「0110」 論文 道教も仏教もキリスト教「愛の思想」のデリバティブ(派生思想)である 〜「愛の思想」とは、自分たち貧しい民衆を牛馬のような動物扱いしないで、大切に扱って欲しい、という思想である〜(1) 副島隆彦述・原岡弘行構成 2010年11月7日 (※11月9日にタイトルを変更しました)
ウェブサイト「副島隆彦の論文教室」管理人です。副島隆彦(そえじまたかひこ)先生が語り下ろし、弟子のひとりである原岡弘行(はらおかひろゆき)氏が構成した文章をこれから3回に分けて掲載します。今回、副島先生はインドから中国、そして中国から日本への仏教の伝来について最新の研究結果を読者の皆様に紹介しています。
仏教はインドで始まり、中国に伝来し、やがて日本にまで伝わりました。仏教の発祥と伝来の歴史は、通常、難しい言葉や人名がたくさん出てきて、理解しづらいものがあります。また、中学、高校時代の名残で日本史、世界史という区分をしてしまい、何かつまらないと感じてしまうことが多いと私は思います。
今回の副島先生の最新の研究成果は仏教の伝来について分かりやすく説明しています。これを読むと、日本の仏教は大きな仏教の伝播の流れの中で説明できるということが分かります。また、これは次回以降になりますが、日本に伝来した仏教にはキリスト教の要素が多数混ざっていることが明らかにされています。
これから3回にわたり、副島先生の仏教研究の最新成果を掲載します。ご期待下さい。
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副島隆彦です。今日は2010年11月5日です。
私は今、占い・呪(まじな)いの本を書いています。その本の中に、仏教の中国への伝来と、中国から日本への伝来。その事実、裏側を徹底的に分かりやすく書きます。今回の文章は現時点での研究成果です。
●仏教の八大聖地
仏教を始めたのは、お釈迦さま(ゴータマ・シッダールタ、Gotama Siddhattha)である。当時のインドでお釈迦さまはどのように呼ばれ、どのように活動していたか。その活動についてはすでにこれまでの本やウェブサイト「副島隆彦の学問道場」でも書いた。(今日のぼやき 「850」 インド旅行記―仏教の歴史とインドの現状をこの目で見てきた。 副島隆彦(1) 2007.5.13 「副島隆彦の学問道場」内「今日のぼやき」へは、こちらからどうぞ。)
お釈迦さまが説法したところのひとつに、ガンジス川(the Ganges)中流域のラージャグリハ Rajagrha(現在はビハール州ラージギル Rajgirと呼ばれている)という地がある。この地は、強大なマガダ国(Magadha)の首都であり、西のコーサラ国(Kosala)の首都の舎衛城(しゃえいじょう Sravasti)とともに、お釈迦さまの伝道活動の大きな拠点だった。
お釈迦さまにまつわるインドの重要都市
お釈迦さまが悟りを開いたブッダガヤー(Bodhgaya)は、ラージャグリハの南西である。お釈迦さまは35歳で菩提樹の下で悟ったあと、自分を連れ戻すために追いかけてきた5人の釈迦族の従者がいるヴァーラーナシー(Varanasi)郊外へ向かい、サールナート(Sarnath)の鹿野苑(ろくやおん Mrgadava)で初めての説法“初転法輪(しょてんぼうりん Dhammacakkappavattana)”を行なった。ヴァーラーナシーは仏教だけでなく、ヒンドゥー教の聖地でもある重要な都市である。日本人の観光客もたくさん行っている。
その後お釈迦さまは、ブッダガヤーの北東、今日のインドではビハール州のナーランダ(Nalanda)を訪れ、パーヴァリカ(Pavarika)と呼ばれるマンゴーの木立の下で説法をしている。ここは仏教を学ぶ重要な場所となり、一万人もの人間が滞在した。元々はバラモン教のバラモン(司祭者)、クシャトリヤ(王侯・武士)が庶民を救うために食料を与えた施設だった。『西遊記(Journey to the West)』で有名な三蔵法師こと玄奘(げんじょう Xuanzang)もこの地を訪れ、たくさんの経典を持ち帰っている。
ナーランダの遺跡
お釈迦さまの十大弟子のひとりにアーナンダ(阿難 あなん、Ananda)というのがいた。アーナンダは25歳で出家をした。お釈迦さまが55歳のときであった。ブッダが涅槃(ねはん)に入るまでの25年間、常につきしたがい、身の回りの世話も行っていた。そのため、お釈迦さまの言葉をもっともよく聞き、記憶していた。第1回仏典結集(ぶってんけつじゅう First Buddhist Council)時には、アーナンダの記憶に基づいてお釈迦さまの教え、すなわち経典が編纂されたという。お釈迦さまがなくなったとき、アーナンダは泣き叫んで悲しんだ。
第一回経典結集でお釈迦さまの言葉を語るアーナンダ
お釈迦さまが実際に活動したのは、八大聖地(はちだいせいち)といわれる場所である。すなわち、@ルンビニー(Lumbini、生誕の地)、Aブッダガヤー(Bodhgaya、成道(悟り)の地)、Bサールナート(Sarnath、初転法輪(初めての説教)の地)、Cラージギール(Rajgir、布教の地)、Dサヘート・マヘート(Saheth Maheth、教団本部の地)、Eサンカーシャー(Sankasia、昇天の地)、Fヴァイシャリ(Vaishari、最後の旅の地)、 Gクシーナガル(Kushinagar、涅槃(死)の地)である。八大聖地のすべてがお釈迦さまの人生に関わる遺跡になっている。
●玄奘は中国がインドに送り込んだ情報将校だった
先ほど、玄奘三蔵法師(げんじょうさんじょうほうし)がブッダガヤーの北東、今日のインドではビハール州のナーランダに立ち寄ったと書いた。
玄奘三蔵法師
中国からインドに行くには、かなりの道のりを歩かなければならない。玄奘は長安から出発し、草木一本もなく水もない灼熱(しゃくねつ)のなか、砂嵐が吹きつけるタクラマカン砂漠(Taklamakan Desert)を歩いた。雪と氷にとざされた凍(こご)える吹雪(ふぶき)の吹く天山(テンシャン)山脈(Tian Shan)を越え、時に盗賊にも襲われる苛酷(かこく)な道のりを旅して行った。そして3年後にようやくインドにたどり着き、ナーランダ寺院で戒賢論師(かいけんろんし)に師事して本物の仏教を学び、インド各地の仏教にまつわる遺跡を訪ね歩いた。
タクラマカン砂漠 天山山脈
玄奘三蔵法師の旅のルート
玄奘はなぜ、はるばるインドまで過酷な、命がけの旅をしたのだろうか。玄奘は本当の仏教を知るためには、原典にさかのぼることと仏教に関係する遺跡の巡礼が必要だと考えた。そこで629年、玄奘は唐王朝に出国の許可を求めた。しかし、許されなかった。それでも諦めなかった玄奘はなんと国禁を犯して出国し、高昌(こうしょう Gaochang)、すなわち中国の南北朝時代から唐代にかけて、現在の新疆(しんきょう)ウイグル自治区・トルファン地区に存在したオアシス都市国家に至った。ここが厳しいタクラマカン砂漠の入り口である。
唐代の高昌周辺の地図
高昌王である●(=常用漢字の麹のへんの麦の部分が来に夕)文泰(きくぶんたい)は、熱心な仏教徒であったことも手伝い、玄奘を金銭面で援助した。玄奘はたくさんの荷物を馬につんで、大キャラバン(隊商)をくみ、西域の商人らに混じってタクラマカン砂漠、天山(テンシャン)山脈を越えて中央アジアを進んでいき、ガンジス川を越えてインドにいたった。この高昌で旅の装備を整えられなければ、タクラマカン砂漠と天山(テンシャン)山脈を超えることはできなかっただろう。玄奘はインドで仏教を修めた後、645年に長安にもどり、657部の経典を持ち帰った。旅の記録は『大唐西域記(だいとうさいいきき)』(Great Tang Records on the Western Regions)として残されている。
このように玄奘は商人らに混じって過酷な砂漠や山を越えていったといわれるが、実際には500〜1000人ぐらいの武装をした部隊だったのだろう。そうでなければ、あの砂漠は越えられない。そして仏教の発祥の地インドで、仏教の根本、真理が書かれた経典をもらって帰ってきた。行った先の王様に大事にされたということは、おみやげ(貢(みつ)ぎもの)や駆(か)け引きがあったということだ。玄奘こそは中国が送り込んだ最大の情報将校なのである。幕末に日本にやってきたシーボルトのような人間だったと考えざるを得ない。相当に能力のあった人物なのだと私は考える。
●菩薩になるには
玄奘自身は、唐に戻ってから明確に特定の宗派を立ち上げたわけではない。しかし、その教えとインドから持ち帰った経典は、中国の仏教界に大きな影響を与えた。その影響は中国のみならず、日本にもおよんだ。
653年、遣唐使の一員として入唐した道昭(どうしょう)は玄奘に師事し、教えを受けた。玄奘はこの異国からの留学僧を大切にし、同じ部屋で暮らしながら指導をしたという。このころから、日本から中国への巡礼(じゅんれい)が行われていたのだ。当時、東アジア最大の秘密を学びにきていたのである。
道昭(どうしょう)の肖像画
道昭の弟子とされるのが、行基(ぎょうき)である。行基は河内国(かわちのくに)、現在の大阪府東部生まれの僧侶であり、官大寺(かんだいじ:国家の監督を受ける代わりにその経済的保障を受けていた寺院)で法相宗(ほっそうしゅう)などを学んだ。その後布教活動に入ると、信者が増加していき、集団を形成して関西地方を中心に貧民救済や治水、架橋などの社会事業に活動した。行基は今でいう社会起業家である。
有馬にある行基像
その150年後に、空海(くうかい)が正規の遣唐使の留学僧として海を渡っている。同じ年に最澄(さいちょう)も、通訳に弟子の義真(ぎしん)を連れ、空海とおなじく九州を出発した。貴族の子弟などの若いエリートが毎回数十人行っている。井上靖(いのうえやすし)の『天平の甍(てんぴょうのいらか)』を読めばわかるが、行きに4隻だった船が、もどってくるときには2隻になっている。
鑑真(がんじん)も5回の渡航に失敗している。失明後にもう1回挑戦して、やっと日本に来られた。鑑真を日本に招いたのは聖武天皇である。最初は本物のインド人のお坊様に来てもらったが、日本に来てコロっと死んでしまった。そこで鑑真に来てもらった。
鑑真和尚像
奈良には私度僧(しどそう:律令制下、定められた官許を受けることなく出家した僧尼)、簡単に言うと、位を持たない自称坊主たちが多かったため、伝戒師(でんかいし:僧侶に位を与えられる人)が必要であり、聖武天皇は優秀な僧侶をさがしていた。
754年に鑑真は東大寺大仏殿に戒壇を築き、天皇から貴族、僧侶まで400人に菩薩戒(ぼさつかい:大乗仏教における菩薩僧に与えられる戒律)を授(さず)けた。このとき同時に、私、副島隆彦は聖武天皇をはじめ、貴族たちが灌頂(かんじょう)の儀式を受けたと考える。
灌頂の様子
灌頂とは主に密教で行う、頭”頂”(とうちょう)に水を”灌”(そそ)ぎ、正統な継承者とするための儀式である。要するに、立派なお坊様に頭から水をたらしてもらうのだ。灌頂は密教系の儀式であり、日本では805年に最澄が京都の高雄山の神護寺(じんごじ)で初めて灌頂を行ったといわれているが、奈良時代の聖武天皇以下、貴族、僧侶たちも鑑真に頭から水をたらしてもらったのだろう。それによって、「菩薩(ぼさつ)」になれるからだ。菩薩とは、如来(にょらい)になるための修行中の仏様(お釈迦さま)のことである。如来については後述する。
天台宗には「稚児灌頂(ちごかんじょう)」という儀式がある。これを受けた稚児(ちご:赤ちゃん、幼児)は観世音菩薩と同格とされ、神聖視された。「稚児灌頂」というが私、副島隆彦は稚児に限らず大人も、位の高いお坊様に頭から水をたらしてもらうことで菩薩になれるのだと考える。鑑真も単に「菩薩戒」という戒律を授けるだけではなく、灌頂の儀式を行っただろう。
その後日本では、高僧の称号として「菩薩」の名が、朝廷より下されることがあった。たとえば先ほど述べた行基は、「行基菩薩」という尊称が与えられている。このときも、何らかの儀式が行われたに違いない。
●4つの如来=阿弥陀如来・大日如来・薬師如来・釈迦如来
僧侶になるためには、具足戒(ぐそくかい:本義は、完全な戒)という戒律を守らなければならなかった。具足戒とは今では小乗仏教の僧侶の戒律であり、出家者の集まりであるサンガ(僧伽 そうが)に入るための条件となるものである。わかりやすくいえば、僧侶が守らなければならない戒律のことである。逆にいえば、具足戒をもらわなければ、僧侶にはなれない。戒律がなければ、仏教のお坊様とはいえないのである。
仏教には、菩薩のほかに「如来(にょらい)」という言葉もある。如来とは悟りをひらいた仏様(お釈迦さま)のことである。具体的には、@阿弥陀如来(あみだにょらい、Amitabha)・A大日如来(だいにちにょらい、Vairocana)・B薬師如来(Bhaisajyaguru、やくしにょらい)・C釈迦如来(Gotama Siddhattha、しゃかにょらい)の4つである。それぞれに真言(マントラ)がある。
@阿弥陀如来の真言(マントラ Mantra)は、「オン・アミリタ・テイゼイ・カラ・ウン」である。阿弥陀如来は人々を極楽浄土に迎える仏であり、西方極楽浄土の主宰者だとされていれる。
阿弥陀如来像(浄土寺)
A大日如来の真言(マントラ)は、「ノウマク・サンマンダボダナン・アビラウンケン」である。大日如来は太陽の光のように万物を照らし、しかも影をつくらない。なぜなら万物は大日如来の現れであり、たとえ日陰にあるものも如来の輝きに貫かれているからだという。
毘盧舎那仏(大日如来像、東大寺) 大日如来像(円成寺)
B薬師如来の真言(マントラ)は、「オン・コロコロ・センダリ・マトウギ・ソワカ」である。薬師如来は大医王仏、医王尊とも呼ばれ、人間にありがたいお薬をくれる。
薬師如来像(薬師寺)
C釈迦如来の真言(マントラ)は、「ノウマク・サンマンダ・ボダナン・バク」である。釈迦如来は2500年前にインドに出現したお釈迦さまが、目に見えない不滅の本体が姿をもってこの世に現れたものと考えられる。
釈迦如来像(飛鳥寺)
そのほかに、阿?如来(あしゅくにょらい)や宝生如来(ほうしょうにょらい)がいるが、重要な如来ではない。
(つづく)