「0087」 論文 サイエンス=学問体系の全体像(12) 鴨川光筆 2010年5月17日
ジェレミー・ベンサム―「人類」というだけで「特権」である。
バーク、ルソーの次は、おそらくは政治思想史の中で最も重要な人物、ジェレミー・ベンサム(Jeremy Bentham)である。
ベンサム J・S・ミル
ブリタニカでは「ユーティリタリアニズム(Utilitarianism 功利主義と訳される)」と題して、ベンサムとジョン・シチュワート・ミル(John Stuart Mill)が登場する。
ベンサムの思想を一言で言うとこうなる。
「人類というだけで特権である」
ベンサムというと「功利主義(utilitarianism)」、「最大多数の最大幸福(the greatest happiness for the greatest number)」、「幸福の計算法(felicity caluculous)」という言葉が出てくるが、私は、これらの言葉では表せない、「ベンサムの本当の本質」を、日本で初めて述べる。
副島氏によれば、ベンサムは「リバータリアニズム(Libertarianism)」の元祖であり、反自然法派、人定法派(positive law ポジティヴ・ロー)の元祖として、『覇権アメ』(二二一ページから)の中で、ベンサム評価を試みている。
残念ながら、ベンサムの著作を読んでも「人定法」、あるいは「実定法」という言葉は出てこない。
ただし、ベンサムの主著『統治論断片』(とうちろんだんぺん)を読むと、明らかに自然法と自然権を批判している。ベンサムは、制定法(つまりこれが人定法。人定法とは法を条文化、コーディファイ codifyしたもの、と言いたいが、このことについては後で述べる)によって人間のモラル(morality)は守られる、と言うことを述べている。
『統治論断片』は一八世紀イギリスの法曹界、そして自然法派の権威であったオックスフォード大学教授サー・ウィリアム・ブラックストーン( Sir William Blackstone) 批判の書である。ベンサムのデビュー作である。
ブラックストーン
正式なタイトルは、『フラグメント・オン・ガヴァメント』(Fragment on Government)といい、「サー・ウィリアム・ブラックストーンの評注の序文中で統治一般を主題とした論述の検討。著作全体の批判を含む序を付す」(being an examination of what is delivered, on the subject of government in general, in the introduction to Sir William Blackstone's Comentaries )という長い副題がついている。
ロックがフィルマーを、バークがプライスを批判することで、歴史に名を残すことになったように、ベンサムの思想家としての経歴も、時代の権威であるブラックストーンを攻撃することから始まった。
自然法批判のことにも触れるが、政治思想に焦点を当てた本稿では、功利主義、ユーティリタリアニズムに焦点を当てて、述べていくことになる。自然法、人定法に関しては「法学」を後に書く時に詳しく述べていきます。
私はベンサムを読んで、おそらくは日本のどの権威ですらも分からなかった、「ベンサムの本質」を発見した。
それは『統治論断片』の序論、第一章「統治の形成」第三六節にある、次の一節である。ブリタニカの補足とともに解説する。カッコ内がブリタニカによる前後文の要約、補足である。ブリタニカは原文の前後の内容を簡潔に要約している。
(引用開始)
(Bentham attacked notions of contract and natural law as superfluous,)
The indestructible prerogatives of mankind have no need to be supported upon the sandy foundation of a fiction.
(社会契約、原初契約、自然法などと言う考えは、もはや「賞味期限切れ」(superfluous) である。そのような思想はもはや妄想、想像上の怪物「キメラ chimera」 だと言っていい)
「人類」というだけで「不滅の特権」なのである。人類という特権には、社会契約や自然法のような「砂上の楼閣(さじょうのろうかく)」、作り話による正統性の主張は必要ないのだ。
(引用終わり)
この訳は、私、鴨川光(かもがわひろし)による原文の正確な翻訳である。正確という意味では、本邦初である。
これはベンサムによる「マンカインド宣言、人類宣言」である。「人間、人類、マンカインド が自分で全てを決める、決めていいんだよ」という宣言なのである。これが「ポジティヴィズム」の始まりであり、「人類による、世界構築の開始宣言」である。
この一節は、ベンサムの思想の中でも最も重要な部分であり、ブリタニカでは「幸福という構造物、ファブリック・オブ・フェリシティ(fabric of felicity)」の次に引用されている。実質的には最初に引用されているほどの一節なのだ。「ベンサムの人間宣言」を冒頭に掲げる、なんていうことは、日本のどの解説書にも期待できない。
「フェリシティ・カルキュラス(felicity caluculous)、幸福の計算」という、ベンサムの理論がある。これは副島隆彦氏の「真実の期間計算」(『属国日本論を超えて』五月書房、二〇〇二年) という理論のオリジナルである。思想的源泉はベンサマイトである副島理論は、ベンサムの理論に実に多くを拠っている。
また、「幸福を計算する」という、数値化(quantification)できないものを数値化しようという試みが、政治学をモダーン・サイエンス(modern science)たらしめようという、初めての試みなのである。それが「功利主義、ユーティリタリアニズム」の真実の学問的価値である。
功利主義は、経済学でいう「限界効用理論、マージナル・ユーティリティ(marginal utility)」のことである。功利主義は「限界効用理論」との両輪で動く。「限界効用理論」は、経済学のワルラス(Leon Walras)のところで述べた。
ワルラス
経済学は、ベンサムの発案である「功利、ユーティリティ」を「原理、プリンシプル(principle)」にしたレオン・ワルラスによって、一足先にモダーン・サイエンスへの道を歩き出した。残念ながら政治学は「功利」をもってしても、まだサイエンスとはなっていない。
後で述べるJ・S・ミルによって、「効用は人によって差があり、質としてとらえなければならない。効用を量的に換算することは、不可能である」という理論が出てきたためである。人類は、未だ「効用、功利」を数量化」することに、成功していない。
国際公益主義学会―永井義雄(ながいよしお)博士「日本におけるベンサム思想の卸商(おろししょう)」
ベンサムを引くと必ずこの人に当たる。図書館、ウェッブ、日本でベンサムの検索をかけると必ずこの人である。名古屋大出身で、名古屋大名誉教授である。
図書館に行くと『人類の知的遺産 四四巻 ベンサム』(一九八二年、講談社)と『イギリス思想業書七 ベンサム』(研究社)に突き当たる。
二冊とも実に丁寧に書かれてあって、相当ベンサムに心酔しきっている人であることがうかがえる。この人が現代日本における、ベンサム思想、功利主義の輸入総代理店なのだろう。
国際公益主義学会(こくさいこうえきしゅぎがっかい)という「学会」の副会長なのだそうである。日本のウェッブ・サイトにはない。本部はロンドンだと書かれている。
残念ながら永井博士は、全くベンサムを理解していない、と私鴨川は切って捨てる。それは上記の翻訳部分である。
永井博士は、このような子供のような翻訳をしてしまった。
「人類の破壊できない権利が擬制という砂のようなあやふやな基礎に支えられる必要はないのである」(『人類の知的遺産 四四巻 ベンサム』 一六九ページ)
私の文章を読みに来て頂いている読者の皆さん。この翻訳で意味がお分かりになるであろうか。私には全く意味が分からない。読点すら全く打たれていない、ただでさえ読みにくい文章である上に、「人類の破壊できない権利」とは、何のことを言っているのであろうか。
「人類の権利」では、ふつう「人権、ヒューマン・ライツ(human rights)」あるいは、自分の身を守る自由「自然権、ナチュラル・ライツ(natural rights)」のことだと思えてしまうではないか。自然権を否定しているベンサムが「人間の権利」などと言うはずがないではないか。
この部分の原文は「ライツ・オブ・マン(rights of man)」ではない。上記にあるように「インディストラクティブル・プレロガティヴス・オブ・マンカインド(indestructible prerogatives of mankind)」である。「プレロガティヴス(prerogatives)」を永井氏は、ただ闇雲に「権利」と訳し捨てた。
バカをいうな。
「プレロガティヴス」がただの「権利」なんかであるものか。「プレロガティヴス」とは「特権」のことである。「国王大権」のことだ。つまり「人間が国王であり、主権者だ」という意味なのだ。
「人間は主権者であり、どのような制限も干渉も受けない特別な存在だ、飛びぬけてとんでもなく抜きん出た、傑出した存在だ」という意味なのである。きちんとOEDを引くとそのように書いている。一応引用を書いておきます。
(OEDからの引用開始)
prerogative
1. prior, exclusive, or peculier right or privilege.
a. esp. in Constitutional Hist. That special preeminence which the sovereign, by right of regal dignity, has over all other persons and out of the course of the common law, the royal prerogatives, a sovereign right (in theory) subject to no restriction or interference.
(鴨川光 訳 特権階級だけが排他的、独占的に保有し、他のいかなる権利、権限に優先する、本人にしか持っていない固有の権利、すなわち特権のことである。
特に憲政史では、王たるにふさわしい、尊敬を受けるべき人間の持つべき権限、王権によって主権者となった人物、王が、全ての国民に君臨し、支配する、飛びぬけて傑出した、とんでもない特権、大権のことである。
国王の特権は、コモン・ローの影響を受けることはない。具体的には「国王大権」のことであり、(理論上)主権ということになる。主権者たる国王は、何ら制限も干渉も受けることは無い。)
(OEDからの引用終わり)
このように「プレロガティヴ」とは国王大権のことであり、排他的特権のことであり、主権者ということなのだ。ただのライツ、人間の権利ではない。ライツ、ただの「権利」とは、王に対して貴族や人民が要求したもので、権力者を突き上げる道具である。労働組合が叫んでいた歌の通り「突っき上げろ〜」の側である。
「プレロガティヴ」はその正反対で、君主、主権者が持つ権利、「特権」のことなのである。上から押さえる側、抑圧する側の権限である。
だから政治思想のような「高級なもの」を訳する時には、単なる英英辞典だけではだめなのだ。きちんとOEDかウェブスターを引きなさいよ、永井教授。OEDが何であり、どれほど大切であるかは『副島隆彦の論文教室』「0058」 論文 「いったん休憩―百科事典の効用」に書いておきました。
「高級だって?何を馬鹿な」などと言って、軽くあしらってはならない。政治思想、哲学はやはり高級なものなのだ。爆弾を抱えているような、空恐ろしいものなのである。
「プレロガティヴ」とは、これまでのポリティー、リパブリック、「民主主義実現の可能性」を追ってきた、西洋政治思想の流れを汲む重要な言葉なのだ。
「プレロガティヴズ」とは、ルソーの「人権」とも違うのである。
ルソー
「人権」は「ソーシャル・コントラクト(social contract)、社会契約」に基づいた考え方である。ルソーが出る前のイギリスでは、原初契約、オリジナル・コントラクト(original contract)と呼んでいた。バークはこの言葉を使っている。だから副島氏の「バークは自然法派」という主張は正しい。
社会契約、原初契約とは自然法のことである。
自然法の大家ブラックストーンに対する反論で世に出たベンサムが、「社会契約に基づいた人間の権利」などを擁護するわけがないではないか。しかもそれが、ブラックストーンを批判した『統治論断片』の序論にあるはずないではないか。
反省しろ。そして今すぐ公益学会なる「ベンサム思想握り締め卸ギルド」など解消するべきだ。そもそも誰も気にかけてもいない。そんなばかばかしい「学会」なのである。
別にその学会にも教授にも恨みがあるわけではないが、日本の学界や大学なるものは、そのような「タコツボ学会(ごっこ)」ばかりがあって、どこからか補助金をせしめてやろう、という楽に生活したい、というための「お遊び道具」に過ぎないのだ。
一種の「お講」であり、「ベンサム教団」「バーク教団」なのである。これがものすごい数になって、お金が集められるような組織であった場合、それはねずみ講 ポンツィ・スキーム(Ponzi scheme)を行っているのであろう。
話をベンサムに戻す。
ベンサムの思想から、一般ピープルを「人権、社会契約」に基づいた「ネイション(nation)」として、主権者と考えるフランスの思想と、ピープルをピープルのまま「功利」という思想で、「人類主権者宣言」をした英米の考え(ポジティヴィズム Positivism、そしてアイン・ランド(Ayn Rand)のオブジェクティヴィズム Objectivism)が分かれるのである。
ランド
ピープルをピープルとして考えるアメリカだからこそ、「ポピュリズム(Populism)」という言葉があるのだ。これはナショナリズム(Nationalism)とは違う、ということがお分かりだろうか。アメリカに「ナショナリスト、民族指導者」がいるわけがない、という理由は、この英米と独仏の思想の違いに由来するのである。
こうした西洋思想の背景を、しっかりと頭に入れた上で、『統治論断片』の一節を読むと、永井博士のような、中学生の訳文でよしとするわけには行かないのである。
「プレロガティヴ・オブ・マンカインド」の部分。このオブを簡単に所有格のオブとして簡単にとらえているのは、翻訳者としても素人である。
このオブは「同格のオブ」である。オブの前後は、言葉の「言い換え」であり、同じことを言っているのである。「マンカインド」つまり「人類であること」「人間に生まれたこと」自体が「特権(国王ぐらいしか持てないような大権)」という意味なのである。
「プレロガティヴズ」は人類が所有している権利、自然権であるとか、契約したものであるというようなものではない。「人類」という「特権」、人類それ自体で特権なのだ、とベンサムは言いたいのである。
人間の作ったものは「全てフィクション、作り話」などではない
自然法にも「神の法である」という向きがある。マキアヴェリやホッブズが、神、神聖なものから世俗なものへと、政治を切り離したとはいえ、まだ自然法、自然権、社会契約には、人間が作ったものではない何か、「人知を超えた、何か自然なもの」という考えがある。
そんなものはばかばかしい。あるというのなら見せてみろ、と言ったのがベンサムである。ベンサムはこの自然権、自然法の二つを「フィクション(fiction)」だと言ったのである。
気をつけなくてはならないのは、あくまで「自然法、自然権、社会契約」を指して「フィクション」だと言ったのである。それ以外の政治制度であるとか、国であるとか、法律、ローマ法とかの制定法に関しては「フィクション」だ、などとは言っていない。
よく日本の評論家が「全ての政治制度はフィクションだ」などと、知ったようなことを今でも言う。私はこのような発言を聞くたびに、「へえ、そうなの?」というふうにキツネにつままれたように感じてきたが、人間が作ったものを「フィクション、作り話だ」などと言ってしまえば、何もかも「作り話」になってしまって、話が終わってしまうではないか。
そんなことを言ったら、ノンフィクションですらもフィクションであろうが。「それはそうだ。人間が作ったものは、全て作り話なのだよ。フッ」と言ったような、物知り顔の日本の「哲学者」「評論家」たちの、あきらめ気取った声が聞こえてくるような気がする。
バカを言うな。再度言うが、ベンサムがフィクションだと言ったのは、「社会契約、自然権、自然法」のことだけだ。制定法、成文法はフィクションではない。「人間が作ったもの」であっても「作り話」ではない。犯罪を「作り話」で裁くのか。バカタレ。
『統治論断片』の一節にある「ア・フィクション」は、ちゃんと「サンディ・ファウンデーション」つまり、「砂のような基礎」と言うふうに、ベンサムはわざわざ同格で説明しているではないか。
この「サンディ・ファオウンデーション・オブ・ア・フィクション」と「プレロガティヴ・オブ・マンカインド」が、対句になっているのだ。
対句とは修辞学上、アンティセシズ antithesis と言う。詩で言うと「向こうからかけて来る、街の人。こちらからかけて行く、村の人」というように、「向こう」と「こちら」、「来る」と「行く」、「街の人」と「村の人」が対照になっている。
『統治論断片』のこの一節の場合、「フィクション」が「自然法(人知を超えたもの)」に対して、「プレロガティヴス(人間というだけで特権)」が対照関係にある。だから意味の上で、両者が同格であることが分かるであろう。
「サンディ・ファウンデーション」とは、「砂のようなあやふやな基礎」という意味ではない。「砂上の楼閣(さじょうのろうかく)」というのだ。砂で作ったお城ではあるが、風が来たらすぐに吹き飛ばされてしまう、「実際には存在しないもの」と言う意味なのだ。「三匹の子豚」の長男がわらを編んで作った、「あずま屋」みたいなものだ。
「あやふやな基礎で作った法律や制度」では、意味が通らないではないか。イギリスのコモン・ローは自然法が基礎である(ということになっている)。つまりは基礎が存在しない、というのが、ベンサムが本当に言いたかったことである。
イングランドの法律の基礎は、自然法であやふやなのだから、「判決文を、もっとしっかりした文に書き直しなさい」とでもベンサムは言ったのか。法曹界の権威ブラックソトーンに。バカを言うな。
このフィクションという単語に、永井博士は「擬制(ぎせい)」などという言葉を当てている。イギリスの法律は模擬の擬、模擬試験のようなもので、本当の制度ではないとでも言うのだろうか。半分は当たっているけれども。このことは後に述べる。
「わが国イギリスのコモン・ローは、模擬の制度なのだから、判決文だけはしっかり書きなさい。ブラックストーン先生」
ベンサムは頭がおかしいのか。
読者の皆さんは、特に『覇権アメ』をしっかりと読んでもみない人たちは、「人定法(positive law)」と「自然法(natural right)」の本当の区別が、分かっておられるだろうか。
「人定法」とは「制定法」「成文法」のことであり、「条文化した、コーディフィケーション codification した法である」という意味である。だから人間の作った「成文法」は、全て人定法だ。
「自然法」は、目に見えて人類の前に現れたことはない。表れては消える、亡霊のようなものなのである。ベンサムはこれを「フィクション、作り話」だといったのである。
この「無いもの」に案件を無理やり当てはめて、勝手に裁判官が法律を作り上げてきたことに、ベンサムは怒ったのである。
いやベンサムが本当に怒ったのは、イングランドの判例の束を、「これも自然法だよ」と言ったことに怒ったのである。
裁判官の勝手な判決のことを、イングランド人の生活、習慣に沿った、イングランド人に内在した「自然法」だ、とブラックストーンが言ったことに、ベンサムは怒った。「裁判官の勝手でも、自然法なのだ」と、ブラックストーンは言ったのである。
『統治論断片』には「キメラ(chimera)」という言葉が、使われている。キメラとは、ギリシャ神話に出てくる、ライオンの顔と、羊の胴体、蛇の尻尾を持った怪物で、空想上のもの、妄想、非現実な物という意味で使われる。「砂上の楼閣」と同じことである。
しつこく言うが「サンディ・ファウンデーション、自然法」は「あやふやな基礎」ではない。それではベンサムが、自然法の存在を認めたことになるではないか。
ベンサムは「自然法は無い。砂で作った砂上の楼閣だ、キメラのような、人間が勝手に作り上げた妄想だ」と言ったのである。
一〇年前までロックの思想の半分は、日本に上陸していなかった。バークの思想が上陸してから約一〇年が経った。しかし、ベンサムの思想は、未だ日本には全く上陸していない。
今私は、副島氏の理論を補足、修正しながら、ベンサム思想、人定法、功利主義の真の姿を初めて日本人の目の前に現そうと思う。
フェリシティ・カルキュラス―幸福を計算する方法
功利主義の本質は、「幸福を数量化し、計量計算する」という理論である。アリストテレスが『ニコマコス倫理学』で展開した、「最高の善は幸福である」という考えに基づいた思想である。西洋思想の本流はブレることなく、現代に至っている。
ベンサムのいう幸福とは、プレジャー(pleasure)、フェリシティ、「喜び」「快楽」である。この幸福を数量化し、計量し、計算することに成功すれば、政治学は完全にモダーン・サイエンス(modern science)として独立出来るであろう。
残念ながら、先にも言った通り、未だこの試みは達成されていない。
経済学では「限界効用(マージナル・ユーティリティ marginal utility)」という考えの下、レオン・ワルラス、ジェヴォンス、カール・メンガーらによって、「一般均衡理論(ジェネラル・エクィリブリアム・セオリー general equiblium theory)」が打ち立てられ、とりあえずは学問として成就した(ことになっている)。政治学が学問と成れるかどうかは、この「幸福の計算」が実現されるかどうかに懸かっている。
ベンサムのこの思想は「功利主義」と呼ばれる。「功利主義」とは「ユーティリタリアニズム」がもとの言葉である。「功利主義」の中心思想は、有名な「最大多数の最大幸福」という。この思想が精緻に展開されたのが『統治論断片』と並ぶ、ベンサムの代表作『道徳および立法の原理序説』(Introduction to the Principles of Morals and Legislation)である。
功利主義の「功利」とは、もともとはユーティリティ(utility)という。「ユースフル(useful)、使えること」つまり「便利であること、便利さを追求する思想」が正しい意味である。
永井氏のような、実直な博士が偉いのは、言葉へのこだわりである。
永井氏は、学者の良心からなのだろう、ユーティリタリアニズムを「公益」と訳すことを推奨している。「最大多数の最大幸福」とは、「出来るだけ多くの人々が、出来るだけ便利になれることの追求」であるという。
ベンサムの本意は一般ピープル=貧乏人の救済である。「民主制の実現」の本当の目的はそれである。だからユーティリティを「公益」と解釈する博士の主張は、正しい。
永井博士が、ユーティリティを「有益」と解釈することも正しい。これは最終的に、全てのバランスが取れた状態「エクイリブリアム(equilibrium)」を実現する、という思想そのものだからである。
ベンサムは「最大多数の最大幸福」を、プリーストリーから学んだという。ジョゼフ・プリーストリー(Joseph Priestley)は、酸素を発見した人物として、歴史に名を残している。プリーストリーは、「燃焼(combustion)」を発見して化学、ケミストリー(chemistry)を錬金術、アルケミー(alchemy)から、サイエンスにした、アントワーヌ・ラヴォアジェ(Antoine-Laurent de Lavoisier)と交友関係があり、ラヴォアジェは、プリーストリーのおかげで「燃焼」を発見した。
ベンサムの生きた時代は、そのような時代である。思想の歴史でいえば、ドイツ・フランスは啓蒙、エンライテンメント(enlightenment)の時代である。
(つづく)