「154」 論文 日本人の中国像とは西洋の伝統的中国像である―『西洋の思想と文化における中国像』(2) 鴨川光筆 2011年8月28日
●ポルトガル人虜囚たちの記録
ヨーロッパからインドへの海上航路は、大航海時代と呼ばれる一五世紀、ポルトガル人バスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)によって開かれる。バスコ・ダ・ガマがインドのカリカットに到達したのが一四九八年である。
バスコ・ダ・ガマ
その後、一五一四年までにその海上航路は、ポルトガル商人によって中国南部の海岸部にまで延びてきている。
この海路による恒久的交渉が確立されて初めて、中国の思想と文化が深く、ソフィスティケーションされたものだという感覚をヨーロッパ人は持ち始める。(二九八ページ)
ポルトガル商人たちは、インドへの航路を発見した後、インドの太守(マハラジャ Maharaja)たちと交易を結びたかったが、このインドにおける交易はアラブ人が支配していた。イスラム教徒でもあるアラブ商人たちは、ポルトガル人の敵であり、障害であった。
中国においては、ポルトガル人の予測が裏切られた。当時は明王朝であった中国は、鎖国政策によって対外交渉を過酷に禁圧していたのである。中国人自身の手によって、交易の障害が作り出されていた。(二九八ページ)
ポルトガル商人の中には、この禁圧に非合法手段によって何とかもぐりこみ交易を行う者がいた。そのため、ヨーロッパに届いた最初の体験報告記は明朝当局によって捕らえられた虜囚(りょしゅう)による、獄房からの手記であった。(二九八ページ)
囚われの身であった彼らの報告記を年代史家、フェルナン・ロペス・デ・カスタニェダ(Fernando Lopez de Castanieda)とジョアン・デ・バロス(Joan de Barros)という人物が記録。共に一六世紀の人物である。バロスには中国人の奴隷が一人いて、中国で収集してきたしてきたことが明白な中国書を読み、レジュメを作っていたという(二九八ページ)。
また、虜囚たちの報告記以外にも、中国事情によく通じたヨーロッパ人商人、船員、中国人から伝え聞いた情報も入手していた。ただし彼ら年代史家の行なった仕事は、それまでの中国に関する報告とさほど変わることがなく、もっぱら生活の物質的側面、政治制度、歴史、際立った社会習俗に関する報告の域を出なかったという。(二九八ページ)
ヨーロッパ人が本当に欲しがっていた中国人の情報は、こうした実際的な知識や技術ではなく、中国人のものの考え方であり、思想、宗教、文化に関する知識であった。
これはヨーロッパ人のコミュニケーション重視の姿勢であろう。共に話をし、生活し、商取引をするためには、言語のみならず、ものの考え方の相違を知ることが重要になるからである。
●カトリックの観察者、著述家たち
不法入国者たちのポルトガル商人からの報告の次に登場するのが、いよいよキリスト教徒たちである。
単なる商売人ではなく、知識人であった彼らカトリック宣教師たちの場合、その興味の範囲は単なる物質的現実的なものに留まらず、中国の言語、習慣、芸術、思想、宗教的習俗へと広範なものであった。
ドミニコ会士、ガスパール・ダ・クルスGaspar da Crvz (〜一五七〇)は、一五五六年、中国南部に数ヶ月逗留し、『論考』(一五六九年)で、中国における生活の詳細な報告を行なう。アウグスチヌス会士ファン・ゴンザレス・メンドーサ(Juan Gonzalez Mendosa)は教皇グレゴリウス一三世の命を受けて、包括的歴史書『中国の偉大なる王国の、歴史』(一五八五年)を完成させた(二九八ページ)。この本が当時のヨーロッパで最もよく読まれた中国に関する本だった。
このころからイエズス会士が歴史に登場する。中国を学問的に研究するのに不可欠な中国語を体系的に研究し始めたのはイエズス会士であった。(二九八ページ)
こうしたカトリックの研究者たちによって、中国に関する儀式、法律、科学、芸術、歴史について書かれた中国書が集積されてヨーロッパに運ばれ、その一部分はフィリピンで翻訳されてヨーロッパへと集められていった。ファン・ゴンザレス・デ・メンドーサは、こうした翻訳業を基礎にして、中国諸王朝の名、時代、鴻業(こうぎょう、大事業)のリストを作ろうとした。
●中国の制度はヨーロッパ人に賞賛されていた
この初期のカトリックの研究者にあっても、それまでの中国観察者たちと同じく、中国の国家・社会制度については手放しで賞賛し、好意的に書いている。
彼らは「中国の記念建築、大都市、秀逸な社会機構について驚嘆しつつ論評」し(二九八ページ)、特に、中国の教育制度に注目している。つまり国家文官試験制度、いわゆる「科挙」であろう。(二九八ページ)
また、女性の扱われ方や、国家運営による療養施設と病院の維持管理に関しても好意的に記述している。(二九八ページ)
女性や障害者を含めた弱者への保護に関する中国の記述には、意外な印象を受ける。実際にはどのような扱いをしていたかは書かれていないが、私が読んだことのある中国に関する記述や報道では、中国での女性の扱いは、人間の扱いと言うより、動物やものとしての扱いを受けているという印象がある。
ヨーロッパでの障害者施設は、カトリックの施設として経営されていた。しかし、最終的には財政が立ち行かなくなり、セーヌ川の中州で火を放って、収容者もろとも燃やしてしまったという話を、副島氏がアルチュール・ランボー(Jean Nicolas Arthur Rimbaud)の「酔いどれ舟」に絡めて語っている。
ランボー
●中国の学問思想に関しては、カトリックの研究者であってもけなしていた
ヨーロッパの研究者が実際に知りたかったのは、中国人の宗教観や道徳、学問と言った、中国人の考え方や思想、知識であった。
ところが、カトリックの知識人は、中国の学問の実態には批判的であったという。中国の制度に関しては賞賛を惜しまなかった彼らであっても、ヨーロッパの学問を代表したカトリックの知識人としては、中国の天文学、数学、地理学に関して、洗練度が低いものであるとして見下していた。
ヨーロッパ近代学問の礎といえるこれら学問に関する中国人の知識は、「別段どこであっても人々がするであろう様な経験的観察の域を出ないもの」であると考えられ、「アリストテレスやキリスト教による教化以前のヨーロッパの、素朴きわまる水準にあるもの」と見なされた。(二九九ページ)
アリストテレス
アリストテレス(Aristotle)とキリスト教による教化というのは「スコラ学(Scholasticism)」のことを言っているのである。スコラ学とは、アルベルトゥス・マグヌス(Albertus Magnus)やトマス・アクィナス(Thomas Aquinas)が「理性と啓示の共生は可能である」ことを、アリストテレスの哲学やギリシャ形式論理学を中世以来のキリスト教神学に導入して、論証した学問で、ヨーロッパ中世の後半に盛んになった。
マグヌス アクイナス
スコラとはスクールという意味で、日本で言われる「スコラ学派」とは「スクールメン(Schoolmen)」という。つまり、それまで修道院でのみ行なわれていた哲学や学問が、教育機関によって学問として行なわれるようになったことを表している。
スコラ学の思想はもともとユダヤ人学者モーゼス・マイモニデス(Moses Mimonides)や、元をたどればバビロニアの学頭、ガオン、サーディア・ベン・ヨーゼフ(Sa'adia ben Joseph)が説いたものである。それが、イスラム学者に伝わって、理性と啓示の融合を唱えたムータジラ派(Motazilites)と呼ばれるようになる。その中のアヴィセンナ(Avecenna)やアヴェロイス(Averroes)からアルベルトゥス・マグヌスが合理、理性(レイシオ、ラショナル)を学んだのである。
マイモニデス
ここからデカルト(Descartes)へと合理主義が受け継がれ、近代学問(モダーン・サイエンス modern science)が生まれたのである。
デカルト
●本国とは態度の違った東洋に派遣されたイエズス会士たち
カトリックの知識人たちはこの当時すでに、宇宙と地球の真実を知っていたのである。一六世紀末から一七世紀始めは、コペルニクス(Nicolaus Copernicus)の『天球の回転について』が流布し、ガリレオの天体望遠鏡による木星の観測によって、地球が丸く、自転をし、太陽の周りを回っているという衝撃的真実がヨーロッパ知識人の間に広まっていたのである。
この時期、イエズス会士たちは盛んに日本の大名に会いに来て、布教とは別に、彼らの地球儀や天球儀、世界地図を見せ付けて、自慢げに彼らの知識をひけらかしていた。
副島氏が面白いのは、戦国から江戸時代初期に日本に来ていた宣教師ら外国人たちは、本国ではそんものを見せたり語ったりしたら、とんでもないことに遭うし、本国ではタブーになっていた天球の回転の仕組みと、地球の公転(本当は地球が丸いというのもタブー。船員は昔から知っていたから、公然の秘密のようなものになっていた)のことをなぜ知っていたのか、ということを怒りを交えて、自嘲的に語ることがある時である。
一六、一七世紀に日本にやってきたポルトガルやスペインのイエズス会宣教師たちは、ローマ教会から派遣されたことになっている。
本来地動説を断罪しなければならない彼らが、遠い異郷の地においては、そっくりそのまま神の言葉、ローマ教会の公式見解とは正反対の、本来は異端審問(Inquisition)に掛けられなければすまない知識を、公然とひけらかしていたのだ。
異端審問の様子
イエズス会士たちは、ローマ教会から見れば未だに異端の傾向があり、本来はユダヤ人たちであった。コンヴェルソ(コンヴァージョン conversion、信仰を転向した人間。本来、ユダヤ教からキリスト教に転向した人間のことを言う。隠れユダヤ人であり、ユダヤ人自体からはマラーノ=豚と言われた)と言えなくもないのだ。
だから彼らは、自国の手が及ばないところへ派遣されると、異郷の地、ローマ・カトリックとは何の関係もない中国や日本では、ペロッと本音をしゃべってしまう。しゃべりすぎて気持ちよくなってしまうのである。(馬鹿どもめ、だから信長や秀吉、家康に正体を見破られてしまうのだ!)
日本史マニアには戦国マニアが多いが、これから私が紹介する、ちょっと考えれば分かるはずの矛盾について、真剣に考えたことがない。いかに外国からの使節の話であっても、日本史の教科書になったら、まるで教科が違うものであるかのように、世界史とは別のものだ、日本史は日本史で日本人の心だ、日本人にしかわからないものなのだというような、浪花節的な世界に引きこもってしまう。
本国ではガリレオ裁判が始まろうとしていて、ヨーロッパ世界とヨーロッパ人の長年抱いていた宇宙、ユニヴァース(universe 普遍的な真実、神の恩寵の広がり)が崩壊して、単なる空間、スペース(space)になってしまうという危機を迎えている最中に、彼ら宣教師たちは、ぐるっと地球の東半分にまで回ってきたころには、本国での知識世界の騒乱はどこ吹く風、いったい何を日本人や中国人に教えに来たのであろうかという、使命(mission ミッション、彼ら宣教師はローマ教会、イエス様からのミッションを遂行しに来たミショナリー missionaryのはずだった)を忘れた体たらくになってしまうのだ。
この「中国像」に関する論考は、戦国時代の日本史に関しても、世界史的視点で疑問を投げかけるものである。
では布教が彼らの本業であるカトリックの観察者は、彼らの本来の調査フィールドであって、一番の関心事であった中国人の倫理(エチクス ethics)、道徳に関しては、中国人をどう見ていたのであろうか。
彼らによれば、中国人の社会生活は「度し難い迷信、非人間的な拷問、自然に反する習慣、肉体の快楽への耽溺のとりこ」であった。(二九九ページ)
この記述で私鴨川の目を引いたのは、「非人間的な拷問(人間的な拷問なんかあるのかといいたいが)、肉体の快楽への耽溺のとりこ」というこの上もない罵詈(ばり)である。
この記述で私が思い出したのは、中国の刑罰の一つ「百刻み(ひゃっきざみ)」である。
●中国人の残虐性はたびたび取り上げられるが
Tomotubby's Travel Blogという個人サイトから転載
http://blog.goo.ne.jp/tomotubby/m/200510
私はこの一連の写真を一九九一年か九二年の辺りに、たまたま立ち読みした「バタイユ伝」(河出書房新社)をぺらぺらめっくっている時に見つけた。その場で凍りつきました。
ジョルジュ・バタイユ(Georges Albert Maurice Victor Bataille)によればこれらの写真は、デュマとカルポーという人物によって発表されたという。この刑罰は「凌襲の刑(著者注記:りょうちのけい、と読むのだろうか)」といい、別名を「百刻み」(ひゃっきざみ)という。
刑罰を受けている人物は、フー・チュ・リといい、アオ・ハンという王を殺害したかどで刑を執行されたと言われている。執行日は一九〇五年四月一〇日で、カルポーという人物はこの日の処刑を目撃したと証言している。ジョルジュ・バタイユはシュールレアリスト作家の一人に数えられている。
この時は清朝末期で、十一代皇帝光緒帝(こうしょてい)の治世であった。百刻みの刑は清朝において行なわれていた刑罰のようだ。
カトリックの観察者や百刻みの写真を見て思い浮かぶのが、漢の皇帝、劉邦の妻、呂雉(りょち)の話である。呂雉は劉邦の死後、側室であった戚(せき)夫人の両手両足を切り落とし、目をくりぬき、耳とのどに毒を流し込み、糞まみれの豚の厩に落として、一週間苦しみぬいて死ぬさまを見ながら酒宴を開いたという。
中国人の残忍な刑罰や拷問のことが、中国嫌いや中国批判者からたびたび取り上げられ、このように中国人とは元来残虐な性癖を持つ民族なのだ、ということが言われ、私もそのように考えていた。
しかし、果たして残忍な刑罰や拷問が、果たして中国だけのものなのか。そんなはずは無い。日本の拷問の残虐さは、中国のものに優るとも劣らない。詳しくは明治大学刑事博物館に言ってみてください。日本と世界の拷問道具が陳列されています。
明治大学博物館 刑事部門
http://www.meiji.ac.jp/museum/criminal/keiji.html
「日本の珍スポット一〇〇景」というサイト
http://b-spot.seesaa.net/article/16702999.html
西洋の拷問にしても、手足を馬につないで、そのまま四方に馬を走らせて引き裂くとか、「鋼鉄の処女、アイアン・メイデン(Iron Maiden)」などは特に有名な拷問道具だった。
中国のいかなる拷問が西洋人の目を引いたかは分からないが、確かに中国の拷問や処刑は、目がそこに張り付いてしまうかと思われるほどに強烈である。文化大革命時代の紅衛兵(こうえいへい、レッド・ガード Red Guard)も、目を覆いたくなるような見せしめや処刑を行っていた。
しかし、これをして中国だけが歴史的に残虐な拷問をしていたというのは間違いである。戦時中の日本の憲兵の数々の拷問も有名である。そもそも、残虐ではない拷問というのは成立しない。そのことを中国嫌いの人々は肝に銘じて欲しい。(近代国家というのはそもそも拷問を禁じているのだ。)
●中国人の宗教に関してはどうであったか
カトリックの観察者は、彼らが一番知りたかった中国の宗教を、最終的にどのようにとらえたのか。
三大宗教に関しては、「中国人の個人生活の道徳的調子を高めるのには、ぜんぜん資してはいない」という(二九九ページ)。ここでいう三大宗教とは儒教、仏教、道教である。
宗教とは言い換えれば、モラル学である。エチクス、倫理のことである。ヨーロッパ知識人、ローマン・カトリックから派遣されたミショナリーたちは、中国人の神に対する考え方が存在するのかどうか、彼らの人間観、人間性に対する見方はどうか。刑罰や戦争といった、政治的、法的人間解釈ではなく、中国人は本質的に人を大事にするのかどうか、それを見極めたかったのである。
ここから近代から現在に至る、欧米の中国に対するおせっかいが始まるのである。中国への、東洋へのちょっかいの原点はこの頃に存在する。
まず仏教に関する見解だが、仏教徒は「不死性の原初的観念」しか教えないという。仏教の不死、キリスト教的な魂、霊魂の不死(本来イエスはそんなこと言わなかったと思うが)とは、中観派(マディヤミーカ・ブディズム)の「空」(くう、スンニャータ)思想や唯識派(ヴィニャナヴァーダ・ブディズム)の「識」(しき、ヴィジャ)の思想のことであろう。
中観派の「空」思想は、中国では難解すぎて、正確には伝わらなかった。縁起(えんき)、相依性(そうえしょう)ともいうが、この実態はエクィリブリアムであると、私鴨川は思っている。
これらのことは「副島隆彦の論文教室」論文0007番、0008番に書かれていますから、そちらを参照してください。これらの論文は、こちらとこちらからどうぞ。
大乗仏教のもう一派、唯識の思想は中国でも日本でも受け入れやすく、理解され、広まった。日本では興福寺が総本山である。
唯識とは、マインド(mind)のことであり、人間の意識こそが世界にあるという思想である。これは、プラトンのイデア思想であろう。後にノミナリスト(nominarist)につながっていくが、私もこの考え方を正しいと思い始めている。
キリスト教の、パウロやペテロ以下が広めた後の思想は、実はこのプラトンの思想、プラトニズムではないかといわれている。プラトニズムの宗教的変形である。
現実の世界が真実ではなく、人間の意識、マインド、霊魂、スピリットが真実で存在するものだというのは、キリスト教の思想と一致する(ただしこの頃のキリスト教は、ダンテ的世界観と持っているため、天国と煉獄、地獄の存在を認めていた)。霊魂の不滅を信じ、神の国、天国の存在を信ずる一六世紀のカトリックの中国観察者たちには、「識」は理解しやすかったことであろう。
それでも、それ以外の仏教思想は「容易に論駁されうる誤謬(ごびゅう)に満ちている」と断定している(二九九ページ)。彼らキリスト教徒たちは、仏僧たちとカテキズム、教理問答を行なったのであろう。
小室直樹氏は仏教は「法前仏後(ほうぜんぶつご)」、キリスト教は「神前法後(しんぜんほうご)」であると説く。仏教は神の存在の前に、つまり先の法があり、キリスト教は神の存在が先であるとする考え方である。
神学、シオロジーとはこのように、それぞれ違った前提(プロポジッション proposition、それ以上争えぬ考えの出発点を論争の先に置くということ)から始まるのであるから、宣教師たちがこのように結論付けるのも当然のことである。
道教徒については書かれていない。学に興味を示さないと書かれている。自然崇拝と占い、易である道教は、キリスト教徒から見れば迷信、妖術の類だと思われただけであろう。
彼ら観察者が一定の評価を与えたのは、儒教であった。儒教は「五徳と秩序ある社会の成就を強調している」ため、他の二つよりはマシであるというのがその理由である(二九九ページ)。儒教のこの部分が、後に、中国の宥和政策(中国をヨーロッパと同化させること)のためにやってきた、イエズス会宣教師マテオ・リッチ(Matteo Ricci)に大いに受ける。
マテオ・リッチ
ここまでのカトリック観察者たちの結論は、中国は政治的、社会制度的には優れているということである。中国の最大技術は「統治である」と結論付けた。広大な版図と、その人口の多さにもかかわらず、一つの強大な国家を維持しているという点、その技術が優れていたのである。
しかし、その逆の結論が重要である。中国人は彼ら観察者にとってはやはり「理論的科学、個人の道徳、宗教的真理は西洋に遅れをとっている」と映った。ところがそこから彼らはキリスト教者は「(中国人の思想や学問の遅れは)キリスト教への無知によるもので、ひとたびキリスト教化されさえすれば、西洋を凌ぐものになる」(二九九ページ)と考え出したのである。
今の中国人が信じているものは、実はキリスト教であるという。副島氏が中国に言って実際にそのように聞いたというが、私も近所の中国人の水商売の女の子や、学生に聞いたら、やはりそうだと言っていた。
一六世紀の宣教師たちの観察後の結論を読めば、中国のキリスト教化というものは、今から四〇〇年前から開始されていたととらえることもできる。
事実、この後一六世紀末にはイエズス会士が本格的に東アジアにも出没し始め、近代から現代にかけての欧米諸国による東アジアへの関与の下地を作ることになる。
この結論によって、いよいよヴァリニャーノやマテオ・リッチたちによる中国の「宥和政策」(ゆうわせいさく)が始まる。
(つづく)