強めてどんどん伸ばしていったものが惑星の軌道というわけである。
「地球に向かって与えられた運動の水平方向成分は、たとえ物体が大地に接していなくてもそのまま保持されて、物体、地球上の最初位置にとどめておく」というわけである。(『世界科学事典』原書房 第四巻一六〇ページ)
この考えは、有名な斜面を転がり落ちる球の運動を測定するという方法を用いて行われた。これによって斜面を転がり落ちる急の運動の垂直成分は重力による一様な加速であり、水平成分は等速であることを明らかにした(同書 六一ページ)
ガリレオはこうして落下物体の測定を行うことによって、重力による物体の運動を支配する法則を発見した。
それまで数学理論と観測データのみによっていた自然哲学は、ガリレオの力学=メカニクス的実験によって物理学として生まれ変わることになった。
この落体の法則は『二つの新科学についての論議と数学的証明(新科学対話)』にまとめられ、一六三八年、イタリアからひそかに持ち出された後、オランダで出版された。
このころからガリレオはローマ法王庁の命令でフィレンツェ銀行の別荘で軟禁状態に置かれていた。
さかのぼること一六一〇年、トスカナ大公コジモ二世の庇護の下に置かれていた。ガリレオはその権力を背景に、コペルニクスの宇宙観、太陽中心の体系=ソーラー・システム(solar system)の支持を公にしていた。ローマ教会はガリレオの態度を異端と宣言(一六一六年)、ローマに召喚され、コペルニクス説の放棄を迫られる。
一六二四年、ガリレオは自分に好意的であった教皇ウルバヌス八世(Urbanus V)の許可を得て『二大世界体系についての対話(天文対話)』を出版する。同書のコペルニクスに有利な望遠鏡による観測を証拠としたことが、ローマ教皇庁の逆鱗に触れ、出版の翌年一六三三年、再びローマに召喚されて裁判にかけられる。
これが有名なオーディール(またはザ・インクィジッション、the Inquisition)と呼ばれる「ガリレオ裁判」である。
ガリレオ裁判
ルネ・デカルト(Rene Descartes)
ルネ・デカルト
宗教裁判でガリレオに異端判決が下され、禁錮が言い渡されたことによってルネ・デカルトは不安を抱く。自分がひそかに隠していた宇宙論はコペルニクスのものとそっくりだったからである。
そこで彼はある変わった考え方を打ち出す。ブリタニカは「マター(matter)とモーション(motion)で武装したデカルトは、宇宙を空虚にしつつあったコペルニクスの根本を攻撃し始める」と書いている。このマターとモーションとはインペタス理論(Impetus Theory)とエーテル理論(Ether Theory)という。
ガリレオは、直線を等速で物体が運動するのはある直接的インパクト(衝撃、impact)によって引き起こされる。このまっすぐな運動が曲がるとき、重力とそれとは別の力の二つに分析されることを提唱した。
しかしデカルトによるとそれもまた別のひとつの力のインパクトによって引き起こされるに過ぎないとした。
デカルトが導入したインパクトとはもともとはインペトゥス理論といって、六世紀はじめにアリストテレス註釈家であったヨアンネス・ピロポノスが考え出したものである。ピロポノスは天体を天使が牽引するという考えを捨て、「神が宇宙創造のときにインペトゥスを天体のうちに込め、これが天体を回転させ続ける」と考えた。(『西洋思想大事典』一巻 二五七ページ)
この理論を一四世紀、パリ大学のビュリダンが受け継ぎ、デカルトによって復活させられたわけである。
それまでアリストテレスの理論では、物体が動くのはその後ろに吹き込んだ空気によるものだとされていた。インペトゥス理論は実はそれの代わりになる理論としてもてはやされることになったのである。
インペトゥス(勢い)は「物体の量と初速度に比例する量であり、投げられた向きに働く」と定義されている。(『忘れてしまった高校の物理を復習する本』(中経出版 為近和彦ためちかかずひこ)。
デカルトはインペトゥスを引き起こすものとしてインパクト(衝撃、著者註:OEDによれば、インパクトの定義もインペトゥスの定義もほとんど変わらない)を持ち出す。インペトゥスはインパクトによって引き起こされ、物体の運動はこのインパクトが作り出すとした。つまり物体はガリレオの言うような遠隔的力によって動かされるのであり、あくまでも直接的作用によって引き起こされるという、いわばアリストテレス理論の復活といえる考えを提唱したわけである。
この直接的インパクトを引き起こすものは何なのか。ブリタニカによれば、宇宙には微細な物質が充満しており、これがかき乱されることによって惑星は太陽の周りを回るとした。この物質がエーテルである。これを衝突論という。
この直接的なインパクトを引き起こすものは、いったい何なのか。ブリタニカによればデカルトは、宇宙には微細な物質が充満しており、これがかき乱されることによって、惑星は太陽の周りを回るとした。この物質がエーテルであり、デカルトの提唱した渦動的宇宙像という。
この流体の渦運動は「流れる水が推進力を持たないボートを押し流すように」惑星を動かし、太陽の周りを循環させる。これはアリストテレスの言うように「すべての作用は、直に接触することによって働くのであって、そこには遠隔作用はありえなかった。」(『西洋思想大事典』一巻 二六〇ページ)
デカルトの思想は実に「玉石混合」であり、後に衝突論はニュートンの登場によって「惨めな失敗」と評されるようになる。(『力学的世界の創造』中公新書 吉行正和 一〇二ページ)
デカルトは、地球は動かないものであり、神の存在も認める、という主張を取るのだが、その一方でコペルニクス的宇宙論をあくまで「それは可能性のある話だが、あくまでライクリー・ストーリー(likely story)である」として、注意深く断定を避けている。
それでもデカルトの宇宙観は、その後の一〇〇年間学問の世界で支持され、ガリレオによっていったんは空虚にされた宇宙観を、うめ合わせる役割を果たした。これをカーティジアニズムという。 (著者註:デカルト主義のこと。デカルト思想支持者のことをカーティジアンcartesianという。デカルトDescartのフランス語の「ザ」theにあたる「デ」desをとってこう呼ぶ。)
しかしデカルト支持者の理論には、大きな落とし穴があった。彼らのマターとモーションという武器には何の目的もないではないか、ただの一人の神、ディーエティ(deity)すらも積極的に働きかける余地もないではないか、という反論である。これは「まるで目的なく動く時計のようだ」とヴォルテール(Voltaire)によっても指摘されている。デカルトの宇宙論は、構造的に神の存在を退け、機械論的に空虚な宇宙にならざるを得なかったのである。
ヴォルテール
これが、デカルトがローマン・カトリックに恭順の意を示しながらも、常にローマからにらまれていた理由である。
デカルトによっていったんは退けられたガリレオ、コペルニクスによる宇宙との対立は、大きくは神の存在論、オントロギーの流れ中にある。
副島氏は主著のひとつ『属国日本論を超えて』(五月書房)の中で、宇宙はそれまで神の普遍性の行き渡ったユニヴァース(universe)であったが、コペルニクスの登場によって宇宙は大きなスペース(space)、空間と呼ばれるようになったと喝破している。
副島氏の言うとおり、宇宙は次のニュートンによって完全なるスペースとして姿を現すことになる。
ニュートン(Issac Newton)
アイザック・ニュートン
ニュートンの生きた時代(一六四二〜一七二七)まではモダーン・サイエンス(modern science)は存在しておらず、そのころはまだ自然哲学、ナチュラル・フィロソフィー(natural philosophy)と呼ばれていた。それではサイエンスはいつ確立したのか、という疑問がうまれる。
ブリタニカによれば、少なくともアイザック・ニュートンの没した一七二七年まではフィジクス(physics、著者註:今では物理学という訳語が当てられている。当時のものを指すときは自然学と訳される)はナチュラル・フィロソフィーのままであったと述べている。(七四八ページ)
つまり、ニュートンいっぱいまでフィジクスは自然学、自然哲学であり、ニュートン後の世界で初めてフィジクス=物理学へと生まれ変わったのである。
物理学の弟、化学、ケミストリー(chemistry)の誕生までは、ぴったり半世紀後の一七七七年、ラヴォアジェ(Antoine-Laurent de Lavoisier)が燃焼の真実を発見するまで待たねばならない。それまでは錬金術、アルケミー(alchemy)が物質の探求学であった。
だから、ニュートンが錬金術に凝っていたといわれるのは、自然学を専門にしていた人間たちの間では当たり前のことだった。ケプラーの生業であった占星術、アストロロジーも然りである。
私のこの稿で重要なことは、それまで学問の世界で長く支持されていた、デカルトのエーテルの宇宙がニュートンによって根こそぎにされたということである。
ニュートンは、このデカルトのエーテル的世界である渦動論に取り組み始める。
一七世紀の力学の課題は、ガリレオが『天文対話』で解こうとしていた「地球の自転による遠心力によって、なぜ地上の物体が宇宙に向かって投げ出されないのか」という、コペルニクス以来解決のつかない問題であった。
ニュートンはまず、遠心力を「r/2」と言う式を用いて規定し、遠心力と重力の大きさの比較が出来るようにした。
なぜ両者の比較が必要なのか。それは、地球上の物体が振り落とされないためには、重力が遠心力を上回っていなければならないからであった。だから両者の力を規定し、その比を量的に計測する必要があったのである。
重力の大きさは、振り子の糸が円錐を描いたときの底面の半径と、振り子の頂点から円の中心の長さの比を、そのまま重力と遠心力の作り出す力の比として考え、これに遠心力の「r/2式」を当てはめて割り出した。
結果は、重力のほうが圧倒的に大きな力であることがわかった。これによってついに地上のものが、なぜ自転と公転によって振り落とされないか、という謎が解き明かされ、長年にわたる地球の回転の論争に終止符が打たれたのである。
これがいわゆる、ニュートンがリンゴの落下から重力を発見した、という所以である。
ところがニュートン自身は、この重力と言うものがどのようなものなのかに関しては、注意深く回答を避けている。
(引用開始)
あなたは(著者註:ニュートンの支持者のこと)時々、重力が物質そのものに備わっている本質的なものであるように言います。どうかその考えが私のものだとは思わないでください。というのは、重力の原因を私が知っているなどと言うつもりはないからです。(『書簡集』V、240、『西洋思想大事典』 平凡社 第一巻 二六二ページ )
(引用終わり)
このように、いまだ明らかにされていない重力が何であるか、と言う本質そのものに関しては、ニュートンはわからないと告白している。明らかに重力は、遠隔的に物事に作用していると言う事実を、ニュートンは「非合理的」ながらも認めている。そして何らかの作動因に由来しているのではないか、と言葉を濁すにとどまっている。
これは「第一原因」と言われるもので、アリストテレス、プラトン以来言われ続けている「不動の動者、アンムーヴド・ムーヴァー(unmoved mover)」のことを示唆している。ニュートンの理論は大きくは、ネオ・プラトニズムの流出論の流れの中にあると言われている。
いずれにせよニュートンは、重力がどんな力であるにせよ、それを重力という事実として認め、これによって諸惑星が直線軌道から引き離され、円軌道上を回転させられると考えた。
ニュートンはこの力がリンゴにも働き、それをずーっと空の上にまで伸ばしていった。そして月の軌道上にも同じような向心力が働き、さらにすべての惑星にも同じように働くと考えた。
ニュートンは、この力を「万有引力、ユニヴァーサル・グラヴィテーション(universal gravitation)」と認めよう、としたのである。(『西洋思想大事典』 平凡社 第一巻 二六二ページ)
こうして、重力と遠心力を規定し終えたニュートンであったが、この「円錐振り子(conical pendulum)」のアイディアは、本当はロバート・フック(Robert Hooke)のものであったのかもしれない。『西洋思想大事典』一巻の二六二ページには、同様の円錐振り子の図が描かれている。
ロバート・フック
円錐振り子の意義は、振り子の描く円が二つの力の合成の連続である、と言うことである。これは坂道を転がる球が、垂直と水平の二つの力に分けられる、というガリレオの証明した実験と同じことである。この坂道を円に、ひいては惑星軌道に当てはめたのがニュートンの理論である。
もうひとつ重要なのは牽引力、すなわち重力は、その作用の対象、惑星が、(太陽に)近ければ近いほど強い、という考え方である。これはまさにケプラーの第二法則「面積運動の法則」そのものの考え方である。
ニュートンとフックの有名な論争は、ガリレオの実験とケプラー理論を数学的に証明したことに、歴史的意義が見出せる。この二つの仮説は、フックが一六七四年に発表した、『地球の年周運動を観測から証明するひとつの試み』と題した論文と、一六七九年に、フックがニュートンに当てた手紙の中で提示された理論である。(『力学的世界の創造』 一三七ページ)
ニュートンは、惑星の運動は慣性と重力の合成運動であることをフックから、そしてケプラーの法則に取り組むきっかけも同じく彼から与えられた、と言う。(同書 一四六ページ)
一六八四年、ハレー彗星(Comet Halley)で有名なエドモンド・ハリー(Edmund Halley)はニュートンを訪ねている。ハリーはすでに、ケプラーの法則と、ホイヘンスが振り子時計で示していた遠心力の式を用いて、「円運動における遠心力が半径の自乗に逆比例する」ことを導いていた。(同書、一四六ページ)(著者註:つまり惑星が太陽から遠ければ遠いほど、重力が大きくなっていく。これはケプラーの第二法則とは逆。)
ハレー彗星 エドモンド・ハリー
ハリーはフックを訪ねたが、満足のいく回答引き出せなかった。代わりにニュートンを促し「逆自乗力は惑星に楕円運動させると言明」させ、その証明の論文執筆の約束を取り付ける。こうして完成したのが『回転している物体の運動について』であり、それを拡張した論文が『自然哲学の数学的原理』すなわち『プリンキピア』(Philosophiae naturalis principia mathematica)(一六八七年出版)である。
この中でニュートンは、ガリレオが坂を転がる球の実験で証明した、物体に働く力は二つに分析できるということを認める。すなわち、二つの別々の方向に働く力が平行四辺形を描き、その対角線が、二つの力が合成された大きさと方向を示すとするものである。
ニュートンはこの力の合成を、ケプラーの楕円運動に当てはめ、計算することに成功する。
惑星に働く二つの力は重力と遠心力である。ニュートンはすでに重力のほうが力に勝っていることを証明した。
とすると惑星の楕円運動と言うのは、圧倒的に優っている惑星に働く重力と、それから逃げようとする遠心力の力の合成が、無限に続いていくということなのではないかと気づいた。このことをニュートンは『プリンキピア』第一編、第二章の命題一・定理二で証明したのである。(『力学的世界の創造』一四四ページ、『岩波科学百科』九二九ページ)
この無限に細かく計算していくことが微分、ディファレンシャル・カルキュラス(differential calculus)という。微分とはもともと、ガリレオの力の分解をより精密にしていったものなのである。
この楕円運動は、「楕円のひとつの焦点である太陽を中心にして、惑星の軌道が同じ時間内に描く面積は同じである」、とするケプラーの第二法則で、すでに数学的に証明されていた。ニュートンはこの面積運動の法則を、「引力は、楕円の焦点から物体への距離の自乗に逆比例する」と考えた。
つまり惑星は、太陽に近いものであればあるほど、一定の割合でより速いスピードで駆け抜ける、と言うことが数学的に証明されたのである。
これによってコペルニクス的宇宙は、完全に学問的に(著者註:実験・観測と言う事実の集積に、数学で理論的証明を与えると言うこと、エンピリカル・ポジティヴィズム〈empirical positivism〉という)証明され、ガリレオとケプラーが正しい、ということが完全に認められたのである。
ブリタニカには、ニュートンは真理を明らかにすると同時に、神の存在を保全した、と書かれている。ニュートンの運動の三法則と万有引力の原理は、宇宙を規定するには十分だったが、彼自身は神の助けがあってはじめて出来ることである、と信じていたようである。
ニュートン自身は重力を、神が直接行った行為(direct divine action)であるとし、宇宙、スペースは、神のセンソリアム(感覚中枢、知覚器官)である、と考えていたのだという。
ニュートンについてさまざまに取りざたされているものに、ジョン・メイナード・ケインズいわく「ニュートンは最後の錬金術師だ」と言うものがある。錬金術に関しては先に書いたとおりである。
それよりももっと重大な問題がある。科学の全体像という視点で見て看過できないものは、ニュートンは、ヘルメス・トリスメジストス(Hermès Trismégiste)に強い影響を受けていたということである。
ヘルメス・トリスメジストス
ヘルメス・トリスメジストスという人物が書いたとされた「ヘルメス文書」は、ネオ・プラトニズムから派生した、神秘主義的傾向を帯びているという。また、宇宙はひそかな数学的調和によって支配されている、というピタゴラス的思弁も結びついている。(『ニュートンと魔術師たち』ピエール・チュイリエ著 工作舎 一〇二,一〇三ページ)
デカルトについて少し補足しておかなくてはならない。ニュートンによって根こそぎにされたデカルトだったが、数学的貢献には多大なものがある。
私たちが数学の関数や図形のときに使う方眼紙。あれを発明したのがデカルトである。
つまりそれまで紙とコンパスと定規だけで書かれていた図形が、X軸とY軸、それにZ軸によって囲まれた0を起点とした、四つの+、−で区切られた座標で表されるようになったのである。これを解析幾何学という。
これによって方程式と関数、図形が横につながったのである。数式とグラフ線と面積、体積という三つの視点から、数量的に連関させて解析できるようになった。これがデカルトの大きな業績である。
私たちが中学高校で、やれ振り子の実験だ天秤棒だ、関数、方程式だと興味のわかないことを教科書でやらされるのは、コペルニクスからニュートンまでの学問の業績を、簡単にたどらせる仕組みだったのである。
近代医学―それはヴェサリウスから始まった
ブリタニカ(二七巻)三八ページから「学問方法の伝播、ザ・ディフュージョン・オブ・サイエンティフィック・メソッド(The Diffusion of Scientific Method)」として、医学の誕生が語られる。
一五四三年、コペルニクスの『天球の回転について』が出版された、まさにその年、北イタリアのパドヴァ (Padua) 大学で『人体の構造について』(オン・ザ・ストラクチャー・オブ・ザ・ヒューマンボディ)という本が出版された。
著者は、パドヴァ大学の解剖学教授で、ハプスブルグ家の神聖ローマ皇帝カール五世と、その子スペイン王フェリペ二世の侍医、ヴェサリウス(Andreas Vesalius)であった。
ヴェサリウス
ヴェサリウスはこの本で、それまで誤りのないものとされていたガレノス(ガレン、Galen)の誤りを指摘し、コペルニクスの物理学に果たしたのと同じように、近代医学の先駆的役割を果たす。
ヴェサリウスが武器としたのは、それまで理髪師の仕事としてさげすまされてきた解剖学であった。この解剖学こそは、イタリアルネッサンスから続く近代学問の方法論、メソドロジーの出発点である。
ヴェサリウス以前の芸術家たち、ダ・ヴィンチ、デューラー、ミケランジェロの精緻な解剖図はヴェサリウスの先駆となった。
解剖自体はヴェサリウスが最初ではない。一三世紀、ボローニャ大学(法学で有名)で、当時まだ禁じられていた人体解剖の規制が解かれつつあった。
ボローニャ大学教授モンディーノ・デイ・リウッチは人体解剖を行い、その成果を一三一六年『アナトミア』という題名で発表する。
そうした流れを受けて、自由都市ヴェネチアにあったパドヴァ(コペルニクス、ガリレオもいた)のヴェサリウスは人体解剖を行い、その成果を有名な画家を雇って図版を作らせる。そうして発表したのが『人体の構造について』である。これは物理学でコペルニクスが『天球の回転について』が果たしたものと同じ役割を果たす。その意味で、物理学と医学は近代学問上ふたごの兄弟だといえる。
実際の人体解剖を精緻に行った結果、それまで信じられてきたガレノスの人体観は揺るぎだした。ガレノス(一二九頃ー一九九頃)はギリシャ人医師で、ローマの五賢帝の一人マルクス・アウレリウス・アントニウスの侍医であった。
ガレノスもまた、当時としては精緻な解剖を行ったのだが、彼らが使っていたのはバーバリザルという猿であった。
近代医学にとってのガレノスは、物理学史上のプトレマイオス、アリストテレスと同じ位置にいる。
一世紀後のニュートンのように「自然界にある事実を正確に描写すること」をヴェサリウスが重視した方法論が、医学の中で熟成を果たしていった、と書かれている。
ウィリアム・ハーヴィーの血液循環理論
ヴェサリウスの孫弟子にあたるウィリアム・ハーヴィー(William Harvey、一五七八ー一六五七)は、ガリレオとほぼ同時代の人であり、ガリレオ、ケプラー、ニュートンが物理学でやったのと同じ役割を、医学の進歩で果たしている。
ウィリアム・ハーヴィー
ハーヴィーの『プリンキピア』は、『動物における心臓と血液の運動に関する解剖学演習』という著書である。この本が出版されたのは一六二八年で、ガリレオの異端審問、オーディールの四年前である。
この本で唱えられた「血液循環理論、ザ・セオリー・オブ・ザ・サーキュレイション・オブ・ザ・ブラッド(The Theory of The Circulation of The Blood)」によって、医学(メディスン、メディカル・サイエンス)と生理学(フィジオロジー)は、純然たる近代学問になり得たのである。
ハーヴィーは人間の器官、オーガンの中で起こる現象も実験によって検証でき、力学体系に集約できることを示した。(ブリタニカ 二七巻 三八ページ)
ハーヴィーは、ガレノスの間違いを指摘したヴェサリウスを引き継いだ、ファブリウスの弟子であった。ファブリウスの発見した静脈弁(the valves in the veins)と、自らの解剖実験によって発見したガレノスの間違いから、血液循環理論を打ち出した。
それまでのガレノスの血液の運動に関する考え方はこうである。
「食物が肝臓で血液に変わり、血液は血管の中で潮のように満ち干きを繰り返しながら心臓に達し、中隔の孔を通って右心室から左心室へ送られ、心臓が固くなったときに血管に送り出される」というものだった。(『世界科学事典』一巻 一一一ページ)
ところがこの心臓の中隔にあるはずの孔は、ヴェサリウスによる解剖では見出されず、ガレノスには人体の解剖の経験がないことが明るみになった。
ハーヴィーはこれを受け継ぎ、師のファブリキウスが発見した静脈弁には「血液を一方にしか流さない構造」(同書一一一ページ)があることを発見する。さらに「動脈を縛ると心臓に近いほうに血液が固まり膨らむこと」「静脈を縛ると心臓から遠いほうが膨らむこと」を発見した。(同書 一一一ページ)
さらに、左心室から一拍ごとに送り出される血液量を計算した。すると一時間に二五九リットル、重さにすると、二〇〇キロを超える量であることがわかった。ハーヴィーは、人が体重以上の血液を含むという解釈は不合理である、という考えから「それよりはるかに少量の血液が繰り返し体内を循環していると考えなければならない」(同書 一一一ページ)という結論に達した。
このハーヴィーの発見は、医学発展上、画期的出来事、ランドマークとなるのだが、それまでの医学のプトレマイオスであったガレノスと相容れぬ考えは、様々に人々の批判にさらされることとなった。
ただし幸いなことに、彼の場合ガリレオたちとは違い、彼の研究が受け入れられるときまで生き延びることが出来た。ハーヴィーが生きた一七世紀のイギリスは、スチュワート朝の時代であった。
スチュワート朝はジェームズ一世、チャールズ一世、ピューリタン革命=クロムウェル、チャールズ二世、ジェームズ二世と続く。
ハーヴィーはジェームズ一世、チャールズ一世、チャールズ二世まで宮廷侍医を務め、ピューリタン革命を生き延びることが出来た。そして何よりも、全ヨーロッパを巻き込んだ、三〇年戦争を生き延びられたことが幸運だった。
三〇年戦争終結条約であるウェストファリア条約(ドイツのライインラント、ライン川の地方のミュンスターという都市で一六四八年に結ばれた)以降、思想信条は学問思想を含め自由が許されるようになったからである。(正確には自分の思想を保護してくれる領主や地域に移動することが可能になった。)
これが近代の正式な幕開けであり、ハーヴィーはニュートン以前の革命的自然学者の中で、唯一近代に達することが出来た人物である。
私たちが理科の時間にカエル(またはフナ)の解剖をやらされるのは、このハーヴィーの循環理論を経験させるためのものだったのである。
(つづく)