「0118」 論文 ヨーロッパ文明は争闘と戦乱の「無法と実力の文明」である(1) 鳥生守(とりう・まもる)筆 2010年11月28日

 ウェブサイト「副島隆彦の論文教室」管理人の古村治彦です。本日から、鳥生守(とりう・まもる)氏による、ヨーロッパ文明の歴史についての論稿をご紹介します。ヨーロッパと言うと、私たちは憧れを持っています。荘厳な建築物や美しい芸術作品などに目を奪われます。

 鳥生氏は、ヨーロッパの文明史のあまり語られてこなかった部分について書いています。鳥生氏は、ヨーロッパ文明を「無法と実力の文明である」と定義し、その具体例を様々取り上げています。鳥生氏は、個々の歴史的事実を考察し、ヨーロッパ文明を「無法と実力の文明である」と定義しているのです。

 それでは鳥生氏の論文をお読みください。

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 ヨーロッパ文明は争闘と戦乱の「無法と実力の文明」である。同じ宗教同士、同じ国民同士、同じヨーロッパ人同士であっても、平和に共存しながらお互いに共生していくことができないのである。本当に、地中海・ヨーロッパの歴史をたどると、血で血を洗う殺し合いと争闘の連続であり、只々あきれ果ててしまう。

 血で血を洗う殺し合いと争闘の連続で何が生まれるか。それは驚異的な武器・火器の進歩・発達である。武器・火器は平和の時代では進歩が止まる。しかるにヨーロッパでは中世以後一貫して進歩を続けてきた。その需要があるからだった。武器・火器の驚くべき進歩が続いてきたというこの事実は、ヨーロッパには争闘と戦乱が絶えなかった証拠となる。

 他方において、その地中海・ヨーロッパ史は、真実を語っていない。真実が隠蔽(いんぺい)され、粉飾された歴史となっている。ヨーロッパ人の書く歴史のほとんどは、真実ではない。百冊の歴史書のうち、九九冊は粉飾された虚偽の歴史であり、真実の歴史は残りの一冊のみである、そんなところである。

 ヨーロッパの歴史はあまりにもおぞましい争乱と戦乱の歴史なので、恥ずかしくてその真実を書くに書けないのだ。余りにも残忍・悲惨でおぞましすぎる。だから、粉飾せずして歴史が語れないのである。

 確かに近代学問=科学を生んで新しい技術を発達させたが、それらはすぐに兵器に応用され新兵器を生み、既存の武器を発達・発展させた。ヨーロッパでは武器・火器の発達のためにすべてが応用され、応用が試みられた。そちらに精力が注がれた。従って科学技術の生産的平和利用の方は、極めてずさんで荒々しい応用であった。自然があって人類が生存できるにもかかわらず、自然を痛めつけてきた。近代学問は自然を痛めつけてもそれに気づかない鈍感な学問に堕してきた。

 このように、ヨーロッパ文明は気違い文明である。世界の人々はヨーロッパ文明を全面否定しなくては明日の暮らしがなくなってきた。それをしないで、少しでも気を許すと、自然と人間は壊され続けるだろう。

 三島由紀夫は生前、「このまま近代化、工業化を進めれば、いずれ必ず行き詰まり、天皇制とぶつかるだろう」と言っていたが、このことだったのだ。

三島由紀夫

 福沢諭吉は『文明論之概略』(岩波文庫、初出:一八七五年=明治八年)で、
「西洋諸国を文明というといえども……細かにこれを論ずれば足らざるもの甚だ多し。戦争は世界無上の禍なれども、西洋諸国、常に戦争を事とせり。盗賊殺人は人間の一大悪事なれども、西洋諸国にて物を盗む者あり人を殺す者あり。」(二八ページ)
としながらも、

「……西洋人は欲の大なる者なり。されども……欲のためにも利のためにも、誠実を尽くして商売の規則を守らざるべからず。この規則を守ればこそ、商売も行なわれて、文明の進歩を助くべきなり。」(一九〇ページ)と言ってヨーロッパ文明にはなお学ぶべき点があるとした。福沢はヨーロッパ文明をよく見抜いていたが、それでもその付き合いは(この本の出版当時は)あまりにも短かった。まだ、そのすべてを見通せるはずはなかった。

福沢諭吉

 確かに現在我々は、ヨーロッパ文明を研究する必要があることは間違いない。しかしそれは、巨大な力を持って現実世界に厳然と存在するからそれを勉強しなければならないという意味であって、それに良きことがあるからではない。ヨーロッパ文明にいささかも幻想を持ってはならない。研究はするが、全面否定でなければならない。

 これが、わたしのヨーロッパ文明に対する結論となった。このヨーロッパ文明論をうまく説明できるかどうか、これから書いていくことにします。

● ヨーロッパ人はたえず歴史を粉飾して書いてきた

        

『インディアス史』

 『インディアス史』(Apologetic History of the Indies)を書いたラス・カサス(Bartolome de Las Casas、一四七四〜一五六六)は、その長い序言で、ユダヤの学識深き祭司らの中でもとくにすぐれて賢明なる歴史家フラウィウス・ヨセフス(Yosef Ben Matityahu)の言に従いながら、歴史書を著わそうとする人たちの執筆の動機について異なる四つの理由を挙げ、次のように述べている。

  

ラス・カサス    フラウィウス・ヨセフス

 なお、ラス・カサスはフラウィウス・ヨセフスのことをフラービオ・ホセーフォ〔フラヴィウス・ヨセフス〕と呼んでいる。

 第一の動機は、「彫琢された語句と流麗で柔軟な文章が自己の内部に充実しているのを感じて、おのれの雄弁を披瀝することにより、名声と栄誉を願望し、それらを獲得しようとするため」である。つまり、名文で歴史を語ることによって、歴史家自身の名声を得るためである。

 ラス・カサスは「(これを動機とする)人々のうちその大部分はギリシアの編年史家(コロニスタ)たちであって、彼らは饒舌で雄弁、言葉が豊富であり、また自負心と自尊心がすこぶる強かった。すなわち彼らは……自己の意見に適当する題材とみなしたことを書き、作り話や誤った想像をもまぜて用い、その結果、彼らの書いた内容は彼ら自身をも、またその歴史書の読者をも欺くことになり」と述べている。

 第二の動機は、「最大の研鑽と熱意をもって自分が仕えた主君の偉業を論じて、その主君を満足させようとするため」である。すなわち、自分の主君を喜ばすために歴史を著わすのである。

 ラス・カサスは「この動機もまた、やはり同じくギリシア人たちがこれを執筆の動機としたのである。すなわちギリシア人は阿諛追従(あゆついしょう)のために、虚偽の作り話をこしらえたので、邪悪な人たちが一般の人々によって神々のように見なされ、そしてさらに後の時代になると、最も賢く思慮深いとされる人々からさえも、神々として扱われるようになった。……ギリシア人の書いた歴史書は、真摯なる昔の著作家たちの間で、ほとんどまったく権威をもたなかったのである。……真実ならざる阿諛追従を含む虚偽の歴史を書く者は、永久に残る書き物によって国王ただ一人だけではなく、同時代ならびに後世に及ぶ多数の人々に、したがってまた、国家そのものに対して非常な有害有毒をもたらすのである」と言っている。ギリシアには、虚偽の歴史を著すという伝統があったのだ。

 第三の動機は、「自分がその目で実際に見た事物や自分が実際にその場にい合わせていた或る出来事が、真実ありのままに明示されることも裁断されることもない有様を見て、真実を消滅させまいとする熱情をいだいて、これを明示し擁護しようとするため」である。つまり、自分が書かなければ誤った形で後世に伝わってしまう、自分の見聞した真実を書き残さなければ、という思いである。

 最後の第四の動機は、「自分らと同時代に起こった偉大にして高く評価すべきさまざまの出来事が、忘却の霧の中に包まれ覆われてしまう有様を見て、それらを明らかに指し示すため」である。すなわち、自分が書かなければ後世に伝わらなくなってしまう高く評価すべき出来事を後世に伝えるためである。

 ラス・カサスは「この第三および第四の動機が、カルデア人とかエジプト人とかの、昔の文筆家たちにとって執筆の動機になったものである。彼らは他の国々の作家たちよりも大なる信用が与えられている。そして彼らの次にはローマ人が来る。ギリシア人は信用の点では、順位が最後なのである。」と言っている。

 ラス・カサスの時代、コロンブス(本当はクリストバル・コロン Cristobal Colonという)のインディアス(アメリカ大陸地域)到着(一般には、アメリカ大陸「発見」と言われる)以来、何人もの人たちがその地のことやその地での出来事を書くようになった。しかしそれらのほとんどは十分に調べて書かれたものではなかった。その中にはたくさんの間違いとでたらめを書き並べたものが数多くあった。そこで、ラス・カサスはこの第三および第四の動機で、『インディアス史』を書いたと言うのである。

コロンブス

 ラス・カサスは、一四七四年に南スペイン(アンダルシア Andalucia)のセビーリャ(Sevilla)に生まれ、一五六六年にマドリード(Madrid)の修道院で没している。コロンブスがインディアスに初めて到達したのは、一四九二年、ラス・カサスが一八歳の年である。ラス・カサスはその約十年後の一五〇二年に初めて渡り(父ペドロは、一四九三年九月、コロンブスの第二次航海に参加している)、それ以来死ぬまで、そのほとんどの時間をインディアスの地で布教に関わって過ごしたのである。

セビーリャ

 その彼が『インディアス史』を書き始めたのは一五二七年であり、死の直前まで書き続けたのだと思われる。この『インディアス史』の序言には、あと数日で六三年間この歴史書を書いていると記しているところがある。彼は十分調査をして書いたと、自身でそう言っているのだ。この『インディアス史』は非常に信頼の置ける歴史書だと私は思う。

 ところがなんと、この『インディアス史』が世に出たのは、ようやく一八七五年〜七六年だったと言うのだ。これは明治八・九年、福沢諭吉の時代である。それまで三〇〇年間伏せられていたということである。ヨーロッパもこんな世界である。真実の本は表に現れない傾向にある。とは言え、世に出ただけでも幸運だったと神に感謝しなければならない。

 それはともかくここで判るのは、ヨーロッパ人が書き残した記録や歴史書にはどうも間違いやでたらめが非常に多くありそうだということである。しかしそれはある意味、考えてみれば、当然のことかもしれない。間違いやでたらめである書物ほど、ある意味では理解しやすくあるいは面白い。娯楽や政治的プロパガンダを求める世であれば、それは大いに受け入れられることになる。そうすると、その間違いやでたらめが常識として世間に広がるというものである。

 ラス・カサスは一六世紀の人であった。彼は、その博学によって歴史書のでたらめさを知り我々にそれを教えてくれた。我々はラス・カサスなどの信頼のおける歴史書を基点として、現代に至るまで、でたらめの歴史書が次から次へと書かれてきたことに十分な注意を払いつつ、そのうえで慎重に歴史を見直す必要がある。

●ルネサンス(Renaissance)という時代

 ある歴史書(樺山紘一『世界の歴史16・ルネサンスと地中海』中央公論社、一九九六年)によると、ルネサンスの年代は、

@助走期    :一三〇〇年  〜 一三七〇年代まで
A春(前期)  :一三七〇年代 〜 一四五〇年代まで
B夏(最盛期) :一四五〇年代 〜 一五三〇年代まで
C秋(後期)  :一五三〇年代 〜 一六一〇年代まで

ということだそうだ。

 ちなみに、ルネサンス人と言われている人の生存年を挙げてみると、

     

ダンテ       ペトラルカ    ボッカチオ    ダ・ヴィンチ
・ダンテ・アリギエーリ    (Dante Alighieri、一二六五〜一三二一)
・フランシス・ペトラルカ (Francesco Petrarca、一三〇四〜一三七四)
・ジョバンニ・ボッカチオ (Giovanni Boccaccio、一三一三〜一三七五)
・ロレンツォ・デ・メディチ(Lorenzo de' Medici、一四四九〜一四九二)
・レオナルド・ダ・ヴィンチ (Leonardo da Vinci、一四五二〜一五一九)
・ミケランジェロ・ブオナローティ(Michelangelo Buonarroti 、一四七五〜一五六四)
・ラファエロ・サンティ  (Raffaello Santi、一四八三〜一五二〇)

となる。

   

ロレンツォ・デ・メディチ  ミケランジェロ    ラファエロ

 コロンブス(一四五一〜一五〇六)がインディアス(アメリカ大陸地域)に到達したのは、一四九二年である。バスコ・ダ・ガマ(一四六九〜一五二四)が喜望峰を回ってインドに到達したのは、一四九八年である。こうしてみると、新大陸・新航路「発見」の、コロンブスやバスコ・ダ・ガマが生きた時代は、ルネサンス最盛期の時代である。コロンブスとロレンツォ・デ・メディチおよびレオナルド・ダ・ヴィンチが同世代である。つまり、大航海時代(The Great Navigation)はルネサンスと同時代である。

 このルネサンスという時代はどういう時代だったのであろうか。ルネサンス時代とは、文芸復興時代であり、芸術の時代とされているが、本当にそうであろうか。ここで、ルネサンスという時代はどういう時代であったか、もう一度見直しをしてみたいと思う。

●ロレンツォ・デ・メディチの生涯

 ロレンツォ・デ・メディチ(Lorenzo de' Medici、一四四九〜一四九二)は、イタリア・フィレンツェのルネサンス期におけるメディチ家最盛時の当主である。王とか爵位の公的な肩書き(称号)はなかったが、当時のフィレンツェ共和国を実質的に統治した男である。

 一四六九年、父ピエロ(Piero di Cosimo de' Medici)が死ぬと、そのあとを継ぎ二〇歳でメディチ家当主となり、事実上、フィレンツェの最高支配者となった。ロレンツォの権勢は大変なもので、彼の馬具や衣類は全部金製であったそうである。彼こそルネサンス的な人間の一典型であったと言われている。

 しかし、当時はすでに中世とはちがう。当時の最高支配者は、内外に敵は多かった。凡庸な者は皇帝といえどもすぐその地位を追われる。能力のないものは後継者になれないし、すぐれた者は反対に暗殺、毒殺の危険にたえずつきまとわれる。そういう時代だった。ロレンツォもその地位を保つためには、たえず内外両面の危機を克服してゆかねばならなかった。

 彼はよき助言者であった弟ジュリアーノ(Giuliano de' Medici)と共同統治者としてフィレンツェ共和国を支配していたが、一四七八年、ミサへ行ったとき暗殺隊に襲われた。彼自身は単身数人をたおし、血路を開いて帰館できたが、彼より剣の妙手であるといわれた弟は行方不明となり、数日後、市中を縦貫するアルノー川に一九カ所も切りさかれたその惨殺死体が浮かび上がったという。

ジュリアーノ・デ・メディチ

 これは世に「パッツィ家(The Pazzi Family)の陰謀(The "Pazzi" conspiracy)」と呼ばれる事件である。もう少し詳しく述べると、事件は、一四七八年四月二六日、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(Basilica di Santa Maria del Fiore)でのミサの席上、起こされた。

サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂

 サルヴィアーティ(ピサ大司教)とフランチェスコ・デ・パッツィ(パッツィ銀行ローマ支店長)らがメディチ兄弟を襲撃し、ロレンツォの弟のジュリアーノを殺害した。ロレンツォは傷を負うが、かろうじて難を逃れた。暗殺者らは市民にメディチ家への反乱を呼びかけるが失敗した。ロレンツォは即時関係者を捕らえて即刻処刑した。パッツィ家関係者らへのその報復は容赦の無いもので、パッツィ家当主をはじめ一〇〇人近くを捕らえて、処刑したという。

 この事件の背景には、ローマ教皇(Papacy)がいた。ローマ教皇シクストゥス四世(Sixtus IV、在位一四七一〜一四八四年)がフィレンツェに近い要所であるイーモラ(Imola)を買収したことなどから、フィレンツェの実質的な支配者ロレンツォの政策と対立するようになった。シクストゥス四世は、教皇庁の金融を担当していたメディチ銀行の地位を奪い、ライバルで同じフィレンツェに本拠を置くパッツィ銀行に委譲した。

シクストゥス四世

 メディチ家の権勢の源泉は、祖父以来のこの教皇庁の金融担当であった。メディチ家としては致命的な痛手である。シクストゥスはメディチ家が強大になり過ぎたと警戒したのであろう。これによりメディチ家とパッツィ家の対立が激化した。

フランチェスコ・サルヴィアーティ

 その後、パッツィ一派のフランチェスコ・サルヴィアーティ(Francesco Salviati)がピサ大司教に任命されたが、ロレンツォはこの赴任を妨害した。当時、斜塔で有名なピサはフィレンツェ共和国の領土であった。ここに至ってパッツィ家はロレンツォを亡き者にしようと陰謀をめぐらせたのだ。この計画はローマ教皇も知っていたはずであろう。

 この事件の結末にパッツィ家と結んでいた教皇シクストゥス四世は激怒した。フィレンツェを破門し、ナポリ王国(Kingdom of Naples)と同盟して宣戦布告した。これをパッツィ戦争と言う。

 一四七九年、シクストゥス四世のローマ教皇軍とナポリ軍は連合してフィレンツェに襲いかかり、ヴェネツィア、ジェノヴァもこれに呼応した。四面に敵をうけたフィレンツェは窮地におちいり、ロレンツォの身辺もまた危険になった。大司教も内通していたのである。絶体絶命の境地におちいったロレンツォは、当面の敵と和するため、わずかの従者をしたがえてナポリにおもむき、自国の危機を率直に告白するとともに和平を説いた。

 ナポリの王フェルナンドは、その勇気に驚き、いったん捕虜としたものの、結局、これほどの男を殺すより味方にした方がよいと思ってその申し出を承諾し、ロレンツォにフィレンツェへ帰ることを認め、かくして一挙にフィレンツェ包囲陣は崩壊した。こうしてロレンツォはこの異常とも見える果敢な行動で危機を脱したのである。

 このフィレンツェの最高支配者ロレンツォは、日本で言えばまるで戦国武将のようである。このロレンツォは詩が好きだったそうである。西洋史学者の会田雄次は次のように書いている。

(引用はじめ:『世界の歴史』中央公論社、一九六一年)

 ロレンツォは詩が好きで、自分でも作り、人にも朗唱させた。その彼が、豪華な宴会のときも、戦いの最中も、小声でたえず自作のつぎの小句をくりかえしていたという。

 「青春はうるわしくも、あわれはかなきかな。今をたのしみてあれ、何事も明日(あす)ありとはさだかならねば」

 それは、……つねに危険に身をさらすことを生甲斐とし、現実に対し全力をあげて対決しようとする「男の歌」である。彼は戦争のときはつねに前線に出、彼が現われると士気百倍したといわれる男なのだから。

 「人生の目的は、喜びも、かなしみも、苦悩も知らず無為に長命することにあるのではない。永遠とはこの一瞬にある。この一瞬を完全に生きることにある」

 死中に活を求めた「この一瞬」こそルネサンスの哲学が最後に到達した境地ではないだろうか。(二八〜二九ページ)

(引用おわり)

 これはまるで、『敦盛』を舞い愛唱したという信長と同じではないか。会田は、「私は彼が好きである。彼はちょうど日本の信長と秀吉をごっちゃにしたような性格を持っている。鋭さと果断力、新鮮な教養という点で信長、包容力の大きさ、明るさ、豪華好みという点で秀吉に、そして淋しがりやという点では両者に似ている」と述べている。

 当時はまるで戦国・戦乱の世のようである。

●ルクレツィア・ボルジアの場合

  

ルクレツィア・ボルジア   アレクサンデル六世 

 ルクレツィア・ボルジア(Lucrezia Borgia、一四八〇〜一五一九年)は、かの悪名高いローマ教皇アレクサンデル六世(Alexander VI、一四三一〜一五〇三)の子で、チェーザレ・ボルジア(Cesare Borgia、一四七五〜一五〇七)の妹であった。絶世の佳人として有名であった彼女は、父と兄のため三度の政略結婚を強いられた。チェーザレは父アレクサンデル六世の下でその任命を受けてローマ教会軍を指揮した男である。

チェーザレ・ボルジア

 まず教皇アレクサンデル六世(在位一四九二〜一五〇三)は、ミラノ公国と結ぼうとして、就任早々の一四九三年、わずか一三歳のルクレツィアをスフォルツァ家のジョヴァンニ(Giovanni Sforza)に嫁がせた。その後、教皇がナポリと近づこうとしたとき、ナポリの宿敵スフォルツァ家との結合があると都合が悪いため、彼女の離婚が宣言された。しかも、自分は男子として無能であるがゆえに彼女は処女であるという証明をジョヴァンニに書かせた。

 そのように無理やり離婚をさせられた後、ルクレツィアは、ナポリの王アラゴン家のアルフォンソ二世の息子アルフォンソ・ダラゴーナ(Alfonso d'Aragona)と結婚させられた。一四九八年、ルクレツィアが一八歳のときである。この結婚は幸福であったらしいが、兄チェーザレはアルフォンソ・ダラゴーナを暗殺した。彼女の美貌を利用してフェラーラ公国(Ferrara)のエステ家の後嗣(あとつぎ)アルフォンソ(Alfonso d'Este)と結婚させるためであった。エステ家の使者を招いて舞踏会が開かれた。舞踏会は、ルクレツィアの美貌をお披露目する場になった。

 こうして一五〇二年、まだ二二歳の美しいさかりのルクレツィアは、エステ家の公妃となり、その美貌と才知ゆえに社交界の花形として君臨する。彼女は一五一九年、三九歳で未熟児の女児を出産したのち、病をこじらせ、子供とともに死去したという。細かなことは本当かどうか不明だが、おおよそはこういうことだ。

 会田は、次のように言っている。

(引用はじめ:前掲書)

 ルクレツィアのこの話は、浅井長政に嫁(か)し、夫を兄に討たれたのち柴田勝家に嫁し、秀吉にせめられ夫とともに自刃(じじん)した信長の妹のお市の方や、秀頼に嫁し、大坂落城のさいに救い出されて本多忠刻(ただとき)に嫁し、すぐ死に別れて吉田御殿の伝説を生んだ家康の孫千姫(せんひめ)などの薄幸の美人を思いださせる。(一三三ページ)

(引用おわり)

 薄幸かどうかはともかくとして、このルクレツィアはお市の方や千姫とよく似ていると言えるだろう。

 このアレクサンデル六世の時に、コロンブスのインディアス(アメリカ)「発見」がなされたのである。そしてスペインとポルトガルとの世界分割協定となった、一四九四年のトルデシリャス条約を承認したのは、アレクサンデル六世だった。

 この当時はローマ教皇軍とかローマ教会軍とかがあって、アレクサンデル六世は、教皇領内外の俗事に介入し、各地に派兵する有様だった。その軍の司令官は身内のボルジア家の人々を登用していた。息子のチェーザレは二五歳で、教会軍総司令官になっている。アレクサンデルは、フランス王シャルル八世のイタリア侵入を招いたり、それを追い返すのに努めたり、小領主の領地を没収したりと、そういうことに明け暮れていた(これらの動きは非常に激しく複雑を極め、それらを書き切ることは到底できない)。そういうものがルクレツィアの政略結婚の背景にあった。

 ここで見えてくるのは、どうやら「愛と平和」を掲げる宗教界(精神界)のトップが傭兵軍を持ち、それを動かしてあちこちで宣戦布告していたということである。ここでは、ルクレツィアがお市の方や千姫とよく似ていたことと同時に、このローマ教会に実態を押さえておくべきであろう。

(つづく)