「129」 論文 私のガンダム論(1) 鴨川光(かもがわひろし)筆 2011年2月11日

 

 ウェブサイト「副島隆彦の論文教室」の古村治彦です。今回から、鴨川光氏によるガンダムを中心にした、日本の漫画、アニメについての論稿を掲載します。この論稿は、2010年秋に書かれ、私には2010年12月7日に送られてきました。季節の表現で、若干の今の季節に合わない部分もありますが、上記の事情をお汲み取りいただき、ご容赦いただければ幸いです。尚、2011年2月20日には、本サイトも開設2周年を迎えます。従いまして、次回の論文掲載は、2011年2月20日にずらすことに致します。ご理解のほど、よろしくお願い申し上げます。それでは鴨川氏の論稿をお読みください。

 

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●私のガンダム論―漫画、アニメブームはどのようにして起こったのか

 これを書いているのは二〇一〇年八月です。もう秋になりましたが、まだまだ残暑厳しい時節です。

 本来は「サイエンスの全体像」の「社会学」編を書かなくてはならないのですが、子どもの頃の夏休みに帰った気分でマンガの話をします。「ガンダム論」と書いておきながら、本当は私の「漫画・アニメ論」を書きます。読者の皆様、あまり肩に力を入れないで読んでいただきたく思います。

 私のマンガ論はかなりの独断と偏見がありますが、アニメやマンガは人それぞれの思い入れがあると思います。私の体験を中心に、私の好きだったものや、現役のアニメーターである兄との少年時代の大量の情報収集をもとに書きます。

 私は昭和四二年(一九六七年)生まれの四三歳ですので、物心のついた時にはすでに漫画に囲まれていて、テレビアニメ、実写もの、ありとあらゆるマンガにどっぷりと浸かってきました。

 このマンガにどっぷり浸かって育った世代というのは、今の四〇代後半ぐらいから下でしょう。現在五〇代の方は、マンガに対してはもうちょっと違った見方ではないかと思います。マンガやアニメよりも、映画。東宝のゴジラや、大映のガメラに夢中の世代だった、そんな世代ではないでしょうか。

 私よりも上の、四〇代後半から上の方は、赤塚不二夫(「おそ松くん」が中心)や「あしたのジョー」といった『少年マガジン』や『少年サンデー』を中心にした、「トキワ荘漫画家」の世代、戦後マンガの草創期世代、マンガの最初のブームの時代です。

  

トキワ荘の模型          漫画家たち

 マンガ論というと、必ず手塚治虫から始まり、トキワ荘の人たち、『少年サンデー』『少年マガジン』の話になるので、ここらへんの話はいまさら私ごときが書くことでもないと思います。手塚治虫から始まるマンガ論は山ほどあります。岡田斗司夫(おかだとしお)氏やいしかわじゅん氏のマンガに関する著作を読みましょう。

手塚治虫

 そもそも手塚治虫を子どもの頃に実際に読んでいた世代は、今の七〇代の人たちです。私の父母の世代です。ですから、いわゆる「マンガ世代」だとは言えない、親の世代、漫画ばかり読んでいる子供を叱る側の世代だと思います。

 私が生まれた時のテレビ・ヒーローものは「マグマ大使」と「ジャイアント・ロボ」でした。それと「アタックNO.1」。マガジンやサンデーで連載されていたマンガです。私が生まれた年、一九六七年に、ウルトラ・シリーズ三作目のウルトラセブンが始まりました。だから本放送は見ていません。当然、初代ウルトラマンとウルトラQも本放送の頃にはまだ生まれていません。

 私は七一年の四月にテレビ放送が始まった「帰ってきたウルトラマン」と、その翌日に放送が始まった「仮面ライダー」の世代です。

  

「帰ってきたウルトラマン」     「仮面ライダー」

 「帰ってきたウルトラマン」が始まった日のことはしっかりと覚えています。ベランダで兄と共に、「新しいウルトラマンの線が二本になって帰ってくるんだ」と雑誌『小学二年生』を見ながら、二人でその日の放送を楽しみにしていました。

 ですから私は、昭和三〇年代のマンガ・アニメ・特撮世代の最後のほうです。七〇年代後半に『少年ジャンプ』、『少年チャンピオン』にはまり、八〇年代初頭のニューウェイヴ・マンガ・アニメの始まりを、身をもって体験した世代です。マンガにどっぷりと浸かった世代です。七八年からの新しい「ドラえもん」ブームを始めたのは「この私だ!」と自負しているくらいです。ドラえもんを思えば思うほど悔しいので、このことは後で書きます。

 八六年に『タッチ』の放送が始まったあたりから、マンガには興味がなくなりました。当時、勢いをつけてきた青年誌『ビッグコミック・スピリッツ』(小学館)と『モーニング』(講談社)(両誌共にまだ隔週だった)しか読まなくなりました。それ以降のマンガ事情、八〇年代後半以降のマンガは、誰か他の人のマンガ論を読んでください。「ONE PIECE」なんか全く知りません。今後も読みません。しかし、一九七〇年から八五年くらいまでのマンガにかけては誰にも負けません。

 このマンガ論は、ほとんど私の記憶と、現役のアニメーターである四つ上の兄(昭和三八年生まれ)の言葉を思い出して書いたものです。私の記憶はネットや本で裏を取ってみても、本当に正しかった。

●国民の誰もが知っているアニメは、昭和四〇年代の終わりと共にいったん終息した

 現在国民の誰もが知っているほど有名なマンガのほとんどは、昭和四五年から昭和四九年までにブームになったものです。

 「ドラえもん」「天才バカボン」「ウルトラマン」「仮面ライダー」「マジンガーZ」など、国民の誰もが知っているマンガ・アニメは、全てこの時期にテレビ放送されています。バカボンやドラえもんの漫画の連載は、すでに六〇年代には始まっていました。

 本当は六〇年代に、『少年サンデー』に連載していた、トキワ荘の作家たちは、マンガでもテレビアニメでも、時代を作るほどにブレークしていました。

 いわゆる四大少年漫画雑誌とは、『週刊少年サンデー』(小学館)、『週刊少年マガジン』(講談社)、『週刊少年ジャンプ』(集英社)、『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)を言います。六〇年代までは、トキワ荘作家を連載させていたサンデーが圧倒的に売れていたのです。このことは私も知りませんでした。生まれてないからです。

 私が小さい頃、せいぜい二、三歳の頃の記憶では、トキワ荘の漫画家は、既に全盛期を過ぎていて、テレビアニメとしても峠を越したようなイメージがありました。

 例えばトキワ荘マンガの代表として「オバケのQ太郎」があります。オバQはすでに六〇年代にブームがあって、七〇年代初頭はそれが過ぎ去った後でした。夏祭りのたびに大人が子供を喜ばそうとして、「お〜ば〜け〜のキュッ、キュッ、キュ〜」という昔のアニメのテーマソングだった「オバQ音頭」をかけられ、「そんな古臭いもの聞かされても喜ぶわけないだろう」と、しらけた思いでいたくらいです。

「オバケのQ太郎」

 私が見たオバQは「新オバケのQ太郎」でして、イントロはディープ・パープルのイアン・ペイスというドラマー張りのかっこよいリズムで始まるのです。「かっこいいものしか受け付けませんよ、今の子供は」 そのような気持ちでいました。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%90%E3%82%B1%E3%81%AEQ%E5%A4%AA%E9%83%8E
「オバケのQ太郎」 ウィキペディアから(ここを読むと当時の藤子不二夫の様子、七〇年代にはもう既に新しいギャグマンガが書けなくなっている様子が書かれている。)

http://www.youtube.com/watch?v=sVSGpeibFfA
「新オバケのQ太郎」テーマソング YouTubeから(聴いてみましょう。懐かしいです。)

 ですから、トキワ荘マンガというのは、兄の世代の借り物のようなイメージがあります。戦後マンガブームの第一世代は、このサンデーを買っていた当時の小学生から高校生までの人たちなのです。昭和三八年生まれ以上の人たちでしょう。

 少年サンデーというのはまさにこのトキワ荘マンガ家を全てかこって、六〇年代に最盛期を誇っていたのです。私もなんとなくそのような感じがあるだけで(というのは当時小さかった私たち兄弟は、せいぜい小学館から発売されていた「小学一年生」くらいしか知らなかったからです)、サンデー自体のことは知りませんでした。

 「少年マガジン」はこのサンデーの後塵を拝した形になり、常に遅れをとっていました。トキワ荘の作家を全部取られてしまっていたものですから、どうしようもなかったのです。

 そこで思いついたのが、絵の上手い人間と、話を作るのが上手い人間を組ませて作品を作らせるという劇画というスタイルでした。そこから出てきたのが「巨人の星」の梶原一騎(かじわらいっき、原作)と川崎のぼる(作画)という組み合わせだったのです。

「巨人の星」

 「少年マガジン」は不遇をかこっていたが、腕のある貸本マンガ家も次々と執筆させ、二〇一〇年現在、NHK朝の連続テレビ小説で大ヒットを記録した「ゲゲゲの女房」で再び有名になった水木しげるもその中の一人だったのです。

水木しげる・布枝夫妻

 「少年マガジン」は梶原一騎とちばてつや(作画)のコンビによる「あしたのジョー」によって、七〇年前後にサンデーを抜いてトップに躍り出ました。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%91%E5%B9%B4%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%BC
「週刊少年サンデー」  ウィキペディアから
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%91%E5%B9%B4%E3%83%9E%E3%82%AC%E3%82%B8%E3%83%B3
「週刊少年マガジン」  ウィキペディアから

 だから私の原体験では、このマガジンからの記憶があります。確かにマガジンは、墨で書いたような濃い画風のものが多く、大人が読むようなタッチのマンガばかりでした。私の場合は小学生低学年の頃、なぜかマガジンは竹やぶや工事現場に捨てられていることが多く、そこから拾ってきました。性描写も非常に多かったのです。

 このマガジンのおかげで、マンガを大学生が読むようになりました。サンデーを読んでいた小学生がそのまま大学生となり、マガジンを読み始めたのです。時は大学紛争真っ盛りの時代でした。大人が、それも大学生ともあろうものが、マンガなど読むものではないというのが、社会的に当たり前のことでした。それが学園紛争の反社会的な雰囲気と共に、マンガも捨てたものじゃないといっせいに社会的に認知されだしたのです。(それでも当時の大人は、きちんと本を読んでいた。)

 トキワ荘マンガ家の話に戻ると、特に赤塚不二夫の『おそ松くん』が人気で、イヤミの「シェー」が社会現象になっていました。藤子不二夫は『オバケのQ太郎』や『パーマン』が最初のヒットです。SFマンガ家であった石ノ森章太郎(いしもりしょうたろう)は、「サイボーグ009」。私はそのころのことは知らないので、ただ兄から自慢されるばかりです。この男、昭和三八年生まれのアニメーターは、その時代のことを今でも本気で私に自慢します。アホです。

  

「サイボーグ009」       石ノ森章太郎

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%AD%E3%83%AF%E8%8D%98
「トキワ荘」 ウィキペディアから
(著者注記:このトキワ荘マンガ家にマジンガーZの永井豪(ながいごう)を足した人々が、六〇年代から七〇年代に活躍したマンガブーム第一世代です。)

 ところが、これらのアニメブームは、昭和五〇年代を迎えると共に、全ていったんは収束してしまったのです。ウルトラマン・シリーズの最終作「ウルトラマン・レオ」(面白くなかった)は、昭和四九年の春、仮面ライダー・シリーズの最終作「仮面ライダー・ストロンガー」(これまた面白くなかった)は、昭和五〇年の春に始まり、翌年の三月に放送終了。それでシリーズは終わりになりました。

 ウルトラマン・シリーズというのは、七一年から放送が始まった「帰ってきたウルトラマン」から毎年四月に始まり、翌年の三月に終了。また四月に新しいウルトラマンが始まる、というふうに、子供の成長と共に放送されていました。

 私は七四年に小学校に入学して、同時に新しいウルトラマン(「ウルトラマン・レオ」)が始まり、それで新しい友達が出来る、という流れを自然に期待していたのですが、放送して一ヶ月も経たぬうちに、私たち子どもの合言葉は「レオつまんね〜」「レオ見るのやめようぜ」となりました。なにせ、当のレオ自体が登場しない回があったくらいなのです。これではウルトラ・シリーズが終わりになるのも無理ありません。

「ウルトラマン・レオ」

 私はそれ以降の仮面ライダー・シリーズ、ウルトラマン・シリーズを認めません。仮面ライダー・キバだとか、ウルトラマン・メビウスとかいうのは認めません。ウルトラマンはレオ、仮面ライダーはストロンガーで終わりです。それで永遠に終わったのです。ちびっ子のみんな。文句を言ってもだめです。ウルトラマンは帰ってきません。

 マジンガー・シリーズの第三作目といえる「グレンダイザー」は、全くブームにならなかった。それでも七五年から七七年までの一年半も放送していたのは驚きです。しかもヨーロッパではものすごいブームになっていたらしい。

「グレンダイザー」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%80%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%83%BC
「UFOロボグレンダイザー」 ウィキペディアから

http://www.youtube.com/watch?v=CBqOS85Imio
「UFOロボグレンダイザー」のオープニング YouTubeから
(著者注記:今見てもなかなかかっこいい。アニメーターの話は後にやります。)

 仮面ライダーやキカイダーは『秘密戦隊ゴレンジャー』という戦隊ものに取って代わられました。これも石ノ森章太郎の原作ですけれど。私は途中までは見ましたが、すぐに飽きてしまった。『少年サンデー』で連載されていた『ひみつ戦隊ゴレンジャーごっこ』のほうが面白かった。(ゴレンジャーのパロディーで、石森章太郎自信が自分の作品を茶化していた。)

 一九七五年から八〇年くらいまでの五年間は、子供用ヒーローや漫画はテレビでは廃(すた)れてしまったのです。この間に放送されていたロボットアニメはみな低視聴率で、そもそも七時のゴールデンタイムには放送されていなかった。家族でそろって見るほどのヒーローは、もういなかったのです。地球を救うヒーローロボやサイボーグは、一家団欒の時には必要とされなくなった。その中にはあのガンダムも含まれています。

●七〇年代後半―昭和五〇年代は『少年チャンピオン』『少年ジャンプ』の時代

 七五年以降に社会現象になるほど影響力があったのは、新しい世代のマンガ家を擁した『週刊少年ジャンプ』(集英社)、『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)という、新興勢力でした。

 連載人のラインナップを見れば、なるほどと思う人もいるのではないでしょうか。『少年チャンピオン』の主軸は、「ドカベン」(水島新司)、「ブラック・ジャック」(手塚治虫)、「がきデカ」(山上たつひこ)、「750(ななはん)ライダー](石井いさみ)、「ゆうひが丘の総理大臣」(望月あきら)、「マカロニほうれん荘」(鴨川つばめ)です。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B1%E5%88%8A%E5%B0%91%E5%B9%B4%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%94%E3%82%AA%E3%83%B3 ウィキペディアから 「週刊少年チャンピオン」

『少年ジャンプ』のほうは、「1・2のアッホ!!」(コンタロウ)、「東大一直線」(小林よしのり)、「すすめ!!パイレーツ」(江口寿史)、「サーキットの狼」(池沢さとし)、「リングにかけろ」(車田正美、くるまだまさみ)、「こちら葛飾区亀有公園前派出所」(秋元治、あきもとおさむ、連載開始当初は山上たつひこをもじって、山止(やまどめ)たつひこと名乗っていた)です。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B1%E5%88%8A%E5%B0%91%E5%B9%B4%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%97 ウィキペディア 「週刊少年ジャンプ」
(ウィキはマンガとテレビのことにかけては異常にに詳しい。)

 この中で社会的影響力が最も強かったのは、なんと言っても「がきデカ」です。「がきデカ」はとても子供に読ませるべき内容ではなく、少年誌でありながらSM、スカトロ、同性愛ネタのオンパレードでした。連載が始まったのは昭和四二年です。何というアヴァンギャルド。PTAがいきり立つのも無理ありません。チャンピオンはマガジンのように、大人が読んで、竹やぶに捨てられていた雑誌ではありません。小学校低学年が読んでいたマンガ雑誌ですよ。

「がきデカ」

 そもそも少年誌に、SMプレイで使われる三角木馬が出てくること自体が異常です。私は八歳の時に「そんなものがあるんかい!」と初めて知り、腹を抱えて笑いました。キンタマも抱えて笑いました。

 ですが、作者の山上たつひこ氏は紳士で、真面目な人であることが、後述の江口寿史(えぐちひさし)氏の「江口寿史日記」(河出書房新社)に書かれています。山上氏はそもそも社会派劇画を書いていた人です。チャンピオンには似つかわしくない、劇画的なしっかりしたタッチからも分かります。

 七五年当時、マンガといえば右も左も「がきデカ」だったのです。

http://www.yamagami.info/Gdeka.htm 「山上たつひこmaniax」というファンサイトから
(著者注記:この単行本の表紙が懐かしい。六巻ぐらいまでは買ったのを覚えている。)

 「少年チャンピオン」は連載されていたどのマンガも大人気だったのですが、あまりにも社会的影響力、子供への悪影響が大きくて、その当時にテレビで放送出来たものは「ドカベン」だけでした。主人公の山田太郎だけは社会的イメージがよかったのです。「ドカベン」はもともと柔道マンガだったのですけれど、柔道時代のころのほうが面白かったと思います。

「ドカベン」

 考えてみれば、『少年チャンピオン』で心機一転を図った手塚治虫の「ブラック・ジャック」にしても、やくざの刺青(いれずみ)をカラーページで掲載していたりと(本物ではありませんよ)、これまた子供が見ていいのかというような、どぎついものばかり。

 同じく『少年チャンピオン』に連載されていた「750ライダー」は、さわやかなバイク好き少年の話で、当時の世相を反映している漫画だったのですが、暴走族が社会問題化していた時代でしたので、750CCのバイクに乗った高校生が喫茶店に入り浸っているというのは、世間的にあまりいいイメージがなかったのだろうと思います。

「750ライダー」

http://www.ebookjapan.jp/ebj/title/2821.html ebookJapan  電子書籍販売サイトから。
(著者注記:初期はシリアスな劇画調タッチで、作者も気合が入っていた印象でしたが、最後のほうは登場人物の顔が長くなって、キャラクターも話の内容もかわいらしくなって、別のマンガかと思えるほどの変わりようでした。八五年まで連載が続いていたのも驚きでした。軽佻浮薄な時代に合わせて、作者も路線変更しなくてはいけなかったのだろうと思います。でも私はぜんぜん好きではなかった。)

 『少年チャンピオン』のライバル、『少年ジャンプ』の旗頭は「サーキットの狼」です。「サーキットの狼」は七七年のスーパーカー・ブームに乗って、大ヒットしていました。社会現象といっていいほどの、大ヒット。しかしいつまで経ってもテレビ化はされません。

「サーキットの狼」

 「サーキットの狼」は、街の暴走族たちが、プロのレーシング・ドライバーとなっていく物語ですが、暴走族が集まって公道でレース大会を催すという「公道グランプリ」などという、今では絶対に考えられないストーリーが連載されていました。

 しかし、当時だったら、これは本当にありうることで、関東では「ブラック・エンペラー」や「スペクター」という大きな暴走族組織が社会問題になっていました。それに類似していたことが少年誌に連載されていたこと自体が考えられないことで、もちろんテレビでは完全にNGです。

 そもそもマンガなどバカが読むもので、けしからんものなのだというのが社会的に当たり前の時代でした。今でもそれは変わらないはず。漫画はあくまでもサブ・カルチャーなのです。メイン・ストリームになってはいけないものなのです。

 「サーキットの狼」はあまりにもヒットしたため、単行本が売れに売れました。ブームが去ってしまうと、皆が一斉に単行本を古本屋に持ち込んだため、古本屋の店先に「サーキットの狼お断り」の張り紙が出されるという、作者にとっては悲しい現象が起きました。

 「少年チャンピオン」のギャグマンガでは、「がきデカ」の次にブームになったのが鴨川つばめの「マカロニほうれん荘」でした。

「マカロニほうれん荘」

http://www.qwo3.com/
http://www7.ocn.ne.jp/~sa-kku/makaronimain.htm
(著者注記:ファンサイトがいくつかあるようです。往年の人気がしのばれます。鴨川つばめさんはよく考えたら私と同じ苗字でした。ただし私はぜんぜん好きではなかった。)

 新撰組の三人の名前をもじった登場人物が出てきてドタバタをするというマンガでした。流行り言葉になったものも多かったと思います。鴨川つばめ氏は絵も上手かったし、マンガとしてのキャラクターもしっかりしていました。

 不思議なのはあれだけ人気がありながら、そしてPTAからもそれ程にらまれるような内容でなかったにもかかわらず、テレビでは放映されませんでした。いまだにアニメ化されませんね。不思議です。今だったらパチンコになってもおかしくない、それ程の人気だったのです。

 テレビ放送に関しては、当時の私たち子どもの間では、「チャンピオンやジャンプのマンガはテレビで見るものではない」という感覚がなぜかありました。テレビでマンガを見るという時代ではなくなっていたのです。この時代のテレビは、お笑いバラエティーと歌番組の時代でした。

 テレビアニメは、夕方五時から放送される再放送で間に合っていました。七五年までに放送された大量のアニメでストックは十分間に合ったので。

 「チャンピオン」や「ジャンプ」のマンガはあくまで僕たちのもので、大人たちと一家団欒で見るものではないという、プライドのようなものもありました。あの世間をおちょくったマンガたちを、家庭という日常に持ち込まれたくないような感覚がありました。

 作者の鴨川つばめ氏は、その後マンガが全く書けなくなってしまいます。完全にギャグが枯渇し、八〇年代に入った途端に、マンガの前線から消えてしまいました。

 ジャンプとチャンピオンは、連載されていたどのマンガも大人気で、今だったら瞬く間にテレビ放送をしていてもおかしくないのですが、七〇年代当時、これらの「特殊な」マンガはそうは行かなかった。ですからそれまでテレビにかじりついていた子供たちが、テレビよりもマンガ雑誌のほうを読み出したのも当然のことだったのです。

●ヤマトもガンダムも「スペース・オペラですよ!」―スペース・オペラとSF(エスエフ)の違い 

 現在のように「いい大人」が漫画やアニメ・キャラクターのフィギュアを集めることが、何とも思われなくなったのは、一九七七以降に始まった新しいアニメブームがきっかけです。

 西崎義展(にしざきよしのぶ)プロデュース、松本零士(まつもとれいじ)原作の「宇宙戦艦ヤマト」、そして一九八一年に再放送された「宇宙戦士ガンダム」によるアニメブーム、正確に言うならば「SF戦争アニメブーム」がその発端です。

  

西崎義展              松本零士

(著者注記:西崎氏は二〇一〇年一一月七日、船から海に転落して死亡している。その直後の二〇一〇年一二月一日「SPACE BATTLESHIP ヤマト」というタイトルで初の実写版映画が公開されている。木村拓也が主演。)

 いや、正確にはSFではありません。SFとは「サイエンス・フィクション」(空想科学小説)のことです。ジュール・ヴェルヌ(『月世界旅行』)やH・G・ウェルズ(『タイムマシン』)、アイザック・アシモフ(『われはロボット』)らから始まった、科学理論を基にして書かれたフィクションのことです。

 これに対して『スター・ウォーズ』のような、西部劇の舞台を宇宙に焼き直しただけの物語は「スペース・オペラ」と言います。

 SFやスペース・オペラは一九二六年にアメリカで創刊された雑誌『アメイジング・ストーリーズ』によって火がつき、一大ブームとなって現在のジャパニメーションへとつながります。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA
「アメイジング・ストーリーズ」の記事 「ウィキペディア」から

 ヤマトもガンダムもスペース・オペラです。ですから「ジャパニーズ・スペースオペラ・アニメ・ブーム」というのが正確なところでしょう。これが日本のニュー・ウェーヴ・アニメ・マンガブームの火付け役の片方です。

 ここで言っておかなくてはならないことがあります。ヤマトもガンダムも、テレビの本放送を見た人は、当時ほとんどいなかったはずです。

 宇宙戦艦ヤマトもガンダムも当時の子供向け雑誌で、盛んに宣伝されていたものなのですが、当の小学生の間では人気はほとんど、いや全くといっていいほど無かったのです。

●『テレビマガジン』と『テレビランド』

 子供向け雑誌と言うのは『少年チャンピオン』や『少年マガジン』のような、少年雑誌のことではありません。徳間書店から発行されていた『テレビランド』と、講談社から出ていた『テレビマガジン』です。この二つが、先に述べた「マジンガーZ」を中心にした、七〇年代前半のテレビアニメを盛り上げたのです。

 特に「マジンガーZ」と「仮面ライダーX」がすごかったのです。本放送が始まる前、毎月きれいなグラビア刷りの特集で、新しい怪人やロボットの紹介をしていました。ブロマイドやポスターなどの附録がなかなか豪華で、切り離してしまうともったいないので、私は兄とともに全てをそのまま保存していました。今残していたら、相当の価値になっていたでしょう。

  

「マジンガーZ」          「仮面ライダーX」

 マジンガーZの敵の幹部である、あしゅら男爵(男と女が一緒になっている)やピグマン子爵(マサイ族の首を取って、ピグミー族の上半身をとってつけた)、ブロッケン伯爵(首が取れている)などはどれも面白く、想像力を書きたてられるキャラクターでした。(どのキャラクターも障害者や人種差別を連想させられるものばかりなので、絶対に再放送されません。ピグマン子爵なんて、完全にNGでしょう。そのおかげで私はマジンガーの再放送を一回しか見ていません。それも三五年以上前です。)

 仮面ライダーXは、敵の悪の組織が「ゴッド」といいます。その首領がキング・ダークという巨大ロボットでした。お釈迦様の涅槃像(ねはんぞう)の逆の形で寝そべっていたり、幹部であるアポロガイストやアキレスは、ギリシャ神話や古代アッシリアの悪魔などから題材をとっていました。非常に凝った設定で、今から見てもよく出来たキャラクターです。

 悪魔のブームというのもありました。これは映画『エクソシスト』の影響です。一九七三年製作のアメリカ映画ですが、日本公開は一九七四年でした。主人公の少女リーガンに乗り移る悪魔「パズズ」はアッシリアの悪魔です。悪魔ブームについても後でお話します。

 「ゴッド」の幹部、改造アポロガイストなんか死ぬほどかっこよかった。「ガイスト」というドイツ語を使っていたところも、「スタッフはやる気だな〜」という当時の意気込みが感じられます。

 これらの登場人物を、きれいなカラー写真で紹介していた両雑誌は、とても楽しかった。講談社と徳間書店は、とても精巧な、当時、非常に優れた本作りをしていたのだと思います。今でもこれらの雑誌を編集していた人たちに、お礼を言いたいぐらいです。

 ですがこの二つの雑誌は、七〇年代後半には勢いを失っていました。ライダー・シリーズ、ウルトラマン・シリーズ、マジンガー・シリーズが終わってしまったからです。

●デパートの屋上の仮面ライダーショー

 この当時(七三、四年ごろ)、全国のデパートの屋上では仮面ライダーショーが盛んに行なわれていました。

 東京の吉祥寺には昔、近鉄デパートがあって、私もそこの屋上で行なわれる仮面ライダーXショーに連れて行ってもらったことがあります。今はヨドバシカメラになっています。

 初めて生で見る怪人たちは、本当に怖くて、私は怪人アキレスが、目の前に来たときはぶるぶる震えていました。怪人たちのブーツが実によく出来ていて、目の前でガシャリ、ガシャリと音を立てて通り過ぎていくだけで、もうだめです。顔を上げることが出来ませんでした。当時私は六歳でしたから無理もありません。

 怪人たちが長い時間がんばるものですから、仮面ライダーたちが助けに来てくれた時はほっとしたかというと走ではなく、これがもっと怖い。怪人たちなどよりもはるかに怖い。涙も出ないほど震え上がってしまった。

 今まで私を死ぬほど怖がらせていた怪人たちが哀れに見えるほど、勢ぞろいした仮面ライダーたちが大暴れするものですから、私は席で固まってしまった。

 ジャパン・アクション・クラブの皆さん、子供のために本当に張り切りすぎです。私は本気でビビリました。本当にちびりました。

(つづく)