「150」 論文 歴史メモ・イスラームの秘密(2) 鳥生守(とりうまもる)筆 2011年7月31日
グラナダの地に住んでいた彼らキリスト教徒は差別されたためにイスラームに恨みを抱いていたようだが、その彼らもイスラーム文明の恩恵を知らず知らずの間に受けていたはずだ。結果としてその後、彼らの希望通り、グラナダはキリスト教社会になり、彼らは喜んだだろう。だが、それで彼らの子孫はより豊かになったのであろうか。しかと確認はできていないが、私は、グラナダ社会は激変を受け、彼らの子孫はより貧しくなったり、あるいはある者たちは断絶したりしたのではないかと思う。当時のヨーロッパのキリスト教社会は、簡単に言えば、聖職者と兵士だけしか人間らしく暮らすことはできなく、それ以外の(第三身分の)人々は動物並みにしか扱われない社会だったからである。
アルフォンソ一世(Alfonso I)は、この報告を受けてこの祝福された地を手に入れようとして南下を進めるが、グラナダ攻略は実現しなかった。新興のアラゴン王国(Kingdom of Aragon)にとって、最大のライバルは同じキリスト教国のカスティーリャ王国(Kingdom of Castile)であり、北の守りが疎かになることを恐れ、国力の全てをあげて進軍することができなかったからであった。
いずれにせよ世界史をよく見ていくと、以上のように、イスラーム文明は単に物質的に豊かであったというだけでなく、平和的で、景観は美しくまたその大地は芳醇な香りに包まれ、精神的にも上品で豊かであったことがうかがえるのである。これに比べれば、現代ヨーロッパ文明は奇を衒(てら)っただけの文明であり、文明という名に値する中身なのであろうか。
この繁栄を続けるイスラーム世界は、しかし、一七世紀からヨーロッパの武力と謀略によって蚕食されていくことになる。小室氏によれば、ヨーロッパに対して圧倒的な優位に立っていたイスラームが、その圧倒的地位を失いはじめるのは一七世紀になってからのことだという。そして、一八世紀に入るとこの傾向は加速され、一九世紀に入ると、完全にイスラームはキリスト社会に圧倒されるようになり、ヨーロッパ帝国主義諸国はイスラーム世界を蚕食しはじめた。そして、誇るべき文化もなければ、信仰も薄かったキリスト教社会が、科学技術でも富力でも、また経済でも文明でもイスラームを凌駕した、ということである。(小室直樹『日本人のためのイスラム原論』)そしてオスマン帝国(Ottoman Empire)は第一次大戦(一九一四〜一九一八)では敗戦国となり、ヨーロッパ帝国主義によって分割支配されることになった。
青年トルコ党(Young Turks)のリーダーであったオスマン・トルコのムスタファ・ケマル(ケマル・アタテュルク Mustafa Kemal Ataturk)は、一九二三年、トルコ共和国の初代大統領となり、トルコ革命という西欧的近代化政策を指導した。当時、東洋の一小国にすぎぬ日本が、開国後半世紀の近代化によって、中国、ロシアという大国に勝ち、世界の列強の仲間入りを果たしていた。ケマルら若者たちには、それは衝撃的な出来事だった。ケマルたちは、我が大国トルコも資本主義経済や近代的諸制度を導入すれば、たちまちトルコは勢威を回復するだろうと考えたのである。
ムスタファ・ケマル
以来、イスラーム世界は、資本主義経済とイスラームの両立を求め、それに努力を傾けることになったのである。しかし半世紀がたち西欧近代の実態がわかってくると、その両立は絶対に不可能であることが誰の目にも明らかになってきた。また西欧化の道をいったんは選んで、近代化を試みても、イスラーム教を捨て去らない限り、その成果は望むべくもなく、他方、資本主義経済が流入すると、貧富の格差は広がるばかりである。これでは裕福になったとしても、真実の幸福とはいえない。つまりその間、西欧の資本主義経済の非人間性が、イスラームの若者たちにも明らかになってきたのである。ここに至って、イスラーム世界は再度大きく舵を切り、ヨーロッパ文明の摂取政策を撤回し、イスラーム教の原点に立ち戻り、イスラーム社会を蘇(よみがえ)らせることを志向し決意するようになったのである。
(引用はじめ)
イスラームはいま、世界の各地でよみがえりつつある。一九七九年のイラン革命は、イスラームがいぜんとして民衆の心を動かす、生きた宗教であることを、あらためて世界にしめす結果となった。この革命の成功は、一九世紀以来、西アジアの各地で続けられてきた「イスラームの復興」運動にはずみをあたえ、これを機に世俗的な「国民国家」や血統にもとづく王制は大きく揺らぎはじめた。
(略)その影響力は、エジプト・サウディアラビア・シリア・アルジェリアなどのアラブ諸国ばかりでなく、トルコ・アフガニスタン・パキスタンなどの非アラブ諸国にまで広くおよんでいる。
イラン革命の年に開始されたソ連軍のアフガニスタン侵攻は、このような「イスラームの復興」運動を食い止めることが主たる目的であった。しかし、ソ連軍は予想もしなかったイスラーム教徒軍の頑強な抵抗に手を焼き、一〇年後には結局みじめな撤退を余儀なくされた。そしてソ連邦の解体後は、中央アジアの各地でイスラームへの劇的な回帰現象がおこり、また中国でも文化大革命の収束後は、ウイグル族や回族の間にイスラームを再生しようとする運動がおこりつつある。(三〜四ページ)
(引用おわり:佐藤・鈴木編『新書イスラームの世界史・都市の文明イスラーム』講談社現代新書、一九九三年)
今、イスラーム世界ではイスラーム再生復興運動が起こっており、それとともにイスラーム教が静かに世界に浸透しているようなのだ。小室直樹氏は、『日本人のための宗教言論』で、「アメリカで今、イスラーム教徒がたいへんな勢いで増えているそうだ。とにかくわかりやすく効験(こうけん)あらたかな宗教であるから、ロシアなどでもますます広まるであろう。」(二八一ページ)と述べている。
イスラームは今、世界の各地で蘇(よみがえ)りつつある。イスラーム教は、世界平和のため、人類全体の共存共栄のための、真正の宗教であり、完璧な宗教であり、今も拡大している宗教であることは事実であり、いずれ世界を制することは間違いない。小室直樹氏が言うように世界史を素直に正しく見ればそれは明らかであり、世界史がすでに何度もそれを証明しているのである。イスラーム文明がヨーロッパ文明に負けたのは、(暴力的な)軍事力と(雑音的な)情報発散力によってである。文化力、文明力ではイスラーム文明の方が間違いなく勝っている。イスラームの発する信号は雑音に埋もれているのだが、いずれ世界の人々はこのイスラームの信号に同調して、その信号を送受信するようになるだろう。マスメディアの雑音に心を捕われることなく、心が虚心坦懐になれば、だれでも世界史を正しく見ることができるのだ。
戦後日本が生んだ天才的大学者である小室氏は、「この(イスラームと欧米社会との対立の)負の連鎖を止めるには、アメリカ大統領自らがイスラームに改宗する以外にはないと言ってもいい」(小室直樹『日本人のためのイスラム言論』四四六ページ)と述べている。イスラームが世界を制したとき、世界に真の幸福が訪れる、というのが、小室氏の偽らざる本心であるようだ。これが小室氏の学問研究が行き着いた最終結論のように思われる。もちろん小室氏が「イスラーム知らずのアメリカ人」が簡単にイスラームに改宗するとは思っているわけではない。だが、小室氏自身がイスラームの完璧さを認めているのは確実だ。私は、『日本人のための宗教原論』と『日本人のためのイスラム原論』が、小室直樹氏の学問的集大成の本であるように感じるのだが、どうだろうか。
私は、小室直樹氏が言うように、イスラーム教を正しく研究し、理解し、それに学ぶことが、現代日本人にとって、さらに世界人類にとって、最も有意義なことではないかと思っている。以後は、そのさわりで、基本的なことを述べてみたい。
●イスラーム教の成立
1.ムハンマドと最初の啓示
イスラーム教は、唯一神アッラー(Allah)がムハンマド(マホメット Muhammad)を預言者として選び、大天使(archangel)を遣わして啓示を届けさせたことに始まる。啓示(revelation)とは、「神が人間に対して、人の力ではとうてい知ることのできないような事をあらわし示すこと」である。それは、ムハンマド(マホメット)が四〇歳の年、すなわち、西暦六一〇年からのことである。(聖徳太子が歿したのは六二二年とされるから、それはその一二年前のこととなる。)これからイスラーム教は始まったのであるが、イスラーム教が勢力を増したのは、六二二年に、マディーナ(メディナ Medina)へ移住してイスラーム共同体(ウンマ Umma)を樹立(これをヒジュラ=聖遷 Hijraという)してからであり、イスラームはこの年をイスラーム暦(ヒジュラ暦)元年としている。したがって、聖徳太子が歿したとされる年は、イスラーム暦の元年でもあったのである。それ以来、啓示のない日が続いたこともあったが、死ぬまでの二三年間、ムハンマド(マホメット)は啓示を受け続けたのである。ムハンマド以外の預言者は、短期的にしか神からの啓示を受けていない。これほど長い期間にわたって啓示を受け続けた預言者はムハンマド(マホメット)だけであり、これがイスラームの重要な特徴の一つであり、イスラームの強みである。なお、イスラーム暦は純粋な太陰暦であり、その太陰暦は一年が太陽暦より一一日短いため、例えば九月(ラマダーン Ramadan)は季節が移動することになる。夏になったり春になったりするのである。このことは留意しておくことが必要だ。遊牧民や隊商の商人にとっては、季節よりも月齢(月の満ち欠け)の方が重要だったのであり、イスラームはその暦を受け継いだのである。
ムハンマド
ここで基本的なことを一つ。世界では、さまざまな時代のさまざまな民族に現われた預言者は、十二万四千名もいたということだ。これがイスラームの見解のようだ。もし仮に、三〇〇〇年間にこれだけの数の預言者が出現したとすると、預言者なる人が、毎年四一名も出現した(生まれた)という勘定になる。神の言葉を預かる預言者がこんなに多数いたのである。そしてイスラームは、ムハンマドを含めてこの預言者全員が同じ神から同じ啓示を受けたとし、したがって彼ら預言者全員を信じなさいとしているのである。
ただしムハンマド以外の預言者たちの教えの形跡は失われたか、残存していても不完全にしか残っていないのであり、神の教えが人間にわかる形になって残っていない。預言者ムハンマドによってのみ、ムハンマドに下された神の教え(啓示)がすべて記録され、人間にわかる形(聖典『クルアーン(コーラン)』)で残ることになったという。これがイスラームの立場である。ということは、イスラームは何も新しい宗教でもなく、また歴史的世界的にはなんら珍しい宗教でもない、ということである。ムハンマドに知らされた啓示は、数多くの預言者に知らされた啓示と同じであり、みんな同一の宗教であると言っているのである。だからイスラームは特別のことをしているわけではなく、唯一神教の宗教としては当たり前のことをしているのだという意識なのである。
ムハンマドも預言者であるが、普通の人間でもあった。ムハンマドは五七〇年頃、名族クライシュ族のハーシム家の一員として、メッカ(マッカ Mecca)で生まれた。父親を生まれる前に亡くし、母親を二歳のときに亡くし、孤児となった。孤児となったムハンマドは、祖父に育てられることになった。しかしその祖父も六歳のときに失った。その後血筋はよいが弱小で貧しい一族であった伯父や従兄弟たちの中で成長した。そのため彼は彼と同年配のアラビアの子供たちが受けるわずかばかりの訓練と教育すら受けることができなかった。少年時代には彼はベドウイン族の少年達にまじって、羊と山羊の世話をしていた。成年に達すると彼は商売をはじめた。だから、ムハンマドは名族クライシュ族(Quraish)の生まれであったが、全く無学文盲で無教養であった。しかし「アミーン(誠実なもの、正直者 Amin)」とあだ名されていたから、実直な青年だったようだ。そして彼は光るものをもっていたのであろう。二五歳の時、豪商の未亡人ハディージャ(Khadija)に見そめられて、結婚した。ハディージャは三度目の結婚であり、この時すでに四〇歳であった。ハディージャはムハンマドを雇って、ムハンマドの様子を確認して結婚を決断したのだ。ムハンマドはこの結婚のお陰で、生活の心配をしなくてもよくなった。おじのところから幼い子を一人引き取って育てることもしている。四〇歳までのムハンマドは、妻の交易を支えたり、家庭や一族の義務を果たしたりして、平穏な暮らしをしていた。四〇歳になる頃、近郊のヒラー山(Hira 現在は「光の山」と呼ばれている)の洞窟で瞑想にふけるようになった。ムハンマドはそこで最初の啓示を受けたのである。
ヒラー山
神アッラーからの最初の啓示は、ムハンマドをひどく戸惑わせたそうである。
(引用はじめ)
ヒラー山の洞窟で、ムハンマドは瞑想中に突如、不可思議な現象に襲われた。何者かが現れ、いきなり、「読め!」と命令したというのである。読み書きのできなかったムハンマドが、困惑して「私は読めません」と答えると、その何者かは死ぬほど彼を締め付けたという。とうとう観念したムハンマドが、言われた言葉を復唱すると、復唱という行為が正解だったようで、その何者かは、復唱すべき言葉を続けた。それが、クルアーンの最初の章句となった。
読め! 「創造なされた汝の主の御名によって。かれは、凝血から人間を創られた」
読め! 「汝の主はもっとも尊貴なお方、かれは筆によってお教えになった方、人間に未知なることをお教えになった」(第九七凝血章一〜五節)
恐慌をきたしたムハンマドは山を下りたが、立ちつくして動けなかったようである。帰宅が遅いのを心配した妻は、人をやって夫を捜させたという。ようやく家に戻ったムハンマドは、妻にかけてもらった衣にくるまり震えていたという。いずれにしても、何が起こったのか、彼には全く見当がつかなかった。(五六ページ)
(引用おわり:小杉泰『興亡の世界史06・イスラーム帝国のジハード』講談社、二〇〇六年)
これが啓示の始まりであった。四〇歳のムハンマドは、自分がジン(目に見えない生き物、幽精、精霊)に取り付かれて狂ったのかと、恐れ疑いもしていたのである。この夫の恐れ、不安をおさめたのは、一五歳年上の妻ハディージャであった。妻は、懸命にムハンマドを励まし、洞窟での出来事の様子を詳しく聞いた。ムハンマドはそのうち、大天使ジブリール(ガブリエル Gabriel)が自分に遣わされ、神の言葉を預かる「預言者」たることを命じられた、と考えるようになり、自分の責務を自覚するに至る。その自覚を助けたのが、妻ハディージャであり、彼女は預言者としてのムハンマドを信じる最初のムスリム(イスラーム教徒。女性形はムスリマ)となった。
以後死ぬまでの二三年間、ムハンマドは啓示を受け続けるのである。が、この初めての啓示から、二つの秘密を取り上げて考えてみよう。一つは啓示という現象に対して。もう一つは読め(誦め)という神の指示・命令についてである。
2.イスラームの教えの基本は神からの啓示
神の啓示現象に対して、小杉泰は次のように述べている。
(引用はじめ)
唯一神、預言者、啓示、啓典などは、セム的一神教の基本概念であり、(略)預言者や啓典といったものが自明として認識される世界が存在する、ということを理解しないと、ムハンマドもイスラームもわからない(略)。
セム的一神教の世界では王道とも言える形で、宗教としてのイスラームが始まったのである。(五九〜六〇ページ)
(引用おわり:前掲書)
唯一神の啓示を信仰する三つの啓典宗教であるユダヤ教、キリスト教、イスラーム教は、それぞれヘブライ語、アラム語、アラビア語から生まれた。これら三つの言語はいずれもセム語系に属する。セム的文化では、神の言葉を聴くというような志向が強いのであろう。そういう文化圏にいると、人が神の啓示を受けることは絶対的に不可能なことではなくなるのだ。事実、この世界には数多くの預言者が輩出されていたのである。掲示(予言)はけっして珍しいことではなかった。ムハンマド(マホメット)や同時代の人たちは、そのセム的文化のなかで生まれ暮らしてきたのだから、セム的文化の一要素である唯一信、予言、啓示、啓典という文化をどっぷりと継承していたと言える。当時のセム的文化には多神教要素と一神教要素が混在していたのだが、多神教には予言(啓示現象)はないらしい。ムハンマド(マホメット)は、部族間の対立をなくし部族間や世界の平和を得るための、一神教の啓示を受けたのだった。このセム的文化はセム系の言語に表れており、啓典の(一神教)宗教を理解するには、どうしてもその文化や言語で理解する必要がある。
したがってイスラーム教が『コーラン』を毎日礼拝などで読誦する際において、他国語に翻訳したもので行うのは無効とし、アラビア語で読誦することになっているのは正しい姿勢である。井筒俊彦が、「『コーラン(クルアーン)』はアラビア語の原文でこそ聖典である。外国語に翻訳された『コーラン』はすでに聖典ではなく、一種のきわめて初歩的な注釈書であるに過ぎない」(井筒俊彦『コーラン(下)』岩波文庫、後記)と言っているゆえんである。
そしてアラビア語は、耳に甘く調和に溢れているらしい。
(転載貼り付けはじめ)
イスラーム文化のホームページ
http://www2.dokidoki.ne.jp/racket/maudufr.htm
『イスラームの理解のために』より
あなたがたはアラビア語を学び、その文学に精通するならばアラビア語ほど高い理想を表現し、神に関するむずかしく微妙な問題を説明し、人間の心を強く打ち神への従願につかせるためにふさわしい言語は他にないことを確信するであろう。簡単な文句と短い文章でも山程の思想を表現し、同時に、心にしみこみ、「聞いただけで人間を感動させ恍惚とさせる」ほど偉大なのである。アラビア語の言葉は蜜が耳に注ぎこまれていると思うほど甘い。その言葉は、聞く人の身の全器官がそのシンフォニーに感動させられるほど調和に溢れている。神の偉大な言葉、コーランに必要なのはこのような豊富な威力ある言語である。
(転載貼り付けおわり)
アラビア人たちやムスリム(イスラーム教徒)たちは、千数百年以上も神について自問自答や公開審議をしてきたのであるから、アラビア語はその方面に関して発達しているのは当然だろう。
(つづく)