「0090」 論文 サイエンス=学問体系の全体像(15) 鴨川光筆 2010年6月9日

 

ジョン・スチュワート・ミル―功利主義の大成者

 ベンサムの「功利原理」は弟子であり、同士でもあったジェームズ・ミル(James Mill)の子、ジョン・スチュワート・ミル(John Stuwart Mill)によって、批判的に継承される。

    

ジェームズ・ミル   J・S・ミル

 ミルはベンサムの「最大多数の最大幸福(the greatest happiness for the greatest number)」を受け継ぎ、「個人を含んだ社会全体の幸福、ジェネラル・ハピネス(general happiness)」を究極目的とする、と表明した(『J・S・ミル』 イギリス思想業書一〇巻 研究社出版 小泉仰 七二ページ)。

 これは利他、アルチュルーイズム(altruism)の考えを含むため、「啓蒙された利己主義、エンライテンド・エゴイズム(enlightened egoism)」という。

 ミルは、ベンサムの著書と出会い、ベンサムの弟子となり、ベンサムの思想グループに入って執筆活動を始めた。「功利主義(utlitarianism)」という言葉自体、ミルらベンサムの弟子グループが、初めて使用したと言われている。

 ベンサムのところで書くべきだったが、インターナショナル(international)、マキシマム(maxium)、ミニマム(minimum)という今日なくして何も語れぬような言葉を作ったのはベンサムである。

 ミルは後にベンサムの思想とは決別するが、それでも功利主義思想は捨てなかった。ミルが問題視していたベンサムの思想は、思想の核心であった「快楽の計算、フェリシティ・カルキュラス(fericity caluculous)」である。

 ベンサムという人物は、政治党派的にはトーリーの家系であり、父の遺産相続をした後は、生涯、執筆活動を続け、死ぬまで貧困を味わうことがなかった。またベンサムには、有力なパトロンもついていた。プリーストリーのパトロンでもあった、第二代シェルバーン伯ウィリアム・ペティ(William Petty-Fitzmaurice, 1st Marquess of Lansdowne and 2nd Earl of Shelburne)の庇護をも受けていたのである。

     

ウィリアム・ペティ   大ピット 

 シェルバーン伯は、有名な大ピット(William Pitt, 1st Earl of Chatham イングランド首相。初代チャタム伯。彼の住んでいた家がチャタム・ハウス Chatham Houseという。チャタム・ハウスは、イギリスのシンクタンクである王立国際問題研究所となっている)とも盟友関係にあり、後にイギリス首相となったほどの人物である。

 大ピットの息子、小ピットはフランス革命、ナポレオン戦争時の首相で、シェルバーン内閣では蔵相を務めていた。

 ベンサムは、歴史的な、ものすごい大物の庇護を受けていたのである。実質的に貴族である。立場こそ違え、ベンサムはルソーと同様、プロのもの書き、職業作家のはしりであった。

 このような貴族といっていいような境遇のベンサムに対して、J・S・ミルは、辛口の評を下している。ミルによれば「彼(ベンサム)は、幸運も逆境も知らず、情熱も、豊満も知らず、病気することで得られる経験さえ得ることはなかった。」

 「彼は子供の時代から八五歳に至るまで、少年のような健康に恵まれてきた。彼は憂鬱も知らず、心情の沈滞も知らなかった。(中略)彼は最後まで少年であった。」という(同書 一〇四ページ)

 ベンサムは、人間らしい経験をほとんど持たずに一生を過ごした。このような「人間性」を持たないベンサムによる「幸福(快楽)の計量法」という考え方だけでは、功利原理を実行するのは不十分である、と考えたのである。

 「量的快楽計算は、人生の中で経験する、複雑な浮き沈みにまつわる喜びや悲しみ、さらにはそうした人生から、心のひだに刻み付けられた幸福や不幸については、何も語らない」とミルは認めていた(同書 一七五ページ)

 つまり、快楽、幸福は量だけでは計ることのできない、質の点を無視出来ないということを考慮に入れなければ、快楽・幸福の計算は成り立たないことを主張したのである。

「人気投票」とは、人間の感じる幸福、快楽の質は計るための試みとして生まれた

 では「快楽の質」とは、どのようなものなのか。同書『J・S・ミル』から引用する、ミルの「快楽の質」のたとえ話は分かりやすい。

 「たとえ野獣の快楽を、完璧に与えられると約束されたからといって、人間的被造物なら、何らかの下等動物に変えられることに、満足しようとはしない。」

 「満足した豚であるよりは、不満足の人間であるほうがよいし、満足した愚か者であるより、不満足のソクラテスがよい。」

 極端な話であるが、ミルのたとえ話は、「快楽には、高級の快楽と低級の快楽がある」ということである。そうした質の違い、区別を認めなくてはならない。ミルはそのように考えた。

 しかし、快楽の質を考えに入れるとなると、人間には直感(あるいは直覚)能力の違いがある、という問題が出てくる。ベンサムとのミル快楽測定法は、人間の直感能力を前提にしていた。

 読者の皆さんはいまさらと思われるだろうが、何が高級で何が低級な快楽かは、人間の好みの問題だということである。あるいはその時々の体調、気分による。人によっては、学問が高級な快楽をもたらすが、酒が快楽をもたらす人もいるであろう。

 AC/DCを大音量で聴きたいときもあれば、静かな環境音楽でさえ煩わしく感じる時もある。この好みの問題に関して『J・S・ミル』の著者、小泉仰教授は、分かりやすい解説をしている。

 酒が好きな人も、学問好きの人も、どちらも自分の「好き」の正当性を主張するが、自分の主観的感覚以外何の根拠もない。「たとえ鋭い直覚力を具えた第三者が現れて、二人の間の順位を決定したとしても、今度は、この第三者の直覚能力の正当性を保証する根拠がない。そこで、この第三者の直覚力を保障する、第四の人物の直覚力が必要となる。こうして問題は、無限後退に陥ることになる。」(『J・S・ミル』 一七七ページ)

 人間の好みを、完全なる「オブザーヴァブル・ファクト observal fact、観察可能な事実」として判定することは不可能なのである。どんなに公平で「客観的な」第三者の協力を仰いでも、必ずそこには第三者当人の主観が混じってしまうだろう。第三者の好みの問題が発生してしまう。

 ではどうすればよいのか。さて、ここに「一般投票、ジェネラル・サフリッジ」 general suffrage という考え方が登場する。

 快楽の設定は、高級と低級の両方を知り得た人々が、「皆で投票をして決める」という考え方である。いわば、「人気投票」である。こうなると、教育と情報、経験が欠かせなくなってくる。

 学問、芸術などが理解できる、あるいは高級料理に舌鼓を打てる人間となるためには、それなりの教育と環境を与えて、素養を育てなければならない。つまり上品な趣味とは、大抵の場合、親から与えられなくてはならないものなのである。

 現代の我々は、高級料理とともにジャンクフードを食べてもおかしくないという環境にある。バッハが聴けると思えば、パンク・ミュージックでも何でも聴くことができる。

 高級スーツを着られるとともに、ぼろぼろのファッションをいいと思って身にまとうことも出来る。いわゆる「よい趣味」、「悪い趣味」の両方を、世間に対しても、自分の中身に対しても、何の気兼ねもなく味わうことが出来る環境にある。

 そのような意味では、現代の日本の我々はいわゆる「高級な」ものと「低俗な」ものといった、様々な趣味を味わうことが出来るのだから、一九世紀に人々に比べたら、ひょっとして一般投票の資格があるのかもしれない。

 いずれにしろ、こうした好みの問題は、一般投票によってしか計れないのだ。そこが、J・S・ミルの「現代性」である。一般投票とは、コンクールや品評会などで、それなりの素養のある人々が、審査員になって投票することである。現在ではレイティング(rating)が主流になっている。

 レイティング、つまりオリコン、ビルボードの第何位、アマゾン売り上げ第何位といった人気投票である。レイティングは要するに「人気投票」である。「好き」であれば投票する資格がある。人間の好みは、試験では計れない、投票でしか計れないということなのである。

 ただしここにも落とし穴がある。この時代の重要な本にトクヴィルの『アメリカの民主主義』がある。この中で、トクヴィルはアメリカ人の嗜好の問題を報告している。

ただ「好き」であることが「正義」となった現代

 トクヴィルの見たアメリカ分析は、このようなものであった。

 ヨーロッパのような貴族的社会での物事の価値は、その優れた内容を評価されて初めて表に出るが、アメリカのような民主制では、モノの価値はただ人々が、それを「好き」であれば何でもいい、ということになっている。

 つまり、カップ・ラーメンのようなジャンクフードでも、人々がそれを好きで、たくさん売れればいい、それが一般投票の結果であり、正義なのだ、と言うことになる。

 私鴨川の経験だが、アメリカ人と話した時に彼らは必ず「たくさんの人々が支持しているのだから、それは正しい、良いものだ」と、明け透けに言ってのける。これを言われたら、開いた口がふさがらないというか、最早何も言い返すことが出来なくなる。それを好きな人が多い、それが物事の価値判断であり、民主制に基づいた正しい判断だというのである。

 私が中学の時の話だが、アメリカではマニアックなとか、専門的に好かれるとか、尊敬を受けるようなものは、ほぼ全く一般には知られていないのだ、ということに衝撃を覚えた。

 当時『ミュージック・ライフ』という音楽雑誌があって、おそらくは一九八三年の六、七月号だったと思うのだが、「アメリカでは、ミュージシャンズ・ミュージシャンというのは受け入れられていない、どんなにキャリアと業績があっても、バカみたいに、爆発的に売れていなければ、この世に存在しないと同じである」という趣旨の記事が載ったことがある。

 このことに私は驚愕した。「アメリカではゲイリー・ムーアが無名であり、全く知られていない。ジェフ・ベックは知られて入るけれども、それは一般には知られていない、存在していないと同然だ。アメリカに存在しているギタリストは、ヴァン・ヘイレンだけなのだ。アメリカで売れる、知られるというのは、他の国で知られ、尊敬されるのとは全く事情が異なるのだ」と私は思った。

 音楽の発展に寄与したギタリストというのは、それこそ星の数ほどいて、私は一人ひとりがアメリカでは、一般の人々から多大な尊敬と評価を集めているのだ、と思っていた。ところが、その大半のミュージシャンは、当のアメリカではそれほど知られておらず、むしろ日本で知られていたというのにも驚愕した。

 ゲイリー・ムーアやジェフ・ベックというのは、それこそ「通」や「ギターおたく」の間では賞賛されていて、日本の雑誌では神様扱いであった。しかし、アメリカではそのような「マニアックな」奏法などは、全く相手にされない。エドワード・ヴァン・ヘイレンのライト・ハンド奏法ぐらい、トリッキーでなければ、アメリカの「皆の衆」は誰も振り向いてくれないのだ。

 アメリカで知られ、尊敬されるためには誰もがそれに驚く、分かりやすいものでなければならない、のである。それほどにアメリカでは、そして今の日本もそうだろうと思うのだが、ただ「好き」「みんなが見ている」「みんなが買っている」というだけで、「良いもの」なのだ。

 いずれにしろミルは、ベンサムから受け継いだ功利主義、快楽計算の思想から、「ジェネラル・サフリッジ、一般投票」という、現代の世界を席巻している思想を引き出したのである。

ミル・ベンサムはリバータリアン思想の源―民主主義は直接であるべきか、代議制であるべきか

 J・S・ミルは、一八六一年、『フレイザーズ・マガジン』の中で、論文『功利主義』を発表し、功利主義の擁護をした。

 ミルは、功利主義の立場をベースにして、「女性参政権」、「国費援助による国民皆教育」、「フリーダム・オブ・スピーチ」、そして「他人に害を与えない個人の行為に対して、政府と社会は干渉すべきではない」、という考えを発表する。最後の二つの言論は、まさに後のリバータリアン思想である。

 副島氏は、日本にリバータリアン思想を紹介し、自らもリバータリアンであることを公にしている。ただし、リバータリアンは本質的に直接民主制であって、アナーキズムの性質を帯びている。

 副島氏もそのことは承知である。しかし、副島氏は「民主制の本質は、直接民主制であるが、私はやはりそれは、不可能であると思っている。民主制とは代議制民主制であるべきであって、ピープルの代表であり、タックス・ペイヤーである金持ち、貴族がリプリゼンタティヴとなって、政治を行うべきなのだ」と主張する。

 それに対して、フリーランス・ジャーナリストの岩上安身(いわがみやすみ)氏は、ウェッブテレビの「ユーストリーム」上での副島氏のインタヴューで、「いや、しかし私は、こうしてネット技術が進歩したら、間に何の情報操作をされることもなく、我々普通の人々が直接、代議員たちの言葉を聞ける。だから私は、直接民主制には賛成だ」と述べ、副島氏も、「うーん」という顔をしていた。

 そこで、アメリカの民主制とは本当に代議制、リプレゼンタティヴ(representative)なのか、という問題がある。

 J・S・ミルは、当時大ベストセラーになった、トクヴィルの『アメリカの民主政治』 De la démocratie en Amérique  を読んで、感銘を受け、「少数の知性を持った人間による、代議制民主制」が最も優れた政治制度である、と考えた。

 ミルの「知性を持った少数」とは、インテリジェント・エリート(intelligent elite)という。ミルの思想は、少々貴族主義的である。代議制民主制自体が、本質的には貴族制である。このことはバークのところで語った。

アメリカの「特命派遣制、デリゲーション」とは、代議制ではない―「多数者の専制」である

 ミルは一八三五年と四〇年に『ロンドン・レヴュ―』誌に、「トクヴィル―アメリカの民主主義』という評論を掲載した。

 この論文の中でミルは、我々現代の日本人にとって、衝撃的な事実を語っている。

 ミルは、論文の中でトクヴィルに同調し、アメリカの民主制が代議制(リプリゼンタティヴ representative)を、特命派遣制(デリゲーション delegation)に置き換えた点に、アメリカ民主制の危険があると見抜いた。(『J・S・ミル』 イギリス思想業書一〇巻 一一七ページ)

 このデリゲーションという言葉の意味が、私には分からなかった。読者の皆さんは、お分かりになられるであろうか。

 議会制度の名前の違いは、国によってまちまちである。それぞれ成り立ちは異なっているはずなのに、民主制国家、デモクラシーズでは、大体同様の位置にあるものは、同じ機能を果たすのだから、深く意味を考える必要は無い、それくらいに皆さんも思っているのではないだろうか。

 私は、何で日本の国会がダイエット(Diet)、アメリカがコングレス(Congress)、イギリスがパーラメント(Parliament)と言うのかがよく分からない。調べれば分かるのだが。

 そのような、意味をなおざりにしてきた政治用語の一つが、デリゲーションである。代表という意味なのだから、どちらでもいいだろう、程度に私は考えてきた。しかし、デリゲートはリプリゼンタティヴとは違う意味であると、ミルは主張している。私はここで少しハッとした。

(引用開始)

 特命派遣制(デリゲーション)とは、多数者によって選ばれた立法者が、選挙者の多数者の予定したプログラムに従って、行動しなければならないとすることであり、いわば多数者が選んだ立法者に、自分たちの意思を強制し、単に多数者の特命によって、派遣された存在としてのみ、立法者を取り扱うことである。(『J・S・ミル』 (イギリス思想業書一〇巻 研究社出版) 一一七ページ)

(引用終わり)

 この状態をトクヴィルは、「多数者の専制」と呼んだ。ミルは、「民主制とは、大勢によって機能するから、大衆の知性を鋭く向上させるという点で優れており、民主制を必要不可欠な制度である」と考えていた。(同書 一一五ページ)

 しかしミルは、直接民主制には反対であり、優れた知性を持った階級 an intelligent elite によって、運営される代議制、リプレゼンタティヴを支持した。

 なぜなら、アメリカの多数者の専制という民主制の在り様を、トクヴィルを通じて知ってしまったからである。トクヴィルからミルは、このような考えを露(あら)わにする。

(引用開始)

 「アメリカの多数者は、優れた知的階級ではない。教育の平等のせいで、平均的知性を持っただけであり、彼らは均質化し、同じように行動する。それゆえ異端者に対しては寛容ではなく、少数者に多数者の意見を押し付ける傾向がある。こうした均質化した多数者は、停滞した精神を持ち( a stationary spirits ブリタニカでは「スタッグナント・プール」 stagnant pool と書いている)、「静止社会」となる。(同書 一一八ページ)。

(引用終わり)

 この停滞した多数者は、「数の権威」にものを言わせて、少数者に専制的押し付けをする。これを「多数者の専制」という。

 これは、古代から言われ続けてきた、「民主制のもつ危険性」(主にアナーキズムに陥ること)が変形した形である。フランス革命の混乱を知ったバークは、こうした多数者をモブ(mob)あるいはメアー・マルチチュード(mere multitude)と呼んだ。

 しかしミルは、アメリカ人が全く知性のない人民であるかと言えばそうではなく、むしろ皆大方同じような、ある一定の教育を受けているから、なおさら始末が悪い、と言っている。

 ホッブズやマキアヴェリは、人間は皆同じように「自分だけ優れている」と思っていると言った。どんな人間で、どんな階級にある人間も、本当は自分のほうが王より優れていて、どんな他人よりも上手くやっている、と思っている。

 その人民が、ある一定の教育を受けて、誰もが同じように考え、行動し、誰もが参政権を持っている、となると、「自分だけが偉いのだ」と思い上がった一般ピープルが塊となって、政治家に命令をする、という構図になっているのである。

 読者の皆さん、現在の日本はこのアメリカの鏡ではないでしょうか。私鴨川もまさにそうなのですが、ただの一般ピープル、「パンピー」で、たいした素養も権力も才能もないくせに、操作された支持率に、意図も簡単にだまされ、にもかかわらず、「自分には政治家に命令する権限があるのだ」と思っている。役人には、命令する権限があるけれども、役人になるとなぜか及び腰になる。なぜだ。ただし、私は役人には、ホールに管理人にだってキレるぞ。

 トクヴィルによって、アメリカの民主制の本質(モブによる直接民主制の変形、一種のアナーキズム)を見極めたミルは、誰にも同じように参政権を与えるという、当時のラディカルな普通選挙権という思想に留保し始め、修正民主制の方針をとるようにならざるを得なくなった。

 ミルは、文明とは創造的精神を持ったほんの少数の人間と、先を見越すことの出来る自由な知性の活動によって成り立つのだ、と考えていた。これは大きくは、プラトンの思想である。

 ミルにとっての進歩とは、ただめくらめっぽうな経済競争によってだけではだめで、自由な精神の活動が必要であった。そのためにはフリーダム・オブ・スピーチ(freedom of speech)、完全に意見の言えることがなければ、文明は硬直したものになってしまうと考えた。

 アメリカのような、代議制に見せかけた直接民主制では、自由が期待できない。ミルは直接民主制では、ついには専制に陥るということを恐れたのである。特命派遣制という専制に陥った停滞した社会を克服するためには、連邦政府に対抗することが必要であるとミルは説く。

 ミルはアメリカの連邦制に反対なのである。アメリカの連邦制とは、フェデレ−ション federation ではなく、コンフェデレーション confederation という。ドイツ、フランスの大陸側の「社会民主福祉的統一ヨーロッパ」思想から見ると、アメリカの連邦制は疑わしい制度なのである。

 そのために、一般ピープルは地方政府に参加し、また教育を普及させることで、自由の精神を促進していくべきだと主張した。(同書 一一九ページ)

 最後にミルで特筆しておかなくてはならないのは、予言的な「ベネヴォレント・ビューロクラティック・パワー benevolent bureaucratic power 慈愛に満ちた官僚の権力」という言葉である。このことの重要さに関しては、後に述べようと思う。

(つづく)