「125」 論文 ヨーロッパ文明は争闘と戦乱の「無法と実力の文明」である(5) 鳥生守(とりうまもる)筆 2011年1月14日
●ローマ帝国を悩ませた大帝国ササン朝(二二六〜六五一)
長い間中東を支配したパルティアも後三世紀前半に「ササン朝(Sassanid)」により倒される。伝統的な農業社会の復活をめざして建てられたササン朝は、かつてのアケメネス朝の復興をめざす復古的王朝であった。ササン朝ではイラン人の間に浸透していたゾロアスター教(Zoroastrianism)が国教とされ、王は創造神にして光明神アフラ・マズダ(Ahura Mazda)の代理人として自らを権威づけた。王は神としての大掛かりな儀式ときらびやかな装飾で身を飾り、奴隷としての官僚を支配した。
ササン朝の版図(赤)
中東の広大な砂漠地帯の交易を支配したササン朝は、隣接する中央アジアの「シルクロード(Silk Road)」の交易をも支配し、東西文明に大きな影響を与えた。東西交易を積極的に行うことで、広範囲の文化交流を推し進めたのである。たとえば、ゾロアスター教は唐帝国(六一八〜九〇七)に伝えられて「ケン教(けんきょう)」と呼ばれて流行し、ローマ帝国で異端とされたネストリウス派キリスト教もササン朝経由で伝えられ、「景教(けいきょう)」として信仰された。
シルクロード
また、ゾロアスター教と仏教を融合することで生まれた「マニ教(Manichaeism)」は、西はアフリカ北部、フランス南部、東は中国にまで伝えられた。ササン朝の文明が地中海世界から中国までの広い範囲に及んでいたことがわかる。唐代中期は、イスラーム勢力の勃興にともなう亡命者が多かったこともあり、唐帝国(六一八〜九〇七)の都・長安ではイラン風文化が大流行した。シルクロードを通って長安に伝えられたササン朝の精巧な金銀細工、ガラス器、織物などの一部は海を渡り、遣唐使などの手で日本にも入った。東大寺の正倉院に収蔵されている獅子狩文錦(ししかりもんにしき)、あるいはイランの銀器のデザインを真似た漆胡瓶(しっこへい)などである。
獅子狩文錦 漆胡瓶
ササン朝(二二六〜六五一)は衰退期に入ったローマ帝国、さらにビザンツ帝国〈本当はローマ帝国〉と頻繁に戦い、三〇〇年間の長きにわたって戦闘を繰り返した。三世紀後半には七万人のローマ兵を皇帝もろとも捕虜にして中央アジアに送るなどの大勝利を得、領土を小アジアからインド北西部にまで広げた。しかし、ササン朝もビザンツ帝国〈本当はローマ帝国〉との間に繰り広げた多くの戦争により弱体化する。
これをビザンツ帝国〈本当はローマ帝国〉からみると次のようになる。コンスタンティヌス大帝(Constantine the Great、在位三一〇〜三三七)は、ソリドゥス金貨(Solidus)、すなわちノミスマにもとづく新貨幣制度をさだめて効果をあげ、それは一一世紀半ばまで国際通貨として存続した。四〜六世紀までつづいた商業の繁栄は多くの古代都市に活気をもたらした。農業では大領地が支配的であり、重税によって多くの土地が放棄されはしたものの、生産力をたもちつづけた。いっぽう、教会は広大な領地を獲得し、帝国の歴史のほとんどの時代を通じて、皇帝自身とならぶ最大の土地所有者であった。皇帝は商業と手工業の団体についてばかりでなく、貴金属の品質と供給についてもきびしく規制し、それが経済生活の特徴をなしていた。
コンスタンティヌス大帝 ソリドゥス金貨
ユスティニアヌス一世(Justinianus I、在位五二七〜五六五)と妃テオドラはローマ帝国がかつて有していた西半分の国土を復活させようとした。そして、多大な犠牲をはらったすえ、五三四〜五六五年の間に、北アフリカ、イタリア、シチリア、サルデーニャ、それにイベリア半島の一部をとりかえした。また「ローマ法大全(Corpus Juris Civilis)」の編纂や歴史学の隆盛にも意をつくした。しかしこのような努力は、公共建造物と教会(とりわけコンスタンティノープルのハギア・ソフィア Hagia Sophia)の建立に要した莫大な出費とあいまって、国力を疲弊させ、しかもその間に疫病が蔓延(まんえん)して、人口も減少した。五、六世紀には帝国はゲルマン人やフン族の移動と侵入の脅威をしりぞけ、ササン朝ペルシアに対して東部国境をまもることに成功したが、地中海世界全体を回復するにはいたらなかった。
ユスティニアヌス一世 ハギア・ソフィア
六世紀後半には、トルコ系のアバール人(Avars)の騎馬軍が侵入してバルカン半島のビザンティン領土の人口が減少したが、以前ビザンティン領土だったイタリアへもランゴバルド人(Langobards)が侵入し、ローマ、ラベンナ、ナポリとそれ以南をのぞく多くの地域が次々に占領されていった。七世紀になると、帝国の領土と文化は大きく変化した。バルカンの大部分はアバール人とスラブ人にうばわれた。マウリキオス(Maurice、在位五八二〜六〇二)の暗殺後、帝国内外で戦争が勃発(ぼっぱつ)した。
アバール人 ランゴバルド人
ヘラクレイオス帝(Heraclius、在位六一〇〜六四一)は六二八年の決定的な勝利によって、長くつづいたペルシアとの戦争に終止符をうち、ペルシアが占領していたシリア、パレスティナ、エジプトをとりかえした。しかし六三四〜六四二年には、新興のイスラーム教によってたちあがったアラブ人が、パレスティナ、シリア、メソポタミア、エジプトを攻め落とした。(引用者注:後述するように、六四二年、イスラーム勢力はササン朝ペルシアにも壊滅的打撃を与えた、という。)コンスタンティノープルは六七〇年代と七一七〜七一八年にアラブ軍の大包囲戦にたえ、小アジアのビザンティン領土もほとんど毎年のようにアラブ軍の襲撃を耐え忍んだ。(エンカルタ百科事典:「ビザンティン帝国」の項より)
ヘラクレイオス帝
ユスティニアヌス一世(大帝、在位五二七〜五六五)の領土拡張戦争(五三四〜五六五)は有名であるが、この頃のビザンツ帝国〈本当はローマ帝国〉の戦争はそれだけではなかったのである。この頃の中東とヨーロッパは戦争に明け暮れていたような雰囲気である。なお、このユスティニアヌス一世の領土拡張戦争では、味方にしていた東ゴート王国(Eastern Goths)を滅亡させ、キリスト教国の西ゴート王国(Western Goths)を攻めて南部を占領している。いつどこで戦争になるかわからない状態のようである。
六世紀後半から七世紀にかけてのビザンツ帝国〈本当はローマ帝国〉とササン朝の双方の帝都を攻撃する激戦で、ペルシア湾からユーフラテス川を経由して北上する交易路が衰える。代わりに紅海からアラビア半島西岸(ヒジャーズ)地方からシリアにいたるラクダを使った隊商(キャラバン)貿易が盛んになった。つまりメッカが商業路になった。そういうことで、六世紀の後半のムハンマド(マホメット)の時代になって、ムハンマドの生誕の地メッカの商業が軌道に乗ることになった。それまでメッカのカーバ神殿(The Kaaba)は高さが人間の背丈ほどで、屋根もなかったという粗末なものだったが、ムハンマドの青年時代にそのカーバ神殿が立派に建て替えられるのだった。
ところで急激に成長する社会には歪みがつきものである。ムハンマドの時代には商業が盛んになって欲望が肥大化し、社会的弱者がかえりみられなかったのだ。そうした社会に違和感を持ち続けたムハンマドは、やがて「最後の審判(Last Judgement)」が近いという終末観を強く抱くようになり、イスラーム教を創始したのである。このように、ビザンツ帝国とササン朝の長期間の激戦が、イスラーム教を誕生させたと言えそうである。
このようにしてムハンマド(マホメット)は四〇歳の六一〇年に、アラビア半島の生誕の地メッカで「イスラーム教」を創始したのである。日本でいえば聖徳太子の時代、小野妹子を遣隋使として隋帝国の煬帝の下に遣わしたころ(六〇七年)である。最初の一〇年間の布教で得られた信徒は約七〇人に過ぎなかった。それでも部族の長たちにとっては新興の教えを看過できず、圧力をかけた。ムハンマドは一族からはじき出され、身の危険が迫った。そこで六二二年に、ムハンマドと信徒たちは安全を期すために散り散りに、約九日間をかけて北に約三五〇キロ離れた火山台地のオアシス、ヤスリブ(後に「預言者の町」という意味のメディナと改称される)に移住した。(以後メディナは、正統カリフ時代〔六三二〜六六一〕までの首都となる。)
この移住は功を奏し、新拠点のヤスリブ(メディナ Medina)でイスラーム教団は驚異的な成長をとげた。後にこの「移住」は、「従来の人間関係を一切断ち切って新しい人間関係に入る」という意味で「ヒジュラ(Hijra)」と呼ばれ、第二代カリフの時期に定められたイスラーム暦では、ヒジュラの年(西暦六二二年)を紀元元年と定めている。以後教団はメッカ商人を襲い、その商品を略奪して生計を立てた。メッカ商人とイスラーム商人は敵対を続けるが、六三〇年には軍事面でイスラーム教団の優位は決定的になった。
優位に立ったムハンマドは一万人の軍勢を率いて戦意を失ったメッカ(Mecca)を無血占領し、メッカのカーバ神殿と黒隕石をイスラーム信仰の中心に据えた。これがメッカ征服であり、ここにイスラーム教団の財政基盤を確立したのである。これで、アラビア半島支配体制が固まったのである(六三〇年)。六三二年、ムハンマドはメッカ巡礼におもむき(「別離の巡礼」と呼ばれ、現在のメッカ巡礼の基本形となる)、その後ヤスリブ(メディナ)に戻って三カ月後に六二歳で世を去った。急死だった。
●正統カリフ時代(六三二〜六六一)
ムハンマドの死後、ムハンマドの親友のアブー・バクル(Abu Bakr、在位六三二〜六三四)が選ばれて初代カリフ(Caliph)となって、教団の指導者を継いだ。「カリフ」(アラビア語の「ファリーファ」)とは「ムハンマドの代理人」、「神の使途の代理人」、「後継者」の意味である。アブー・バクルは、たった二年間という短い在任期間中にアラビア半島内の反イスラーム勢力を破り、アラブ遊牧民に利権を与えて結束をはかる目的で、「ジハード(Jihad)」の名目によるイラク南部やシリアへの遠征を開始した。長期の戦争がもたらしたビザンツ帝国〈本当はローマ帝国〉とササン朝の弱体化につけいった形である。なお、「ジハード」のアラビア語の意味は「定まった目的のための努力」であり、イスラーム教の信仰を広める意味で、精神的善行、修行など広い意味を含むのである。
アブー・バクル
第二代カリフには、反イスラームの急先鋒から一転して熱心な信者になったウマル・イブン・ハッターブ(Umar、在位六三四〜六四四)が選ばれた。この、個人の栄達を考えない一本気なウマルの時代(十年間)に、イスラーム教団はビザンツ帝国〈本当はローマ帝国〉の反撃を打ち破り、シリア(六三六年)、パレスティナ(六三六年)、エジプト(六四二年)を奪い取った。さらにササン朝ペルシアにも壊滅的打撃を与えた(六四二年)。ウマルの生活は至って質素だった。夏冬二着の粗末な衣服で一年間を過ごし、護衛もつけずに普通の家で生活をしていたという。
アラブ人の征服活動は、砂漠を足場にして行っていった。農民にとって砂漠は恐怖に満ちた空間で、簡単には立ち入れなかったが、砂漠の遊牧民にとっては生活の場所だった。アラブ軍は、軍隊の移動、物資の補給、戦局が不利になった時の逃避先として砂漠を利用したのである。遠征の拠点となった都市(軍事都市、ミスル Misr)が、砂漠のフチに設けられた。そこから出撃して周辺の地域を征服、支配したのである。イラクのバスラ(Basra)、エジプトのフスタート(現在のカイロ Cairo)などは、代表的な軍事都市である。イスラーム教団は砂漠の出口に「軍事都市」という「港」を設け、そこから背後の大農耕地帯に進出したのである。征服は砂漠を利用して行なわれた。
第三代カリフに選ばれたのは、ウスマーン・イブン・アッファーン(Uthman、在位六四四〜六五六)である。ウスマーン治下の六五〇年頃まで、アラブの征服は順調に進んだ。ササン朝ペルシアは六五一年に滅亡し、東はペルシアの大部分とアフガニスタン西部、北はカスカス、西はシリア、エジプトを経て北アフリカのリビアにいたる地域が、イスラーム教団の支配下に入ったのである。ウスマーンは豪商ウマイヤ家(Umayya)の出身で、このアラブ社会の大変動の中で、莫大な財産を蓄えた利にさとい人物だった。
ウスマーンはムハンマドの娘ロカイヤを妻とするが、ロカイヤが病没すると、さらに彼女の妹をめとっている。大領域を征服することで莫大な富を手にするようになった教団内では貧富の差が拡大した。ウスマーンは一族、縁者を枢要なポストにつけ、有力部族の間で利権を分配した。当然、遠征による利権の配分を受けない信徒たちのウスマーンへの恨みは募り、ウスマーンは暗殺される。
この時代、六五〇年代のはじめに、ムハンマドが四〇歳の時に天使ガブリエルの啓示を受けて以来、二三年間語り続けた神の言葉を集めた『コーラン』(Qur'an)がまとめられた。この時代、ササン朝は滅亡した(六五一年)。これによってイラン人は中東の支配権を新興アラブ人に譲り渡すことになった。これで一〇〇〇年以上続いたイラン人の覇権の時代の終焉である。中東の宗教ゾロアスター教は信仰儀礼などの面でイスラーム教徒の類似性が高かったため、このイラン人とともに中東を制したゾロアスター教も、イスラーム教に吸収される形で消滅した。当時ササン朝は三〇〇年間も、ローマ帝国(ビザンツ帝国)との激戦を繰り返したということだが、これはローマ帝国(ビザンツ帝国)の方がひたすら攻撃を続けたということではなかろうか。ササン朝はただ受けて立たざるをえなかったということではないのか、と私には思われる。当分はその可能性を考えておきたい。
第四代カリフの地位には、アリー・イブン・アビー・ターリブ(Ali、在位六五六〜六六一)が選ばれた。アリーはムハンマドの従兄弟であり、ムハンマドの娘ファーティマの娘婿であり、ハーシム家(The Hashemites)の人物であった。アリーは「神の獅子」と呼ばれる勇猛な人物であり、兵士たちは教団の再編成を期待した。既得権を持つシリア総督、ウマイヤ家のムアーウィアはアリーのカリフ就任に強く反対し、親戚のウスマーン暗殺の復讐を呼びかけ、戦争になった。アリーは戦場でウマイヤ家の軍隊を圧倒したが、『コーラン』を掲げて交渉による和解を求めたムアーウィアの提案に乗ってしまった。それでアリーは不満を持った兵士によって暗殺されてしまった。
アリー暗殺後、シリアに本拠を構えたウマイヤ家のムアーウィアがカリフを称した。シーア派は第四代カリフのアリーを、「イマーム(Imam)」(アラビア語で指導者、規範の意味をもつ)と呼び、初代イマームとした。アリーの長男ハサンが「イマーム」を継いだ(第二代イマーム)。アリーの次男フサイン(第三代イマーム)はウマイヤ軍を倒すためイラクに向かって進撃したが、カルバラーで包囲され全滅した(六八〇年)。ナジャフの北西七〇キロのカルバラーにはフサイン・モスクが立てられて聖地になっている。その後、ムアーウィアは、ウマイヤ家でカリフをたらいまわしにする。ここにイスラーム帝国は王朝化し、シリアの大都市ダマスクスを首都とする「ウマイヤ朝」(六六一〜七五〇)が始まる。
なおシーア派(Shia Islam)の人々は、預言者ムハンマドの後継者は、あくまでもムハンマドとの血のつながりを持ったハーシム家でなければならないとして、アリー以外のカリフを否定し、正統な後継者をカリフと区別して「イマーム」と呼んだ。アリーが初代イマームというわけである。第四代カリフのアリー(初代イマーム)のところでシーア派が主流派から分離したのである。ハサンが第二代イマーム、フサインが第三代イマームとされた。第四代以降一二代までのイマームは、フサインとイラン人のササン朝ペルシアの最後の王の娘との間に生まれた子の子孫とされた。これらのイマームはスンナ派(Sunni Islam)に毒殺されたり、獄中死したりするなど悲劇的な末路をたどったと、シーア派の人々は主張する。「シーア」というのは、アラビア語の「シーアット・アリー」(アリーの党派)の略で、「党派」の意味である。
アリーの墓があるバグダードの南約160キロのナジャフ(Najaf)は、シーア派の聖地になっている。シーア派に対して多数派をスンナ派というが、「スンナ」とは預言者ムハンマドのスンナ(慣行、範例)に従う人々の意味である。一六世紀に成立したイランのサファヴィー朝(一五〇一〜一七三六)は、シーア派を国教とした。イラン人の間にシーア派が浸透するのは、それ以後である。
ナジャフにあるモスク
●ウマイヤ朝(六六一〜七五〇)
六六一年にシリア総督ムアーウィアがシリアの大都市ダマスクスを首都として創建した「ウマイヤ朝」(六六一〜七五〇)は、旧ビザンツ帝国のシリアと旧ササン朝ペルシアのイラクという二大中心地の対立を埋める形で、シリアを中心とした旧ビザンツ帝国〈本当はローマ帝国〉の継承国家として出発した。ウマイヤ朝では、初代カリフのムアーウィア(在位六六一〜六八〇)を補佐した秘書長官がキリスト教徒のシリア人だったことから判るように、ビザンツ帝国〈本当はローマ帝国〉の行政機構がそのまま引き継がれたのである。
ウマイヤ朝は、土地税徴収のための機構を整え、政府が農民から土地税を徴収し、役所に登録された特権的アラブ人戦士に、安定して年金を支給できる体制を整えた。ウマイヤ朝では、征服地は神がイスラーム共同体に与えた戦利品(ファイ)であると主張され、農民は単に土地の占有者に過ぎないとみなされて重い税が課せられた。ハラージュ(土地税)、春分・秋分の贈り物・水車の使用料・結婚税などの雑税を合わせると、収穫物の半分に及んだとされている。それに対して、アラブ人地主は収穫の一〇分の一の税を負担するのみでよく、農地経営で優位に立った。
ウマイヤ朝の下で、重い土地税負担にあえいでいた非アラブ農民は大挙して農村を逃れて都市に集まり住み(先に見たビザンツ帝国と同じようである)、年金の支給を求めてイスラームに改宗した。こうした非アラブ人のイスラーム教改宗者たちを「マワーリー(Mawali)」という。八世紀初めまで、ウマイヤ朝は非アラブ人のイスラーム教への改宗を認めなかったが、それにもかかわらずマワーリーは急激に数を増し、アラブ人の人口をはるかにしのぐにいたる。マワーリーはアラブ人から差別され、その生活状況も劣悪だったのでウマイヤ朝に不満を持ち、シーア派などによる反体制運動の中心となった。そこでウマイヤ朝は、東はソグド地方、インダス川流域、西は北アフリカ、イベリア半島に向けての遠征を再開し、マワーリー戦士を巧みに利用した。アラブ人との差別に不満を持つマワーリーをなだめるため軍事都市への定住を認め、税の支払いを免除したのである。
結局ウマイヤ朝時代の出来事は、次のようになる。
初代カリフのムアーウィア(在位六六一〜六八〇)の時の、六七三年から六八九年まで数年にわたって、ビザンツ帝国〈本当はローマ帝国〉のコンスタンティノポリスを包囲したが失敗。第二代カリフのヤズィード一世(在位六八〇〜六八三)の時の六八〇年に、上述のフサインの反乱をカルバラーで制圧する。第五代カリフのアブドゥルマリク(在位六八五〜七〇五)の時の六九七年に、北アフリカのほぼ全域を支配し、第六代カリフのワリード一世(在位七〇五〜七一五)の時の七一一年にイベリア半島のゲルマン人国家西ゴート王国(四一五〜七一一)を滅ぼした。第八代カリフのウマル二世(在位七一七〜七二〇)のときの七一八年に、東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスを大規模艦隊と陸軍で包囲したものの敗北し、遠征軍は壊滅する。第一〇代カリフのヒシャーム(在位七二四〜七四三)の時の七三二年に、フランク王国とのトゥール・ポアティエ間の戦いに敗北する。
大征服運動が一段落すると、アラブ兵士の収入の道がとだえた。生活に困窮する年のマワーリーが増加し、アラブ人の既得権益を守ろうとする部族と貧しい部族の争い、さらにマワーリーによる反体制運動が激化していく。広大な帝国はどうしようもない混乱におちいり、政府支配が直轄地のシリアでさえ行きわたらない状態になった。そうした中でウマイヤ家の支配を否定し、預言者ムハンマドのハーシム家こそが教団の指導者になるべきだとする運動が、イラン高原を中心に激しさを増した。運動が激化する中で主導権を握ったのが、ムハンマドの叔父アッバースの子孫の一族だった。アッバース家は、それまではパレスティナ南部の弱小部族に過ぎなかった。
第一四代カリフのマルワーン二世(在位七四四〜七五〇)の七五〇年に、イランのシーア派反体制勢力は改宗ペルシア人を組み込んで勢力を強め、七四九年にイラク中部のクーファを占領してアッバース家のアブー・アルアッバースを初代カリフとする新王朝を立てた。新王朝は、翌七五〇年にウマイヤ朝を倒すことになる。それが「アッバース朝」(七五〇〜一二五八)である。
●アッバース朝(七五〇〜一二五八)
シーア派の反体制運動を利用して新王朝を建てたアッバース家(the Abbasids)であったが、安定政権を樹立するために多数派を味方につけることが必要と判断して、なんとシーア派を弾圧し、スンナ派に寝返った。他方でアッバース朝は、アラブ人の特権を取り除く必要にかられ、アラブ人に対する年金の授与や免税特権の廃止に踏み切った。『コーラン』に基づくイスラーム教徒の平等にも努め、イラン人など非アラブ人の有力者を役人として積極的に取り込んだ。弱小部族による支配の補強に努めたのである。結果的に、征服王朝としてのアラブ帝国(ウマイヤ朝)が、イスラーム原理により諸民族が平等に統合されるイスラーム帝国に姿を変えた。世に「アッバース革命」と言われている。
イスラーム世界はこの「アッバース革命」によって、八世紀中頃に一〇〇年あまり続いた政治・軍事面での拡大期に続き経済発展期に入った。ウマイヤ朝がシリアを拠点とするビザンツ帝国〈本当はローマ帝国〉的色彩の強い国であったのに対し、アッバース朝はイラクを拠点にしてササン朝の諸システムをたくみに取り入れ、イラン人を同盟者として利用することで一時的に安定した体制を築き上げた。こうしてアッバース朝の時代には、かつての軍事都市が経済都市に姿を変え、帝国の諸都市の市場を結ぶ商業ネットワークは急成長をとげ、ユーラシア規模の大ネットワークに接続するようになった。もともと中東は、砂漠の民や草原の遊牧民、インド洋を往来する海の商人の活動と密接に結びついた大空間だったが、イスラーム教徒を平等に扱うアッパース朝の下で、商業活動の活性化、大規模化が進んだのである。
●平和をめざした都市・バグダード(七六二〜一二五八)
アッバース朝の第二代カリフのマンスール(七五四〜七七五)は、イラク南部のかつてのササン朝の首都付近に巨大帝国の管理センターとして、三重の城壁で囲まれた直径二・三キロの円形の要塞を築いた。安全の確保のためである。バグダード(Baghdad)の建設がはじまったのは七六二年からで、七六六年に完成している。円形都市の主壁は、基部の厚さ五〇・二メートル、高さ三四・一メートルもあり、内部に宮殿、カリフの一族の住居、巨大なモスク、諸官庁が設けられ、カリフと官僚、四〇〇〇人の兵士が居住していた。莫大な税が集中するバグダードの周辺には商人、職人などの庶民が集まり、やがて人口一五〇万人の大経済都市になった。
アッバース朝の最盛期の第五代カリフ、ハールーン・アッラシード(Harun al-Rashid、在位七八六〜八〇九)の時代のバグダードは『アラビアン・ナイト』の舞台であるが、「世界に肩を並べるもののない都市」として成長をとげ、市内には六万のモスク、三万近くのハンマーム(公衆浴場)があったとされる。バグダードは産業革命以前の最大の都市で、中東の商業網の中心になっただけではなく、海の道、シルクロードにもつながるユーラシアの経済センターでもあった。新しい帝都の「バグダード」という呼び名はペルシア語で「神の都」の意味であるが、帝都の正式名称はアラビア語の「メディナ・アッサラーム」(平和の都)である。その名には、血で血を洗うイスラーム教団内部の対立、アラブ人と被征服民の対立の時代を終わらせたいという願いが込められていた。当時のイラクは、もともとイラン人の勢力圏だったが、軍事力で征服したアラブ人が支配勢力として加わった。アラブ人とイラン人の協調をめざしたアッパース朝の下で、帝都は二つの呼び名を持ったのである。
イスラーム都市は、モスクと常設市場の「スーク」(アラビア語。ペルシア語ではバザール)を中心に建設され、市場の付近にはラクダなどで商品の輸送にあたる隊商のための宿屋(キャラバンサライ)が設けられた。都市の市場を互いに結ぶ巨大なネットワークが出現したのである。バグダードを中心とし、アラビア語を共通語、イスラーム法を共通ルールとする大商業圏だった。
(つづく)