「0063」 論文 「スピリチュアリズム」の改稿原稿(1) 原岡弘行(はらおかひろゆき)筆 2009年12月30日

 

 ウェブサイト「副島隆彦の論文教室」管理人の古村治彦(ふるむらはるひこ)です。2009年最後の論文掲載となります。冒頭をお借りして、読者の皆様にごあいさつを申しあげます。

 2009年2月20日に本サイトは運営を開始しました。これまで多くの皆様にご指導、ご鞭撻、ご支援をいただきながら、運営することができました。誠にありがとうございます。2010年も読んでいただける皆様に、楽しんでいただけるように努力してまいります。まずは、2010年2月20日の一周年に向けて、短い期間ではありますが、努力してまいる所存です。今後ともよろしくお願い申し上げます。

 今回は、『悪魔の用語辞典』(副島隆彦+副島国家戦略研究所編著、2009年12月、KKベストセラーズ刊)所収の原岡弘行(はらおかひろゆき)氏の「スピリチュアリズム」の改稿版を掲載します。『悪魔の用語辞典』は、副島隆彦(そえじまたかひこ)先生と弟子たちで世の中にあるキーワードの本来の意味を解説した本です。原岡氏は『悪魔の思想辞典』の中で、タイトルどおり、スピリチュアリズムを担当しました。スピリチュアルという言葉は現在、大変親しみやすい言葉となっています。占いと混同されて使われている部分もありますが、スピリチュアリズムは、人々にとって、何か楽しいものであり、自分の未来を指し示してくれるものとなっています。

 原岡氏は、この論文の中で、自分の経験を踏まえながら、スピリチュアリズムを分析しています。私たちは、霊や宗教の話をすることをためらいます。しかし、それがひとたび、スピリチュアリズムという言葉を冠せられると、嬉々として話すことができるのです。しかし、私たちはその実態(差別思想と洗脳)に気づいていないのです。本論文は、『悪魔の思想辞典』出版後、研鑽のために改めて手を加えたものであり、副島隆彦先生からウェブサイト「副島隆彦の論文教室」に掲載するように勧められたものです。

 それでは原岡氏の論文をお読みください。


==========

Spiritualism

1. PHILOSOPHY The doctrine that the spirit exists as distinct from matter, or that spirit is the only reality ; any philosophical or religious doctrine stressing the importance of spiritual as opposite to material things.

2. The belief that the spirits of the dead can communicate with the living, especially through a medium ; the practice of this belief.
Oxford  English  Dictionary

1.[フィロソフィーの一部として]霊魂(精神)が、肉体(物質)とは  別の独立した存在として、本当にあるのだという信条。この考えがさ  らに進むと、霊魂こそが唯一実在するもの(生命の本質)であり、肉  体はその器(容(い)れもの)に過ぎないという思想になる。実体のあ  るもの(物質)の反対の存在としての霊魂(精神)の重要性を強調し  ているフィロソフィカルな(真・善・美を追い求める)、もしくは宗  教上の教義をもつものは、いずれもスピリチュアリズムであるといえ  る。

 2.死んだ人の霊が、生きている人、とりわけ霊媒体質の人を通じて、  メッセージ(言葉や想い)のやり取りができるという信念。あるいは  、それを実践すること。

 

*************************

日常生活に浸透しているスピリチュアリズム

 私が「スピリチュアル(spiritual)」という言葉を最初に意識したのは、テレビ朝日で放送されていた「オーラの泉」という番組を見たときだった。ご覧になった方も多いと思うが、この番組はオーラや前世や守護霊が見えるという江原啓之(えはらひろゆき)氏と美輪明宏(みわあきひろ)氏の二人が、毎回登場するタレントや芸能人の生い立ちを聞き、現在の悩みに助言をしていくというものであった。すでに放送は終了しているが、「あなたの前世は武士です」とか、「金色のオーラが輝いています」などと断定口調で述べていく映像は非常にインパクトがあった。私の母は涙を流して見ていたときもあったほどだ。

   

美輪明宏        江原啓之

 「オーラの泉」の影響は大きかった。以前なら口にすることもはばかられたオーラや霊といった言葉が、日常会話の中で飛び交うようになった。ある日、友人と焼き肉屋に行ったときのことである。隣のテーブルから、「この前あの店のシャーマン(巫女(みこ))にオーラを見てもらったら、赤色って言われたよ」「へー、そうなのか。オレはレインボーだと言われたなあ」「それはすごいな!」という会話で盛り上がっていている声が聞こえてきた。見れば、五、六人のビジネスマンだった。スピリチュアルの話をするのは私のような若者や母のような主婦だけだと思っていたが、そうではなかった。社会の最前線で働いている大人も同じことを話していた。これにはびっくりした。

 断っておくが、私はスピリチュアルの世界は嫌いではない。それは、すでにテレビやゲームを通して、十分に慣れ親しんでいるからだ。今年の七月にニンテンドーDSで発売され、十一月の時点で四〇〇万本以上売れている「ドラゴンクエストIX 星空の守り人」というソフトも、主人公の天使がこの世に未練を持つ死者の霊を成仏(じょうぶつ)させていくというストーリーのゲームであった。マンガを読んでいても、あの世の人とこの世の人がやり取りをする話がやたらと多いと感じている。周りの人たちも、「あの人、オーラが輝いているね」「今日も一日無事に過ごせたのは、守護霊様が守ってくれたからだ。感謝してます」と何の違和感もなくスピリチュアルなことを話している。

 こうして日常生活に浸透しているスピリチュアルであるが、スピリチュアルとは何かということを正面から考えたことはなかった。霊とかオーラに関することだろうと漠然ととらえていた。曖昧だからこそスピリチュアルなわけで、それはそれでいいのかもしれない。

 しかし『悪魔の用語辞典』で「スピリチュアリズム spiritualism」が搭載語(ヘッデイング heading)に選ばれたので、この機会にスピリチュアルとは何なのだろうということを真剣に考えてみた。スピリチュアルな思想のことを、スピリチュアリズムという。

 結論をいえば、スピリチュアリズムは、古代インドの宗教であるバラモン教(Brahmanism)の現代版である。やさしくて温かそうなイメージとは裏腹に、恐ろしい差別思想が埋め込まれている。さらには自分の頭で考える力が落ちてしまうため、人から洗脳されやすくなる。こうした負の側面がある。このことがわかった。

 以下で、この結論に至るまでの過程を述べていく。

霊魂の実在を認める思想

 スピリチュアリズムとは、どういう意味で使われる言葉なのだろうか。普段は目にすることもないオックスフォード英語辞典(OED)を引くと、次のように定義されていた。

 霊魂(精神)が、肉体(物質)とは別の独立した存在として、本当にあるのだという信条

 この文のうち、まず「肉体(物質)(マター matter)」はわかる。私たちの手や足のことだ。つねれば痛い。たしかに存在している。一方、「霊魂(精神)(スピリット)」はわかったようでわからない言葉だ。考えてみれば当たり前のことで、わからないから霊魂と呼んでいるのだ。わかることだったら、このようには言わない。

 昨年東京であった六爻占術(ろっこうせんじゅつ)という中国古代の占いのセミナーで、師匠の王虎応(わんふーやん)氏が「五行は目で見えない、手で触れないものです」と教えてくださった。この話を聞いて、霊魂も五行(世界を木・火・土・金・水という五つの元素に分けたもの)と同じだと直感した。すなわち霊魂とは目に見えない、手で触れないものである。無(む)とは違って、存在しないわけではない。単に人間の五感で認識できないだけで、本当は存在している。私はこう理解した。

 OEDでは続けて、次のような定義が書かれている。

 霊魂こそが唯一実在するもの(生命の本質)であり、肉体はその器(容(い)れもの)に過ぎないという思想

 こちらの定義の方が、普段スピリチュアルと言うときの実感に近い。この文の意味するところは、「私は誰?」と言ったときの「私」は霊魂(霊や魂)であり、肉体は「私」が入っている乗り物だということだ。生命の主体は魂にある。この世に「私」が存在するということは、私の霊魂も実際に存在(実存)しているのだ。今の日本で「スピリチュアル」というときは、こちらの意味で使われていることが多い。精神世界ではもっぱらこちらの意味だ。なぜかというと、肉体はやがて滅びてしまうからだ。しかし霊や魂が主体であれば、肉体がなくなっても困ることがない。あの世に行ってもこの世と同じように暮らせる。墓参りや葬式のときは、亡くなられた方が天国で幸せに生きていると思って語りかけている。肉体がなくなったので命の半分が消えているとは思っていない。

 いずれにせよ通常は、霊魂の実在を認める思想のことをスピリチュアリズムというのである。

バラモン教から生まれた思想

 スピリチュアリズムは、どこから生まれた思想なのだろうか。

 スピリチュアリズムというと西洋の思想のような気がする。「オーラの泉」でも江原氏がイギリスで修行しているエピソードが出てきた。「スピリチュアリズム」という語自体もカタカナの言葉だ。こうしたことから、スピリチュアリズムは西洋から出てきた思想の1つだろうと思い込んでいた。しかし文献を当たっていくと、そうではないことがわかった。

 なんと古代インドの宗教であるバラモン教が大元の思想であった。バラモン教が現代に復活したものというのがスピリチュアリズムの正体だった。これは教義を見れば明らかだ。

 スピリチュアリズムの元になっているバラモン教(現在のヒンズー教 Hinduism、インド教)とは、どのような宗教だったのだろうか。

 時代はさかのぼり、紀元前一五〇〇年ごろ(三五〇〇年前)のインドの話である。遊牧民のアーリア人(Aryan)が侵入してきて、インドの先住民族を征服した。その後アーリア人は農耕をはじめ、そのまま住み着いた。そのとき自分たちの民族の純血を保つために、カースト制度(caste)という厳格な身分制度を作った。先住民はスードラ(奴隷階級)として自分たちと血が混じらないように区別(差別)した。

 このカースト制度が基盤となって生まれた宗教がバラモン教である。

 バラモン教は自然崇拝の多神教である。神々の働き(つまりは、農耕に必要な自然)を祭祀(さいし)でコントロールする高僧のバラモン(Brahman)が、「地上の神」として一番上の階層に位置づけられている。だから、「バラモン」教(バラモンの教え)という名前だ。教えの内容は神々・祭祀からフィロソフィー(philosophy、真・善・美の探求)に関することにまで多岐にわたる。それらはすべて聖典『ヴェーダ』(Vedas)にまとめられている。

 バラモン教の教義を理解する際に重要なのが、その付属書『ウパニシャッド』(Upanishad)だ。この奥義書には輪廻転生と解脱(げだつ)に関する教えがまとめられており、バラモン教を信仰する人は輪廻からの解脱(開放、抜け出すこと)を目標にして生きている。これらは高校の倫理の時間に習うことだ。

 そしてこの輪廻に対する教えは、現代のスピリチュアルの教祖(グールー、guru)が言っていることとまったく同じだ。輪廻転生をするのは、「私」という霊魂だ。教祖は「あなたの魂は何度も何度も生まれ変わりながら経験を積んで、向上していっているのです」ということを説いている。これはバラモン教の輪廻と解脱の教えそのものではないか。

 もちろん、バラモン教とスピリチュアリズムがまったく同じというわけではない。教えは同じなのだが、表現が違う。具体的には、霊魂が実在することを「あなたの後ろにおじいちゃん(や守護霊様)がいます」と言い、輪廻転生を「あなたの今の奥さま(旦那さま)は、前世でも縁の深かったソウルメイト(魂の仲間)です」と言い、解脱を「あなたが今苦労しているのは、魂を磨くためなのです」と言っている。現代的な言い回しに変えられているが、少し考えてみれば同じことを言っていると気づく。スピリチュアリズムは、現代版のバラモン教なのだ。

スピリチュアリズムに埋め込まれた差別思想

 ここまでで、「ああ、そうだったんだ。江原さんが言っているスピリチュアリズムは、古代インドの宗教であるバラモン教のことだったんだ」と理解できた。これだけなら特に問題はない。しかしバラモン教が輪廻転生と解脱の教えを教義としていたのは、明確な理由があった。それはカースト制度を守るためだった。こうした裏(闇)の部分が隠されているのだ。

 先にも述べたように、バラモン教はカースト制度を基盤としてできている宗教である。バラモン教では、「純血を保つ」という点が重要だ。それを実現するためにつくられたのが、カースト制度である。土着の民族の血が混じらないようにするためにつくったカースト制度ではあるが、征服民族のアーリア人の間にも身分の差がある。

 カースト制度を理解するためには、ピラミッドをイメージするとわかりやすい。植物と動物とからなる生物の世界はピラミッド構造をしている。このピラミッドを最初に見たのは、小学校の理科の時間だ。食物連鎖(フード・チェイン food chain)の話で登場した。ピラミッドの上には人間がいて、下には肉食動物(Carnivore)、草食動物(Herbivore)、植物(plants)と続いていた。上ほど数が少なく、下ほど数が多い。上を支えるのは大変なことだ。人間は多くの動物や植物に支えられて生きているんだ。小学生の私は、そんなことを思った。

 十数年たって、再びこのピラミッドと出会った。今度はインドのカースト制度だった。このピラミッドは上から順番に、支配者、執行者、奴隷、不可触民の4つに分かれる(図1)。一般的には二段目の執行者と三段目の奴隷の間に平民がおかれるのだが、それは建前であって現実と異なる。上の階級に貢(みつ)ぐ存在なのだから、三段目の奴隷だと考えるのが正しい。四段目の不可触民は省略されることがしばしばあるが、実際には存在している。霊魂とは違って、少し意識をすれば目で見える、手で触れる存在だ。だからピラミッドに組み込んだ。

 生物のピラミッドとの違いは、それぞれの階層のものが循環するかしないかである。生物は生きているときはバクバク下の層の動植物を食べていても、死ねば一番下の土に返り、植物の肥やしになる。一方カースト制度は一度バラモンになった者たちが、階層を固定化するためにつくったものであるため循環しない。あるいは循環させないと言った方がいいかもしれない。そのため、バラモンは腐敗していく。歴史学者のジョン・アクトン John Acton(一八三四−一九〇二)が言うように、「絶対的権力は絶対に腐敗する」のである。人間の社会の階層も生物のピラミッドのように循環することが望ましい。

    

図1 ピラミッド構造をしているカースト制度(生物の世界)

 

  私がこの「支配者、執行者、奴隷、不可触民」という分類を最初に知ったのは、副島隆彦先生が編訳された『次の超大国は中国だとロックフェラーが決めた』(徳間書店)を読んだときだった。この本は、どのページを開いても重たくどぎついことが書かれている。下巻の第四八章は「アメリカのカースト制度」という見出しだ。ここで初めて、インド国内だけのものだと思っていたカースト制度が他の国でも存在していることを知った。元々一億総中流階級という幻想は抱いてなかったが、お金持ち、貧しい人ぐらいの違いはあるなと思っていた。しかしこの章を読んで、こうした素朴で単純な分類が打ち砕かれた。あまりにもショックなことが書かれていた。以下でこの章の内容に基づいて、それぞれの階級について考えていく。

 支配者(ルーラー ruler)の階級(クラス class)には、バラモンと呼ばれる高僧が君臨するのだ。今でいえば、デイヴィッド・ロックフェラー David Rockefeller(一九一五- )に代表される、世界の金融を支配する超財界人たちである。現代でも、インド以外にも、バラモン階級は存在するということだ。

デイヴィッド・ロックフェラー

 執行者(アドミニストレーター administrator)の階級は、バラモンの手先となることで地位を保っている人たちである。今でいえば、官僚・メディア・警察・軍部・大学教授(御用学者)・法曹界(弁護士、検察、裁判官)・医者・宗教家たちの群れである。この人たちは、「あたなのためですよ」と善意を装って、上から恐怖を植え付けようとしてくる。「このままでは地球は滅びる」だとか「あなたは難病です」と人を脅すことを主な仕事としている。

 奴隷(スレイブ slave)の階級は、朝から晩までこき使われる働きバチたちである。社会の大多数の人たちがここに含まれる。今でいえば、発展途上国では農民(農業者)であり、先進国では生産手段を自分で持っていない勤め人階級(サラリーマン、企業正社員、ホワイトカラー)である。されに奴隷階級が分けられ、派遣労働者(非正規雇用)という階層もある。「今は苦しいが、もう少しだけ我慢すれば、きっと状態はよくなる」という幻想を抱かされ、そして裏切られ、搾取(エクスプロイテーション exploitation)され続ける階級である。

 不可触民(アウトキャスト outcast)の階級には、浮浪者や犯罪組織の末端といった、社会から相手にされず、用がすめば使い捨てにされる人たちがいる。今でいえば、ホームレスや暴力団、麻薬取引、密貿易といった非合法なことの実行部隊になる人たちである。

 これがバラモン教のカースト制度である。カースト制度から、バラモン教が「差別(discrimination)」の上に成り立っている宗教であることが理解できる。「差別」は徹底的な差別である。上にはすり寄り、下には蔑(さげす)みの眼差しを送る。常に自分たちより下の階層をつくって、いじめ続けなければならない。なぜならば、そうしなければ今度は自分がいじめられる側になるからだ。学校のいじめと同じである。こうした恐怖の感情が人々を支配する。だから、横のつながりは弱い。見かけ上のつながりしかない。自分だけがいじめられなければいいという自己中心的な考えになるからだ。恐怖によって人々の連帯は断ち切られている。

 支配者階級の人間がもっとも恐れることは、下の階級の者たちが一致団結することである。いくらバラモンが上で威張っていたとしても、下から数の力で来られたら弱い。バラモンの言うことを、おとなしく聞かせて、人々の精神を支配したい。そのためにつくられたのが、カースト制度を根幹とするバラモン教の教義である。

 そして、このバラモン教の恐ろしい差別思想を、現代のスピリチュアリズムは受け継いでいる。

 たしかに「オーラの泉」を見ていると、涙が出るほど感動する話がある一方で、あれっと思うことがしばしばあった。スピリチュアルの本を読んでいても、何かあやしいなと感じる部分があった。この人はと思う人とはできる限りセミナーなどで直接会うようにしてきたが、本を読むとすごいと思った人でも、実際に会うとそうではないことが多かった。言っていることとやっていることが違うのだ。「いつも明るくするようにしましょう」といっている人が、ブスッとした顔をしているのを見るたびに幻滅した。なかなかスピリチュアリズムとの距離の取り方がわからなかった。

 ここ数年、脳機能学者の苫米地英人氏による『スピリチュアリズム』(にんげん出版)や精神科医の香山リカ氏による『スピリチュアルにハマる人、ハマらない人』(幻冬舎)といったスピリチュアリズムを批判する内容の本が相次いで出版された。その中には「あなたは騙されている」と霊感商法を槍玉に挙げてスピリチュアリズムを頭から否定するものもあれば、無味乾燥な解説が羅列されているだけのガッカリしたものもあった。かといってスピリチュアルの教祖の本には、スピリチュアリズムがいかにすばらしいかということしか書かれていない。これはという説明には出会えなかった。

   

苫米地英人       香山リカ

 そこで今回、自分なりにスピリチュアリズムとは何かを考えた。まさかスピリチュアリズムと古代インドの宗教が関係するとは思わなかった。バラモン教はカースト制度を基盤にしている。だから、それを現代に受け継ぐスピリチュアリズムにも差別思想が埋め込まれている。私が感じていた違和感の正体は、この差別思想だったと気づいた。

スピリチュアリズムと現代社会の親和性

 スピリチュアリズムは他の思想や宗教と比べて敷居が低いように感じる。今の日本で若者や女性を中心に広がっているのはそのためだろう。仏教のような難しい漢字だらけのお経も出てこなければ、キリスト教のようにぶ厚い聖書(バイブル)を読まなくてもいい。いずれも聞けばすぐにわかる話である。実はここにもスピリチュアリズムの重大な秘密があった。

 なぜスピリチュアリズムは、わかりやすいのだろうか。それは、「行間(ぎょうかん)を読む」必要がないからである。話を聞いた人が、疑問を挟む余地がないように教義(教え)がつくられているからだ。言葉の表面をなぞるだけで理解ができる。意味は探らなくていい。信者は、教祖に言われたとおりにすればいい。つまりは自分の頭で考えなくていいということだ。

 一八世紀の後半に、イギリスで産業革命(インダストリアル・レヴォルーション industrial revolution)が起こった。百年後の明治維新(Meiji Restoration)で、その波が日本にも押し寄せた。それからもう一五〇年になる。それまでトンカチをもって仕事をしていた大工たちは、それを捨てて工場に行った。工場は、独創性を発揮されては困る場である。好き勝手にすることは許されない。個性的なネジをつくっても、機械を動かなくするだけである。このとき「職人」が死んだ。熟練の技も、やがて一定の品質で大量生産ができる工場には勝てなくなった。

 スピリチュアリズムは、十九世紀の中ごろ、具体的には一八四八年三月三一日が発祥の日とされている。この日、世界で初めて、アメリカのある村でポルターガイスト現象が確認された(ということになっている)。その後、スピリチュアリズムの思想はアメリカ全土に広がり、イギリスでも研究されるようになった。多生の紆余曲折(うよきょくせつ)を経て今日に至る。

 ここで注目しなければならないのは、スピリチュアリズムの誕生が産業革命の後だということである。つまりは、人々が工場で働くようになってからだ。工場は命令を忠実に聞けば聞くほど評価される場だ。

 このとき、それまで潜伏していたバラモン教が目覚めた。自分の頭で考えることのなくなった人たちは、誰かに思考をゆだねることになる。その誰かとは、仕掛けてくる人たちである。策謀(プロット)をもった人たちである。

 人から基準を与えてほしい(自分の頭で考えたくない)人たちの存在を、新興宗教や電通(日本のメディアを徹底的に操る会社)は見抜いていた。一九九〇年代にはオウム事件が、二〇〇〇年代には“小泉郵政クーデター選挙”が計画、実行された。

 オウム真理教はスピリチュアリズムの原理集団(殺人を肯定する教義をもった宗教団体)であった。OEDで定義されていた「霊魂こそが唯一実在するもの(生命の本質)であり、肉体はその器(容(い)れもの)に過ぎない」という考えやバラモン教の輪廻転生と解脱の教えを元にして、ポア(殺人)の思想を生み出していた。ポアとは、現在「悪いこと」をしている人間は殺した方がいい。生まれ変わってまたゼロから始めるチャンスを与えた方が、本人のためになるという思想だ。これは、殺人を正当化してしまう恐ろしい考えである。この思想が、あの一九九五年三月二〇日の地下鉄サリン事件という忌(い)まわしいテロ事件を引き起こした。当時はまだ小学生だったので記憶はあまりないが、この事件でサリンを吸ってPTSD(心的外傷後ストレス障害)にかかった人の話を聞いて事件の深刻さを知った。スピリチュアリズムの一つの悲しい結末だ。

(つづく)