「0062」 論文 サイエンス=学問体系の全体像(5) 鴨川光筆 2009年12月27日

 

マルクスの挑戦を受ける

 

 一時期時代を席巻し、現在も論争の的であるマルクスに関して、ブリタニカが焦点を当てているのは労働価値説である。

 労働価値説とは、レイバー・セオリー・オブ・ヴァリュー(Labor Theory of Value)といって、「価値に関する労働理論」という。小室氏によれば、労働価値説とは「モノの価値は、それを作るのにどれだけの労働時間がかかったかで決まる」というものである。(『経済学をめぐる巨匠たち』 一二四ページ)

 ブリタニカは「製品が交換されるのは、生産にかかった労働費用に比例する」と述べている。つまりお金をかければかけるほどモノは高く取引され、お金をかけなければ安く買われるということである。

 マルクスはこれに「余剰価値理論」、セオリー・オブ・サープラス・ヴァリュー(Theory of Surplus Value)を付け加える。この理論は次の公理に拠っている。「人間の労働だけがあらゆる価値を生み出し、ゆえに、利潤の唯一の源も人間の労働である。」

 労働価値説とは、もともとはマルクスが挑んだはずの古典経済学派から来たもので、スミスとリカードが唱えた理論である。しかし、リカードもスミスも、この理論には欠点があったことを認めている(前掲書 一二四ページ)。スミスは、労働価値説は「資本の蓄積と、土地の私有に先立つ初期未開社会」だけで実現できる理論であるとしている。

          

アダム・スミス  デイヴィッド・リカード   カール・マルクス

 小室氏によれば労働価値説の欠陥とは、「労働力の換算」の問題であるという。

(引用開始)

 労働価値説では「モノの価値は、それを作るのにどれだけの労働時間がかかったかで決まる」とされている。つまり一時間で一個しか作れないモノの価値は、一時間で一〇個作れるモノの一〇倍。一匹のビーバーを捕まえるのに、三尾の魚を獲るのと同じ時間がかかったらとしたら、市場では一匹のビーバーと魚三尾が等価値という訳だ。

 だが、物々交換の原始社会であればともかく、生産工程が複雑化した近代資本主義経済の下では、生産に要した時間を単純集計するだけでも大変な作業である。しかも、熟練職人の一時間と見習い職人の一時間、社長の一時間と新入社員の一時間では、同じ一時間でもその価値には大きな開きがある。商品の価値を算出する際、いったいこれをどう換算するのか。換算率はどうやって決めるのか―これが「労働力の換算」の問題である。(『経済学をめぐる巨匠たち』 一二四〜一二五ページ)

(引用終わり)

 リカードもスミスと同じ理由で、労働価値説の欠陥を認め、反省している。一方マルクスは、リカードの理論をすべて飲み込み、労働価値説を証明しようとした。

 マルクスの解決策は、「労働力の換算率は、市場のメカニズムによって決まる」というものであった。(前掲書 一二五ページ)

 しかし、この理論は、オイゲン・フォン・ベーム=バヴェルク(Eugen von Böhm-Bawerk、一八五一〜一九一四年)によって批判される。それは、マルクスのこの考え方は循環論、サーキュラー・ロジック(cirluar logic)に陥っているという批判であった。

ベーム=バヴェルク

(引用開始)

 そもそも、労働価値説において労働時間は「モノの価値を決める要素」だったはずである。その労働時間の実質的な価値(賃金)が「市場で決まる」となれば、となれば、賃金は物価(モノの価値)と相互連関関係にあるから、話は堂々巡りで説明にも何にもなっていない、という訳だ。一九世紀末当時の学者たちは、循環論では説明にならないと思っていたのである。(『経済学をめぐる巨匠たち』 一二六ページ)

(引用終わり)

 科学、学問となるためには原因と結果がはっきりしていなくてはならない。「労働時間が要素であった」の要素とは、エレメンツ(elemetns)という意味であろう。エレメンツとは、モノの基礎となる前提、公理、公準といっていい。いわば神である。学問の世界では、原因=コーズ(cause)である。

 それが、市場もモノの価値を決める「要素」になってしまえば、労働時間と市場のどちらもが原因であって、鶏と卵の関係になってしまって、因果関係が成立しない、という意味である。

 この因果関係とはコーザリティ(causality)、コーゼイション(causation)という。別の言葉ではリニアー(linear)という。よく直線的な、などといわれるが、おそらく読者諸氏はわかったような気がするだけではないだろうか。

 なぜ原因結果という言葉がわざわざリニアーなどといわれるのかというと、じつは因果性とは単純な理論だからである。このリニアーという言葉の単純性に対して、エクィリブリアム(equiblium、均衡、平衡などと訳される)という言葉がある。

 エクィリブリアムは別の言葉で言うと「イコール・バランス(equal balacne)」といい、天秤棒が四つの支点と作用点で、つりあっている状態のことである。

 ニュートンのメカニクスは「エクィリブリアム・オブ・フォーシーズ(equiblium of focres)=力の均衡」という。この均衡という理論が、それまでの自然哲学者の単純な因果性よりもはるかに優っていたことに、ニュートンの近代性があるのだ。

 だからうかつにニュートンやアダム・スミスが、神を用いて理論を構築したようなことを言ってはならない。

 エクィリブリアムとはもともとはアリストテレスの中庸、イソン(iso、現在はアイソトープの「アイソー」という英語で残っている)に由来する。このことは、日本で私、鴨川がはっきりと見抜いた事実である。このことは、私の先達である副島先生も見抜いていない。

 詳しく知りたい人は、本サイトの「0001」 論文 アリストテレス著『ニコマコス倫理学』―エクィリブリアム、「中庸」の思想(1)をご覧になってください(こちらからどうぞ)。

 このエクィリブリアム・セオリーが経済学でも導入され、一応の理論的成功を見た。だから一応経済学は、副島氏のいうとおり、「学問」の範疇に入れられ、ノーベル経済学賞というのも一応認められているのである。

 この「経済学は理論モデルを作ることで学問になったこと」(小室直樹)、「経済学は一応八割はが学問として認められたということ」(副島隆彦)という、われわれ日本人にとって非常に重要な事実を、私、鴨川は、私の日本における「独占的販売商品」である、エクィリブリアム・セオリーを用いて、二人の先達の正しさを裏付けてみる。

 

ザ・マージナリスト―経済学を近代科学にした『一般均衡理論』

 

 限界効用学派による著作活動は、「マージナル・レヴォリューション(marginal revolution)」と呼ばれる。これは経済学を完全な近代学問にした業績につけられたもので、それ以前の古典経済学とは一線を画する。

 物理学で言うところのニュートン、医学のハーヴィー、化学のラヴォアジェ、生物学のダーウィンの業績に匹敵する。

 限界効用学派の業績とは、イギリス人のスタンリー・ジェヴォンス(Stanley Jevons)、オーストリアのカール・メンガー(Carl Menger)、フランスのレオン・ワルラス(Leon Walras)らの業績である。

      

ジェヴォンス  カール・メンガ―   レオン・ワルラス

 彼らの貢献によって、スミスから続く「労働価値説」は「限界効用価値理論(限界効用説)」(the marginal utility theory of value)に地位を奪われることとなる。

 限界効用学派の先鋒は、メンガーらオーストリアン・スクール(Austrian School)であった。彼らは効用、ユーティリティこそが、モノの価値を決めるのだと主張し、古典派の主張を時代遅れだとした。

 限界効用の説明を小室直樹氏の著作から引用しておく。

(引用開始)

 限界効用とは、追加(消費)された最後の一単位がもたらす効用のことである。「限界効用説」では、モノが人々にもたらす効用は消費量がふえるにつれて次第に薄れていく。

 一日の仕事を終えて、飲むビールを例に考えると良くわかる。一杯目は非常に旨いが二杯、三杯とジョッキを重ねるうちに「旨い!」の感動も「もっと飲みたい」という欲求も次第に薄れてゆく。一杯目のビールも、三杯目のビールも同じ味、同じように良く冷えているのに、その限界効用は明らかに一杯目のほうが高い。

 同様に水とダイヤモンドも、日々大量に消費する水より、初めて買う一粒のダイヤモンドのほうが限界効用は遥かにに高く、従って価格も高いと考えたのである。(『経済学をめぐる巨匠たち』 三四ページ)

(引用終わり)

 限界効用とは「モノには飽きがくる」ということである。なかなか飽きが来ないもののほうが「賞味期限」が長く、したがって価値が高い。すぐに飽きが来るものの「賞味期限」は短く、値段も安い。限界効用、つまり「飽き」が来るまでの期間計算が、モノの価格を決めるということである。 

 しかし何といっても限界効用理論をもっとも深く極めたのが、レオン・ワルラスである。彼は、サイエンスの言語として欠かせない、数学を用いて、彼の経済システムを叙述した。

 ワルラスの理論の画期的なところは、「エクィリブリアム・セオリー」を人間社会の中に持ち込むことに初めて成功したことである。ブリタニカはこれを、古典力学(メカニクス)―つまりニュートン力学―の「力の均衡=ジ・エクィリブリアム・フォーシーズ(the equilibrium of forces)」のアナロジーであると述べている。

 ブリタニカの限界効用理論についての説明を書いておく。モノには需要作用と供給作用がある。需要作用とはこうである。モノの産出量は消費者の購入するモノの価格と、関連商品の価格、消費者の収入、好みに影響を受ける。

 供給作用とは、生産者の供給するモノの生産量は、生産費、生産にかかったサービスの価格、専門知識の度合いに左右される、ということである。

 市場には、この「生産と消費者の双方を満足させる均衡点がある」とするのが均衡理論である。

 一般均衡理論とは、単一のモノや、単一の市場にのみ均衡が生じるのではなく、全ての市場で、一つ一つの均衡が同時に起こり得る、とするものである。

 小室氏はこの現象を、経済学の本質たる「相互連関」と呼んでいる。「相互連関」とは、単なる一方通行=リニアーな因果関係の対極に位置する。二つ以上のものが、相互に関連するためとすると、マルクスの「労働価値説」のような、循環理論に陥ってしまう。双方が原因であるというような理論は、サイエンスとは認められない。

 しかしワルラスはこの「労働価値説」の循環理論を、一般均衡理論という「相互連関」とすることで、科学理論として復活させたのである。

(引用開始)

 多くの経済学者を悩ませた「相互連関」―一つの経済現象は、他の総ての経済現象に依存するという実態をワルラスは一般均衡理論に依って解明し、それまで科学として認められていなかった循環論的説明にも救いの手を差し伸べた。

 ワルラスはまず二財の交換がどのように展開されるかを考察し、これをベースに多数財の交換、競争均衡を分析した。モノの価格は需要と供給の均衡点に決まるという事を、多数の財が同時に交換され、相互に作用しながら各財の価格が決まって行く現実的なメカニズムの中で、連立方程式体系の解として説明したのである。

 例えばパンの価格は、現実にはパンの需要と供給だけで決まる訳ではない。米や蕎麦やパスタ等代替品の価格が安ければ需要はそちらへ流れるだろうし、ジャムやバターなど付随して消費される商品の価格にも影響されたのだろう。勿論、商品としてのパンの価格には、原料となる小麦粉の価格も大いに影響する。このような価格の相互依存関係を、ワルラスは数学的に定式化したのである。(『経済学をめぐる巨匠たち』 一九二ページ)

(引用終わり)

 この相互連関の正体は、「リレティヴィティ(relativity)」である。セオリー・オブ・リレティヴィティ(theory of relativity)とはご存知「相対性理論」である。この誤訳、「相対」は最早、使ってはならない言葉である。

 リレイト(relate)とは「関係」である。ザ・リレティヴ(the relative)といった場合、「近親者、親戚」となる。リレイトとは、互いに関連づけることをいう。

 「相対」という言葉は、「絶対」の対義語であるとして、私たちは教え込まれている。これも間違い。「絶対」とはアブソリュート(absolute)といって、それ以上分けられない、真理のことをいう。分けられないのが「絶対」なのなら、それの連想として、分けられるのが「相対」などと、都合のいい訳語が付けられている。「相対的価値観」とはいったい何なのだ。

 リレティヴィティの訳は「相関」でなくてはならない。「相対性理論」は「相関性理論」でなくてはならない。

 私が近代学問の成立過程を見ていくうちにわかったことがある。ある研究、理論が学問的に正式に認められるのは、エクィリブリアム・セオリーがその理論の中で成立したときである。エクィリブリアムこそ、学問、理論の要である。勿論、ワルラスがしたように、数学という言語を使って証明された時である。

 これをはじめて打ち立てたのが、ニュートンで、エクィリブリアム・オブ・フォーシーズ「力のつりあい、均衡」(equilibrium of forces)の数学的証明が近代学問の始まり(哲学から分離した)なのである。

ニュートン

 化学においても、熱が高温度から低温度へと流れていって、両温度が等しくなったことを「熱平衡」という。これは生物学においても、環境を「生態系、エコ・システム(eco system)」と見ることで、エクィリブリアムを発見しようという試みがなされている最中である。医学は、ハーヴィーの血液循環理論がエクィリブリアムである。

 (理論)経済学は、社会学問の中でも、唯一学問として認められ、ノーベル賞授与の対象になりえるのは、まさしくワルラスが一般均衡理論を打ち立てた業績のおかげなのである。

 経済学の研究対象は、「価格を決める力、ザ・フォーシズ・ディターミニング・プライシズ (the forces detarmining prices)」が何であるのかえお解き明かすことであると、最初に述べたが、まさしくワルラスによって、経済学上の「価格を決める力のつりあい理論」、セオリー・オブ・エクィリブリアム・フォーシーズが完成したのである。

 私の学問の全体像を読んで、触発された人間たちが、あるサイトを見つけて喜んでいる。東京女子大学文理学部社会学科教授、栗田啓子(くりたけいこ)という人なのだが、そのサイトによれば、アダム・スミスの「見えざる手」とは神の手であり、慣性の原因となる「第一の動者」が神であり、それをアダム・スミスが経済学に移し変えて、学問になったのだそうだ。

 私はこうした安易な類推が、陰謀理論やオカルティズム、神秘学などに陥りやすいということを知っている。

 アダム・スミスやニュートンのような新しい哲学者=近代科学者は、神の助けなど述べていない。これまで見てきたようにニュートンは「神の力、存在はある」ということに関しては、結論を慎重に控えている。神が重力の原因であるなどとは一言も言っておらず、ニュートン支持者に対しても、手紙で神に原因を帰することは戒めている。

 先の栗田教授は、アダム・スミスのインヴィジブル・ハンド(invisible hand) のことをいつの間にか「神の見えざる手」などとしているが、いつから神が頭にくっついたのだろう。

 これは「市場の見えざる手」ではなかったか。市場のメカニズムによって価格が決まり、そこに均衡を見出した、というのが経済学の発展史である。「マラドーナの神の手」に連想が行ったのであろうか。

 学問というのは、エンピリカル・ポジティヴィズム(empirical positivism)の権利獲得の歴史である。神や聖書の記述に頼らないで、人間が「前提、仮定、条件、仮説」(この部分がポジティヴィズム)をたてて、理論と実験(この部分がエンピリカル。経験という意味)により証明していくことなのである。

 安易にニュートンの神だの、アダム・スミスの神だなどと言ってはならない。

 神ではなく、エクィリブリアムである。研究対象をシステム(系、コロラリー)としてとらえ、数学的エクィリブリアムの存在が証明されてはじめて学問なのである。

 エクィリブリアムが学問の肝要であることをはじめて見抜いたのは私、鴨川である。エクィリブリアムとは日本では私が専売特許である。その本当の意味を誰もわからず、言葉も知らず、誰も触れてこなかったからだ。

 唯一、副島先生だけが、レイシオ(ratio)に関する長い議論の最後に「ここからエクィリブリアムにつながる」という示唆を残したのみである。本サイトでの私の一連の文章は、全てこの流れの中にある。

 システム、リレティヴィティ、エクィリブリアムというのが一つのセットであり、本質的に同じものであることを明記しておく。これに対するのが、宇宙をオーガン、有機的なものとしてとらえるネイチャー・フィロソファー(nature philosopher)、ロマンティック(romantic)たちである。

 ワルラスによって近代学問としてデビューした古典派経済学の公理「最大多数の最大幸福」は、ワルラスの弟子ヴィルフレート・パレート(Vilfredo Pareto、一八四八〜一九二三)によって「パレート最適(Pareto optimality)」と名を変える。パレート最適とは全ての資源が最適に配分されているかどうかを判定する基準である。それ以上に有利な資源配分をしようとすると、他の人の経済状況を悪化させてしまう、というものだ。

パレート

 

ケインズに古典経済学叩きのめされる

 

 経済学の第二のブレイクスルーはジョン・メイナード・ケインズ(John Maynard Keynes)である。

ケインズ

 ケインズが画期的なのは、国民所得と雇用量を研究領域としたことである。このことはある意味でそれまで誰も注目したことがなかった、とブリタニカは述べている。ケインズは効用学派のように資源配分の均衡にはあまり関心を払わなかった。その点でケインズは古典学派とは一線を画す存在となる。

 古典派による市場経済には、依然として需要と供給の問題があった。ケインズはこの二つのキーワードを別の意味に置き換える。ケインズによって需要は「有効需要」に、供給は「国民生産」になった。

 古典派経済学は一九世紀を席巻し、アダム・スミスの『国富論』で産声を上げて以来、産業革命の勢いに乗って多くの信奉者を獲得していた。

 古典経済学の自信がはじめて揺るがされたのが、一九二九年の大恐慌である。一九二九年一〇月二四日、ニューヨーク市場の株価が大暴落し、このあおりを受けて企業の倒産、工場閉鎖が相次ぎ、米国の失業率は二五パーセントを越えた。(『経済学をめぐる巨匠たち』 六三ページ)

 これは古典派の「失業はありえない」というドグマからはあってはならないことであった。これは古典派経済学の公理「セイの法則」が間違いであるということが明らかになった瞬間であった。「セイの法則」とは、「一国の総需要は総供給に等しくなる」「市場に供給されたモノは必ず売れる」である。

 それでも古典派経済学者は失業は「起こり得ない」と主張し、現在の失業は一時的なものであると言い張った。誰の目にも明らかな不況と失業に苦しみもがいていた人々を尻目に、古典派はなんら有効な手立てを提示出来なかった。

 古典派経済学の効用が限界に達っしようとしたまさにそのとき、ケインズが登場する。小室直樹氏によるケインズ評は興味深い。

(引用開始)

 一八八三年、マルクスが他界した年に生まれたケインズは、レッセ・フェールを説く古典派に対し、立った一人で批判ののろしを上げた。

 古典派経済学は、これまで幾度となく批判の荒波にさらされてきたが、その本質に深く切り込んで古典派の理論を批判しえたのは、マルクスとケインズだけである。(『経済学をめぐる巨匠たち』 六五ページ)

(引用終わり)

 ケインズは古典派の言う「物は作っただけ売れ、失業は起こらない」という主張は、好景気という特殊な状況のみに成立するものであって、市場のメカニズムが機能しない不況時にはいくら自由放任してもだめ。政府が動いて需要を作り出す必要がある。

 ケインズは古典派理論の土台である「はじめに供給ありき」「デマンド・オン・サプライ(demand on supply)」という考えを逆転させる。

(引用開始)

 ケインズの理論は「サプライ・オン・デマンド」。需要こそが供給を作り出す、と考えた。ケインズ曰く、一国の経済規模は国民総需要の大きさによって決定される。いくら供給を増やしても、需要以上にモノが売れる事はあり得ない。

 そしてケインズは、経済活動の原動力となる国民総需要を「有効需要、エフェクティヴ・ディマンド」と呼んだ。国民総生産は有効需要に等しくなる―これが、ケインズの「有効需要の原理」である。(『経済学をめぐる巨匠たち』 六六ページ)

(引用終わり)

 有効需要とは投資と消費で構成される。ケインズ経済学の肝要は、有効需要の決定要因を分析することである。ケインズの証明しようとしたことは、有効需要がモノとサービスの実質的生産能力の水準を上回る、あるいは下回ってしまうだろう、そして、生産するに任せれば、完全雇用は達成されるなどということはありえないということである。

 完全雇用は自ずと達成されるという仮定に逃げ込んでいた古典経済学者には、ケインズの理論は相当にショックだったようである。

 一九二九年の大恐慌は容易に収まる気配を見せなかった。その中で古典派の大御所たちが「市場の自由に任せて待つべし」「下手な手出しは無用」と唱えている間、ケインズは一人「こんなときは待っていても無駄。積極的に手を出して、有効需要を増やすべし」と説いた。

 不況で消費の拡大が望めないなら、投資を増やして景気を刺激するしかない。不景気のため民間投資の増加が期待できないなら、公共投資を増やすしかない。こうして、「市場のメカニズムが機能不全に陥ってしまった場合は、国家の経済介入もやむなし」という考えが認められるようになった。(前掲書 六七ページ)

 こうしてケインズ理論が成功したのがアドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)の経済対策であり、アメリカの戦争経済である。ニューディール政策は中途半端に終わった。

 ブリタニカはケインズを「ワルラスとリカード以来経済学に画期的な新しい考えをもたらした唯一の学者である」として、ケインズの項を締めくくっている。

 ブリタニカの経済学の歴史は、実質的にここで終わりである。最後に第二次大戦後の世界が述べられているが、戦後六〇年代にいたるまで、世界の経済はケインジアンが主流であった。七〇年代から八〇年代にかけて古典主義が復活したが、サッチャー(Margaret Thatcher)もレーガン(Ronald Reagan)も最終的には公共事業によるケインズ的政策に頼らなければならなかった。

   

サッチャー     レーガン

 戦後に出てきた新しい経済理論はミルトン・フリードマン(Milton Friedman)のマネタリスト・ポリシー(monetarist policy)やロバート・ルーカス(Robert Lucas)の合理的期待学派(Rational Expectations)といった、本質的に古典経済学の流れを汲む理論である。

   

フリードマン    ロバート・ルーカス

 経済学は大きくはケインズ理論と古典派理論の対立構造を乗り越えられていない。

 

誰かヒックスを勉強して下さい

 

 副島理論を勉強し、検証していくためにはどうしても経済理論をしっかりと勉強しなくてはならない。ブリタニカにはエコノミクスという独立した項目はないが、経済理論という項目がある。ここにはワルラスの一般均衡理論を中心にした経済理論が、きちんとした論文として掲載されている。

 だから経済学を志す人々は、この論文を読むか、ヒックスを勉強するべきである。ヒックスはワルラスが『純粋経済学要論』で展開した一般均衡理論を継承し、科学として完成させた人物である。

 小室直樹先生の師匠である森嶋通夫(もりしまみちお)教授は、学徒出陣で戦場に赴いた際、ジョン・リチャード・ヒックス(John Richard Hicks)の『価値と資本』(Value and Capital)を携え、任務の間に精読し、ヒックスの理論を自家薬籠中(じかやくろうちゅう)のものとした。

  

森嶋通夫    ヒックス

 森嶋教授によれば、「この一冊を精読し、理解し得たならば極意皆伝。他をあれこれ読む必要はない」とまで言い切っていると、小室博士は述べている。

 ヒックスの『価値と資本』がいかににすごいものであるか、『経済学をめぐる巨匠たち』から二箇所引用して、経済学の項を終えようと思う。

 

(引用開始)

 ケインズ革命は同時に方法論革命であった。

 それまで、御伽噺(a fairy story)に過ぎなかった経済学は、この時代に科学(a science)にまで成長したのであった。

 その基礎を築いたのはワルラスであったが、ワルラスは、どの経済学者でも自由に使用する事が出来る道具を提供したわけでもなかった。ワルラスの書物は、一般均衡理論を樹立はした。が、それを読んだ経済学者に数学的訓練を施し、必要な数学を自由に使いこなさせるシステムを備えてはいなかった。

 この用役を果たした本こそ実にヒックス教授の『価値と資本』であった。

 この本を完璧に読む者は、差し当たって経済学研究に十分な数学を使用する能力を身につける事が出来る。この本はこういう効用を持っていた。

 とは言うものの、ヒックス教授の『価値と資本』をマスターするためには、当時の英米人すら五年を必要とすると言われていた。それにしても、それだけの年数をかけて努力をすれば、当時の近代経済学を十分に駆使し得る数学と論理とを身に付け得るのである。

 この意味でヒックス教授の『価値と資本』は、当時出現したタイムリーな最良の「教科書」であったとも言える。(前掲書 二〇二ページ)

(引用終わり)

 小室博士によれば、森嶋教授の指導方針は、まずヒックスの『価値と資本』をマスターし、次にサミュエルソンの『経済分析の基礎』を読み、自らケインズ・モデルを作成してみよというものだった。

(つづく)