「126」 論文 ヨーロッパ文明は争闘と戦乱の「無法と実力の文明」である(6) 鳥生守(とりうまもる)筆 2011年1月21日

 

●ユーラシアをつなぐ幹線道路

 バグダードの円形のセンターには、東西南北に四つの門が設けられ、そこから帝国の四方に幹線道路がのびていた。幹線道路には、さらに数百の道路がつながってイスラーム帝国の隅々を結んでいた。アッパース朝の下でバグダードから帝国領土を貫いてのび、周辺の「海の道」、シルクロード、草原の道、ロシアの「川の道」、サハラ砂漠縦断の「塩金貿易」の道につながる四つの幹線道路は、以下のようになる。

@パスラ道(Pasur)……バグダード東南部のバスラ門からユーフラテス川の河口、インド洋貿易の拠点港バスラにのびる。海の道を通り、東アフリカ、インド、東南アジア、中国からの物資の輸送道路だった。バスラからはアラビア半島にのびて、巡礼の道路ともなった。

Aホラーサン道(Khorasan)……バグダード東北部のホラーサン門からイラン高原にのびる。アッパース朝の最大の銀産地ホラーサン地方、第二の銀産地シャシュ(現在のタシケント Tashkent)にのびる「銀の道」であり、アフガニスタンを経由してシルクロードの中心、マー・ワラー・アンナフル(「川向こうの土地」の意味。現在の西トルキスタン)につながり、中国、インド、中央アジアの草原地帯、カスピ海東岸を経てロシアの森林地帯にもつながっていた。

Bクーファ道(Kufa)……バグダード西南部のクーファ門からアラビア半島にのびる砂漠の道。メッカ巡礼のための宗教道路であったが、アラビア半島南部の経済地帯イエメン地方(中心都市はアデン)にまでのびていた。

Cシリア道(Syria)……バグダード西北部のシリア門からシリアの経済都市ダマスクスにのび、さらにレバノン、ヨルダンを経由して大穀倉地帯エジプト、地中海貿易の中心港アレクサンドリアにいたった。エジプトからは北アフリカのチュニジア、モロッコへとのびた。道路はさらにジブラルタル海峡を渡り、後ウマイヤ朝が支配するイベリア半島のコルドバにつながっていた。支線としては、レバノンの諸港から地中海各地にいたる海上ルート、ナイル川上流のヌビア地方にいたるルート、サハラ砂漠を縦断して西スーダン地方にいたる「黄金の道」があった。

イラクの地図

 このように、幹線道路はユーラシアをつないだのである。ただし、ヨーロッパは近いにもかかわらず、この大交易圏、大商業ネットワークに加わっていない。ヨーロッパは自ら孤立する道を選んでいるとしか言いようがない。ヨーロッパは世界と共存する意思を持っていない、あるいは共存を拒否する思想であるのが判る。

●サハラ砂漠を南北に結んだ塩金貿易(七〜一四世紀)

 現在、アフリカには総人口の三五%を超える一億五〇〇〇万人以上のイスラーム教徒がおり、インドネシアやマレーシアなどからなる東南アジアに次ぐ、大イスラーム世界である。西アフリカでは現在も布教活動が盛んで、信者が増え続けている。こうした大イスラーム世界を生み出したのは、東南アジアと同様に、イスラーム商人の交易活動だった。サハラ砂漠を南北に結び、サハラ以南の豊かな金をサハラ砂漠で掘り出した岩塩と交換する大規模な「塩金貿易」が、サハラ以南のイスラーム化を進めたのである。

 サハラ以北からは「岩塩、馬、装飾品、衣類、穀物、陶器」が、サハラ以南からは「金、黒人奴隷、黒檀、象牙」などが運ばれた。多くのイスラーム商人を惹きつけた西スーダンの金の産出量は、はかりしれないものがあった。それを現在に伝えるのが、金を支配したマリ帝国の国王マンサ・ムーサ(Mansa Musa、在位一三一二〜一三三七または一三〇七〜一三三二)のメッカ巡礼である。

マンサ・ムーサ

 一万人から二万人の従者を引き連れ、ラクダ一〇〇頭に金を満載してメッカに向かった王は各地で気前よく黄金をばらまいた。その量が一〇トンにも及んだため、カイロの金価格が一時大暴落したともいわれている。西スーダンでは、宝貝、銅、塩、布地が貨幣として使われ、「金」は単なる商品であった。安く購入できたのである。

 商人の活動にともないイスラーム教がサハラ以南に持ち込まれるが、本格的なイスラーム化は一三世紀以降のスーフィー(Sufi、神秘主義者)の布教の結果であった。アラビア語で書かれた『コーラン』に基づく教義よりも心のあり方を重視するスーフィーの教えが、アフリカの人々にとって受け入れやすかったのである。そのためサハラ以南のイスラーム教には、各地の伝統的な習俗が組み込まれている。

 この塩金貿易は、七世紀から一四世紀まで長期にわたって続いている。一四世紀まででそれ以降途絶えているのは、ポルトガルの航海王エンリケ王子(Prince Henry the Navigator)による西アフリカ南下が原因だろう。ポルトガルの西アフリカ南下航海は、この西スーダン(サハラ以南)の金や象牙、奴隷の獲得を狙ってのものだったのである。

航海王エンリケ王子

●ユーラシアを貫く陸の大交易路オアシス・ルートの完成(七〜一〇世紀)

 砂漠の遊牧民と商人が共同で大農耕地帯を征服することにより成立したイスラーム帝国は、七世紀から八世紀にかけてサハラ砂漠の縦断交易を支配下に入れた。さらに七五一年には唐将の高仙芝が率いる三万人の軍を破り(タラス河畔の戦い)、シルクロードに手をのばす。

 その結果、サハラ砂漠・シリア砂漠・アラビア砂漠の交易路と、シルクロードが相互に結びつけられてアフリカ、アジアのオアシス諸都市をリンクする大交易路が成立することになった。ラクダを船とする広大な「砂漠の海」が一つに結びついたのである。この長大なネットワークはさらに、@地中海、Aロシアの「川の道」を通じてバルト海のヴァイキング世界、B中東の港を通じてアジアの「海の道」につながり、トルコ糸遊牧民が居住するカザフ草原、インド、中国にまでつながった。地中海から中国にいたる巨大な商業ネットワークができあがったのである。

 ネットワーク上の商業活動によりイスラーム教はユーラシアの広い地域に広まったが、それは海の世界と同様だった。中央アジアの広い範囲に居住するトルコ人のイスラーム化に貢献したのが、シルクロードの中心地域マー・ワラー・アンナフル(「川の向こうの土地」の意味、ソグド地方)の商業民ソグド人(Sogdia)だった。ソグド人は、中央アジアのサマルカンド、ブハラを中心としたソグディアナ地域に居住していたイラン系民族である。アケメネス朝ペルシャ(前五五〇〜前三三〇)の一州となったころから、オアシス農耕、牧畜に従事し、東西交通の要所であることを活用して商人としても活躍した。独自の言語であるソグド語をもち、そのソグド文字からウイグル文字がつくられ、のちにモンゴル文字、満州文字の基礎となったといわれる。

ソグド人

 もともとソグド人はゾロアスター教の信者だったが、天国と地獄、世界の終末、最後の審判、一日に五度の礼拝などで共通面を持つイスラーム教に大挙して改宗し、交易を通じてトルコ人などの周辺民族の間にイスラーム教を広めたのである。トルコ人は、もともとシャーマニズムを信仰していたが、次第にソグド商業圏に組み込まれた。一〇世紀になると、神と人との合一を説くスーフィー(神秘王義者)の布教が盛んになる。伝承によると、九五〇年頃にカラハン朝の王がイスラーム教に改宗したのが最初で、次の王の時代の九六〇年になると、テントの数にして約二〇万のトルコ人が集団でイスラーム教に改宗したという。

●イスラーム経済圏と結びついたヴァイキング(九〜一〇世紀)

 ヴァイキング(Viking)三国とは、ノルウェー、スウェーデン、デンマークの三国である。そのスウェーデンとバグダードが交易で結びついていたというと唐突に聞こえるかもしれない。だが、バルト海の最深部で生活するスウェーデン系のヴァイキングは、イスラーム世界の豊富な物資と銀貨に引きつけられてイスラーム商人と盛んに交易をはじめた。イスラーム経済圏と交流したヴァイキングはスウェーデン人であり、かつてバルト海から上がった琥珀(こはく)をメソポタミアに送ったルートを利用して、アラブ人が求める毛皮や蜂蜜、スラブ人奴隷をバグダードに送っていた。

スカンジナビア地方

 ロシアは「雪の国」であり、モスクワの北西300キロにある標高340メートルの湿地帯からバルト海に注ぐ諸河川、そしてカスピ海に注ぐボルガ川などの諸河川が流れ出していた。ヴァイキングは、そうしたロシアの川の特性を巧みに利用し、バルト海とカスピ海という二つの海を結びつけたのである。カスピ海に注ぐボルガ川の河口まで行けば、アラビア語のわかるスラブ人奴隷がおり、そこで毛皮を売ることもバグダードで商売することも可能だった。ロシアの川の道が、主要な交易ルートになったのである。

ボルガ川

 スウェーデン系ヴァイキング(「船のこぎ手」の意味で「ルス(Rus)」と呼ばれた)は、毛皮交易路に沿って、ゴロド(Gorod、スラブ語で「壁で囲まれた集落」の意)をつくったが、草原地帯でトルコ系遊牧民の活動が活発になり、イスラーム商圏との間の貿易が阻まれると、森林地帯の集落を結び、毛皮の集散地ノブゴロドを中心とする「ノブゴロド公国(Novgorod Republic)」が八六二年に建国された。「ルス」は、ロシアという国号の起源になっている。やがて都が南のキエフ(Kiev)に移されて「キエフ公国(Kievan Rus')」と呼ばれるようになり、ヴァイキングの国は次第にロシア化した。

キエフ

 キエフ・ロシアは一〇世紀、ウラジーミル(Vladimir)が九八〇年頃に大公になると、盛んに軍事遠征をおこない、キエフ・ロシアの領土を大いに拡大した。そして九八八年にビザンティン帝国からキリスト教をうけいれ、ロシアの国教とした。その際、彼はビザンティン皇帝の妹アンナを后妃にむかえる条件で、彼自身もキリスト教に改宗した。この改宗によって、ヴァイキングとイスラームとの交易が一〇世紀で途絶えたのであろうか。

●「ダウ」と呼ばれる帆船によるインド洋航路の隆盛(八〜一五世紀)

 『アラビアン・ナイト』を代表する物語の一つが「船乗りシンドバッドの冒険」である。アッバース朝最盛期の第五代カリフのハールーン・アッラシード(在位七八六〜八〇九)の時代に商人としてインド洋に船出したシンドバッド(Sindibaad、インドの「シンド地方の旅人」の意味)は、インド洋、ベンガル湾、セイロン島などへ七回の冒険航海を行い莫大な富を得る。

 シンドバッドに象徴されるようなイスラーム教徒の冒険商人は、「ダウ(dhow)」という、逆風でもジグザグに前進できる三角帆を備えた船に乗り、アフリカ東岸から中国沿岸にいたる大海域に航路を開いた。東アフリカからはザンジバル島などを交易拠点として「ザンジ(zanj)」と呼ばれる黒人奴隷が大量に運ばれ、インドとの交易で米、綿花、砂糖、レモンなどがイラク地方にもたらされ、栽培された。

ダウ

 ダウによるイスラーム商人の貿易で、インド、スリランカ、東南アジアの港にイスラーム商人の居留地とネットワークが広がった。さらに一五世紀には東南アジアの交易センター、マレー半島のマラッカ王国の国王がイスラーム教に改宗したことから、取引先のインドネシアの島嶼(とうしょ)部にイスラーム教が広く浸透した。インドネシアの島々はかつてインド商人の交易圏だったこともあって、ヒンドゥ教、伝統宗教と混じりあった独特のイスラーム教が生み出された。現在、インドネシアでは人口の九割、約一億六五〇〇万人がイスラーム教徒であり、世界最大のイスラーム教国になっている。また、マレーシアの人口の六割、タイとミャンマーは約五%がイスラーム教徒である。

東南アジアの地図

 このインド洋航路は長い時間をかけて東南アジアさらに南シナ海、中国へと達しつつあった。この永続的で発展途上のインド洋航路も、ヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)の航海(一四九八年)以来のポルトガルの侵入、乱入によって途絶えることになった。

ヴァスコ・ダ・ガマ

●アッパース朝の衰退

 アッパース朝は、しばらくの間は多数を占めるイラン人との協調体制をとり、アラブ人の特権を廃止し、『コーラン』の下での平等を掲げることで安定していた。しかし、九世紀末になると、貧しい人々の不満が増大し、各地に地方政権が乱立し混乱していく。しかし、一五〇年もの長い期間、空前の繁栄をもたらしたアッバース朝の中東文明を、我々はもっと見直すべきだろう。貿易や産業がすぐにだめになる現代のヨーロッパ・アメリカ文明との違いをよく考えてみるべきだと思う。

 帝国を維持するには強大な軍事力が必要である。しかし、都市生活は兵士を無力化する。便利な生活、安逸と贅沢が兵士の活力を吸い取っていく。質実剛健な遊牧民の侵入、下層民の決起により、アッバース朝は滅亡していくことになる。九世紀末になると、シーア派の台頭によりアッバース朝は戦乱時代に入った。都市での安楽な生活に慣れてしまったアラブ人は治安を維持する力を失っており、「マムルーク(Mamluk)」(「所有された者」の意味のアラビア語。軍事奴隷、奴隷兵)を雇うことで権力の維持をはかるしかなかった。

マムルーク

 マムルークとは、アフリカの黒人奴隷に対してトルコ人、スラブ人、クルド人などの傭兵を指すが、勇敢で純朴な遊牧トルコ人がその中心になった。彼らの卓越した騎馬技術と、スンナ派イスラーム教への改宗が歓迎され、アラブ人を補強する「ガージー(Ghazi)」(信仰戦士)に選ばれたのである。さらにブワイフ朝が兵士に特定地域の税の徴収権を与えたことが、遊牧トルコ人のイスラーム世界への進出意欲を高めた。

 こうして、セルジューク朝トルコ帝国(一〇三八〜一一九四)、オスマン朝トルコ帝国(一二九九〜一九二二)というイスラム帝国がモンゴル帝国の侵入をはさんで出現した。宮崎正勝氏はこのセルジューク朝を以って、トルコ人による中東支配の始まりとしているようだ。つまり中東史は、イラン人の覇権時代(前五五〇〜六五一)の一〇〇〇年、アラブ人の覇権時代(六三二〜一一世紀)の五〇〇年、トルコ人の覇権時代(一一世紀〜一九世紀後半)の八〇〇年間、そしてヨーロッパ諸国の覇権時代(一九世紀後半〜二〇世紀半ば)の一〇〇年間、中東の混迷の時期(第二次世界大戦後)の六〇年間としているのである。

 このようにアッバース朝衰退後の一〇世紀からは、質実剛健な遊牧民族がイスラーム中東世界を支えることになった。つまり軍事的色彩の強い王朝が出現していくことになった。しかしそうした中で、いずれのイスラーム王朝もユーラシアの大商業ネットワークを決定的に破壊しなかったようである。以上が宮崎正勝氏に従っての、大きくみた中東史、すなわち世界史である。

●レコンキスタの終わりは世界文明ネットワーク破壊のはじまりであった

 以上のように見てくると、ヨーロッパは本当の世界史に参加してこないことが少しずつあるが明らかになる。世界から孤立してきたヨーロッパなのである。世界と協調・共存しようとしないヨーロッパである。世界から孤立するのは、ギリシアもローマもそうであった。ビクトリア時代のイギリスも、「栄光ある孤立(Splendid Isolation)」であった。今日においてはアメリカが国連の決議を無視する単独行動主義(Unilateralism)である。アメリカは国連決議を得ることなくアフガニスタンとイラクに対して戦争を始めた。

 天木直人氏は、『さらば日米同盟!』(講談社、二〇一〇年)でこう言っている。「建国以来、戦争に戦争を重ねて国づくりをしてきた米国はいまや世界最強の軍事力を誇る覇権国となった。そんな米国にとって国益を実現する最善の方法は、軍事力を行使することだ」(二四ページ)「米国の軍事・安全保障政策は、決して世界の平和を構築するものではない。それどころか世界を分断、敵対させるものだ」(二一ページ)天木氏はヨーロッパでは一九九五年に地域安全保障体制ができており、EU(欧州連合)などは不戦共同体になりつつあると言っている。ヨーロッパは戦争をしない文明に変わりつつあるのかもしれないが、その割にはヨーロッパから「平和」の声があまり聞こえてこない。

『さらば日米同盟!』

 広島、長崎の平和式典への米英仏政府代表の参加にしても(米政府は長崎には直前に参加を止めた)、出席しただけで正式の言葉(メッセージ)がなかった。あの二〇世紀の二つの世界大戦は事実上ヨーロッパ・アメリカの戦争であった。日本は付け足しに過ぎなかった。ただフラフラしながら巻き込まれただけである。ヨーロッパ文明の平和への変化はまだまだ確認できない。このように孤立するヨーロッパとアメリカは、昔から今日まで世界に対して武力で戦いを挑んできた。ヨーロッパ文明は常に世界に対して戦争をしかけてきたのである。ここに、ヨーロッパ文明の他の文明に見られない特異さが見られる。

 ローマ帝国はササン朝ペルシアに対して常に戦いを仕掛けてきた。十字軍の派遣(一〇九六〜一二七〇)のような大規模な攻撃もあった。そのような攻撃を防ぐことができていた時は、世界の商業ネットワークは安泰であったが、ヨーロッパからの攻撃を防ぐことができなくなっていくと、商業ネットワークは破損されるようになった。歴史学者の会田雄次が書いているように、ヨーロッパ文明が武力を発達させ中東に勝利するようになったとき、世界のネットワークの破壊が始まったのである。モンゴル帝国はバグダードを破壊し消滅させたが、その後それ以上のことはしなかった。モンゴル帝国による文明の破壊は一時的であった。しかしヨーロッパによる文明の破壊は永続的である。ヨーロッパによる破壊は貧困を永続化させる。それは戦争を誘発する。この戦争と貧困のスパイラル、これが真の狙いだったかもしれない。

 今日において、新たなネットワークが代わりにできているように見えることもあったが、自国を守る保護貿易を認めず、多国籍の巨大商社(貿易業者)本位の、押し付けの自由主義貿易である。そのような貿易では、ネットワークは長く続かずすぐに消滅するのである。その値段でそれを買う(輸入する)かどうかは貿易当事国が自由に決められるべきだ。いかなる貿易当事国も関税自主権を有するべきだ。そういうのがあって初めて本当の自由貿易である。

 いつの間にか、「自由貿易とは関税障壁がないことである」という「押し売り」の論理に置き換えられているのだ。これでは、貿易当事国の経済がおかしくなり、貿易が続かないのは当たり前である。これでは新しきネットワークは長く続かずすぐに消滅するのである。ヨーロッパ・アメリカによる貿易が伸びないのは当然である。私はそう思うが、それを指摘する声を聞かない。

 イベリア半島のレコンキスタ(国土回復運動)は、ウマイヤ朝(六六一〜七五〇)の第六代カリフのワリード一世(在位七〇五〜七一五)の時の七一一年に始まり、コロンブスのインディアス航路開拓の年(一四九二年)に完成した。つまり、レコンキスタが終わったのは、ようやくオスマン帝国(一二九九〜一九二二)の第八代皇帝バヤズィト二世(一四八一〜一五一二)の時代である。このころ北アフリカ(マグリブ)にはポルトガルの攻勢で、大きな国はなかったようである。このレコンキスタもこのヨーロッパ精神の表れであったのである。

 では次に、さらなる実感を求めて、イベリア半島のレコンキンスタの具体的な経過を追ってみよう。

(つづく)