「0089」 論文 サイエンス=学問体系の全体像(14) 鴨川光筆 2010年6月1日

 

大法官控訴裁判所とは何か―イングランドの「衡平、エクィティ」も判例の束、「世俗の免罪符」

 では大法官控訴裁判所とは、いったい何なのだろうか。

 一言で言えば、英国の司法のトップ、最高裁の首席裁判官、つまり最高裁の裁判長で、しかも法務大臣でもある司法のトップが、コモン・ローで救済されなかった(主に土地をとられて追い出された農民)人間を、直接自分の権限で、裁定して裁く裁判所のことである。

 大法官とは、ロード・チャンセラー Lord Chancellor (正式名称をロード・ハイ・チャンセラー・オブ・グレート・ブリテン Lord High Chancellor of Great Britain)といい、閣僚の一員であり、司法部の頂点、「最高裁判所としての貴族院」の首席裁判官、控訴院の長、高等法院の大法官部の長である。つまり、イギリス裁判所体系の、三つの大法官管轄部門の長である。(『英米法辞典』一三六ページ)

 何だか読んでいるこちらのほうが、偉くなったような気分がしてくる肩書きである。簡単に言ったら「もう一人の王」がイングランドにはいた、ということである。「法の王」である。

 大法官控訴裁判所といったが、これが正式名称であるかどうか定かではない。『英米法辞典』には、「大法官府(だいほうかんふ)」というものだけが載っていた。

 大法官府は、チャンセリー(Chancery)という。つまり大法官の常駐所であろう。ここには、王の勅許を得るために必要な、「玉璽(ぎょくじ great seal )」が保管されている。これを持っているのが大法官である。これがなければ王であれども何も出来ない。判を預かっているのは「もう一人の王」のほうである。

 この大法官府が、なぜ直接の裁判に関わってきたのか。それはコモン・ローが判例法であったことと、大きな関わりがある。

 判例法の束であるコモン・ローは、細部にわたって複雑になり、専門性がものすごく高くなったらしい。そこでどうやら、陪審などが買収されたり、賄賂が横行したりしたようである。お金を払えば払うほど令状を発行する、といったような起こり得る事態が、実際に起こったようである。

 当然、訴訟当事者間に不満が巻き起こり、「コモン・ロー裁判所以外の裁判所に、救済手段を与えよ」と、国王評議会、キングズ・カウンシル King’s Council(これは現在も枢密院として存在し、国王が直接、裁判に臨席するようだ)に請願した。これを受けて大法官は、コモン・ローで救済されなかった者に、個別的、恩恵的に救済を与え始めた。

 このときに適用したのが「衡平(こうへい)、エクィティ(equity)」という。 

 エクィティとは一言で言えば、裁判官の調停である。裁判官の裁定、裁量、和解勧告である。実際には、農民の土地争議を扱ったらしい。コモン・ロー裁判所から立ち退きを言い渡された、農民たちの言い分に対処した裁判所だったらしい。

 エクィティは法ですらない。しかし、その歴史は長く、アリストテレスは『ニコマコス倫理学』の中で「最もよいもの、善よりもよいもの」だとしている。

 エクィティは、コモン・ローでなされた判決を、変更することは出来ない。それではどうしたか。法曹トップの大法官の権限によって、法の執行の指し止めを図ったのである。イングランドで行われた「衡平」とは、大法官による、法律執行の「指し止め令」だったのである。

 大法官は、通例の指し止め令を発することによって、罰則つきで、その訴訟当事者の判決内容の強行を禁ずることが出来た。(『西洋思想大事典』 コモン・ローから引用)

 王の勅許に必要な「ハンコ」を持っているから、王の発行した令状の執行の指し止め令を発行することが出来たのである。

 イングランドの農民は「もう一人の王」を発見した。支配者の側からは、二重に(税金と合わせると三重に)人民からカネをせびり取ることが出来たわけである。

 このエクィティの運用を始めた裁判所が、「大法官裁判所、コート・オブ・チャンセリー(Court of the Chancery)」として知られるようになり、大法官の発した指し止め令状が、コモン・ローと全く同じように、先例として集積されていった。

 この「大法官の自由裁量による、法律執行指し止め令状」の集積、判例の束が、イングランドの「衡平、エクィティ」というわけである。

 「なんじゃそら」というわけである。

 つまり、コモン・ローもエクィティも、判例集、判決集、先例の束、令状の束、「世俗の免罪符」の束だったのである。

コモン・ロー裁判所―ベンサムが鼻で笑った「フィクション製造工場」

 ベンサムが、なぜブラックストーンの自然法解釈を馬鹿にしたか、私、鴨川が、日本で初めて本当のことを言います。よく聞いていてください。

 ベンサムは若い頃、王座裁判所というところで働いていた。この王座裁判所、キングズ・ベンチとは何か。これがもともとの「国王の裁判所、キングズ・コート」である。

 「国王の裁判所」の優れた処理の仕方が評判を呼び、それぞれの事件に対処するために、三つに分かれたと述べたが、その三つが「コモン・ロー裁判所」という。

 その三つは、それぞれ「財務裁判所、コート・オブ・エクスチェカー(Court of Exchequer)」「人民間訴訟裁判所、コート・オブ・コモン・プリー(Court of Common Plea)」そして「王座裁判所、キングズ・ベンチ(King’s Bench)」である。

    

財務裁判所     人民間訴訟裁判所   王座裁判所

 この三つは一八七三年、七五年の最高法院法で、第三位である高等法院の王座部(現在はこれをキングズ・ベンチと呼ぶ)に統合されて、現在に至る。

 つまり、コモン・ロー裁判所も、衡平法裁判所(大法官府、大法官控訴裁判所のこと)も、現在は高等法院に吸収されているのである。

 さて、かつて三つに分かれていたコモン・ロー裁判所は、競合関係となっていた。

 ベンサムが王座裁判所で働いていた時は、すでに約五世紀に歴史があった。その時にベンサムは、おそらくは、王座裁判所の歴史の「垢(あか)」を見たのではないか、と『ベンサム』(研究社出版)の中で、永井博士は語っている(六六ページ)。ベンサムが敬愛していたアダム・スミスも、『国富論』の中でそのことを指摘しているという。

 「垢」とは「贈り物」のことである。

 コモン・ロー裁判所は、ヘンリー二世時代、まだ「国王の裁判所」だった頃、巡回裁判を行っている時代から、国王の「収入を得ること」が、裁判所の目的であったという。

 裁判の過程で、大きな贈り物をすれば、正義以上のものが手に入り、贈り物が少ないと、判決も思わしくなく、贈り物を繰り返させるために、裁判が延期されることがしばしばあったという。

 この事実は、イングランドだけではなく、ヨーロッパのあらゆる国で行われていたという。これを「文明病」といい、ルソーはこれを指して「人間の歴史は堕落の歴史だ」と言ったのである。

 裁判所の腐敗に対しては、いろいろな禁止措置が採られたというが、そもそも法廷自体が、裁判の当事者(訴えた側と訴えられた側)自身の手数料で維持されたというから、三つのコモン・ロー裁判所が競合することとなった。

 「競合」とはつまり、お客を取り合い始めたのである。原告被告ともに、裁判所の「食い物」にされていったのである。これは現在の日本も変わらない。

 コモン・ロー裁判所は、それぞれの管轄の事件だけを扱うように、三つに分割されたのだが、自分の管轄に属していない、多くの訴訟を喜んで受理し始めた。王座裁判所は、もともと刑事事件を処理するためだけに設置されたのだが、民事訴訟をも受理するようになったという。

 「受理するようになった」とは言うが、これは「人民間訴訟裁判所」から、民事訴訟という「お客さん」を横取りしたのである。それは自分たち判事ら、裁判所勤務者たちの収入を増やすためであった。簡単にいえば「営業」である。

 本来所管の訴訟ではないのに、民事訴訟を王座裁判所が扱うためにはどうすればよかったのか。それは、民事訴訟を刑事訴訟に「仕立て上げた」のである。

 民事事件とはお金の貸し借り、債務の履行の有無である。これは犯罪ではない。お金で解決する問題である。

 ところが王座裁判所は、お金を返さない人間が他人に損害を与えたのだから、これを不法侵害、あるいは軽罪を犯した、というふうに解釈したのである。

 つまり、王座裁判所が「作り話、フィクション」を、収入を確保するために、仕立て上げたのである。王座裁判所は、自分たち判事が作ったこのような「作り話」を「申し立て」として受理したのである。

 財務裁判所も負けてはいない。財務裁判所は、徴税の強制のために設置された裁判所である。「国王大権」執行の「代理機関」である。国王の「番犬」である。

 財務裁判所も、民事事件を取り込みたいがために、「原告は、被告から借金を支払ってもらえないから、原告も、国王に債務を支払えない(だろう)」という「おとぎ話」を作った。

 「金を貸して返してもらえないこの男は、税金を支払う余裕もないだろう。だから税金も滞納する。だから原告も、国王への債務不履行の「可能性」がある。税金不払い事件だ。犯罪だ。受理しよう」ということである。

 「金を貸して返してもらえないから訴えたら、自分も財務裁判所から訴えられた」のである。これは論理の飛躍だし、狂っている。

 アダム・スミスは、これを「法曹人の自由競争」だとして、生産者間の競争が消費者、この場合は訴訟当事者、被告と原告の利益になる、としてコモン・ロー裁判官たちの「作り話」を評価した。

 しかし、ベンサムはこれを嘲笑したのである。ベンサムが「フィクション」だと言ったのは、このコモン・ロー裁判官たちの「作り話」のことだったのである。

 自然法の大家、サー・ウィリアム・ブラックストーンは、本当は、裁判官たちの私腹を肥やすための、いい加減な作り話のはずの「令状の束」を、「国王の裁判所の慣習として生まれた法であり、イングランドの人々の、生活に内在しているがゆえに生じたものである」として、これを「自然法」なのだ、と主張していたのである。

 ローマ法という文明の法、成文法、制定法、スタチュート(statute)の及ばなかったイングランドは(スコットランドはローマ法が基本である)、イングランドの人々の生活に密着した、イングランド人らしい慣習が、コモン・ローとして積み上げられていった。「誇らしい法体系である」というのがブラックストーンの言い分である。

 その意味で、ブラックストーンは、イングランドのコモン・ロー(判事が金のために、買ったり売ったりした「作り話、フィクション、おとぎ話、キメラ、妄想」という召喚令状の束)は「自然法なのだ」と言ったのである。

 ばかばかしい話である。ベンサムが『道徳および立法の原理序説』を書いたのは、そもそも刑法典を作るのが目的だったと言うが、それも当然の、もっともなことだと思える。

 ベンサムの本当のライフワークは、イングランドの制定法を作ることであった。ベンサムがどうしてもコーディフィケーション(法典を作ること)にこだわったというのは、このような事情があったからである。

 ベンサムが「フィクション」「作り話、妄想」「想像上の怪物、キメラ」だと一蹴したのは、判事たちの「与太話の束=召喚令状の束」のことだったのである。自然法自体を批判したわけではない。

 この与太話、妄想が自然法だと言い切ってしまうことが、判事たちの、そしてブラックストーンの「作り話」であり「妄想」である、と言ったのである。

イングランドの判例法体系の「先例拘束の原則」とは「遡及立法(そきゅうりっぽう)」である

 イングランドのコモン・ローを、『西洋思想大事典』の「判例」の章を参照して、再度説明していく。

 コモン・ローは、この三つの裁判所の一握りの判事や実務家たちによって、ローマ法、つまりきちんとした法体系を意に介さず、先例の積み重ねで作り上げられてきた。

 コモン・ロー裁判官たちも、自分たちの下した判決が、まさか「法律」に成るなんて思っても見なかったのだろう。コモン・ロー裁判官たちの「与太話(よたばなし)の束=召喚令状の束」が判例「法」として、以後の判決を拘束するようになったのは、ずいぶんと後になってからである。

 「先例拘束(せんれいこうそく)」などというと、もっともなことだと思えるかもしれないが、これは「遡及立法(そきゅうりっぽう)」なのである。つまり現在の事件を、過去の判例にさかのぼって新しく判決を下す。そうして裁いて(捌いて)いったのである。

 いや、イングランドの判決の束は、先例拘束すら存在しなかった。ただそのときそのときに下した「先例の束」でしかなかった。判例とは裁判官の生み出した「魔法の産物」だったのである。

 「コモン・ローは、すべての法が、裁判官の胸中に蓄えられていて、必要に応じてこの中から魔法のように引き出されてくる、という過程のもとで発展してきた」(『西洋思想大事典』(五六八ページ)

 信じられない話だが事実である。判例は制定法、スタチュートがあってこそ機能するものだ。個別の事案をカヴァーしきれない制定法、成文法を、補足していくためにあるものだ。これは、本来は「衡平(こうへい)」と呼ばれるべき法源である。

 図書館に行って、辞典などの貸し出し禁止の参考書コーナーがある。その法学の棚には必ず茶色くて分厚い、判例法体系と日本の制定法、つまりあの「六法」を集めたものが、ずらりと並んでいる。

 こんなもの誰が読むのだろうと思えるぐらい、うんざりするような束である。イングランドには、これの判例集しか存在しなかったのである。

 いや、「判例集」すら存在しなかった。

 裁判官の魔法の産物、判例法の積み上げ、先例の束は、後にコモン・ローとなっていくが、ではこの「束」というのは、本当に「束」として昔から存在していたかというと、そうですらないのである。

 イングランドの判例集で、最も古いものは『年書』という判例集で、一二六〇年から一五三五年頃の判例の束であるらしい(同書 五六八ページ)。

 その後、一七世紀から一八世紀に至るまで、イギリス法の判例集は、「私家版の判例集に頼る状態で、一八世紀後半まで、貴族院はその判決の出版を禁止していた」(同書 五六八ページ)という。

 なぜ、このようなことになっていたのか。それは判例法についてまわる「判例主義」という考え方があるからである。

 「判例主義」とは先に下された判決が、後の類似の事件の判決を拘束するという、「先例拘束の原理(法理)」(ステァリ・ディサイシス stare decisis ドクトリン・オブ・プレシデント doctrine of precedent )があったからである。というより、イギリスにはこれすらも「無かった」からである。

 「先例拘束の原理」が無ければ、判例法はただの紙切れの束である。

 「先例拘束の原理」を成立させるためには、審級制(しんきゅうせい)が無ければならない。審級制とは、上位の裁判所が先例に拘束され、下位の裁判所は上位の裁判所の判決に拘束される。これが出来て初めて「判例法」が法としての意味、整合性を持つことが出来る。先例拘束の原理が、ようやく成立するのである。

 これはたとえ制定法であっても同じことである。制定法である日本でも、最高裁が、高等裁を、高等裁が地方裁を拘束することは、当たり前のこととして知られている。

 ところがイングランドには、判例法には欠かせないこの「原理」すら、存在しなかったのである。いや、裁判官たちには「そんなものがあるなどとは、思いもよらなかった(Oh! Shit!!)」のである。

(引用開始)

 (『年書』によると)当時の法律家たちは、裁判官や弁護士が引用する先例の重要性を認めてはいたが、先例拘束の法理を確立するには至っていなかった。

 つまり、明白に誤りと思われる先例の欠陥を、そのまま引き継ぐように強いられるなどとは、全く考えてもいなかったのである。

(中略)

 「一八世紀末の状況を総括すれば、先例が適用されるという見解は、有力で確立していたと言える。しかし、いずれかの裁判所がなした判断に、『絶対的に拘束される』と考える裁判官は、どこを探しても見つけることは出来なかったであろう」(C・K・アレン『法の形成』第二版)

『西洋思想大事典』(五六八ページ)

(引用終わり)

 すなわち、「先人のなした判例」などと立派なことを言うが、先人たちも、自分たちと同じことをやっていた、と言うことは同じ裁判官であるだけに、先人たちの所業である「先例、判例」など、欠陥だらけの、その場だけの、場当たり的な判断の寄せ集め、であったことを皆分かっていたのであろう。

 法曹界という「同業者ギルド」は、「令状の発行」という金儲けの利権を握っていたため(文書、文章が書けただけだろう)、ローマ法のようなきちんとした制定法を作る動きや、法体系の整合性を求める先例拘束など、認めることは出来なかったし、認めたくとも、いい加減な、欠陥だらけの「くそ判例」などに拘束されようとも思わなかったのだろう。

 自分たちの利権であり、自分の胸算用で勝手に判決を書いてきたのに、それを他の裁判所の判例に拘束(自分たちが拘束)されるなどとは、「思いもよらなかった」のである。

 イギリスにおいて、法は裁判官の胸の内に託されているという現実を、ベンサムは非難した。これを「法の宣言説」というが、ベンサムは「裁判官の作った法」と呼び、イギリスの判例法は判事による「遡及立法(そきゅうりっぽう)」であるとして、非難した。

 何の整合性もない、体系化されていないイングランドの判例の束は、判事に対する「賄賂の束」だったのである。

 判事の「胸一つで決まる」法手続きなど、法でもなんでもない。それに「先例による拘束」を持たしたとて、それは判事たちが大昔に作り上げた判決を、何の関係もない事件に当てはめて、被告が聞いたらびっくりするような判決が下された、ということなのである。

 ほとんど中世の時代に下された、しかも状況が個別的、特殊な事件を、自分の扱っている事件と似ているからといって、判決を下す。

 「姉さん、ボクそんなことやってないよ」とカツオがよく叫ぶが、それと全く同じことだったのである。だから収賄は止まない。

 ブラックストーンは、こうしたでっち上げが、イングランド人の「自然法だ」と言ったのだから、ベンサムは「鼻で笑った」のである。「ワイロの何が、人間の本性、自然なんだ」ということである。

 一八三三年、高等法院女王座部(当時はヴィクトリア女王だったからクイーンズ・ベンチ Queen’s Bench)、パーク首席裁判官は、先例から導出される法準則は、それが、「明白に不合理」でない限り、同質性、継続性、確実性を確保するために遵守されねばならない、という見解を明らかにした。(『西洋思想大事典』 判例から引用)

イングランド法体系の「さかしま」

 事実上の最高裁である、貴族院の判例を変更出来るのは、議会による立法だけである。

 イングランドの判例法の伝統は、ローマによる支配の薄さがある。フランス法やドイツのパンデグテン法体系などは、ローマ法の伝統である。きちんとした制定法である。法が先にあって、それによって各事件が裁かれていく。

 明治時代に伊藤博文らが、グナイセナウやシャルンホルストからドイツ法を学んだのは、そういう理由からである。プロシア法典は、立憲君主制の成文法だったからである。イングランドの裁判官による、行き当たりばったりの、膨大な判例集を、なんら近代的制度を持ち合わせていない国に、いきなり適応することは、無謀な行為と言えた。

 では、イギリスの議会、立法府による立法は何なのだ、という疑問が出てくる。永井博士はこの件に関して、法学的に興味深い記述を行っている。「議会もあり、制定法もあるのだが、制定法は判例法に対する補助的、補完的役割しか果たさない」という記述である。(『ベンサム』 六四ページ)

 これではイングランド法は法哲学上、本来とは正反対の様相をなしている。本当は制定法というのが先にあって、それがその国家の背骨をなす。それがコンスティチューション(constitution)というのだが、その制定法の補完的役割を果たすのが、先に述べた判事による裁量(ディスクリーション discretionという)である。「これがエクィティ、衡平」という思想なのである。

 衡平は、本来の制定法ではカヴァーしきれない、無数にある個別な事象を補う時に、その「よさ」を発揮する。エクィティというのは本来、「宜しさ(よろしさ)」という。アリストテレスはこの「宜しさ」を、「善、グッドネス」よりも良いものだと言ったのである。

 だからイングランド法は、本来は「衡平」であるはずの裁判官の裁量の束(判例集)を、制定法が補完する、というばかげた理論になっているのである。

 これは、フランスの作家ユイスマンスの小説『さかしま』である。「さかしま」とは「さかさま」という意味である。本来あるべき姿から逸脱し、全てが逆転した状態のままなのである。

ブラックストーンの誇り―イングランドの自然法は「神の法」

 裁判官の判例集のことを、ブラックストーは「自然法」だと言った。この自然法はアリストテレスの唱えた、伝統的な本来の自然法ではない。いや、ホッブズやロック、バークの唱えた近代的自然法解釈(原初契約、オリジナル・コントラクト、社会契約)ですらない。

 「国王の裁判所」の慣習として生まれたコモン・ローは、基本的な法原則がイングランドの人々の生活に内在しているがゆえに生じた、という見解が、ブラックストーンの自然法解釈である。

 永井博士のイングランド方の法の成り立ちの記述を読むと、ベンサムがなぜ自然法が「擬制(フィクション ficition)」だと言ったのかが分かりやすい。私は先に、永井博士と「擬制」という訳の悪口を言った。しかし、これから私が述べるこの部分は、非常にしっかりしている。

 イングランドはシーザーの侵略を受けていないから、ローマ時代の遺跡はたくさん残っているが、ローマ法だけはきちんと浸透しなかった。その代わり一〇六六年、ノルマンディー公ウィリアムの侵略を受けた後、イギリス王室は、約二世紀をかけて、各地を巡回裁判で周って、「アングロ・サクソンの慣習を尊重しつつ、各地で異なる法慣習を重要事項について、ほぼ統一することに成功した」のである。(同書六五ページ)

 ここにカッコつきで「土地問題だけは例外」と書かれているが、これを処理したのが衡平裁判所である。

 こうして「王国の普遍的慣習法」が成立した。これが「全国に普遍的な法という意味で、コモン・ローとよばれた」(同書 六五ページ)わけである。

 これは驚くべき記述である。ここで混乱しないでほしい。イングランドは基本的にゲルマン系であり、イングランド法ももとは、ゲルマン諸部族の慣習を巡回裁判でまとめ、拘束力を持たせたものである。

 それに対して大陸側の、本家ドイツ、つまり神聖ローマ帝国のゲルマン法はローマ法なのである。なぜならローマ帝国などといいながら、ドイツは小さな領邦国家に分かれていたため、商事、民事契約に関して、統一した法律を持たなくてはならなかったために、ローマ法を摂取したのである。

 ではイングランドの判例法は「自然法」か、という議論が出てくる。

 ブラックストーンによれば、イングランドのコモン・ロー体系は、世界に誇るべき法体系であった。硬直的ではない、というのがその理由である。時代の変化に即応して、即座に新判例を下すことも可能であった。その分、判事の恣意性が入り込む余地もあった。(同書 六六ページ)

 実際にはコモン・ローは、判事の恣意性の塊であったことだろう。「特殊専門家でなければ理解不可能な法理が支配」し、「法曹人の専門知識が、専門外の者を圧倒」した。(同書 六九ページ)

 さらに法廷の手数料が、開廷一回につき、三回分を徴収する慣行ができていたという(同書六七ページ)。これは今の日本でも同じようなものであろう。

 法曹人というものは「フィクション作家」であり、訴訟当事者、原告と被告は、自分のための筋書きを作ってもらうために、公式文書としての「原稿料」を支払わされるのである。ごく簡単のものから言えば、行政書士が行っている、(あほらしい)免許書き換え提出書類の代筆業、「代書屋」などまさにそれである。

 免許の書類ぐらいならいいが、簡単軽犯罪で、警察にそのまま調書をとられてしまったら大変だ。そこで、弁護士にお金を払って、警察も検察も、訴訟当事者双方も、皆が納得のいくような「合理的調書」を作文してもらうことだ。「原稿料」は安くないが。

 こうした法律家たち、専門業者の慣行を目の当たりにしたベンサムは、どうしてもイギリスに制定法が必要である、と考えたのである。

 ベンサムは、自然法そのものを攻撃したのではない。イングランドのコモン・ローの実態が「ワイロの束、世俗免罪符の束、作り話、法律家のフィクション」であることを攻撃したのである。

 ブラックストーンの「誇り」にはもう一つある。「自然法とは、神の法である」という誇りであった。永井博士の本には、「ブラックストーンは”創造主の意思としての自然法”を説く。これは自然法思想の基本の観念である。ロックの場合も、あまり我が国では強調されないけれども、自然法は神の意思である」と書かれている。(同書六九ページ)

 私、鴨川は、ロックもホッブズも、神の事には触れない、と書いたが、私は自分の考えに修正を加えなくてはならないだろうか。いや、そうは思わない。ロックのホッブズも、心の中ではそのように思っていたかもしれない。アリストテレスの時代、古代ギリシャ、いやそれ以前から現在まで、人間の自然の本性は、神の法則なのだ、と考えられては消えていったのだ。

 そうではなく、オントロギー(ontology)、神の存在論とは離れて、世俗の解釈として、お金の話として法を考えようとしたのが、彼ら近代政治哲学者なのである。

 法学を神学とは切り離すことに関して、永井博士は同書七〇ページにおいて、ベンサムの考えを実に簡潔にまとめている。その箇所からベンサムの言葉をいくつか引用する。

 ベンサムは、このようなブラックストーンの自然法解釈を「恐ろしいほど実体のないもの」であり、自然法は、「狂信」に過ぎないと述べた。

 「神の法とそれを含む聖書とは神聖ではあるけれども、我々の著者(ブラックストーン)によるその説明は、神秘的であってもあまり神聖ではない」

 「自然神学もしくは啓示神学のいずれをも法学と混合すること、また特に自然神学を法学もしくは倫理学のいずれかと混合することは適切ではない」

 「神の観念はいかなる政治的問題を解決するにも全く役に立たないし、本当は害になる」

 「聖なるものと俗なるものとを雑多に混ぜ合わせるのは不合理である」

 副島氏によれば、ごく普通の欧米人でも「法とは何か」という、最も基本的な事柄が何なのかを理解しているという。法とは、「神のことに関わらないこと。学問、サイエンスに関わらないこと。そしてあくまで世俗の問題にのみ関わること」この三つに尽きるである。この、ごく単純なことを日本人は、たとえ専門家であろうとも、端的に答えられることがない。

 上記のベンサムの引用は、この副島氏の発言を、最も言い当てたことにはならないだろうか。欧米人は長い年月をかけて、近代世俗法を積み上げてきた。その最後のとどめがベンサムだったのである。

 ヨーロッパの法律家、裁判官たちはもともと聖職者であった。それゆえに、法学と神学とがなかなか切り離せなかった、などというが、本当は聖書そのものが、もともと「法の書」だったのである。旧約聖書はそもそもが、バビロンの役人たち(つまり古代の文明人たち)の法令であり、これをプリーストリー・コーデックス priestry codex(ドイツ語でプリースター・シュリフト)「祭司法典」と言うのである。

(つづく)