「153」 論文 日本人の中国像とは西洋の伝統的中国像である―『西洋の思想と文化における中国像』(1) 鴨川光(かもがわひろし)筆 2011年8月21日

 二〇一一年七月現在、アメリカでは盛んにデット・シーリング(debt ceiling)引き上げの是非をめぐる議論がなされている。金、銀の商品(これをコモディティ commodityという)や金融商品の取引の禁止や規制の話が持ち上がっている。

 アメリカ合衆国のデフォールト、財政、経済破綻に端を発する世界恐慌が二〇一二年頃に起こるのではないか。副島隆彦氏は、二〇〇三年(いやそれ以前の、少なくとも二〇〇二年以前だと私は記憶しているが)くらいから、その説を唱えてきた。

 二〇〇三年に刊行された副島氏の『実物経済の復活』(光文社、後に祥伝社から文庫本で再版)は、日本の経済関連書籍の金字塔であろう。

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『実物経済の復活』

 この問題の重要な、そして世界的意義は、アメリカ発の世界恐慌をきっかけとした世界覇権のパラダイム・シフト(paradigm shift)の可能性が、現実のものとなってきていることである。

 今回起こるとされているパラダイム・シフトとは、約一〇〇年間(一九一四年、第一次世界大戦の勃発とFRBの創設から)、歴史的に未曾有の世界覇権を握ってきたアメリカ合衆国から、経済発展著しい中国への覇権交代である。

 実際には中国が世界の覇権を握るわけではない。中国は、ユーラシアの東部、つまり東アジアの覇権を握るという、リージョナル・ヘジェモニック・ステイト(regional hegemocit state 地域覇権国、ちいきはけんこく)になるという意味である。

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世界地図

 ユーラシアの覇権という意味では、日本が東アジアの覇権を握るというのは、そもそもの無理があるというのが分かるであろう。同じ太平洋の国家である東南アジア諸国に対しての経済、産業協力というのはある。インドシナ半島のタイ、カンボジア、マレージアまで。中国・ロシアに対しても、経済協力というのはある。もちろん日本は世界のいたるところで援助を行なっているが、地域的結びつきという意味ではということである。

 アメリカもリージョナル・ヘジェモニーを握る国の一つとして残る。北アメリカと、ヨーロッパに対しても、ある一定のパワーを維持し続けるであろう。

 そのほかの地域覇権国とは、いわゆるBRICs(ブリックス)である。南米のブラジル。ユーラシア中央のロシア。南ユーラシア亜大陸から東南アジアにかけてのインド。そして、中国である。ミドル・イースト(Middle East)における覇権を、トルコ、サウジアラビア、イランのどれかが握るのかどうかは判然としない。

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BRICsの首脳たち

 ユーラシアというのはユーロ・アジア大陸のことだ。ヨーロッパとアジアが陸続きであるというだけの意味である。だから実際には、ヨーロッパ大陸とアジア大陸という二つがある。日本語では大陸、大きな陸地という訳語が与えられているが、これはそもそもの無理がある。もともとの定義であるコンティネント continentというのはコンティニュー continue、つづくという意味。陸続きという意味ではない。ユーラシアはウラル山脈で、ヨーロッパとアジアが切れているのだ。ヨーロッパはウラル山脈まで。ロシアはヨーロッパとアジアにまたがる。

 インドはどうかというと、これも本当はヒマラヤ山脈とチベット高原で切れている。かと言ってコンティネントというほどの大きさはなく、半島では大きすぎる。だから、サブ・コンティネント(subcontinent)、亜大陸という。

 地球には六大陸があるのではなく、ユーラシアを二つに分けて七大陸というのが真実。亜大陸を入れて7.5といったところであろう。

 いわば、一つの大陸に一つの覇権国という自然な世界が生まれるのである。中国とロシアはユーラシアで覇権の奪い合いをするかというと、そういうことにはならない。ちょっとした国境紛争のようなことはあるだろうが、大したことではない。歴史的に中国は東アジアの文明であり、ロシアはヨーロッパよりかもしれないが、本当は中央アジアの覇権国なのである。そう住み分けられてきたのである。

 「フォーリン・アフェアーズ」の何かの記事で読んだことがあるのだが(おそらくサミュエル・ハンチントン Samuel Huntingtonだったと思う)、これら地域覇権国は、それぞれの地域のナンバー1だが、常にナンバー2とのライバル関係にあるという。


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サミュエル・ハンチントン

 その論文では、アメリカは世界覇権国なので、世界のナンバー1として除外している。南米のナンバー2はアルゼンチン。ユーラシア中央のナンバー2はウクライナ。亜大陸のナンバー2はパキスタン。ヨーロッパの場合、ドイツとフランスを一つと考えてナンバー1。ナンバー2はイギリス。

 面白いのは東アジアで、ナンバー1の中国に対して、ナンバー2は韓国だという。そんな馬鹿な、日本だろうと思うのも無理は無い。その論文の著者は、日本を1.5と数えていた。なるほど。しかし実際は、日本が2番目の地位を持っていて、片足を太平洋に突っ込んでいるから、アメリカと中国の間で揺れ動くという宿命を背負うであろう。つまり、環太平洋でも東アジアでもナンバー2という地政学的にも独特の位置を占めているのである。

 同じように、アメリカとヨーロッパの両方に対する独特の地位を持っているのが、イギリスである。フォーリン・アフェアーズの論文の中では、BRICsにとどまらず、中東とオセアニア、アフリカに関する地域覇権に関しても述べている。

 それによると中東は一位がサウジアラビアで二位がイランであるという。オセアニアは一位がオーストラリアで、二位がニュージーランド。トンガやフィジー、西サモアなど物の数に入らない。

 アフリカに関しても基礎的なことを述べておこう。アフリカも実は一つの大陸としてとらえるべきではない。サハラ以北のアフリカとサハラ以南のアフリカの二つがある。これもユーラシアと同じで、地続きではあるけれども、サハラ砂漠という実際には海のようなもので仕切られているのだ。

 サハラ以南のアフリカのことを「サブ・サハラ(sub-Sahara)」という。

 では、サハラ以北のアフリカとは何か。それはインドネシアから続くウンマー・イスラミヤ(イスラム圏、イスラム)共同体の西の三分の一なのです。東の三分の一はインドネシア、マレーシア。真ん中の三分の一はいわゆる中東諸国。アラブが大半。

 サハラ以北のアフリカの盟主とはエジプトである。二番手はアルジェリア。しかしエジプトはイスラム全体の盟主なのである。軍事的・政治的リーダーである。四度に及ぶ中東戦争とは、イスラエル対エジプトの戦争だったと言ってもいい。

 一九七七年のキャンプ・デービッド合意によって、一応エジプトとイスラエルの間で和平が結ばれてからは、大きな中東戦争というものは起こっていない。サダトは暗殺され、後を受けたムバラクがアメリカの傀儡となって、三〇年近くエジプトを支配した。

 エジプトはユーラシアの一部である中東とアフリカの両方に足を突っ込んでいる。イスラム圏の国は石油と宗教以外に力を持っているとは考えられていない。だから、エジプトにもサウジにもアメリカはこれからも隠然とした力を行使していくであろう。つまり、BRICs以外、アメリカは世界の海洋を中心とした覇権国であり続ける。

 太平洋対岸の日本、地中海とインド洋をつなぐスエズ運河を持つエジプトと、紅海の対岸であるサウジアラビア。北大西洋と北海の西、地中海の西のふたであるジブラルタルを所有するイギリス。シー・パワーから見た地政学的に、この四ヵ国をアメリカは完全には手放さないであろう。

 それからもう一つ。かつての世界覇権国であったトルコがある。この国は今でも中東のイスラム圏にいながら、ヨーロッパの一員ですよ、というような顔をしている。確かにオスマン・トルコ時代、中東のペルシアまでを覇権区域に収めながら、ルーマニア以南のバルカン半島を治めていた。

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トルコの地図

 だから、覇権国ではないアナトリア(小アジア、アジア・マイナー Asia Minorという)のトルコ共和国は、今でも両地域に足を突っ込んだ形をとっている。地政学的にも、バルカン半島への飛び地に、かつての首都で地中海世界の中心であったイスタンブールを持っている。

 この飛び地によって、地中海の東のふたであるボスポラス海峡(Bosphorus)とダーダネルス海峡(Dardanelles)を押さえている。そして黒海への入り口(出口)でもある。ロシア、ウクライナにとっては地中海への出口である。ここにアメリカ海軍がわんさといるようだ。だからアメリカは、地政学的にもトルコを放さない。

 日本、イギリス、サウジ、エジプト、トルコは今後もアメリカの影響力の中にある。副島隆彦氏は経済と産業の点から、これらの国、特に日本とサウジをアメリカは手放さないという理論を展開しているが、それを地政学的に分析すると、私の理論となるのです。

 サハラ砂漠以南、サブ・サハラのアフリカの覇権国とは何か。それは南アフリカであると「フォーリン・アフェアーズ」の論文は述べている。ナンバー2はケニアであると。

 ここらへんの事情は良くわからない。南アフリカはイギリス連邦加盟国であり、セシル・ローズ(Cecil John Rhodes)やアルフレッド・ミルナー(Alfred Milner)の画策以来イギリスの支配下にあった。覇権のアメリカへの移動によって、アメリカの支配下にあるのだろう。喜望峰(ケープ・オブ・グッド・ホープ Cape of Good Hope)によってインド洋と大西洋をつなぐ南アフリカは、一五世紀から始まる大航海時代以来、交通の要衝であり、地政学的に今でも無視できない重要地点である。ここに立法府ケープタウンがある。

 今ではBRICKsにサウス・アフリカが加わっているのだそう。サウス・アフリカのSをとってBRICSと表記するらしい。

 共にイギリス連邦であり、ラグビー最強国同志の絆で結ばれたオーストラリア、ニュージーランド共々、アメリカはこの三国の覇権を認めないであろう。

 だから、二一世紀はBRICSの時代なのである。ブラジル以外は世界の四大文明から続く。(著者注記: 四大文明とは、メソポタミア、インド、中国、ギリシャである。エジプトはメソポタミア文明の一部)

 それ以外の地域派遣の可能性を持つ国は、アメリカの地政学の中に取り込まれる運命にある。

●中国とアメリカの両国の狭間にいる日本のこれから

 日本は第二次大戦以降、一九一四年のイギリスからアメリカへのパラダイム・シフト、覇権の移動に組み込まれ(世界のどの国もそうだったが)、アメリカのバック・ポンド(裏の庭にある池。環太平洋の国は、その池の周りにある石。国民はその石の上にいるカエル)である、太平洋の政策の一部として重要な位置を占めていた。

 ちなみにアメリカのバックヤード、裏庭は中米以南、南米。南米はアメリカの裏庭であることをやめようとしている。ここら辺の基本的知識と事実は、副島氏の一連の著作に書かれている。きちんと読みましょう。副島氏の著作を一〇冊以上(それぞれの分野の代表作)、何度もしっかりと読み込まなければ、副島氏の批判、批評は出来ない。賛成意見や賞賛ですら述べることは出来ない。

 日本は世界大戦でアメリカに計画的に叩きのめされた後、再び計画的に国家再建がなされ、世界的にも歴史的にも未曾有の高度成長と繁栄を享受してきた。戦後に日本人が築いた「便利で安全な生活」は、今後も一定のクオリティを保ったまま続く。

 日本の行く末がいかなるものであろうとも、中国の近代的興隆は勢いを増していく。それにつれて、日本国内に近年、特に保守的志向が席巻し始めたこの一〇年、中国嫌い、サイノフォービア(Sinophobia)が浸透し始めている。

 今の日本人の中国と中国人への主な見方は、サンケイ的保守と小林よしのり氏や、その大元の渡部昇一氏の言論の影響によって中国嫌いになった人々のものと、中国で一儲けしようというビジネスマン、産業人たちによる中国好きの二つである。

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小林よしのり

 結果的に、現実を直視したビジネスマンたちの考えが正しいということになるだろう。かつては、日本の言論人マスコミ、そして一般の人々の中国への見方は、戦後、特に一九七二年の日中国交回復とパンダ来日以来、親中国的な論調と見方が大きかった。

 これは朝日、毎日、岩波を中心とした、旧左翼的、親社会主義的な言論人たちの見方である。日本のマスコミはこぞって中国と北朝鮮を褒め称えた。旧左翼は、ソヴィエトを見限り、文化大革命が終わって、ケ小平によって改革開放路線が始められると中国に向かっていった。これが、二〇〇〇年ごろまで続く。

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ケ小平

 一九八九年にベルリンの壁が崩れ、天安門事件が起こり、一九九一年にソヴィエトが崩壊した後、かつて左翼にひどい目にあいながらも、独特の立場から保守、右翼的言論を行なってきた渡部昇一を中心とする六〇歳代の言論人が息を吹き返した。

 渡部昇一氏は、実際はイエズス会のメンバーであるから、キリスト教的立場からなぜか日本の保守言論を行なってきた。自分の宗教的立場を公言しない渡部氏の学者としての誠実さには、大いに疑問が残る。

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渡部昇一

(著者注記: 後に語るが、イエズス会というのは歴史的に親中国である。一六世紀末からアコモデーション accomodation、宥和(ゆうわ)政策をとって、中国をキリスト教化しようとして以来、中国にへつらってきた。にもかかわらず、中国を毛嫌いしている渡部氏とはいったいどのような政治的、宗教的立場なのか、非常に疑問が残る。)

 この昔からの保守言論人たちに、九六年ごろから徐々にではあるが、小林よしのり氏が加わり、現在に至る。西尾幹二氏らの自由主義歴史研究会や新しい歴史教科書をつくる会という、保守知識人らの運動がそのころから始まり、小林氏はそれに参加することで保守言論人としての立場が明確になった。この会は、二〇〇〇年の教科書採択戦に破れ、現在は何の影響力もない。

 現在の嫌中国の雰囲気は(その大元はアメリカによる先導であろうが)、彼らが作り出し、広めてきたものである。現在の嫌中国観は、ほんの最近の二〇〇〇年代の半ばまでは、一般の人のとらえ方やマスコミ報道でも考えられないものだったのである。

 この二つに対して、もう一つの見方が二〇〇一年ごろから副島氏が唱えてきた中国観である。文明としての中国と、新しい覇権国としての中国、パラダイム・シフトという大きな歴史の流れをとらえた上での中国観である。その見方を、別の角度から簡単に解説したのが、この論文の冒頭で私が示した中国論である。

 かつての左翼たちが褒め称えた文明としての中国観と、現在の保守言論人たちが行なう嫌中国観、サイノフィリア Sinophilia とサイノフォービア Sinophobia は、いったいどこから来たものなのか。これが今回の私の文章の本題である。

●日本人の中国観はヨーロッパ人の伝統的中国観である

 この論考は、平凡社刊の「西洋思想大事典」の中にある「中国像(西洋の思想と文化における)」 China in Western Thought and Culture の解説である。

 私が中国のことを調べている最中に、たまたま見つけた論文である。著者はドナルド・F・ラック Donald F.Lach (ロックと発音するらしい)とある。私はこの全五巻に及ぶ事典に信頼を置いている。日本において、正確に全体をそのまま完訳した事典辞書の類は、この「大事典」と小学館による「ランダムハウス英語辞典」だけだからである。

 この二冊と、平凡社による「世界大百科事典」は、エンサイクロペイディア・ブリタニカ(Encyclropedia Britanica)の翻訳ではないが、ブリタニカのミクロペディアの記述法をそのまま踏襲していて、実質的にミクロペディアの日本版と同等の価値を持っている。

 副島氏も、自らのサイトのどこかでこの事典について触れているが、氏と同じく私も、一冊の事典、辞書を、出版社の編集者が勝手に編集し、部分翻訳をして、パッチワークと成り果てた日本の辞書事典をあまり信頼していない。部分、部分で引用することがあるが、全面的には信を置けない。

 副島氏も主張しているように、ブリタニカやOED、ウェブスターをそのまま丸々全訳すればいいのだ。日本の印刷と編集方法に合うように勝手に変えてはいけない。この「西洋思想大事典」は原典が丸ごと翻訳された稀有な例なのである。

 「中国像」の話に戻る。

 この論文を読んで私が思ったことは、日清戦争以降、日本人が一一〇年ほどの間に抱くようになった中国像とは、ヨーロッパ人が約五〇〇年前から積み上げてきた中国像に他ならないということである。

 良くも悪くも、近代化された後の日本人が抱いてきた嫌中国、親中国という気持ちは、主にイエズス会(Society of Jesus)の伝道士とオランダ商人による報告の集積によって作り上げられてきた、ヨーロッパの中国像の伝統なのである。

 親中国観はイエズス会士による「宥和政策」(アコモデーションという)がその源流であり、嫌中国観は、オランダ商人による、約束を守らない、ずる賢い中国人像である。

 今後、嫌が上でも今まで以上に中国と付き合っていかなければならない日本人に、私たちが抱いてきた「伝統的」中国人像とは何か、その正体を明らかにし、私たちの持っている少なからずバイアスのかかった中国観に別の観点から光を当てて、東アジアの一員としての日本人の態度に役立ててみたいと思う。

 以下は、同書の本文の中から、重要だと思われる部分を(元が翻訳なので、読みにくい文章だから)噛み砕いて解説し、分析し、私鴨川の意見を加えたものである。

●正確な中国の情報がヨーロッパに伝わり始めたのは一五一四年から

 ヨーロッパにおいて中国は、インドやペルシアよりもはるかに東の向こうにある、古くからの大国の存在として、すでに古代ローマ時代から知られていた。中国はインドとは異なった独立した文明であることが、数少ない旅行者の報告や相当の規模の交易によって、少しずつ形作られていった。(二九七ページ)

 中国はその先進的な技術を持つ国として、ヨーロッパ世界では古くから知られていたが、芸術や技芸に関するものは、ヨーロッパに何の痕跡を残すこともなく、紀元四世紀には、ヨーロッパにおける中国像は再び曖昧なアジアの神話同然のものとなって、消えていくこととなった。(二九八ページ)

 一三世紀にはモンゴルが勃興し、一二一五年から一三五〇年にかけて、陸路コミュニケーションが再開された。この当時の中国は、直前まで山東半島から今のウイグル自治区に至る辺りまで、契丹(きったん、遼、りょうという国号でも知られる)という遊牧民族が建国した国が治めていたため、中国はキタイ(Khitai)とかカタイという名でヨーロッパに知られるようになった。

 香港の航空会社「キャセイ・パシフィック航空」の「キャセイ」とは、カタイのことであるそうだ。

 このころに中国に渡ったといわれるのが「東方見聞録」で有名なマルコ・ポーロ(Marco Polo)であり、「東洋紀行」という本で知られるオデリコ・ダ・ボルデノーネ(Odorico da Pordenone)という人物である。ボルデノーネはフランシスコ会士である。まだ、イエズス会はまだ来ていない。

(つづく)