「0088」 論文 サイエンス=学問体系の全体像(13) 鴨川光筆 2010年5月26日
啓蒙(けいもう)の本当の意味をはっきりと説明する
啓蒙と言うと、プロイセンのフリードリヒ大王やハプスブルグ家のヨーゼフ二世(マリア・テレジアの息子)、ロシアのエカテリーナを思い出すであろう。日本人の理解は、せいぜいが「上からの近代化を推進した」程度の理解である。この点で、英米仏の民衆からの革命、真の民主主義と比べられ、一段下の扱いとして日本に輸入されてきた。
フリードリッヒ大王 ヨーゼフ二世 エカテリーナ
啓蒙とは、簡単に言えば、副島氏の言う「脱魔術化(ディスエンチェントメント disenchantment)」のことである。
戦後SCAP(スキャップ、Supreme Commader of Allied Powers シュープリーム・コマンダー・オブ・アライド・パワーズ、連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー Douglas MacArthurのこと。GHQなどとは言うべきではない)とニュー・ディーラーズ(New Dealers)が日本を占領して、「ドイツ人は成人だが、日本人は一二歳である(だから、日本人を大人にする必要がある)」と言ったのは、現地人を魔術、迷信から解き放ってやる必要がある、ということだったのである。
マッカーサー
このとき副島氏が使う「土人」という言葉は、相当にインパクトがあるようで、誰もが面白がって使うが、それはとても危険なことだ、と副島氏は言う。
それは、言葉の本当の意味を理解しないで使う輩が、多いからである。副島氏が使う「土人、原住民」とは「ユニーク・ピープル(unique people)」あるいは「ピープル・インディジニャス・トゥー・ザ・ランド(people indigenious to the land) 」といい、「その土地に固有の人々、もともととその土地に住んでいた、非文明人、前近代人」のことである。
「バーバリアン(barbarian)、未開人、野蛮人」のことである。バーバリアンという言葉は、南ドイツのババリア、バイエルンという地名に残っている(ドイツ車BMWのBがバイエルン)。
ゲルマン人や、アイリッシュを表すケルト人(Celts)、フランス人を表すガリア人(ゴール人 Gaule。詩人のアルチュール・ランボー Jean Nicolas Arthur Rimbaudは自分に流れるゴール人の血を、「悪い血」としている。ゴール人は「低脳のバカだ」と叫んでいる)のことである。いわゆる「アングロ・サクソン人( Anglo-Saxons)」と言う時も、これは土人という意味である。
ランボー アメリカのスポーツチームのロゴに出てくるケルト人
『南太平洋』というミュージカルがある。この中の挿入曲で「魅惑の夜(some enchanted evening)」という歌があるのだが、日本人はこの歌の表す世界に依然として生きているのだ、ということを肝に銘じてほしい。
『南太平洋』
『南太平洋』は、第二次大戦中のアメリカ海軍を舞台にしたミュージカルで、従軍看護婦の女性が現地に住んでいるフランス人(フランス領の太平洋のどこかの島だから)と恋に落ちる、という筋である。
南太平洋の島で、現地の女衒(ぜげん)であるブラディ・メリーという、黒人の歌う「バリハイ」が有名である。現地の女性と交わる、ということを示唆した場面も出てくるが、西洋人にとって太平洋の諸島にいるというのは、魔術にかかったような異国情緒の気分であり、そこで恋に落ちるというのは、「エンチェンテッド、魅惑された、妖術使いに魔術にかけられた」ということなのである。
西洋人がタイの女郎屋にやたらにいるというのも、同じ感覚である。いや、日本に西洋人が来るのも、エロかアニメ、秋葉電気街か空手が目的である。後は京都と浅草か。男性ガイジンの目的はダントツでエロであろう。
日本に来たフランス人(大体ユダヤ系の女性)が、テレビの討論番組などで、「私たちは一八世紀に、啓蒙の時代を経験してきたのですよ」と言うことがあるが、注意して聞いてほしい。日本人には、全く意味が分かっていない。
「私たちは一八世紀には、迷信や魔術から離れて、人間を中心にして、自分たちの脳で物事を考えられるようになったのです。日本人も、迷信や占いを信じるのは、保証された個人の自由ですけれど、現実や生活に関することは、自分が主人、主権者なのだから、もうそろそろ自分で物事を考えていいのですよ。人間からスタートして物事を考えてもいいのですよ」と、彼ら「外人」は、このように言いたいのである。決して日本人を馬鹿にしての発言ではない。
啓蒙の時代とは、社会契約説が廃れて言った時代である
「最大多数の最大幸福」は「有益性の原理、ザ・プリンシプル・オブ・ユーティリティ(the principle of utility)」とも言われ、デイヴィッド・ヒュームによって唱えられた。
社会契約(social contract)によって主権者が決まったのだ、とするロック、ホッブズによって打ち立てられた理論は、ヒュームのこの理論によって、「完全に破壊されたのだ」、と『統治論断片』でベンサムは述べている。
ベンサムは、デモリッシュ(demolish)という言葉を使っている。デモリッシュとは、ビルなどを完全に破壊する、という意味である。ビルがダイナマイト爆破で、一瞬にして崩れていく感じ、あのイメージでヒュームが自然法を破壊した、とベンサムは述べた。
一七世紀、啓蒙の時代は、「社会契約説」がすたれて行った時代でもある。「社会契約説」に基づいて建国されたアメリカの独立や、フランス革命で幕を閉じた一七世紀は、当の「社会契約説」自体が、忘れ去られていった時代なのである。
それに止めを刺すべく現れたのが、ベンサムだったのである。ベンサムは、ヒュームの「有益性原理」を踏襲する。人々が主権者を選んだのは、主権者と契約したのではなく、「そうするのが有益だから」(イギリス思想業書『ベンサム』 研究社 七一ページ)とするのが「有益性原理」による、人民支配の考え方である。
人民が君主に対して、自分たちを守ってもらうために自然権を預けた、ということを本気で信じているなどということは、ばかばかしいことだ、という時代になったのである。これが啓蒙の時代であり、魔術、神話、迷信といったものから人間が自由に、現実に基づいて、人間を基準にして、ものを考えられるようになったのである。
マグナ・カルタ(Magna Carta)以前に、あるいはマグナ・カルタのどこに「人民が君主と社会契約をした」と書いてあるのか、そんなことはたわごとである、という時代だったのである。
「原理」とは何か、を分かりやすく述べる
ベンサムの理論で重要なことは、ヒュームの理論を借りて、ユーティリティ(有益性)を「原理」としたことである。「原理?ああ、原理ね」などと言って、適当に考えてはいけない。
原理とはなにか。それは人間の置いた「神」である。
「いや、神はいない、いや、いるかいないかは分からない。ここでは神の存在論、オントロギー(ontology)は止めよう。神のことは置いておいて、とりあえず人間が自然界、人間社会の真実の追求を、事実と数学に基づいて行おう。そのスタート地点を定めよう」それが「原理、プリンシプル」の本当の意味である。
ブリタニカには「ベンサムは無神論者、エイシーイスト(atheist)であった」と書かれている。だから神のことを考えないで済んだのだろう。いや、考えることを止めたのだろう。
「原理」とは、別の言葉で言えば「公理、アクシオム(axiom)」である。「公理」とは何か。「理由が要らない」という意味である。
ユークリッドの五つの公理が分かりやすい。例えば「平面に二つの点がある時、この点を結べるのは、一つの直線である」「平面に二つの点がある時、この二つの線を結んだ直線を半径にして、円が描ける」である。
この二つの前提に、何か疑問が必要だろうか。「何で直線が引けるのですか」「なぜ円がかけるのですか」という質問は成立するだろうか。引けるのだから引けるのだ。このような質問のことを、愚問という。
「定理、シオレム(theorem)」の場合、一つだけ理由が要りますよ、ということだ。その理由が公理である。
「原理を神とした」とか「神の代わりに」という言葉は避けたい。話が捻じ曲がっていくからだ。人間の手によって、「ここからスタートしましょう。事の真実は分からないけれども、ここがスタート地点です」というのが正しい。それが原理の正しい理解である。
「スターティング・ポイント(starting point)」という言葉が、原理の本当の意味なのである。だから数学の公理が最も「真実」なのである。数学を土台にした思想が「エンピリカル・ポジティヴィズム(empirical positivism)」である。これはこの後の、オーギュスト・コント(Auguste Comte)、サン・シモン(Saint-Simon)のところで述べる。
ただし、数学でも「ユークリッドの公理」は、ロバチェフスキーの登場で、完全なる真実ではなくなった。第五公理「平行線は交わらない」が、球面世界では交わってしまう、という新たな公理が生まれたからである。これも数学のところで後に述べる。
SMの元祖「ユーティリティ」―人類は「苦痛と快楽、ペイン・アンド・プレジャー」をご主人様とした
ユーティリティの原理とは「苦痛と快楽、ペイン・アンド・プレジャー(pain and pleasure)」である。
この言葉は現在ではSM、サディズム(Sadism)とマゾヒズム(Masochism)の用語である。現在「私は、どちらかと言うとMです」とか「Sです」というのは、ベンサムにさかのぼるのである。ベンサムはこの「SMの神」を、統治の原理に据えた。
ベンサムが「ユーティリティ」を原理とする、と宣言したのは、代表的著書『道徳および立法の原理序説(Introduction to the Principles of Morals and Legislation)』(一七八九年)の中である。その冒頭で、ベンサムはこのように宣言した。
(引用開始)
Nature has placed mankind under the governance of two sovereign masters, pain and pleasure.
(鴨川光訳 人類の行動を掻き立てる至高の動機は、快楽と苦痛である。快楽と苦痛、自然に備わったこの二つの動機が、人間を支配する、本当の主権者なのである。)
http://www.econlib.org/library/Bentham/bnthPML1.html #Chapter I, Of the Principle of Utilityより引用。
(引用終わり)
ベンサムの「SM宣言」。これと「人類というだけで特権である」。この二つが自然法、社会契約(バークは原初契約と言った)の時代に終止符を打つ、新たな時代の宣言であった。
ベンサムのこの二つの宣言の目的は「統治(governance)」である。ベンサムの考えでは、統治のやり方が妥当であり、必然的であるかどうかを決めるのは、理論ではなく、実際的であるかどうかに懸かっている、というものである(ブリタニカ)。実際的であること、プラグマティズム。これもベンサムの理論の主柱をなす。
統治の目的は、人間の生活や社会が以前よりもどれだけよくなったか、向上したか、それだけを目指す(ブリタニカ)。ベンサムのこの言葉こそが「功利主義」の本当の意味を表している。
「人間の生活、社会がいかに便利になったか。人間の生活のシステムやサービス、モノがいかに使える、ユーズフルになったか」これがユーティリタリアニズム、ユーティリティである。「公益主義」「有益主義」という永井博士の言葉は正しい。
もっと分かりやすく言えば、ユーティリティとは、ユーズフルと同じ言葉である。だから「生活の便利主義」というのが、一番言葉の意味を言い当てている。主婦のような感覚の思想である。
マーサ・スチュワート(Martha Stewart)のような、ハウス・キーピングの神のような人が、多大な支持を集めているが、これこそが「功利主義の神」だといえるであろう。
マーサ・スチュアート
ユーティリタリアニズムは、フランス革命や、名誉革命の理念とは異なった路線を進むのだが、この「生活の便利主義」という思想の本質は、後のサン・シモンのユートピア的社会主義に受け継がれ、「戦争を続ける主権国家」という思想から、戦争をしない「連邦ヨーロッパ」という思想へ、別の筋を辿って合流するのである。
人権宣言ではなく「人類という不滅の特権宣言、ザ・インディストラクティブル・プレロガティヴス・オブ・マンカインド(the indestrucable preropgatives of mankind)」と「SM宣言」。これが後にアメリカで「ポピュリズム(Populism)」と「リバータリアニズム(Libertarianism)」となる。
「リバータリアニズム」が、ともすればアナーキズム(Anarchism)になる可能性をはらんでいる、という副島氏の言葉も、功利主義が民主制構築の流れの中にあり、自然法、自然権とは別の流れから合流するものだ、ということを理解すればいいのである。
アナーキズムとはプラトン、アリストテレスが恐れた「悪い民主制」のことである。デモクラシー(democracy)を、別の方角から見た言葉のことなのである
引き続き、ブリタニカに拠って「有益原理」を説明していく。ベンサムは、政府の政策をどのように判断すべきかは、「最大多数の最大幸福」がどのくらい達成されたか、それだけに懸かっている、と考えた。
「最大多数の最大幸福」とは「いかにして貧乏人を救済するか」という思想である。最大多数というのは本当は、人口の大部分を占める「一般ピープル」のことに決まっている。
統治、国の支配が上手くいくというのは、いかにしてピープルからお金を奪い取りながら、反乱、暴動が起きないようにすればよいか、ということなのである。
ベンサムはジョゼフ・プリーストリー(Joseph Priestley)、チェザーレ・ベッカーリア(Cesare Beccaria)、クロード・エイドリアン・エルヴェシウス(Claude Adrien Helvetius)らからこの「最大多数の最大幸福」を学び、この道徳、モラルの問題を解決するものは、何であるかを考えた。
ただし近代ユーティリタリアニズムの開祖は、デイヴィッド・ヒュームである。本当はヒューム、バークレーが非常に重要な哲学者なのだが、この政治哲学の章では割愛する。後にフィロソフィーの章で詳しく述べようと思う。
その結果、たどり着いたのが「ペイン・アンド・プレジャー(pain and pleasure)」だったのである。
ベンサムは、人間の活動の源泉は、苦痛と快楽だと考えた。人間は、快楽を出来る限り最大化し、苦痛を可能な限り最小にしようとして、その結果が、人間の活動であることを「発見」した。
苦痛と快楽の原理から引き出されたのが、人間の幸福(happiness)である。幸福が人間の行為を決定する。人が他人の幸福を考えて行動するのは、同情や、慈悲の心、他人への好意からである。
自分のためにしろ、他人のためにしろ、ベンサムは「効用」という原理が人間の行為を決めるのだから、法律を制定する目的は、「最大多数の最大幸福」を実現することに他ならない、という結論に達した。
他人に害を与えることは、自分にとっても不利益になるように立法を行うということになる。そこで犯罪者に対しては、罰を与えるということになる。あらゆる刑罰は「苦痛」を与えるからである。刑罰とは「苦痛」を与えるものなのだから、本質的に「悪」である。それなのに刑罰がなぜ必要であるか、それはより大きな悪を取り除くためである、と考えたのである。
では政府は、どのようにしてこの「最大幸福」を推進すればいいのだろうか。そこにフェリシティ・カルキュラス、快楽と苦痛の計算という思想が、導入されたのである。
ではどうやって計算すればいいのか、この「快楽と苦痛」
いかにして社会は発展させることが出来るのか。それは、快楽と苦痛を数量化することで可能になるのである。快楽と苦痛を計量し、計算可能にすることで、社会は前進するとベンサムは考えた。
ベンサムは人間のもつ喜び、満足感(satisfaction)を数量化できるようにするために、この二つの感情は相関的、リレティヴ(relative)、比較可能なものでしかないと考えた。
ベンサムによれば、健康、富、権力、友情、慈愛の心から与えられる喜びは、それ自体に価値があるものではなく、その他の感情と相関して生じる喜びでしかない。
「食欲」は一刻も我慢することが出来ない感情だが、ベンサムは「人間的な感情」、人間の喜びを、「食欲」や、他人に対する「反感」といった、機械的な冷たい感情と、同様なものとしてとらえたのである。
『JSミル』(小泉仰著 イギリス思想業書 研究社出版)一七四ページから「快楽の計算」のことが、端的に説明されているので、これを参照する。
快楽の量的次元を設けることで、それぞれの次元の上に、量的に計れる尺度の程度を表記させ、これらの量的評価を足し合わせれば、評価者個人の快楽量の総計が得られる。
(快楽の量的次元とは、強度、持続性、確実性、不確実性、遠近性、多産性、純粋性、などを、範囲あるいは影響を受ける人数に照らして、快・苦の個々の構成要素を測定することによって、算出されること。『西洋思想大事典』 「幸福と快楽」の章から引用)
こうした計算を、今度は社会全体の成員一人一人に対して行い、社会成員一人一人の快楽量を全部足し合わせれば、社会全体の快楽量が決定される。これが「フェリシティ・カルキュラス(幸福の計算、快楽の計算)」である。
内閣と議会は、社会全体の快楽量の大小を計って、集計されたその結果を受けて、社会政策を行うことになる。
これは現在よく行われている、アンケートのことである。後に社会心理学の発達により、心理学理論を取り入れたかたちで、現在の様々なアンケートが開発されたが、大方このようなものであろう。
「今日の講演会の内容はどうでしたか。非常に満足。どちらかというと満足。どちらとも言えない。どちらかというと不満。全く不満。」
講演会出席者に、このような五段階アンケートをとって、例えば「満足」を選んだ人数が、総出席者の三〇パーセントだったならば、この結果を参考にして、次回は五〇パーセントに出来るようにがんばるであろう。
また「非常に満足」が一五パーセントだったならば、次回は三〇パーセントとなるよう努力するであろう。不満の数が四〇パーセントあって、「空調が効いていなかった」、「椅子が長時間座るにはつらい」、といった不快指数が二〇パーセントあったなら、会場の適切な選択を行って、次回は五パーセントを目指そう、とすることであろう。
これが「幸福、快楽の計算法」であり、現在の私たちにとっては当たり前の考え方を、初めて提示したのがベンサムだったのである。
この快楽量を批判したのがベンサムの弟子、J・S・ミルであるが、その前にベンサムの法思想について触れておく。
イギリスの法律体系、コモン・ローとは裁判官がその場その場で下した判例の束である―それがイギリスの「自然法」だった
イングランドの法律「コモン・ロー」とは何か。本来コモン・ローとはローマ法のことである。つまりは成文法、制定法、つまり人定法(ポジティヴ・ロー)なのである。
成文法、制定法とは「スタチュート(statute)」という。
ところが、イングランドのコモン・ローは人定法ではない。きちんとした制定法ではないのである。イングランドの法律は判例法という。永井博士の『ベンサム』(研究社 イギリス思想業書七)六三〜六四ページを参照する。
判例法とは、裁判官の判決の集積である。裁判官の下した判決は、以後の類似の事件を拘束する。そして議会が立法した制定法は原則として必要としないのである。つまり、レジスレイション (legislation)、 立法が存在しない法体系である。
これでは議会など要らない。議会とは立法者たち、レジスレイターズ(legislators)である。裁判官が自分の判断で正、不正を決めてしまうのであるならば議会、国会議員は要らないのである。
ベンサムはこの判例法を「判事の作る法」と呼んだ。判事の作る法は先例拘束といって、上位の裁判所の判例が下位の裁判所の判決を拘束するシステムとなっている。
イギリスの裁判所の序列をきちんと整理する
イギリスの裁判所の序列を整理する。何だかんだ言っても、イギリスの裁判制度がどのようになっているのかが分からなければ、コモン・ローがどうだとか、自然法がどうだとか言っても、訳が分からないのではないでしょうか。
私はここで『英米法辞典』(東京大学出版会)を参照しながら、しっかりと説明しますので、読者の皆さん、きちんと読んでください。
今から始める文章、これさえ読めば、イギリスの、そして近代の政治思想、法思想の本当のことが簡潔にわかるようになります。私の文章は、アカデミズムに偏った大学教授の文章や、「〜の教科書」「初めての〜」と言うような、入門本のはしょった書き方とは違います。
「ああ、なんだ、そうだったのか、そういうことか」と皆さんに思っていただくことが、物書きとしての私の役割です。
イギリスのコモン・ロー体系の裁判所は、大雑把に三段階で構成されている。まず一位の裁判所は二つある。正しくは「あった」。「貴族院」と「大法官控訴裁判所(だいほうかんこうそさいばんしょ、現在は無い)」である。
貴族院の下には「控訴院(こうそいん)」という裁判所があり、その下に「高等法院(こうとうほういん)」というのがある。この三つの裁判所が「コモン・ロー(common law)」の法体系で裁く裁判所である。
大法官裁判所だけはコモン・ローではない。「衡平(こうへい)」という、また別の法源で裁く。
まずコモン・ローの裁判所から説明する。
一位の貴族院とは、ハウス・オブ・ローズ(House of Lords)という。貴族院がコモン・ローで裁く裁判所の最高裁である。(四一七ページ)
ややこしいが、貴族院は二つある。「立法府としての貴族院」と「最高裁判所としての貴族院」という。「立法府としての」のほうは議会、パーラメント(parliament)であり、最高裁、内閣と並び立っている。
最高裁としての貴族院は、一八七三年、「最高法院法(さいこうほういんほう) Supreme Court of Judicature Act」により廃止されることになっていたが、一八七五年の法律によりこの廃止規定が停止され、その翌年「上訴管轄権法 (じょうそかんかつけんほう) Appellate Jurisdiction Act 1876」により、最高裁判所として復活した。
要するに、イギリスは今でも貴族制なのだ。
第二位の控訴院(こうそいん)は、コート・オブ・アピール( Court of Appeal)といって、中間上訴裁判所 intermediate appellate court (ちゅうかんじょうそさいばんしょ)である。現在は民事部 Civil Division と刑事部 Criminal Division に分かれている。控訴院の判決は、一位の貴族院と大法官裁判所の判例に拘束される。(二一〇ページ)
控訴院の下にあるのが高等法院(こうとうほういん)、ハイ・コート・オブ・ジャスティス High Cou rt of Justice という。一八七三、七五年の最高法院法により、大法官裁判所、王座裁判所 Court of King's Bench などの上位裁判所を統合して作られた。(四〇八ページ)
現在は大法官部 Chancery Division 、女王座部 Queen's Bench Division (現在は女王だから、クイーンズ・ベンチである。男の王になったらキングズ・ベンチになる)、家事部 Family Division に分かれている。
であるから現在は、大法官裁判所自体は存在しない。
これらがコモン・ロー体系の裁判所である。ではコモン・ローとは何か。イギリスのコモン・ローを言う時、これに充てられている訳語は存在しない。コモン・ローはそのままコモン・ローであり、イギリスの判例法体系のことである。
「普通法」と訳してしまうと、ドイツのゲマイネス・リヒト gemeines Richt と混同されてしまうので、これはもう、イギリス法の固有名詞だと考えればよい。
では、イギリスのコモン・ローとはいったい何か。
『英米法辞典』によれば、「ノルマン・コンクェスト以来、古来のイングランドの慣習を尊重するという建前をとりながら、王国全体に関する事柄については general custom of the realm (王国の一般的慣習)を適用しながら、漸次形成された。またイギリスでは判例法という意味も伴ない、制定法と比較される」となっている。(一六五ページ)
これでは分かりにくい。そこで、『西洋思想大事典』(平凡社)の、「コモン・ロー」と「判例」の章を参照して説明する。
「コモン・ロー裁判所」の出来るまで
イギリスは一〇六六年、王位の継承を口実に、フランスのノルマンディ公ギヨーム(英語ではウィリアム)がヘースティングスの戦いに勝利して、イングランドの征服に乗り出す。これをノルマン・コンクェスト(Norman Conquest)といい、この時からイギリスの歴史が始まる。
ウィリアム一世として即位したノルマンディ公は、中央集権制度確立に乗り出し、国王管理下の行政機関を強化して行った。この政策がヘンリー二世に受け継がれる。ヘンリー二世は「国王の裁判所 king's court, curia regis」を作り、各地を巡回していった。
この時期イングランドには、都市裁判所、封建裁判所、州裁判所、教会裁判所などがあった。「国王の裁判所」は、これらの裁判所の主要な働きを徐々に受け継いでいくのだが、実態は、国王の裁判所が、これら競合関係にあった裁判所を、屈服させていったのである。
「国王の裁判所」が、競合していた裁判所を屈服させることが出来たのは、優れた訴訟手続きを持っていたからである。
「国王の裁判所」は、被告を裁判所に出頭させるための令状方式と、第三者による証拠による証明方法を用いていた。これが当時頻繁に行われていた方式、「神判」や「決闘」といった決着より優れていたのである。
実はこうして積み重なっていった令状の束が、コモン・ローなのである。
この令状を扱う裁判所の評判が高まり、「国王の裁判所」は、王座裁判所 King's Bench 、民訴裁判所 Common Pleas 、財務裁判所 Exchequer の三つに分かれた。
これら三つの裁判所が「コモン・ロー裁判所」というのである。コモン・ローの内容は、これらの裁判所の裁判官の手で作られていった。彼らの用いた資料は慣習に起源を持つもので、アングロ=サクソン時代のイングランドや、征服前のノルマンディ(ヴァイキングであったウィリアムの祖先のノルマン人が、侵略するさらに前の北部フランスということ)に遡ることがあった。
イングランドの裁判官は、土着の慣習の不備を補うために、ローマ法を用いることもあったのだが(この当時の裁判官は聖職者であったため、ローマ法の専門家だった)、裁判の過程でその地方に慣習の存在が証明された場合、制定法であるローマ法よりも、イングランドの慣習法を適用しなければならなかった。
コモン・ロー(この場合は成文法であるローマ法のことであろう)とは異なる、「慣習の効力」が及んでいるという理由で、「自分にはコモン・ロー(ローマ法)は適応されない」と抗弁できた。それほどにイングランドの慣習法の効力は、成文法などよりもはるかに強かったのである。
イングランドのコモン・ローは、本当は古来からのイングランドの慣習法の束なのである。そして不文法である。「不文法などと言っても、結局は判決を書くのだから、文章ではないか」などと思ってしまう。
そうではない。きちんと制定された法典「制定法」とは、事件が起こるよりも先に、一般規則として法を「条文化」したもののことである。これをコーディフィケイション codification というのである。
イングランドの慣習の束、コモン・ローは、裁く法がまだ存在していないところに事件が起こり、仕方がないから慣習(つまりはその土地の先例)に基づいて判決を下したのである。つまり「判決文章集」のことである。これを「判例法」などというのだ。
そもそも法律がないものだから、それまでこの土地ではどのように争いごとを収めてきたか、地域の慣習、先例を参考にしたのである。その結果、「どのように裁いたかの結果集」なのである。これを「不文法」という。
ここにバークが「古来からの法」という言葉がつながってくる。つまりバークの言っていたのは、アリストテレスから続く古代から、その存在が争われてきた自然法、ナチュラル・ローのことではなく、祖先から受け継がれてきた、イングランドの慣習、判例の束、令状の束、すなわちコモン・ローのことだったのである。
(つづく)