「131」 論文 私のガンダム論(3) 鴨川光(かもがわひろし)筆 2011年2月27日

●現在のアニメ漫画のマニア的あり方は、三流雑誌『OUT』の『宇宙戦艦ヤマト』特集が原点 

 新時代のアニメ・マンガのパイオニアは「宇宙戦艦ヤマト」です。

「宇宙戦艦ヤマト」

 ヤマトは一九七四年秋からの放映で、半年間続きました。七五年三月には終わっていたと思います。本当は一年やるはずだったのです。しかし、打ち切り決定となり、大急ぎで、二話ぐらいで地球に引き返してきました。

 イスカンダル星には散々苦労して、犠牲を払ってたどり着いたのに、帰りは空間を飛び越えるワープを繰り返してあっという間に地球に到着。無理やりの解決法でしたが、三月の番組改編時期だったので、それほど違和感はありませんでした。

 当時の裏番組ラインナップは「猿の軍団」(TBS、当時「猿の惑星」ブームがあった)、「お笑いオンステージ」(NHK)、そして「アルプスの少女ハイジ」(フジテレビ)でした。しかもハイジの次の番組は「フランダースの犬」だったのです。

「お笑いオンステージ」の様子(三波伸介氏)

 「お笑いオンステージ」は当時、笑点やサザエさんと同様に日曜日の顔ともいえる番組で、覚えている方も多いと思います。三波伸介(みなみしんすけ)が、芸能人のお父さんの似顔絵を書く「減点パパ」というコーナーで人気がありました。そういえば「笑点」の司会者も三波伸介でした。ハイジはご存知のとおりの超有名アニメですね。

 一九七四年、昭和四九年当時のことです。ゲームもなければ日曜日の夜中に仕事をしている人もいない時代ですから、大方の人々はこのどちらかを見たのです。ヤマトの視聴率は低迷し、誰も知らなかったといったほうが言いぐらいの「存在しなかった」番組だったのです。

 私は兄と二人で手に汗を握りながら、必死で本放送を見ていました。一年以内に大マゼラン星雲のイスカンダル星まで行って、「コスモクリーナー」という、放射能除去装置をもらってこなければ地球が滅んでしまうのです。放送の最後には必ず「地球滅亡まであと〜日」というテロップが流れました。一年が三六五日なのだということを、当時小学一年生だった私はこれで知りました。

 多くの人が初めてヤマトを見たのは、七七年の夏の再放送からです。放送から三年もたって、やっと、やっと、やっと放送されたのです。にもかかわらず、私の家ではちょうどテレビの調子が悪くなって、放送が見られなくなったのを覚えています。

 なぜそのような三年もたってから火がついたのでしょうか。それは当時、『OUT』(みのり書房)という雑誌が、ある時突如、「宇宙戦艦ヤマト」特集を組んだからなのです。

『OUT』

http://www.cwo.zaq.ne.jp/bfamp703/OUT_June.htm
(著者注記:これが創刊第二号。これをいきなり兄が買ってきた。)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E5%88%8AOUT
(著者注記:ウィキペディアによる「月刊OUT」の記事。肝心の出版元みのり書房に関してはかかれていない。すでに解散した模様。)

http://homepage2.nifty.com/out-site/
(著者注記:OUTSITEという『OUT』専門のサイト。ここで表紙の驚くべき変遷を見てみましょう。七七年秋の『宇宙戦艦ヤマト』の映画公開の頃から、明らかに表紙がアニメに変わっていきます。それ以前の普通の雑誌だった頃の表紙とのえらい違いに目を見張ります。ここの表紙一覧をザーッと見ただけでも、私がこれから話す内容が正しいのだということが分かります。)

 雑誌『OUT』は、ミニコミ誌に毛が生えたような、昨今の若者や大学生に受けているものを紹介する、何の目的で書かれているのかわからない、廃刊されるために生まれてきたような雑誌でした。ノンポリ大学生が喫茶店で読むような雑誌でした。ヤマト特集以外には、板橋しゅうほうという人の「ペイルココーン」という、アメリカンテイストのSFが連載されていたのだけ覚えています。

 『OUT』によるヤマト特集によって「宇宙戦艦ヤマト」がブレイクし、この出来事が現在のアニメブームと、それに勢いづいた新しい、新世代のマンガブームになったのです。日本のアニメブームは、『OUT』によるたまたまの特集によってなのです。これを日本で最初に私鴨川光が宣言します。

 『OUT』はその後『アニメージュ』(徳間書店)と並ぶアニメ専門誌になりました。『OUT』は日本最初のアニメ専門誌です。おそらく世界最初でしょう。

●『機動戦士ガンダム』はロバート・A・ハインラインの『宇宙の戦士』が本当の原案ですよ

 ガンダムのほうも、七九年から始まった本放送を見ている人は、少なかったのです。

 ガンダムは、ヤマト=松本零士原作のアニメブームが沈静化した後にブレイクしました。八一年秋の再放送からブームになったのです。(八一年の『銀河鉄道999』で松本アニメブームは終わります)再放送の好評に便乗して、バンダイがガンダムのプラモデルに本腰を入れて発売し始めたのです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%9F%E5%8B%95%E6%88%A6%E5%A3%AB%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%A0#cite_note-MDR81-16
(著者注記:私は八一年再放送によってブレイクしたのだという説を、兄に否定されたことがあります。しかし、上記のウィキペディアの「初回放映時の評価と後の社会現象」の節には、「八二年における再放送では」とあります。注と出典もついています。私が知っている限りでは、八一年から翌年にかけての再放送でしたので、ウィキでの記事は私とほぼ同じことを言っているのだと思います。ただし、本放送が終わる前から「中高生、特に女子を中心に口コミで徐々に評判が高まった」という箇所があります。私自身はこの事実を知りませんでした。)

バンダイ東京本社

 現在では、玩具会社の雄バンダイですが、は七〇年代にはあまり評判がよくなかったのです。たしかブロックとかそういうものを出していたような記憶があります。変身サイボーグに親しんでいた私はタカラのほうが好きで、バンダイにはどうしてもなじめませんでした。バンダイだったらトミーやポピーのほうがメジャーだったと思います。私はタカラ世代なのですね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%80%E3%82%A4
ウィキペディアよりバンダイの記事
(著者注記:ここを読む限りでは、バンダイが七〇年代後半までは玩具メーカーとしては、まだ業界では正しく認知されていなかったことが分ります。ポピーはバンダイの子会社だったのですね。)

 ガンダムのヒットは、八三年春の「マクロス」と結びついて、巨大ロボットアニメを中核とする現代アニメの骨格となったのです。これが九〇年代の「エヴァンゲリオン」につながって行きます。

  

「マクロス」       「エヴァンゲリオン」

 宇宙戦艦ヤマトは「スタートレック」のコピーです。副島先生がこの事実を映画の二部作の中で書いていたのを読んだ時、私はスタートレックのほうが後だと思っていたので、少なからずショックでした。

「スタートレック」

 副島氏の映画二部作とは 『ハリウッドで政治思想を読む』(メディアワークス)と『アメリカの秘密』(メディアワークス)です。二冊とも『ハリウッド映画で読む世界覇権国アメリカ』(講談社プラスアルファ文庫)として二〇〇四年に再版されました。こちらで読んでみましょう。

(著者注記:副島隆彦の真骨頂は政治・経済・歴史ではありません。もちろん金融本なんかではありません。副島先生の本当のすごさは映画本にあるのです。この二冊をもう一度しっかりした本で再版するべきです。副島氏は以後も映画評論をさまざまな雑誌で書いているはず。それらを集めてもう一冊映画本が作れるはずなのです。これを出さない日本の出版社は、物の価値を知らないのではないでしょうか。)

 副島先生はガンダムのようなロボットアニメが日本のオリジナルである、ということも書いているのですが、実はこれのほうが間違いです。

 皮肉なことに、この間違いは、副島先生ご自身の理論「属国日本論」をさらに裏付ける、小さな論拠の一つになります。実は、ガンダムの原案もアメリカにあるのです。

 SF作家ロバート・A・ハインライン(Robert Anson Heinlein)の『宇宙の戦士』"Starship Troopers"(1959)がガンダムのオリジナルです。ハインラインは、「双子のパラドックス」という科学思想を盛り込んだ『夏への扉』というSF小説で有名です。

     

ロバート・A・ハインライン    映画『スターシップ・トゥルパーズ』

 あの、ロボットに「乗り込む」のではなく「スーツを着る」という発想、「モービル・スーツ」(モバイル・スーツが正しいのでしょうけれども)という発想は、ハインラインによる『宇宙の戦士』で初めて登場したのです。『宇宙の戦士』ではパワード・スーツと名づけられています。

 日本ではハヤカワ文庫から刊行されましたが、その表紙と最初の数ページに掲載されていたカラーイラストが実にかっこよく、今でも人気があるようです。このイラストを製作したのが、日本の代表的なSFアニメのメカデザインなどを手がけていた「スタジオぬえ」です。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%AE%99%E3%81%AE%E6%88%A6%E5%A3%AB
ウィキペディアから「宇宙の戦士」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B8%E3%82%AA%E3%81%AC%E3%81%88
ウィキペディアから「スタジオぬえ」

 上記のウィキペディアの記事の中には、「スタジオぬえ」のデザインしたパワード・スーツがガンダムのモービル・スーツにつながっていったことがかかれている。

 だから巨大ロボットという発想は、日本人独自のものかというと、それすらも疑わしくなってしまうのです。あえて日本人独自のといえるのは、マジンガーZやゲッターロボの「合体ロボット」かもしれません。

 いや、実際にはガンダムもロボットに乗り込んで操縦しているのだから、マジンガーZと変わりありません。合体しないだけです。だから巨大ロボットを操縦するというアイディアだけが、日本独自のものかもしれません。ラジコンで動かす「鉄人28号」が一番最初でしょう。

 ヤマトに続くガンダムによって、現在の日本アニメの形が出来上がっていくのですが、ガンダムについて、私はさらに物申さなくてはなりません。

●二人のアニメーター―金田伊功と安彦良和

 ガンダムについていろいろな「ウンチク」が語られるのですが、『宇宙の戦士』以外にも、なぜかガンダムにとって、肝心なことが忘れられているように思うのです。

 まずは、ガンダムのキャラクターをデザインした、安彦良和(やすひこよしかず)のことがあまり触れられないことが挙げられます。これは実に不思議なことです。

 安彦良和氏はアニメーター出身で、最初は虫プロに所属していましたから、宮崎駿(みやざきはやお)と同じく、戦後アニメーターの第一世代といえます。『宇宙戦艦ヤマト』の原画にも参加し、『ライディーン』のキャラクター・デザインや作画監督を手がけました。

  

安彦良和             宮崎駿

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%BD%A6%E8%89%AF%E5%92%8C
ウィキペディアから 安彦良和氏の記事

 中でも特筆すべきは『機動戦士ガンダム』です。ガンダムでもキャラクター・デザインを手がけました。あのアムロ・レイやシャー・アズナブルと言ったキャラクターの顔は、安彦良和氏の手によるものです。

 安彦氏はガンダムの後、漫画家としてもデビューして、『アリオン』という作品を残しています。これは徳間書店の「アニメージュ」に続くアニメ雑誌「リュウ」に連載されていました。ところがこの人はやはりアニメーターでして、マンガはストーリーとしてはどうも面白くありませんでした。

 『アリオン』はそれなりに人気がありましたが、登場人物のキャラクターに人気があり、ストーリーやマンガとしての面白さには、いまひとつかけるところがありました。

 実際その後は、『クラッシャー・ジョー』や『ダーティー・ペア』と言った小説の挿絵や、画集が売れていました。

 漫画家としての是非はともかく、安彦良和氏はアニメーターとして日本のアニメ史に決定的な影響を残した人物の一人で、その影響力は宮崎駿に優るとも劣りません。

 さらにもう一人、アニメーターとして伝説的な人がいます。金田伊功(かなだよしのり、かなだいこう)という人です。

金田伊功

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E7%94%B0%E4%BC%8A%E5%8A%9F
ウィキペディアから 金田伊功の記事

 金田氏は、ガンダムにはほとんど参加していませんが、現在のロボットアニメのあの動的、ダイナミックな感じは、金田氏が作ったと言っても過言ではありません。「金田パース」、「金田びかり」などと言われています。金田さんは日本のアニメにとっては、安彦氏よりももっと決定的な影響を残した人です。宮崎駿よりもはるかに重要な人です。

 金田氏は、『宇宙戦艦ヤマト』や『ゲッターロボ』などから参加し、七〇年代後半のロボットアニメから頭角を現し始めました。金田氏がその個性を出し始めるのは、七〇年代の後半からですが、金田氏のアニメの動きを最も要約している八〇年代のアニメ作品、『銀河旋風ブライガー』のオープニングを見て下さい。

『銀河旋風ブライガー』

youtubeから。『銀河旋風ブライガー』オープニングシーンです。
http://www.youtube.com/watch?v=nG5DaDCeEN8&feature=search

 このアニメーションに見られるような、急激に加速して、一気に遠くへ移動したり、稲妻のような閃光や光の軌跡が残ったりするのは金田の作り上げたものです。また、『銀河鉄道999』のメーテル星の崩壊シーンも、金田氏の独特のものです。

youtubeから。メーテル星の崩壊シーン
http://www.youtube.com/watch?v=p7H3RgNtYOE&feature=related

 金田氏は、八〇年代の新しいアニメブームの先駆けであり、ヴァンガード(vanguard フランス語でアヴァンギャルド avant-garde、前衛)でした。あまりにもその作風が衝撃的だったので、金田氏のアニメ原画の画集まで出版されたほどでした。

http://www.amazon.co.jp/%E9%87%91%E7%94%B0%E4%BC%8A%E5%8A%9F%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB-%E9%87%91%E7%94%B0-%E4%BC%8A%E5%8A%9F/dp/4194025474
金田伊功の画集 (これを私の兄が持っていて、神のように崇めていた。)

 金田氏は八〇年代になると、宮崎駿の映画に参加し始めます。初めて参加した『風の谷のナウシカ』には、宮崎氏から破格の扱いで迎えられたようです。『ラピュタ』、『となりのトトロ』、『魔女の宅急便』そして『もののけ姫』。日本アニメの代表作全てに参加しています。

  

『風の谷のナウシカ』      『ラピュタ』

 金田氏は宮崎アニメの後、映画『ファイナル・ファンタジー』を手がけ、それをきっかけにゲーム会社のエニックスに入社して、ゲームの製作に関わっていたようです。二〇〇九年の七月に惜しまれながらなくなりました。まだ五七歳という若さでした。

http://animeanime.jp/news/archives/2010/08/nhk_bsmag.html
(著者注記:二〇一〇年八月に金田氏の特集をNHKが組んでくれた。私も見ました。私が兄から八一、二年頃に聞かされていたことが放送されていて、感慨深いものがありました。)

●新時代のマンガブームの本当の火付け役は大友克洋と吾妻ひでお

 アニメとは別の流れで、新時代のマンガブームが八〇年ごろから始まりました。その火付け役は、ジャンプやチャンピオンの人気漫画家ではありませんでした。吾妻ひでおという漫画家です。実はこの人がアンダーグラウンドのマンガ世界を活性化させた人物なのです。

 吾妻氏のメジャーな作品は、雑誌『少年チャンピオン』で連載されていた『二人と五人』という漫画だけです。一時は自販機本といわれる「エロ系雑誌」にも書いていました。それでもあくまでもメジャーな漫画家です。

http://azumahideo.nobody.jp/「吾妻ひでおOfficial HomePage」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%BE%E5%A6%BB%E3%81%B2%E3%81%A7%E3%81%8A
ウィキペディアから 吾妻ひでおの記事
http://migzou.blog84.fc2.com/blog-entry-273.html
ここのブログは吾妻さんのことがうまくまとめられている。

吾妻ひでお

 吾妻ひでおが頭角を現したのは、漫画家と編集者の確執を描いた『メタル・メタフィジーク』と『不条理日記』という作品です。この作品が、それまで誰にも見向きもされなかった、大して売れない、あるいは落ちぶれたアンダーグラウンド作家、吾妻ひでおに目を向かせ、マンガの裾野を広げていったきっかけの一つになったのです。

 『不条理日記』は何と、「自販機エロ本」である『劇画アリス』に連載されていたのです。

 『ねじ式』や『無能の人』で有名な、つげ義春が再評価され始めたのも、『アキラ』や『童夢(どうむ)』の大友克洋(おおともかつひろ)が支持を広げていったのも、その流れの中の出来事です。

  

つげ義春             大友克洋

 吾妻ひでおがブレイクしたのも『OUT』が特集を組んでからで、この後『ぱふ』、『リュウ』、『奇想天外』といった数々のアニメ、マンガ関係の雑誌が特集を組んでいきました。

 「自販機エロ本」に連載されていた『不条理日記』は、一九七九年に「星雲賞」まで取っています。「星雲賞」というのは、SFの文学賞です。筒井康隆(つついやすたか)や小松左京(こまつさきょう)が歴代受賞者に名を連ねています。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%9F%E9%9B%B2%E8%B3%9E
ウィキペディアから 星雲賞の記事
(著者注記:星雲賞の受賞者ラインナップを見ると、特にコミック部門で納得のいく作品が見られるように思いました。というのも星雲賞は、日本SF大会というお祭りに、一万円から三万円ものお金を払って参加した、一般のSFファンの投票によって決まるのだそうです。芥川賞みたいに、誰も読まない作品が選ばれるというようなことはないのでしょう。)

 星雲賞でコミック部門が設けられたのは一九七八年で、吾妻ひでおは第二回のコミック部門の星雲賞を受賞しました。それほどまでにこの頃のニューウェーブ、アンダーグラウンド・マンガは高く評価され始め、子供マンガ、エロ漫画家でしかなかった吾妻ひでおは、日本のマンガ界に大きな影響を与え始めるのです。

●ロリコンに火をつけたのも吾妻ひでお

 「何をくだらないことを言っているのだ!」と言わないでください。マンガに欠かせない要素に「ロリコン」、「少女趣味」というのがあります。これは誰も否定できないでしょう。私はロリコン趣味にも、オタク文化にも全く興味ありません。

 『うる星やつら』のラムちゃん(ビキニ姿)や、『タッチ』の南ちゃん(レオタード)といえば「ああ、なるほど」と思うでしょう。

  

ラムちゃん            南ちゃん

 マンガの楽しみと言えば「美少女キャラクター」もその一つです。それがかなりの部分を占めているのではないでしょうか。そのような形を作った最初の人が「吾妻ひでお」なのです。なぜそうなったのでしょうか。

 吾妻ひでおの『不条理日記』は、自分の体験談をギャグマンガの体裁をとりながら、いわゆる「シュールに」描いたマンガでした。吾妻氏は、本当はSFマンガを描きたかったようで、SFや小説の知識は半端ではありません。その読書量は今でも驚くほどです。このマンガの中に、さまざまなSF作家の名前が登場し、それで私はSFを知り、中学時代は、ハインラインや筒井康隆ぐらいしか小説を読みませんでした。

http://www.lares.dti.ne.jp/~hisadome/unreason.html
(『不条理日記』元ネタ一覧というページ。ここを見ると、吾妻氏の読書量が分かります。)

 『不条理日記』は、野球マンガ全盛の時代に、出版社からは、スポ根ものかギャグマンガし書かせてもらえなかったという吾妻氏の自伝的作品です。出版社からは相当に理不尽にいじめられたことが書かれています。

 吾妻ひでおがカタログ的に無数の作家名を羅列(られつ)した中で、たびたび登場していたのがウラジミール・ナボコフです。

ウラジミール・ナボコフ

 ナボコフで有名なのは、小説『ロリータ』です。ある中年男性が少女に心を奪われて、人生を棒に振っていくというストーリー。あまりにも倒錯した内容で、出版された当時アメリカでかなり社会的反響があった小説です。『二〇〇一年宇宙の旅』で有名な映画監督スタンリー・キューブリックが映画化したことでも有名です。

 私は大学に入ったときに英文学の授業で初めてナボコフを読みましたが、それまでナボコフに英文学上のしっかりとした地位があるなんて思いも寄りませんでした。

 『ロリータ』と共にフランス映画『シベールの日曜日』のことがたびたび言及され、ロリータ・コンプレックスという言葉に焦点が当たり始めました。

 (著者注記:さらにルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』からとられた「アリス・コンプレックス」という言葉も存在します。これは年端も行かぬ少女性愛のことだと聞きました。ルイス・キャロルは大勢の少女の写真を撮っていたことが知られていて、幼女性愛者だったのではないかとも言われています。)
http://www006.upp.so-net.ne.jp/handa-m/tosho/alice.htm
ルイス・キャロルの撮った少女の画像が紹介されているサイト。

 吾妻ひでお氏は少女のキャラクターを非常にかわいらしく描きます。それまでの漫画家で、かわいらしい少女を描くというのは、女性漫画家や女性イラストレーターだけでした。吾妻ひでお氏の描く少女キャラクターは、彼女たちの描く目に星の輝く、女の子用の少女キャラとは全く違ったものでした。

 きったないおっさんがこんなにかわいらしい女の子を書く。それまでなら変質者扱いだったのですが、あまりにもよい絵だったので、それを正当に評価する動きが出てきたのです。画集も出版されました。今では当たり前の話でしょうが、八〇年代の最初の頃は、漫画家はあくまで子供相手の商売人だという社会的な見方がありました。それが症状の画集を出したのです。

 ただしすべて自分の生みだしたキャラクターであり、普通のマンガ・キャラクター少女イラストです。ポルノグラフィーなどではまったくありませんでした。

 ただし吾妻ひでお本人は、現在のようなロリコンでオタク趣味の、頭のおかしいマンガファンの風潮には批判的です。自分にはあのようなものは全く関係が無いといっています。

http://azumahideo.nobody.jp/
吾妻ひでお氏のホームページです。絵を知らない人は、ここで確認してください。

●ギャグ漫画家は枯渇してしまった

 吾妻ひでお氏の話から少しずれますが、七〇年代後半に大人気だった『少年ジャンプ』、『少年チャンピオン』の漫画家たちの、その後のメジャーな活躍を知っている方はいるでしょうか。

 いるはずもありません。その後彼らは、才能が枯渇していったのです。代表的なのが「すすめ!パイレーツ」を連載していた江口寿史(えぐちひさし)氏です。

江口寿史

 江口氏は、八〇年代にも「ストップひばりくん」という漫画がヒットして、テレビでも放送された。ファミリーレストラン「デニーズ」のキャラクターのデザインで覚えている人もいると思います。

http://www.kotobuki-studio.com/index.html 江口寿史氏のホームページだったのですが閉鎖されている模様ですので、トークショウの動画URLを張っておきます。西原理恵子と画力対決をしています。
http://video.mainichi.co.jp/viewvideo.jspx?Movie=48227968/48227968peevee263951.flv

 江口寿史氏は、ジャンプでは鳥山明(とりやまあきら)の「Dr.スランプ」が出てくるまではトップの作家だったのです。しかし、だんだんと筆が遅くなり、原稿を落とすことが多くなる。「ストップひばりくん」は完結せず、連載終了してしまいます。

鳥山明

 同様に『週刊少年チャンピオン』に「マカロニほうれん荘」を連載していた鴨川つばめ氏も、このマンガ以降目立ったマンガも書けなくなってくる。江口寿史と鴨川つばめは、七〇年代後半のギャグマンガの世界では双璧だったのです。

(個人的には『1・2のアッホ』のコンタロウが好きだった。小学生時代の私は「見た!コーモン」というギャグが好きだったのです。)

 その二人が書けなくなった。一世を風靡するほどのギャグマンガはこの後、鳥山明と『うる星やつら』の高橋留美子(たかはしるみこ)だけになったのです。

高橋留美子

 八〇年代にはこの二人を含めて、全ての漫画家がギャグマンガを書けなくなりました。「がきデカ」の山上たつひこも、「1・2のアッホ」のコンタロウもギャグを書けなくなった。それどころか八〇年代に目立った活躍をすることもなく、九〇年代には一線から消えていってしまったのです。鳥山明も高橋留美子も、以降ギャグマンガは書いていません。

 「キン肉マンがあるじゃないか」という声があります。私は『キン肉マン』がジャンプで連載され始めたときのことを思い出します。「キン肉マン」は八〇年代に一世を風靡したマンガでした。マンガのキャラクターを消しゴムにした「キン消し」は、小中学生の間で流行りました。

 連載が始まった時、私は「お、新しいギャグマンガが始まった。面白そうだ」と思って期待していたのですが、ギャグマンガだったのは第一話だけで、作者のゆでたまご氏は一瞬にしてギャグが枯渇してしまったのです。

(著者注記:私が読んだのは連載第一話だと思っていたのですが、ウィキペディアを見ると連載前の読みきりだったとありました。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%B3%E8%82%89%E3%83%9E%E3%83%B3#cite_note-0)

 当時はもう赤塚不二夫から始まった歴代のマンガたちによって、ありとあらゆるギャグがやりつくされてしまったのです。漫画家の境遇も過酷だったというのも原因の一つでしょう。

 『キン肉マン』はあっという間にシリアスなプロレスマンガになってしまった。プロレスブームに乗ってこれが大当たりしたのです。プロレスマンガといえば小林まことの『1・2の三四郎』もありましたね。私にとってはこっちのほうが面白かった。

  それでも大半のギャグ漫画家は、才能が枯渇してしまったのです。時代がギャグマンガを求めなくなったのかもしれません。笑いは七九年から始まった漫才ブームの中に吸収されてしまったのでしょう。

●吾妻ひでおの「失踪日記」

 吾妻ひでおはその後どうなったのかと言うと、八〇年代の終わりに失踪してしまったのです。吾妻氏は江口寿史氏と同様、マンガが書けなくなってしまった。いや、書けるのですが、締め切りに間に合わして書くことが出来なくなってしまったのです。だから原稿を落とすことも多くなり、ある日突然書置きを残したまま失踪してしまった。

 失踪は八九年から九三年にかけて、いったんは連れ戻されながら、二度失踪してしまったのです。失踪の原因は鬱(うつ)がひどくなり、山で自殺をしようとして失敗し、そのままホームレスになってしまった、ということですが、真相ははっきりしません。

 一度は発見されて連れ戻されるのですが、再び失踪。その後なぜかガス会社の配管工をしていたのです。人からもらった自転車で帰途中、警官に職務質問されてつかまり、その際に身元が割れて、再び連れ戻され、漫画家として復帰します。しかし、今度はアルコール中毒になってしまいます。そのあまりの奇行のひどさから、家族によって強制的にアル中病棟に送られます。

 これらのいきさつは、二〇〇五年に発表した『失踪日記』(イーストプレス)に詳しく書かれています。この赤裸々な体験記が話題を呼び、この本はこの年のベストセラーになります。

 復帰したのはいいが、ほとんど仕事がなく、自分で本を作って一部のファンに自宅から本を発送していたところに、突然取材の申し込み電話や、連載申し込みの電話がひっきりなしにかかってくる模様が書かれていて、実に面白い内容です。

 この年「失踪日記」は、手塚治賞や漫画家協会賞、そして星雲賞と、漫画賞を総なめにします。

 それでも吾妻氏は、マンガをあまり書けなくなってしまった。本人が書きたくないと言っていたりします。現在は自分で出版して、読者に自分で直接マンガを発送していたりしています。仕事は腐るほどあるはずなのですが、本人に意欲が無い。吾妻さんの書くマンガは未だに面白いというのに。

 読書人たちにとっても吾妻ひでお氏は、非常に興味をそそられる存在です。それはその驚異的な読書量です。現在でもとにかく大量に本を読むことが語られていますが、ホームレスの時代ですら、毎日のように図書館に通い、非常に大量の読書をしていたことが語られています。

 江口寿史氏も「江口寿史の正直日記」(河出書房新社)という本を書いています。こちらは全く話題になっていないようですが、なかなか面白い。江口氏はもともとお酒が飲めなかったのですが、彼もまた三〇代半ばから、アルコール依存の傾向があったことを告白しています。

(つづく)