「0105」 論文 2010年の横須賀 「第7艦隊の街」をゆく 山田宏哉(やまだひろや)筆 2010年10月14日
 
 【Contents】     

1.横須賀に原子力空母があることの重み
2.2010年の横須賀港探訪記
3.ペリー上陸の地、横須賀・久里浜探訪記
4.「第二の基地県」神奈川と横須賀の基地問題

 

1.横須賀に原子力空母があることの重み

 まずは1枚の写真を見て頂きたい。



【写真1】横須賀港・吾妻倉庫地区。はためく星条旗と日の丸。

 横須賀を探訪した折、 米日が共同で管理する吾妻倉庫地区を撮影したものだ。星条旗と日の丸がはためいている。良く見ると、微妙に違和感がある。 その理由は、国旗の高さが若干、違うからだ。もちろん、星条旗の方が高い。それはそのまま米日の力関係を象徴しているようにも見える。

 横須賀は、沖縄と並んで、米日関係の縮図と言っても良い街である。そして、因縁の地でもある。

 歴史を振り返れば、1853年にマシュー・ペリー提督(Admiral Matthew Perry)が上陸したのも、横須賀の久里浜(くりはま)だった。小学館の『日本大百科全書』より引用することで、横須賀の歴史を簡単に振り返りたい。

(引用開始)

 幕末には米使ペリーが浦賀に来航(1853)、久里浜に上陸して開国における重要舞台となった。1865年(慶応1)江戸幕府は横須賀製鉄所を開き(71年横須賀造船所と改称)、のち海軍造船廠(しょう)、海軍工廠と改められた。1884年(明治17)には東海鎮守府が横浜から横須賀へ移されて横須賀鎮守府となり、上町台地には陸軍の東京湾要塞司令部が設けられた。

 こうして横須賀は、鎮守府と工廠、要塞を中心とする軍事都市となり、日清・日露の両戦争、第一次・第二次世界大戦を契機として急速な発展を続けた。この間に軍関係施設は、東京湾に面する本港のほか、長浦、追浜(おっぱま)、久里浜、小田和の諸湾岸へも拡大され、岬角や台地、丘陵上にも要塞施設が設けられ、全市域が軍事施設地域となった。第二次世界大戦後、旧軍の施設はほとんどアメリカ軍と海上自衛隊に使用され、横須賀は全国有数の米軍接収地の高率地区となり、市勢の発展に大きな障害をなしていた。(傍線は引用者 『日本大百科全書』「横須賀」の頁より引用)

(引用終了)

 そして2009年、小沢一郎氏が民主党代表を務めていた頃、「米国のプレゼンスは第七艦隊だけで十分」という発言が注目を集めた。 アメリカ海軍の中で、第七艦隊は真珠湾を本拠地としており、西太平洋やインド洋を担当している。その日本における拠点が横須賀基地である。

 日本人にとって身近な例を出せば、北朝鮮が「ミサイル実験」をしたり、台湾海峡で「有事」が発生したりした際は、横須賀の第七艦隊の出番となる。

 そして横須賀には、原子力空母のジョージ・ワシントン(以下、「GW」と略記)を中核に、約10隻のイージス艦が配備されている。

 現在、原子力空母を量産できる体制の国家は、アメリカ以外にはない。原子力空母の存在は、アメリカの軍事力が他国を圧倒する決定的な要因のひとつとなっている。

 GWは、船内に搭載された原子炉2基を動力に推進する。そのため、18年間もの間、燃料補給が不要とされている。

 全長332メートル、乗組員数は約6,500人とされる。滑走路は約60メートルで、戦闘機は加速2秒で時速200キロに達し、飛び立つ仕様になっている。

 GWはミニッツ級航空母艦に分類され、米軍が所有する量産型原子力空母10隻のうちの1つである。そして、アメリカ本土以外を母港とする唯一の艦である。

 だからこそ、GWが「横須賀基地」にあるということの意味は重い。

 GW が、横須賀基地に入港したのは、2008年9月25日のことだった。GWは老朽化に伴い退役する空母キティホークの後継艦にあたる。横須賀に配備される空母としては4隻目になる。

 新聞報道などによると、GWの入港日、横須賀基地周辺には全国から約300人の"市民"が集い、「浮かぶ原子炉はアメリカに帰れ」などとシュプレヒコールを繰り返した。但し、地元の住民は冷静に受け止めたようだ(「日経新聞」2008/9/25付夕刊参照)。

 いずれにせよ、以降、GWは横須賀基地の12号バースに駐留している。だから極端なことを言えば、横須賀には「原発」がある。さらに言えば、その原子炉に日本の規制と監視は及ばない。

 原子力空母だけでなく、イージス艦の横須賀への配備状況を見ても、横須賀の戦略上の重要性を窺い知ることができる。「日経新聞」2009年5月28日付の夕刊記事は「米第7艦隊のいま」と題して、以下のように記述している。

(引用開始)

 第七艦隊はハワイの真珠湾に本部を置く米太平洋艦隊の中核で、西太平洋・インド洋を担当している。第七艦隊は約七十隻の艦艇と約三百機の航空機、海軍と海兵隊合わせて約四万人の規模を誇る。このうち二十一隻が日本やグアムに配備されている。

 横須賀にはGWなど十一隻が配備されている。うち九隻が高性能の対空戦機能を搭載したイージス艦だ。

 二〇〇六年に米軍は大気圏外を飛ぶミサイルを迎撃できるスタンダード・ミサイル(SM3)を搭載した最新鋭のイージス艦「シャイロー」を初めて横須賀に配備した。当時は「防衛」より「攻撃」色が強いシャイローの配備に地元からの反発も起きたが現在、同じ機能を持つ艦船は五隻に増えた。横須賀重視の米海軍の方針がうかがえる。

 ただ高性能な艦船が集中すれば、有事に狙われる可能性もある。横須賀基地は旧日本軍の海軍工廠(しょう)を接収して建設したが、米軍が返還を検討している様子はない。

 米海軍にとって、第七艦隊は台湾海峡で紛争が起きた場合の即応部隊という意味合いが大きい。一九九六年、台湾総統選で中国が嫌う台湾独立派の李登輝氏の優勢が伝えられると、中国側は台湾沖で軍事演習を実施し、海域にミサイルを撃ち込んだ。米海軍は二隻の空母やイージス艦を付近に派遣し、一触即発となった。(「日経新聞」2009年5月28日付夕刊)

(引用終了)

 実際のところ、現在の横須賀はどうなっているのか。文字情報からだけでは、なかなか等身大の横須賀が見えてこない。

2.2010年の横須賀港探訪記

 ある地域のことを知るためには、実際にその場所に行き、自分の五感で感じることに勝るものはない。文章に写真を添える場合も、自分で撮影するのが一番良い。写真を撮影する場合、角度や被写体の取捨選択そのものに、批評性が宿るからである。私は一貫して、そのように考えている。

 2010年8月28日、私は神奈川県横須賀市を探訪した。JRの横須賀駅の改札口を抜けると、目の前にヴェルニー公園と横須賀港の海が広がる。駅を背に、右手側に米軍の横須賀基地がある。イージス艦を目視することができた。左手には自衛隊の基地があり、南極観測船の「しらせ」などが停泊していた。

【写真2】ヴェルニー公園


【写真3】南極観測船「しらせ」


【写真4】横須賀基地。アメリカ軍横須賀基地の艦船たち。

 「ヴェルニー公園」の「ヴェル二ー」とは、フランスの造船技師・フランソワ・レオンス・ヴェルニー(1837〜1908)の名前にちなんでつけられたものだ。公園にはヴェルニーの功績にちなんだヴェル二ー記念館(入場無料)もあり、国指定の重要文化財であるスチームハンマーが展示されていた。

 ヴェルニー公園には、歴史的な記念碑が数多くあり、「軍港としての横須賀」の歴史の一端を窺い知ることができる。特に旧大日本帝国海軍関係の石碑が色々と置かれている。例えば、「軍艦沖島の碑」や「軍艦長門の碑」などであり、 より包括的な「大日本帝国海軍の碑」というものもある。

【写真5】大日本帝国海軍の碑


【写真6】軍艦長門の碑

 ヴェル二ー公園のすぐ隣には、「軍港めぐり」のクルーズの乗り場がある。横須賀の「軍港めぐり」は日本観光協会の「産業観光ものづくり大賞」の特別賞を受賞している。

 尚、本稿では詳しく触れられないが、工場などを見学する「産業観光」は、現代日本の静かなトレンドにもなっている。その背景には、高度経済成長の頃へのノスタルジー(哀愁)があると思う。将来に対して積極的な希望が抱けない状況下では、「あの頃の日本」が輝いて見えるのだろう。

 「軍港めぐり」横須賀では、本港と海上自衛隊の司令部がある長浦港を約40分かけて周回する(運賃は大人¥1,200)。運航しているのは船舶運航会社である株式会社トライアングルで、2008年からこのクルーズを始めたという。年間乗船者数は10万人にのぼり(「日経新聞」2010年3月30日付参照)、「横須賀観光」の名物になっている。ちなみに、横須賀港は一般船舶の通行が規制されている。

 


【写真7】「軍港めぐり」の船

 

 「軍港めぐり」と聞くと、軍事マニア御用達のようなイメージがあるが、客層は広かった。確かに一眼レフカメラを手にした「いかにも」な人もいたが、むしろ家族連れや若いカップルの方が目立っていた。解説もかなり専門的で充実していて、私自身、勉強になる内容だった。

【写真8】米海軍横須賀基地。潜水艦の乗組員がこちらに向かって手を振っていた。


【写真9】米海軍横須賀基地。イージス艦。八角形の鉄板で見分けられる。



【写真10】米海軍横須賀基地。12号バース。普段は原子力空母・ジョージ・ワシントンが接岸。



 米海軍関係の見どころは、やはりイージス艦、原子力潜水艦、ジョージ・ワシントン(GW)が駐留する12号バースなどであろう。運が良ければ、原子力空母のGW本体も見ることができる。残念ながら、私の探訪日には 、GWが遠征中だった。 また、長浦港の海上自衛隊の艦船、住友重機械工業の造船所、日産自動車追浜工場、吾妻倉庫地区、新井掘割水路なども「横須賀ならでは」であろう。

 

【写真11】長浦港。自衛隊の艦船。


【写真12】新井掘割水路。


 ちなみに、私は予約をせずに現地に行ったが、人気のため、ギリギリで臨時の最終便に滑り込むことができた。確実に乗船したい場合は、予約しておいた方が賢明だ。

3.ペリー上陸の地、横須賀・久里浜探訪記

 1853年にマシュー・ペリーが上陸したのも、横須賀の久里浜だった。

 横須賀港を探訪した同日、併せて私は横須賀市の久里浜を探訪した。JR横須賀線の終着駅になる。目的は「ペリー上陸の地」を探訪することにあった。 久里浜は、水産加工と火力発電を柱とする工業地区でもあるようだ。

 駅から徒歩で南方へ約20分。ペリー通りを歩き、ペリー公園に到着すると、そこにはペリー上陸記念の碑があった。150年前のことはわからないが、率直に言って、ペリー公園から見える久里浜の海はうらぶれた感じがした。しかも、近くでは、上半身裸の人が浜辺以外の場所にもはみ出してきていた。

 

【写真13】ペリー公園。ペリー上陸記念の碑。


【写真14】久里浜の海。


 予期せぬ収穫として、通りがかりに関東自動車工業の久里浜寮を見つけた。関東自動車工業といえば、秋葉原で無差別連続殺傷事件を起こした「あの加藤容疑者」の派遣先であった。敷地内では、作業着に上半身ランニングの方がウロウロしていた。その風貌は、まさに「プロレタリアート」そのものだった。

【写真15】関東自動車工業の久里浜寮。



 また、観光案内には書かれていないが、ペリー公園から歩いて15分くらいの場所には、横須賀刑務支所と少年院がある。基地外で犯罪を犯した米兵は、「日米地位協定」に基づき、横須賀刑務支所で服役しているらしい。横須賀刑務支所と少年院に関しては、歩いて合法的に接近・撮影できるのは、法務省長瀬官舎前までだった。

【写真16】法務省長瀬官舎。刑務所と一般社会の間の「連絡通路」となっている。


【写真17】法務省長瀬官舎。壁の向こうには少年院。


 刑務所と少年院は海に面しているため、陸地からアクセスするためには、この官舎を通り抜けるしかない。この奥に久里浜の刑務所と少年院がある。

 久里浜には刑務所、少年院、自衛隊などの施設がある。実際に行ってみて、久里浜が場末感が漂う「日陰の地」であることに気付いた。

4.「第二の基地県」神奈川と横須賀の基地問題

 神奈川県は沖縄に次ぐ「第二の基地県」でもある。実際に探訪してみると、確かに横須賀と「基地」は切り離せない関係にあることに思いを強くする。

 但しそれは、私たちは忘れがちなことでもある。日本において、米兵が基地外で重犯罪を犯せば、重大なニュースとして世間の注目を集める。そして時には、外交問題に発展する。

 例えば、横須賀基地の周辺で起きた重大事件として、2008年3月の水兵によるタクシー運転手の殺害事件や、2006年1月に起きた会社員の強盗殺人事件がある。

 ただし、トラブルの大半は、もっと些細なことである。それこそ"日常茶飯事"であり、ほとんど注目されることもない。しかし、本当に大変なのは、日々の生活の中での、"小さな諍い"の方である。

 このことは横須賀の基地周辺にも当てはまる。「朝日新聞」2010年6月11日付の記事(「(基地のとなりで 安保50年:1)事故・犯罪、生活に不安」)では、以下のような事例を紹介している。

(引用開始)

 所有するマンションを米軍人に貸していた2002年7月、別の米兵がその部屋で放火事件を起こした。部屋の改修に9百万円かかり、消火作業で他の住人にも被害が及んだ。

 追い打ちを掛けたのが国の対応だった。米兵は軍法会議で有罪となったが、男性には名前すら知らされない。その上、03年末に男性が提出した損害賠償請求書は横浜防衛施設局(当時)で留め置かれた。

 「どうなっているのか」と毎年のように電話で確かめた。結局、米側に請求内容の報告書が送られたのは6年以上たった今年3月だった。

 この間、国からの説明はなかった。「どうしてこんな無責任なことができるのか、怒りを通り越して不思議なくらいだ」。求める金額の補償がなければ裁判も辞さない。「既に長い時間がかかった。納得するまでとことんやる」

 米軍の友人もいる。北朝鮮や中国を念頭に「在日米軍は必要」とも思う。だが、国が被害補償に親身にならないと分かると、基地への心情は確実に変わった。米軍人の入居希望があろうと「二度とかかわりたくない。もう貸さない」と決めた。(「朝日新聞」2010年6月11日付)

(引用終了)

 自分の日常生活では、決して関わりたくないような面倒な案件である。

 また、上記の記事では、米陸軍キャンプ座間では、基地のゴルフ場からボールが飛び出して、近所の小中学校や公園に降ってきたり、厚木基地周辺では、米軍の戦闘攻撃機の部品が毎年のように落下したりして、民家を損傷させることもあるという事例を伝えている。 この種の話は、あまり騒がれないだけの話で、きっと日常の光景なのだろう。

 地元住民が「慣れっこ」になってしまっているという事情を差し引いても、これはこれで大変なことだ。 但し、米軍や自衛隊の基地周辺に住んでいると、NHK受信料の減額措置などの「メリット」があることも、併せて記しておく。

 米軍としても、地元に配慮し、特に「犯罪防止」の施策には力を入れているようではある。例えば、「朝日新聞」2010年8月15日付の横浜・地方面には、「米軍、犯罪防止に躍起」と題する記事が掲載されている。

(引用開始)

 在日米海軍が犯罪防止のための「CAREプログラム」を始めたのは2年前。08年3月19日、横須賀市内でタクシー運転手が水兵に刺殺された。原子力空母ジョージ・ワシントンの横須賀配備を控え、事態を重く見た米海軍が水兵ら全員対象の教育プログラムを作った。

 「すべてを失った」「4年も刑務所に入れられた」。米海軍犯罪捜査局は薬物を使用した米兵らが後悔の念を次々に語るビデオを流した。スクリーンに刑が確定した米兵が服役する横須賀刑務支所が大写しになると、顔をしかめる人もいた。

 米軍普天間基地の移設問題で日米関係がギクシャクする中、米側は日本国内での米兵らの犯罪に神経をとがらせる。対米感情の悪化が在日米軍の安定運用に影響する恐れがあるからだ。そもそも普天間返還も、95年に沖縄で起きた米兵による少女暴行事件が発端だった。「心ない米兵の判断が同盟に重大な影響を与える。次の凶悪犯罪を許容できない」(ヴィダウリー氏)(「朝日新聞」2010年8月15日付)

(引用終了)

 海兵隊ほどではないにしても、"軍隊に志願する人"というのは、民間企業では働くことができない荒くれ者や社会不適応者である可能性が高い。軍隊には「雇用の受け皿」としての機能もある。だからこそ、"潜在的な犯罪者"が紛れ込むのを防ぐのは、非常に難しい。

(引用開始)

 米軍人と一口にいっても、国際経験の豊かな将校から、初の海外赴任で電車に一度も乗ったことのない若者まで千差万別。基地の外に出るのが怖くて数年間ほとんど基地から出ないまま帰国する人もいるという。県内だけで2万7千人を超える米兵らの管理教育の難しさは、この多様性にある。

 「問題を起こす水兵はごく少数。大多数は日本のことを大切に思っている。犯罪が起きれば私たちも心を痛めていることを理解してほしい」。横須賀で通算11年勤務し、[2010年]6月まで同基地司令官だったダニエル・ウィード大佐は、退任前にそう語った。(「朝日新聞」2010年8月15日付)

(引用終了)

 神奈川県は、沖縄に次ぐ「第二の基地県」とも言われている。 神奈川の米軍人・軍属、家族の居住数は、約28,000人で、そのうち約6,000人が基地の外で暮らしているとされる(09年3月末現在、「朝日新聞」2010年6月11日付参照)。そして、その多くが横須賀市にいる。

 但し、神奈川県の公式見解では、「第二の基地県」と呼ばれるのは、面積や人数ではなく、「戦略面で重要な基地が集まっている」という意味において、とのことだ。 いずれにせよ、これだけの数の人間が集まれば、当然、それなりにトラブルも発生することになる。

 横須賀市は、基地があることによる"経済効果"が大きい。だからこそ、沖縄ほどには「基地問題」が大きく騒がれることがないのだと思う。"基地の街"というのは、横須賀のアイデンティティの一部ですらある。

 結局のところ、横須賀は当面の間、諸問題に眼をつぶって誤魔化しつつ、何とか切り盛りするしかないのが現状なのだろう。おそらくそれは、迷走を続ける現代日本が直面する試練そのものである。(了)

山田宏哉。1981年生まれ。ライター。実務家。
ウェブサイト 文筆劇場http://hiroya.web.infoseek.co.jp/
  Twitterアカウントは@HiroyaYamada
  *本稿で使用した写真は、すべて筆者が撮影したものです。

(終わり)