「0104」 論文 サイエンス=学問体系の全体像(23) 鴨川光筆 2010年10月7日 

マルセル・モース―「民族学の社会学の時代」と構造主義、機能主義の源流

 デュルケムを文化人類学に戻す。デュルケムの文化人類学への最大の貢献は、その著作よりも、後継者を育てたことである。何よりも『社会学年報』誌の創刊こそが最大の業績である。

 一九一七年、デュルケムが没すると、その甥であったマルセル・モース(Marcel Mauss 一八七二〜一九五〇年)が『社会学年報』の指導者となる。

マルセル・モース

 一九二五年にはパリ大学に「民族学研究所」(ジ・インスティチュート・オブ・エスノロジー・オブ・ザ・ユニヴァーシティ・オブ・パリス The Institute of ethnology of the University of Paris)を創設し、同年、モースは文化人類学の不幸の名作と言える『贈与論』(ぞうよろん、エセー・シュル・ル・ドン、エッセイ・オン・ザ・ドネイション Essay on the Donation)を出版する。

 『贈与論』とは、有名なポトラッチ(potlatch)の研究である。ポトラッチとは北米インディアンの贈答習慣のことである。

ポトラッチの様子

 彼らは互いの部族の地位や財力を誇示するために、贈り物の応酬を行う。高価な贈り物をされると、それを上回る返礼をしなければならない。その応酬を繰り返す。

 もし自分の財力が、相手の贈り物の価値を下回れば、自分たちの財産は燃やされ、破壊しつくされる。これを「蕩尽理論(とうじんりろん)」という。後に経済人類学の「(過剰)蕩尽理論」(かじょうとうじんりろん)につながって行く。

 「蕩尽理論」は、文学者のジョルジュ・バタイユ、経済人類学者のカール・ポランニー(Karl Polanyi)などに影響を与え、日本では栗本慎一郎氏が『パンツをはいたサル』と題した著作の中で、「贈り物」を「パンツ」という変数に置き代えて説明した。栗本慎一郎氏は一九八〇年代に、日本のマスコミにかなりに持てはやされていたことを私は良く覚えている。

 私は塾の講師として、一三年間国語と英語を教えてきた経験がある。国語のテキストも英語のテキストも結局は、受験校の過去問題の切り張りで作られているのだが、過去問題の中にポトラッチの話はしょっちゅう出てきた。中学受験の問題に頻繁に出題されるほどに蕩尽理論は、日本の知識人に影響を与え、七〇年代から八〇年代にかけて流行したのである。

 モースは本書の中で、「全体的社会事実」(トータル・ソーシャル・ファクツ total social facts)という概念を導入し、「民族学の関心は、抽象的想像ではなく、個々の社会の具体的な分析」へと向けられなければならない」と主張したのである(『文化人類学事典』 四二一ページ)。

 モースに教育を受けた西欧の文化人類学者は、世界各地の現地調査に赴き、「フィールド・ワーク」を開始した。モースはボアズと共に、「フィールド・ワークの父」だといえるだろう。

 モースで重要なことがもう一つ、ブリタニカに記述されている。モースは、社会現象を「システム」として研究することを立証した。これがこの後に述べる「構造主義」につながっていく。

 システムを一言で説明すると「エクィリブリアム・オブ・フォーシズ(equilibrium of forces)」(力の均衡、バランス)である。システムはそれを構成する「要素」(エレメンツ elements)から成る。

 エレメンツは、システムの中に適応すると、システムの中に統合された一部のままでいようとする。ここに力のバランス、エクィリブリアムの追求思想がある。

 『贈与論』の中では、「交換」(レシプロケイト reciprocate)という概念が使われているが、モースは、贈与習慣を「交換」という理論に置き換えて、文化人類学においてもエクィリブリアムで説明出来る可能性を提示したのだろう。

 私鴨川は、「エクィリブリアム」こそが全ての学問の根源であり、これが理論的に構築され、証明された時に、その分野がサイエンスとして成立するのだ、ということを唱えてきた。文化人類学も、まさにその流れの中にある。

 モースの思想はこの後、レヴィ・ストロース(Levi Straus)の「構造主義」と、先に述べたマリノフスキーの「機能主義」に引き継がれていく。

やっぱり気になる「リーヴァイス」とレヴィ・ストロースの関係

 構造主義の創造者はレヴィ・ストロース(Levi Strauss 一九〇八〜二〇〇九年)である。英語で「リーヴァイ・ストラウス」。ジーンズのリーヴァイス社を創業した、リーヴァイ・ストラウスとは親戚であるということも言われているが、本当のところは分からない。

レヴィ・ストロース

 リーヴァイスはもとは、レープ・シュトラウスというドイツ系ユダヤ人で、アメリカに移民した後、織物屋を営んでいた。いわゆる「カーペット・バガー(carpet begger)」である。彼らが「ヤンキー(Yankee)」と呼ばれた。

 レーブはクーン・ローブ銀行のローブと同じである。ローブを改名してレヴィにしたという。レヴィとは聖書に出てくる、ユダヤ一二支族の最初の祭司階級「レヴィ族」のことを表す。

 レヴィ・ストロースとジーンズのリーヴァイスのことがずっと気になっていたので書いたのだが、この名前はユダヤ系であり、ラインラントを中心に発展してきたドイツの宮廷ユダヤ人や、マインツ、ヴォルムス、シュパイヤー(全てライン川の町)に中世から居住していた、大人しいユダヤ人コミュニティーを祖先に持つ人の名前であろう。それだけがいえる。

 だから大きくは、ロスチャイルドとのつながりがあるに決まっているのだが、そこから「構造主義は、世界金融寡頭支配のための学問的な道具である」などというつもりは無い。

「構造主義」―「ストラクチュアリズム」、社会学問は全てこれを目指してきた

 話をストロースに戻す。

 レヴィ・ストロースの構造主義は、フランスの文化人類学に理論的革新を引き起こす。フランスの人類学界は、モースによってフィールド・ワークが盛んに行なわれたおかげで、現地調査によるデータの集積は膨大になっていたが、理論的には停滞に陥っていた。この点でアメリカのボアズらと同じ過程を歩んでいる。

ストロースのフィールド・ワーク

 レヴィ・ストロースの革新的理論は、文化人類学の枠を越え、精神分析のジャック・ラカン(Jacques Lacan)、マルクス主義哲学者のルイ・アルチュセール(Louis Althusser)、文学者ロラン・バルト(Roland Barthes)、哲学者ミシャル・フーコー(Michel Foucault)といった、人文や哲学に大きな影響を及ぼす。(『文化人類学事典』 四二五一ページ)

ラカン

「構造主義」の源泉はフェルディナンド・ソシュールの『一般言語学講義』

 モースの学派を受け継ぐレヴィ・ストロースも、ブラジルでフィールド・ワークをこなしていたが、一九四一年ニューヨークで知り合った、言語学者ローマン・ヤコブソンによって、プラハ学派の構造主義言語学(こうぞうしゅぎげんごがく)を知る。これが大きな転機と成る。

 構造主義は、言語学から始まる。言語学者フェルディナンド・ソシュール(Ferdinand de Saussure)が大学で講義した内容を、学生たちが編集して世に出た『一般言語学講義(Course in General Linguistics)』(いっぱんげんごがくこうぎ)からスタートする。

ソシュール

 ソシュールの思想を一言でいえば、「ことばが世界を作る」ということである。言葉によって世界が区切られ、初めて意味のある事物となる。思想の系譜からいうと、「唯名論」(ゆいめいろん、ノミナリズム nominalism、ものは存在しない、という立場)の流れにある。

 これと反対なのが、「実在論(Realism)」である。もの、実在が現実としてあり、それを言葉が写し出すという考え方である。

 ソシュールの思想を構造主義では「言語的転回」(げんごてきてんかい)という。構造主義は「言語的転回」と「進化主義的歴史観の批判」が共通の特徴として取り上げられている。しかしこれはソシュールの後世に残した本当の業績とは言えない。

構造主義は「近代の超克(ちょうこく)」であった

 ソシュールの構造主義で最も重要なのは「近代主体の解体」である。構造主義とは要するに、西欧近代の批判である。レヴィ・ストロ−スは『野生の思考』(一九六二年)の中でのサルトル批判によって、初めて近代の批判を行なった。

(著者注記: 社会学者の宮台真司みやだいしんじ氏が、かつて『野獣系で行こう』というふざけたタイトルの対談集を出していたが、これはレヴィ・ストロースの『野生の思考』のことを言いたかったのだろうか。)

(引用開始)

 (著者注記: サルトルの見方によれば)非西欧社会や「未開」社会では、人々は自分の可能性を状況の中に主体的かつ自由に投企してはいないゆえに、そこに「主体」としての人間はいないことになる。

 それに対して、レヴィ・ストロースは、まず「未開」社会における「野生の思考」が、近代科学と同じように合理的・理性的な志向であるとし、むしろ西欧近代の自由で自立的な主体という捉えかたが、普遍的な思考の中の一つの特殊な志向にすぎないものだと述べて、西欧近代が歴史の弁証法的発展の頂点にあるものだという考え方を批判したのである。

『文化人類学20の理論』 綾部恒雄(あやべつねお)編 弘文堂 七五ページ)

(引用終わり)

 レヴィ・ストロースはローマン・ヤコブソン経由で、ソシュールの構造主義を文化人類学に導入し、近代の超克(ちょうこく)を唱えた学者として、後世、非常に高い評価を得た。しかし、レヴィ・ストロースの確立した構造主義が本当に重要なのは、文化人類学をモダーン・サイエンスに近づけたという功績である。

 レヴィ・ストロースは、フランス民族学(エスノロジー)の系譜を受け継ぐ学者である。モースを中心としたフランスの民族学とは、人間社会を有機体、オーガニックなもの、一つの生命体と考えるというデュルケムの路線ではない。レヴィ・ストロースは、モースの「全体的社会事実」(トータル・ソーシャル・ファクツ)を受け継いでいる。

「構造主義」の本当の意義は文化人類学を「モダーン・サイエンス」に近づけたことである

 レヴィ・ストロースは、社会や文化を「リヴィング・オーガニズム」「生命体」として捉えるのではなく、「システム、系」としてとらえるという考えを支持し、「構造モデル」(ストラクチュアル・モデル)という新しい言葉を作って、踏襲、発展させた。

 ストロースによれば、「ある構造はシステムであり、研究対象とされた社会の構成員は、システム全体の中の一部に過ぎず、自分たちが属しているシステム全体に気づくことはない」とする。このモデルを様々に操作することによって、観測された事実がいかなるものであるか、という説明が可能となる。

 これはどういうことか。社会をシステムとしてとらえるということは、一つは社会の中の「力の均衡状態=エクィリブリアム」を見つけ出そうという試みである。

 もう一つは、システムを構成する一つ一つの要素、エレメンツを「変数、ヴァリアブルズ variables」として考えるということである。社会の構成要素を、数量的に解釈するのどうしても必要なことである。これによって多変数解析(ヴァリアブル・アナリシス)が可能となるからである。

 こうすると全ての要素が相関的に関連しながら機能する、という相関性を持つものとして文化をあつかえる。

 レヴィ・ストロースのストラクチャル・モデルは、親族(キンシップ kinship)、婚姻(marrige)、そして神話(ミス myth)の研究において成功した。

 神話や祭祀、婚姻の際に現れる、さまざまな象徴的行為や物を、「操作子」(そうさし、オペレーター operator、つまりこれが変数)として考え、それぞれを「変換」(変形、トランスフォーメーション transformation)するというやり方で、社会・文化の多変数解析を可能にしたのである。

 社会現象を数量化して分析し、最終的にエクィリブリアム・セオリーを打ち立てることに成功した時、社会学問は本当のサイエンスとなれる。

 レヴィ・ストロースの「ストラクチュラル・モデル(Structural model)」は、社会学問をモダーン・サイエンスとするための第一歩の役割を果たしてきた。文化人類学は社会学問の長兄として、その尖兵の役割を果たしてきたのである。

 構造主義が「近代の超克(超克)」としてもてはやされたのは、社会学問を「神聖なる物」(実在論 Realism、オーガニズム Organism)から「世俗なるもの」(メカニクス Mechanics、システム System、エクィリブリアム Equilibrium)へと近づけたと言うのが、その本質なのである。

 日本でこのことをはっきりといえる人物はいったい何人いることでしょうか。

「比較文化学」とベネディクト・アンダーソンの優れた講演録

 文化人類学の締めくくりとして、ベネディクト・アンダーソン(Benedict Anderson)の優れた講演録を転載しておきましょう。

アンダーソン

 この講演録は副島先生の管理なさっている掲示板である「重たい気持ちで書く掲示板」に菊池健一郎氏が、三年前に投稿したものです。

 私は菊池健一郎氏とは何の面識もありませんが、この投稿文は非常に優れたもので、この文化人類学の歴史を締めくくるものとして、最適だと判断して転載させていただきました。

上智大学の悪口を再三述べましたが、この大学に代表される日本の大学教育の捻じ曲がり、学問制度のズレがどうして起こったのかということが、簡潔に述べられています。非常に重要な講演内容です。

 副島先生も、この投稿を行なった菊池健一郎氏には最大の賛辞を送っています。

 以下の文は、私鴨川が、当ウェッブ・サイト『副島隆彦の論文教室』の体裁に合わせて、読みやすく加工しました。段落を短くし、読点を多くしています。

(転載貼り付け開始)

(早稲田大学 21世紀 COE-CAS & GLOPE 共催国際シンポジウム
「グローバリゼーションと現代アジア」、二〇〇五年四月二二、二三日、早稲田大学)

 皆さん、わたしのことをアメリカ人とお思いになりますが、実際には違います。また多くの人がわたしを文化人類学者と思い込んでいますが、これも違います。

 歴史家だと思われることもありますが違いますし、文芸批評家だろうと思われることもありますが、それも違います。

 しかし論理的に言って、わたしが訓練を受けたと言えるものは二つのこと、それは政治学と古典研究(classical languages)なのです。

(中略)

 当時の学校は、もちろん男子校です。そしてその教育は、古典古代の研究と近代の言語と文学とヨーロッパ史がすべてでした。わたしは、そうした教育環境のなかで学び、ギリシャ語とフランス語が、かなり堪能になりました。

 ケンブリッジ大学では、経済学を一年間やりました。しかし嫌いだったし、得意でもなかった。それで古典研究に戻ることにしました。

 ここで述べておかねばならないのは、私の受けたこうした教育が、若者を、官吏や外交官や教授にするための、とても伝統的で保守的なものであったということです。しかし、わたしが卒業してすぐに、それは近代化されることになりました。古典研究は周辺に追いやられ、人類学や社会学といった新しい学問分野がはじまったのです。

(中略)

 はじめに、なぜわたくしが比較研究者となったのか、もっとも重要な理由をお話しましょう。

 真の転機は、アメリカ合衆国において、一九五〇年代後期に、政治学者になろうと決意したときに起こりました。いや、より強調しておかねばならないのは、それが同時にインドネシアの専門家になるという決意だったことです。

 ここで言っておくべきことは、わたしが、さまざまな意味において、アメリカ帝国主義の産物であるということです。

 ここで理解しておかねばならないのは、アジア地域におけるアメリカの立場が、他の帝国主義国家のほとんどの立場と異なっていたということです。

 アメリカはアジアを包括的に支配しようという野心を持ちえた唯一の国でした(現在も持っています)。すなわち、フィリピンはその野心の前では、小さな要素に過ぎなかったというわけです。

 第二次世界大戦後のアメリカの基本的な戦略構想は、基本的にイギリス、フランス、オランダなどのヨーロッパをアジアから追い出し、それをアメリカの全体的なヘゲモニーで置き換えるというものでした。

 ヨーロッパのどの国をとってみても、そんな大それた目標や能力を有したものはなかったのです。それを試みた唯一の国が日本です。

 このことが意味するのは、当時アメリカで東南アジア研究のために作られたプログラムが、アメリカの植民地、すなわちフィリピンのみを対象とするものではなかったということです。

 東アジアを専門にするという場合、あなたがもしオランダの学生なら、オランダ領東インド(現在のインドネシア)について学ぼうとするでしょう。

 イギリスの学生であれば、ビルマかシンガポールについて研究するでしょう。フランスの学生ならば、ベトナムとカンボジアについて学ぼうとするでしょう。

 しかし、アメリカ人の場合は、冷戦状況の中で、これらすべてを研究しようとしたのです。このことは、東南アジア研究が、なぜ日本とアメリカにおいて先駆的に開始されたのかという理由でもあります。

 この二つの国のみが、この地域全体を支配下に置くという帝国主義的野心を有していたからです。

 学生の視点に立った場合、こうした研究形態の最大の利点は、どこか一国だけについての授業をとろうとしても、それが許されなかったということでした。すなわち、授業はつねに比較を基に行われていました。比較人類学、比較政治学、比較歴史学、比較経済学など。アメリカの帝国主義が、われわれ全員に、比較研究者となることを強いたのです。

(早稲田大学 21世紀 COE-CAS & GLOPE 共催国際シンポジウム
「グローバリゼーションと現代アジア」、二〇〇五年四月二二、二三日、早稲田大学)

「副島隆彦の学問道場―重たい気持ちで書く掲示板」
[571] 梅森直之編『ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る』(光文社新書、二〇〇七年)

(転載貼り付け終わり)

 これで文化人類学は終わりです。次回からは社会学(ソシオロジー、Sociology)について述べたいと思います。

(つづく)