「147」 論文 以前に書きました、憲政の神様・尾崎行雄論を掲載します(1) 古村治彦(ふるむらはるひこ)筆 2011年7月10日

 ウェブサイト「副島隆彦の論文教室」管理人の古村治彦です。本日は、以前に私が書きました、憲政の神様・尾崎行雄についての論稿の前半部を掲載いたします。尾崎行雄は明治期から昭和20年代まで活躍した政治家です。藩閥政治打破、憲政擁護、普通選挙推進に貢献したことで知られ、国会議事堂内には彼の胸像が飾られ、国会の向かいには尾崎行雄記念憲政記念館が建てられています。こうした尾崎行雄に関する固まった評価に対して一石を投じてみたいと思い、この論稿を数年前に書きました。お読みいただければ幸いです。

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尾崎行雄の知られざる姿:「憲政の神様」の裏側にいたもの

古村治彦

1.はじめに

 本稿では、明治、大正、昭和と活躍した政治家、尾崎行雄(おざきゆきお)を取り上げる。尾崎行雄(咢堂)といえば、大正時代に、普通選挙運動のリーダーとして活躍した政治家として日本史の教科書に載っている。また、東京市長時代に、アメリカの首都ワシントンへ桜の木を送ったことも業績として残っている。衆議院議員総選挙二五回連続当選、六三年間にわたり、衆議院議員を務めたことを顕彰して国会議事堂内に胸像が設置されており、また、国会議事堂の向かい側に尾崎行雄記念憲政記念館が建てられている。尾崎行雄は日本の民主主義運動の草分けとして、また、藩閥政府、軍事独裁に抵抗し続けた「憲政の神様」として日本史上に燦然と輝いている。

尾崎行雄

 私がなぜ尾崎行雄を取り上げたのか。それは偉い人だと世間から言われ、その評価が固まっているからだ。私も本稿に取り掛かる前、尾崎行雄について何も知らなかった。前述したような断片的な、教科書程度の見出し程度の知識しかなかった。しかし、だからこそ、この偉い人物にも何か裏があるのではないか、と考えた。そして、現在に残されている書籍を中心とした情報を自分なりの視点で再構築してみたいと考えた。

 尾崎行雄の人物史を紐解(ひもといて)いていくと、二つの単語、「普選」と「不戦」が大きなキーワードになっていることが分かる。普選とは、大正時代に、衆議院選挙の選挙権を成年男子に与えることを求めた普通選挙運動のことである。尾崎は普選運動のリーダーだった。不戦とは、第一次世界大戦後、世界中で広がった軍縮運動のことである。世界では、一九二二年のワシントン海軍軍縮条約、一九三〇年のロンドン海軍軍縮条約が主要国間で締結された。日本も批准した。尾崎は日本国中で演説会を開くなどして軍縮運動を展開した。普選運動と軍縮運動はまさに第二次憲政擁護運動の柱となるものであった。また、第二次憲政擁護運動に遡ること一〇年前に起こった、第一次憲政擁護運動、いわゆる大正政変(たいしょうせいへん)においても、第三次桂太郎内閣打倒の先頭に立った。第一次憲政擁護運動は戦前日本のデモクラシーの高まりの象徴的な事件という評価をされており、尾崎が日本のデモクラシーの先駆者と呼ばれる所以となった。

第一次憲政擁護運動の様子

 後世の私たちから見れば、尾崎行雄のデモクラシー(民主政治体制)の主導者、普選運動のリーダーというイメージは大変好ましいものだ。しかし、デモクラシーが日本古来からの考えではなく、欧米からの思想的輸入品であったということを考えると、ただ単純に好ましいとばかりも言えなくなる。

 大正時代の普選運動は、今の言葉で言えば、民主化運動、デモクラタイぜーションである。民主化運動のリーダー、現代で言えば、ビルマのアウンサン・スー・チー女史や、フィリピンのコラソン・アキノ元フィリピン大統領などは、格好良く、悲劇のヒーロー、ヒロインとして世界中から賞賛されている。彼らと対峙する権力者や軍人たちはまず間違いなく悪役として、世界中から非難される。

 ところが、この民主化運動の指導者たちというのは、多くの場合、外国、現在で言えば、アメリカからの支援を受けて活動しているのだ。アキノ元フィリピン大統領の夫、ベニグノ・アキノ元フィリピン上院議員にしても、金大中元韓国大統領にしても、また、一九八九年に中国で起こった天安門事件で、学生たちのリーダーだった人々もアメリカに亡命して、民主化運動を継続した。

 アメリカは世界の民主政治体制の元締めであり、リーダーである、と自任している。アメリカは第二次世界大戦後、外交政策の柱として、民主化の推進、民主政体の輸出を進めてきた。民主化の推進の裏側には、「進んだ文明国である私たちが、遅れた国々の人々を助けてあげよう」という「上から目線の優しさ」と、「アメリカの影響を強めよう」という「冷酷な計算」があったのだ。残念ながら、ある国で起こる民主化運動というものは、国民の純粋な願いから起こるものではなく、多くの場合、外国からの影響を受けて起こるものなのである。

 この視点から考えてみると、民主化のリーダーと呼ばれるような人を、ただ単純に国民のヒーローであり、偉大な人物だと考えるのは真実を見えなくすることにつながる。だから、本稿で、私は尾崎行雄を疑いの目で見ていきたい。尾崎行雄がどのように考え、どのような人々と交流していたのかを見ていきたい。もっとざっくばらんに言うなら、尾崎行雄が主導した政治運動である、憲政擁護運動は誰のために行われたものなのかを明らかにしていきたいと筆者は考えている。

 筆者は最初、憲政擁護運動に外国の影響があると仮定し、調査を開始した。しかし、調査を進める中で、筆者は、尾崎行雄の裏に、ある国内勢力があり、尾崎の行動に対して大きな影響を与えていた、という結論を得るに至った。その国内勢力とは、三井財閥内の慶応義塾出身者たちのことだ。彼らは交詢社(こうじゅんしゃ)というクラブ組織のメンバーであった。この交詢社が第一次憲政擁護運動の中心的な役割を果たしており、尾崎のバックにいる勢力であることが分かった。何より尾崎自身が交詢社のメンバーだった。そして、尾崎行雄は、三井財閥系の交詢社のメンバーたちの利益のために行動した、と結論付けられるのである。

交詢社ビル(銀座)

 これから、尾崎の人物史、護憲運動の内容、尾崎の外遊など、いくつかのポイントに焦点を当てながら、論を進めて行きたい。

2.尾崎行雄の人物史

 尾崎行雄は、一八五八年一二月二四日、相模国津久井郡又野村(現在の神奈川県)に生まれた。父行正(ゆきまさ)は勤皇の志士とともに討幕運動に参加し、戊辰戦争時は、板垣退助の指揮の下、会津遠征に加わった。このことから父・行正は土佐系に属すると考えられる。その後、行正は明治政府の官吏となり、中央政府派遣の地方官として高崎、伊勢山田、熊本と任地を転々とした。尾崎行雄は父の任地を転々としたが、一八七四年、一五歳のとき、上京し、慶応義塾に入学する。慶応義塾では成績は優秀であったが、福澤諭吉(ふくざわゆきち)はじめ周囲と衝突を繰り返していた。

 

福澤諭吉       慶應義塾大学図書館旧館

 尾崎は一七歳で慶応義塾を退学し、工学寮(現在の東京大学工学部の前身)に入学するが、こちらも一年ほどで中退してしまう。工学寮は講師陣が全てイギリス人で、イギリス式の授業が英語で行われていた。その後、尾崎は、一八七九年、福澤諭吉の推薦を受けて新潟新聞の主筆として迎えられた。政治に関わるようになるのは、一八八一年のことだ。慶応義塾の先輩で、参議大隈重信の右腕と言われた矢野文雄(やのふみお)に招かれ、統計院の官吏となるが、明治一四年の政変に連座し、退官することになる。

矢野文雄

 その後、報知新聞で健筆を振るっていたが、一八八七年、保安条例違反で東京から退去を命じられる。この機を利用し、一八八八年、外遊に出る。一八九〇年、第一回衆議院議員総選挙に三重県から立候補し、当選する。それから総選挙に二五回連続当選した。尾崎は、六三年間にわたり衆議院議員の地位にあった。その間、一八九八年には第一次大隈重信(おおくましげのぶ)内閣で文部大臣、一九〇三年から一九一二年まで東京市長(衆議院議員との兼職が可能だった)、一九一四年から一九一六年まで第二次大隈内閣の司法大臣を務めた。

大隈重信

 一九一二年に始まった第一次憲政擁護運動(大正政変)、一九二三年に始まった第二次憲政擁護運動(普通選挙運動)でそれぞれ先頭に立ち、運動を牽引した。尾崎行雄は、生涯で五回も外遊を行っている。そのせいか、外国の事情、世界の大勢に大変敏感であった。

 尾崎の人物を見ていくと、尾崎が大隈重信の政治的な子分であることが分かる。尾崎には、抵抗の政治家、もしくはマイノリティのイメージがあるが、大隈重信が政治の表舞台に登場するたびに重要なポストを任されている。しかし、よく見てみると、福澤諭吉に連なる慶応義塾の流れにもきちんと乗っている。最初に政治の道に誘ったのは慶応義塾の先輩である、矢野文雄であったし、憲政擁護運動を共に牽引したのは、慶応義塾の同期生、犬養毅(いぬかいつよし)だった。大隈重信と福澤諭吉に連なるということから、尾崎行雄が薩長藩閥に対してはマイノリティの立場に終始した。尾崎行雄のデモクラシーの先駆者というイメージは容易に作られやすい状況にあったことは明らかである。

犬養毅

 次節では、尾崎行雄が一躍、日本のデモクラシーの先駆者として位置付けられることとなった第一次憲政擁護運動について見ていきたい。

3.第一次憲政擁護運動(大正政変)の裏側にあるもの

 第一次憲政擁護運動は、大正政変とも呼ばれる。第一次憲政擁護運動は、政党政治とデモクラシーの高まりを象徴する事件であった。一九一二年、第二次西園寺公望(さいおんじきんもち)内閣は、行財政改革を推進していた。しかし、陸軍はその流れに逆行し、朝鮮半島に駐留させるために二個師団の増設を要求した。西園寺が陸軍の要求を拒否すると、上原勇作陸軍大臣は帷幄上奏(天皇に対して直接上奏すること)し、陸相を辞任してしまう。軍部大臣現役武官制(陸海大臣は現役の軍人がなること)を盾に取り、陸軍は後任の選定を拒否し、第二次西園寺内閣は総辞職となってしまった。

  

西園寺公望        上原勇作

 西園寺の後任には、陸軍出身で長州閥の桂太郎が元老たちによって指名された。一連の流れの裏には、陸軍を握っていた長州閥の元老、山県有朋(やまがたありとも)がいた。自分の子飼いである桂を首相にすることで、増師を進めようとしたのだ。西園寺内閣の瓦解から桂内閣の成立の流れの中で、陸軍、更には長州閥の専横に対する非難の声が大きくなっていった。尾崎行雄と犬養毅(いぬかいつよし)は、桂太郎内閣に対する攻撃を強め、また国民的に反対運動が高まった。

桂太郎

 一九一三年に開かれた帝国議会では、群衆の中を藩閥打破を主張していた議員たちは胸に白バラをつけ登院した。議場において、尾崎行雄は、「玉座を以て胸壁となし、詔勅を以て弾丸に代えて」という有名な一説を含む、桂首相批判の演説を行った。全国的に反対運動が強まり、暴動にまで発展した。第三次桂内閣は国民の反対の前に総辞職を余儀なくされた。以上が、第一次憲政擁護運動(大正政変)のあらましである。

 尾崎行雄は第一次憲政擁護運動の始まりについて、自伝の中で次のように語っている。

(引用はじめ)

 その発端は、交詢社の少壮代議士や、新聞記者などの発起で、十二月十四日の夕、築地精養軒に、対時局有志会を開いたことであった。政友会では私と岡崎邦輔君、その他三十余名、国民党からは犬養君が、数名の同志とともに出席した。

(中略)

 十九日、京橋の歌舞伎座で開かれた憲政擁護大会では、国民党の関直彦君が開会の辞を述べ、政友会の杉田定一君を座長におし、次の決議を満場一致で可決した。『閥族の横暴跋扈其極に達し、憲政の危機目睫の間に迫る。吾人は断固妥協を排して、閥族政治を根絶し、以て憲政を擁護せんことを期す。』

(中略)

 多年兄弟のように、政界に並立していた犬養君と私とが、一時離れ離れとなって、敵味方の状態となっていたのに、世は多大の失望を感じていたらしい。ところが今度の憲政擁護の運動に、二人が久しぶりにクツワをならべて出陣したものだから、同志は勿論、そうでもないものまでも、狂喜してこれを歓呼した。まるで団十郎と菊五郎との、久しぶりの顔合わせのような騒ぎであった。だれ言うとなく、我々二人を
『憲政二柱の神』
とまで言いはやすようになったのは、このときのことである。(『咢堂回顧録』下巻、62−64ページ)

(引用終わり)

尾崎行雄(左)と犬養毅

 第一次憲政擁護運動の中心となったのは、交詢社(こうじゅんしゃ)という組織だった。交詢社は、一八八〇年に、福澤諭吉によって設立された社交クラブである。現在も、銀座に交詢ビルを持ち、慶応義塾出身者たちが集まっている。一九一二年当時、交詢社には慶応義塾出身の政治家、ジャーナリスト、実業家が集まっていた。その中で、一大勢力となっていたのは、福澤諭吉の甥、中上川彦次郎(なかみがわひこじろう)の薫陶を受けた、三井財閥の面々であった(『日本の歴史23 大正デモクラシー』、23ページ)。

中上川彦次郎

 三井財閥は元々、益田孝(ますだたかし)という大番頭がいた。益田は、一八七六年、三井物産を設立し、日本最大の商社に育て上げた。また、一八八九年の三池炭鉱の払い下げにも尽力した。益田は、明治藩閥政府との関係を重視し、薩長出身の政治家たちには、言われるがままに金を融通していた。一応、借用書を取るが、担保を取ることはなかった。政治家たちからの借用書を入れた箱は「地獄箱」と呼ばれた。

益田孝

 三井財閥には、三井物産、三井鉱山(三池炭鉱)、三井銀行の三本の柱があると言われた。このうちの三井銀行が経営難に陥った1891年、三井財閥と深い関係にあった井上馨(いのうえかおる)が三井銀行に招聘したのが中上川彦次郎(なかみがわひこじろう)である。井上馨は「三井の番頭」と呼ばれるほど、三井財閥との関係が深かった(旗手勲著『日本の財閥と三菱』4ページ)。中上川は、三井財閥の不良債権を整理し、政界との癒着を断絶することからはじめた。エピソードとして、長州出身で当時陸軍中将だった桂太郎の邸宅を、借金の担保に差し押さえてしまったり、伊藤博文からの借金の申し込みに対し、担保を要求したりしたほどである(『三井』、110ページ)。これによって中上川は藩閥政府から嫌われることになる。

井上馨

 また、中上川は三井財閥の工業化を推進した。鐘淵紡績、芝浦製作所、王子製紙などの経営のため、中上川は慶応出身の若い俊英たちを三井に引き入れた。それが後に交詢社の中心人物にもなる、朝吹英二(あさぶきえいじ)、和田豊治(わだとよじ)、武藤山治(むとうさんじ)、池田成彬(いけだしげあき)である(『三井』、110−112ページ)。

    

朝吹英二         和田豊治   武藤山治

池田成彬

 三井財閥内の主導権は、中上川が握るようになり、三井物産の益田と反目するようになる。その様子を旗手勲著『日本の財閥と三菱』から引用したい。

(引用はじめ)

 当時の三井は、資本規模は大きいが、徳川時代以来の商業や金融に主力をおいていた。工業面では、長崎造船所を中心にしていた三菱に一歩遅れていた。中上川は、三井を更に産業資本に育成しようと考えたのである。しかし中上川の工業立国論は、三井物産の益田社長らを中心とした商業立国派と激しく対立した。益田らは商業資本の立場から、設備費が固定しやすく、当時市場がまだ不安定な工業は、収益採算が不良だと主張した。特に益田は、政府高官に取り入って、いち早く商機をつかむことを営業の方針にしていたから、中上川の贈収賄厳禁策に強く反発したという。(『日本の財閥と三菱』5ページ)

(引用終わり)

 特に明治三四年に中上川が急死した後は、益田(大正三年に三井合名理事長を引退後も、顧問として昭和一三年の死去まで活躍)が三井の実験を握り、その工業政策は後退してしまう(5ページ)。三井財閥の主導権は、再び益田孝に移ったのである。三井系のうち、鐘紡、東芝などが傍系企業の扱いを受けるのはこのためである。三井財閥の工業化に尽力していた、若い実業家たちにとって、工業の軽視は面白くないものであったはずだ。

 今井清一は『日本歴史23 大正デモクラシー』の中で、第一次憲政擁護運動において、交詢社が果たした役割について次のように書いている。

(引用はじめ)

 福沢門下の人材は当初は三菱に多く集まったが、明治二十四年に中上川彦次郎が三井銀行にはいってから、朝吹英二・和田豊治・武藤山治・池田成彬らがぞくぞくと三井入りし、当時は三井系の各種事業の実権をにぎっていた。かれらは、官僚とむすんで利権を得ようとする三井物産の益田孝らの行き方にあきたらず、官僚専制の改革を要求していたのである。朝吹らは憲政擁護運動の軍資金を引き受けると言明して、議会解散をおそれる代議士たちを力づけた。(23ページ)

(引用終わり)

 交詢社の有志たちは、慶応義塾の同窓であり、交詢社のメンバーだった犬養毅(国民党)と尾崎行雄(政友会)を動かし、政友会と国民党の有志を合同して「憲政擁護会」を結成させ、第三次桂太郎内閣を激しく攻撃させた。ただの慶応義塾出身者の集まりであれば、ここまで政治に深入りする必要はない。それでも、このような挙に出たのは、三井財閥の中の中上川系の人々にすれば、桂太郎という長州閥の政治家攻撃を通して、同じ三井財閥内の益田孝派を攻撃したことになるのだ。奇しくも、桂内閣が瓦解した一九一三年、益田は三井財閥内の全ての役職から退くことになった。

 第一次憲政擁護運動は、藩閥政治、元老政治に対抗し、日本のデモクラシーの高まりの象徴と言われている。しかし、これまで見てきたように、第一次憲政擁護運動は、三井財閥内の、三井物産を拠点とする益田孝派(商業立国派)と、三井財閥の工業各社を牛耳る、中上川彦次郎の直系である交詢社派の争い(工業立国派)が、政治に反映したものなのである。そして、尾崎行雄は、藩閥打破(益田孝派への攻撃)のリーダーに祭り上げられたのである。換言すると、藩閥、特に長州閥に頼る益田孝派へ打撃を与えるため、交詢社派が桂内閣打倒を利用したのである。そこにはデモクラシーの高まりなど感じられない。桂太郎内閣が倒れた後、薩摩閥の山本権兵衛内閣が成立したが、あれだけ盛り上がった国民運動もあさっりと消えてしまった。まるで、藩閥、特に三井財閥、その中でも益田孝と関係の深い長州閥を狙い撃ちにしたかのような「運動」であった。

山本権兵衛

(つづく)