「0155」 論文 サイエンス=学問体系の全体像(26) 鴨川光(かもがわひろし)筆 2011年9月4日 

 

●疲れる社会学の教科書

 社会学はサン・シモン(Claude Henri de Rouvroy, Comte de Saint-Simon)から始まる。ところが、ブリタニカのマクロペディアにはサン・シモンへの言及がない。しょうがないのでミクロペディアと「社会学概論」(有斐閣大学双書 三、四ページ)から引用する。


サン・シモン

 この「社会学概論(しゃかいがくがいろん)」という本。たまたま図書館にあったから拾っただけである。全く読みにくい、典型的な社会学の教科書である。何人かの大学の研究者たちが、自分の知ったフィールドのことを、それぞればらばらに書いている。

 図書館や本屋の社会学の棚に行くと、同じようなムズかしそうな、それでいて親切そうな気がする解説書、研究書が山ほどある。しかし、どれを手にとっても、結局何を言いたいのか良くわからない。自分の大学での専門領域に耽溺(たんでき)している、執筆者自身も、よくわかっていないであろう。

 私はこの社会学の稿を書くに際して、社会学の本を探そうと本屋や図書館に行く。しかし、社会学とか社会と書かれたコーナーにいくと、素晴らしそうな書籍がいかにも優しそうな顔をして、背表紙を花魁(おいらん)のごとく本好きな私の前に並ぶ。しかし、そのたびにうんざりする。どの本をとってみてもだめなのだ。結局何を言いたいのか分からない。

 「社会学概論」。この入門書のつもりでいながら、高級学問書のつもりでもいる(実際にはやっつけ仕事であろう)書物の、使える部分のみを私の文章の肉付けとして、しっかりと噛み砕いてから、読める文章にして、その目的の一部として使う。

●サン・シモンの「社会生理学」とは

 サン・シモン(一七六〇〜一八二五年)は、一九世紀末のフランス革命から始まるフランス社会の混乱期を生きた。サン・シモンにとってのフランスの混乱期とは、一七八九年の革命の始まりから、ナポレオンによる帝政、その後の王政復古から、一九三〇年の七月革命までのことである。

 サン・シモンは没落貴族の家に生まれた。祖父は公爵であり、ルイ一四世時代の宮廷の回顧録を残したことで著名であった。

 サン・シモンは、一七でフランス軍人の砲兵隊長としてアメリカ独立戦争に従軍する。サン・シモンはフランス革命の恐怖政治時代には投獄されるが、革命政府が発行していた紙幣である「アッシニア紙幣」の硬貨との交換比率が大幅に下落したことにより、莫大な富を手にすることになる。

 そのお金でしばらくはサロンを主催して、著名人たちとの交流が始まるが、その数年後、破産し、彼の関心はサイエンスに向けられていく。

 一八〇八年までに彼は貧困ゆえ友人の助けによって生活したが、一八二三年失望のうちにピストル自殺を図る、が失敗する。

 サン・シモンの人生は、豊富な著作やパンフレットの出版と沢山の計画の企図によって、自らの社会思想への支持と援助を取り付けることに奔走した人生だった。サン・シモンはただの知識人というだけではなく、活動家の面もあったというわけである。

 以上がサン・シモンの大雑把な伝記だが、これらのサン・シモンの生涯は、広島国際学院大学のある教授が、自らの授業用に作ったノートが詳しい。

http://www.hkg.ac.jp/~sawada/kougi/06/06.htm
「サン・シモンと産業主義の思想」というウェッブ・ページ
(大学での授業のための個人的ノートであろう)

 有名なのは、著作「ジュネーブ書簡」(Letteres d'un habitant de Geneve)である。この中でサン・シモンは、サイエンティストたちは僧侶階級に取って代わるべきだとし、有産階級は知識の進歩を奨励することのみによって、自身の立場を維持しうる、と主張した。これが重要である。

 なぜ重要なのか。一見、現在では当たり前の考え方を、当時の貴族出身者が提示したことが時代の新しさを感じるように思えるが、そういうことではない。私の考えでは、これは、サン・シモンが「社会、ソサエティ(society)」というものの存在を考えていたことを表すからである。

 革命によって、一八世紀末、フランス社会はそれまでにない無秩序状態となった。無秩序で、無政府に近い状態に陥ったことによって、サン・シモンはこれまでに代わる新しい社会の建設を思い立った、というような説明がなされている。これでは社会学者さんたちのかっこいい、難しい、無意味な説明で終わってしまう。

 おそらくこのような説明から、サン・シモンは、「ユートピア社会学」という範疇(はんちゅう)に入れられてしまったのだろう。これは間違いである。

 私鴨川が、もっとはっきりと、意味の真髄を抉り出して簡潔に説明する。

 それまで「社会、ソサエティ」という概念は存在しなかった。ラテン語由来である「ソサエティ」という言葉はあるにはあったが、これはせいぜい「仲間、仲間内」という意味でしかない。

 「モダーン・ソサエティ(modern society)」という考え方は、フランス革命後に、初めて現れ(イギリスの名誉革命や清教徒革命ではない)、その後サン・シモンが「社会、ソサエティ」の実在を唱え始めたのである。その意味でサン・シモンは時代を画する思想家なのである。

●「ソサエティ」など世界のどこにも存在しなかった―サン・シモンは「ソサエティ」を「空想」したから「空想社会学者」「ユートピア社会学者」などといわれる

 サン・シモンは夢見るような、ユートピア社会学者とか、空想社会学者などと言われている。夢見るような人、夢想家という印象がある。私も高校生の時、山川の世界史の教科書にそのように書かれていたので、そのようにとらえていた。必ずフーリエと一緒にセットで載っている。

 確かにサン・シモンは、一八世紀末では今の人が考える以上に、まさに奇抜な夢想家であろうが、二一世紀、現代の私たちが考える夢想ではない。

 サン・シモンは、無秩序に陥ったといわれる革命後のフランス国内の状態から、なぜ「社会、ソサエティ」という、それまで誰も聞いたこともないようなものの建設を考えたのか。サン・シモンは本当に、奇妙なことを言い出した。当時としては相当おかしなことを言い出した人なのである。

 国家がシヴィル・ウォー(civil war)、内乱などで無秩序状態になった場合、普通、その混乱に乗じて、近隣諸国が主権を奪いにやってくる。いちゃもんをつけてくる。そこで戦争になる場合もある。戦争に負けると新たな主権者、支配者、宗主国などが現れ、国家が分割されたり、都市のある部分は共和政になったり、その他の地方は王制、王、支配者、主権者が変わればいいだけのことである。それは現在でも真実である。

 支配者が変わる、王が代わる、属国になる、独立国になる、一部の都市が共和国になる(いわば経済特区、ヴェネチア、ジュネーヴ)だけである。もっというなら、王制か貴族制(寡頭制)かに代わるだけである。宗主国が代わるだけか、独立国になるか、それだけである。

 このようにそれまでは政体(政治体制、一刻の支配体制)が代わるだけであった。国際関係で言えば、強国の庇護(ひご)に入る。政治学でいえば一人が支配するか、少数が支配するかだけである。会社に例えれば、ある会社が他の会社に乗っ取られるか、そのまま凌(しの)ぎ切るか、他の会社の系列に変わるか。社長が代わるか、社長が役員会に乗っ取られるか。これだけのことである。これは現在でも変わらない真実である。

 ところが私が見たところ、サン・シモンがこれまでのロックやホッブズ、ルソー、アダム・スミスらと違うのは、政治、政体(アダム・スミスは市場に目を向けたので、これも新しい考えだった)に目を向けたのではなく、「社会体制」に思いをはせた点である。

(著者注記: 「社会体制」と簡単に言いのけてしまったが、私はこの言葉の元の言葉、英語が分からない。ソーシャル・システム(social system)ではない。ソーシャル・オーガニゼーション(social organization)でもない。社会がシステムであるのか、オーガニスティクなものなのかは、二〇世紀になって社会学の中で争われる問題だからだ。政治を人間の体にたとえる時、「政治体、ザ・ボディー・ポリティック(the body politic)」という。では社会体(そんな言葉は無いが)と言う時、ザ・ボディー・ソーシャル(the body social)と言うであろうか。そんな言葉も聞いたことがない。であるから、私がこの論考で「社会体制」と言うとき、簡単に「ボディー(body)」と考えて欲しい。この後、社会を人間の体のアナロジーとして考え、有機体=生物として考える学説が出てくるから、「ボディー」で十分だと思う。)

 なぜサン・シモンが「社会体制」を思ったことが大したことだと私が思うのか。それはもともと「社会、ソサエティ」というものは、これまで存在しなかったからである。

 それでは何があったのか。ただコミュニティが存在しただけであった。このコミュニティというものが「あった」のだ、それが革命によって壊れたのだ、とするのがサン・シモン思想の本質である。

 フランス革命によって、フランスは君主政、モナーキー(monarchy)から共和政、リパブリック(republic)に移行した。これによって「職業組合や教会といった、個人と国家の間に存在した中間的な団体は消滅し、諸個人はバラバラの状態に置かれるようになった」(「社会学事典」六ページ 丸善株式会社)。これらの「中間団体」というものが、かつてフランスに存在した「コミュニティ、共同体」(さらに、アンシャン・レジーム ancient regimeだともいわれた)だと考えたのである。そこでサン・シモンは新たな秩序を思い描いた。それがコミュニティに代わるソサエティである。上記の社会学解説書や事典を読み解けばこうなる。

●社会学で一番偉いのはフェルディナンド・テンニエスである

 「ソサエティ=社会(福沢諭吉は人間交際と呼んだ)」と「コミュニティ=共同体」という、この二つの言葉は社会学では重要である。社会学の基礎的な専門用語、テクニカル・タームである。この二つの用語があるために、「社会学、ソシオロジー(sociology)」という呼び名があると言ってもよいくらいだ。

 サン・シモン自体はコミュニティとかソサエティという言葉を使ったわけではない。この二つの言葉に近代的意味を与えたのは、フェルディナンド・テンニエス(Ferdinand Tönnies)である。ドイツ人社会学者であるテンニエスはこの二つを「ゲマインシャフト(Gemeinschaft)とゲゼルシャフト(Gesellschaft)」と呼んだ。テンニエスこそが、初めて現代の社会学の大きな土台となる考えを提示したのだ。


テンニエス

(著者注記: テンニースと一般的には表記されているようなのだが、Tönniesと言うドイツ語は、ローマ字読みをするはずだ。だからテンニエスとした。トンニエスのほうが近いかもしれない。英語的に言ったら、トーニーズとなるのではないだろうか。)

 私はこれまで社会学を網羅的にザーッと調べてみて、最も大きな業績をあげた人物は誰かといわれれば、このフェルディナンド・テンニエスだとしか思えない。マックス・ウェーバー(Max Weber)でもなければ、マルクス(Karl Marx)でも、デュルケム(Emile Durkheim)でも、タルコット・パーソンズ(Talcott Persons)でもない。テンニエスである。テンニエスのことは後にしつこく述べる。

    
マルクス  デュルケム    パーソンズ

 上記の社会学事典で挙げられている「職業組合」とか「教会」というのが、「共同体、コミュニティ」である。これにテンニエスはゲマインデ(Gemeinde)、あるいはゲマインシャフトと名づけた。だから、革命以前のフランスでは、「社会、ソサエティ」は「存在しなかった」のである。そして「コミュニティ」がかつて「存在した」という仮説にサン・シモンはたどり着いた。

 ソサエティがゲゼルシャフトである。ゲゼルシャフトは当然、ドイツ、イギリスにも在ったわけがない。ヨーロッパには無かった。中国、インド、オトマン・トルコにも無かった。つまり世界に存在しなかった。(ひょっとしたらイスラム圏にはあったのかもしれないが、今ここではわからない。)

 それまでにも「社会」はあったはずである。ルソーの育ったジュネーブなどはその典型である。ヴェネチアやメディチ家の支配していたフィレンツェもそうだ。しかしいずれも都市国家、シティ・ステイト(city state)、ポリティ(polity)である。一般人が参加する民主政治、デモクラシー(democracy)は、都市、シティにおいては古代から可能であった。都市における「社会、ソサエティ」は長く、伝統的な歴史を持つ。

●社会生理学―社会は人体への比ゆとして存在を開始した

 サン・シモンは、革命後の混乱状態のフランスを脱却し、新秩序を建設したいと考え始める。このことについて有斐閣の「社会学概論」は「実証主義的精神に基づいて、社会を有機体としてとらえる社会生理学(physiologie sociale)を考案した」とシレっと書いている。

 この部分は社会学の誕生にとって、最も重要なことであるにもかかわらず、さも当たり前のように何の解説も加えずに書いている。

 私はサン・シモンが革命後の混乱期に、この「社会生理学」という、不思議な学問を考え付いた理由を考えてみる。

 サン・シモンの唱えた「社会生理学(しゃかいせいりがく)」とは何か。上記の有斐閣大学双書「社会学概論」には、いわゆる、かつての左翼学生の政治運動の際に唱えられたような説明がなされている。

 「貴族ら有閑階級を一掃し、全民皆労を原理として社会を一大工場のごとく運営することを目指す」「プロレタリアートの救済が目的であり、産業は一つであり産業者は一体であるという理念に立って、エゴイズムを克服した兄弟愛的な連帯の道徳(新キリスト教)の確立を目指すもの」「働く者の国際的な協力と団結(インターナショナリズム)を実現し、それによって産業体制が実現されれば今あるような人の支配はなくなり、管理と指導のみが行なわれ私的統治行為は消滅する」。

 これがサン・シモンの理念であった、とある。

 「プロレタリアート」「インターナショナリズム」というような、かつての左翼的な言葉が並んでいる。私が大学生だったころ(一九八七〜一九九〇年)にもまだ立看板は存在した。大学には中核派による赤字で書かれたアジ看板があって、サン・シモンが二〇〇年前に唱えた思想には、それを髣髴(ほうふつ)させる言葉が並んでいる。


大学キャンパスにある立て看板

 サン・シモンの「新秩序」「社会を一大工場にする」というような言葉は、ジョージ・オーウェル(George Orwell)の考え方にも似ているし、いわゆる「陰謀理論」的な響きもある。むしろ、こうした一九、二〇世紀思想のおおもとのアイディアを、初めて提示した人物であるといったほうがいいのだろう。ルソーから受け継いだリベラル思想である。


オーウェル

 私はロック、ホッブズのところでも述べたが、社会契約という一七世紀のリベラル思想は、一八世紀にフランス革命が起こるまでは、忘れられた、一時は死んだ思想だった。そうして一八世紀末、ルソーやサン・シモンによって、リベラル思想は復活し、その後約二〇〇年間、現代に至るまで生き続けている、と考えたほうがいい。マルクス主義などもその中の一つであり、大きな歴史の流れと、思想潮流の一部なのである。

 しかし、「社会学概論」にあるような説明では、社会生理学の本質を全く言い当てていない。

 フランス革命と人権宣言によって、貴族や僧侶階級は、一応一掃されたことになっている。これで後にそう呼ばれることとなった「アンシャン・レジーム」(英語でエンシェント・リジーム ancient regime)がいったん崩壊し、「特権を持っていた同業者組合も廃止された」(「社会学事典」六ページ 丸善株式会社 日本社会学会 社会学事典刊行委員会編)。

 当時の労働者、つまり普通の人々、商工農業従事者は、特権を持った同業者組合、つまりギルド(guild)やコルポラシオン(corporacion)の特権によって保護されていた。

(著者注記 このコルポラシオン、英語のコーポレイションのフランス語だが、これが、一六世紀にオランダで始まった、コルポラチオーンという、近代の有限責任株式会社を現すものなのかどうか分からない。この社会学事典での文脈では、どうもそうならない。ざっとネットで調べてみたが、以下のウェッブ・ページにて、千葉大学の社会文化科学研究科日本研究専攻の鹿住大助という、おそらくは大学院の学生なのだろうが、PDFファイルにてフランスのコルポラシオンのことが簡単にまとめられていた。それを見ると、フランスの一八世紀のコルプラシオンは現在の株式会社のことではなく、アンシャン・レジームを代表する中間団体であり、利権集団のようである。

http://mitizane.ll.chiba-u.jp/metadb/up/ReCPAcoe/33kazumi.pdf#search='コルポラシオン')

 ところが、革命によってその特権が無くなった。同時に、フランス革命は、理性、レイシオ(ratio)の崇拝を推し進め、非キリスト教化が推し進められていく。教会という地域を結びつける核が解体されてしまう。ここに、後年、エミール・デュルケムによるアノミー理論(anomie)が生まれる。現在では、この地域社会解体による、個人の心の混乱、地域の無秩序、アナーキー状態は、このアノミーの一言で片づけられてしまう。

●小室直樹博士の戦後日本のアノミー理論は、デュルケムを当てはめただけ

 このアノミーという言葉を、今年二〇一一年に亡くなられた小室直樹博士は、自著の中で頻繁に使っていた。私も九〇年代の半ばにこの言葉を、氏の著作から初めて聞いて、衝撃を受けたことがある。


小室直樹

 しかし、アノミーとは、今考えてみれば、社会学者小室博士にとって見れば、基礎的な当たり前のことであり、私のような素人が今社会学を調べただけでも、社会学の歴史の中の本当に最初に出てくる、常識的な理論である。

 小室氏は、戦前の日本人は天皇崇拝によって結び付けられており、共同体の基盤となっていた。それが天皇の人間宣言によって崩壊し、急性アノミー、アキュート・アノミー(acute anomie)が国民に発生したのだという理論を展開した。

 アノミー理論は、エミール・デュルケムの理論である。社会学を実質的に完成させた人物で、現在の社会学の諸理論は、デュルケムの理論から発生している。つまり、アノミー理論とは、初期の社会学に生まれた、基礎的理論であり、小室氏はそれを戦後の日本社会に当てはめてみただけである。社会学者である小室氏としては、当然の発想である。

●サン・シモンは「コミュニティ」を発見した

 地域社会の無秩序、アナーキー状態に、革命の最中にあった名門貴族であり、知識人であったサン・シモンは、コミュニティ、そして新たなるモダーン・ソサエティの存在(の可能性)を発見したのである。

 サン・シモンは、フランスには、かつて共同体という社会(コニュニティ、ゲマインデ、ゲマインシャフト)が存在し、そして今後、新たなる社会、モダーン・ソサエティ(ゲゼルシャフト)が生まれるであろう、生まれるべきだ、と考えたのである。

 その新しい社会とは、産業、インダストリー(industry)中心の社会である。国民は全てそれに従事する産業人であるべきで、キリスト教に代わる兄弟愛、つまりフラタニテ(fraternite 英語のフラタニティ fraternity、友愛)が国民を一つにまとめるという社会である。これを連帯、ソリダリティという。

 産業中心の現代社会を予測したサン・シモンは、新たなる社会を一つの工場のようだと言ったのである。確かにそうである。社会を一つの工場としてとらえ、成員一人一人が、分業によって社会に貢献する。「社会分業論(social division of labor)」というのも、社会学の理論から出てきたものである。先に挙げた読みにくい有斐閣の「社会学概論」の社会生理学を、私が読み解くとこうなる。

 しかし、社会生理学を、工場というたとえで納得してしまっては、理解不十分。

●有機体(オーガニシズム、オーガニスティック・ボディ)とは生命体のことである

 サン・シモンが社会学史において重要なのは、「社会を有機体(ゆうきたい、オーガニスティク organisticなもの)としてとらえた」という考え方を唱えたことである。

 社会を有機体として捉えるというのは、社会、ソサエティというものが、「実在する」という考え方、つまりは実在論のことである。

 実在論は、神の実在、真理の存在、と言ったことから、宇宙、ユニヴァース(universe)、自然界のことについて語られてきた長い歴史を持つ。この実在論という伝統的な考え方を、自然界、天界、ユニヴァースの中から、人間世界の中に取り込んだことに、サン・シモン思想それまでにない新しさがあった。

 有機体とは「リヴィング・オーガニズム(living organism)」と言う。「生き物」のこと、「生命体」のことを表すのである。今後、読者の皆さんは有機体、オーガニズム、オーガニック何々、と聞いたら、迷わず生き物のことを思い浮かべて下さい。

 オーガニカル・フードとか、「オーガニックなものを摂るようにする、というのが健康志向だ」というのが、この二、三〇年位の健康志向生活の傾向でしょう。それは合成着色物であるとか、人工的・化学的に作られた食べ物をとることはよくないことだ、原点に戻って、自然に生息する生き物を食べようということ。「有機丸大豆醤油」とかに使われるあの有機のこと。有機体、オーガニズムからは、これを連想してください。

 この社会を有機体、生き物とそして捉えるというのは文学である。文学的表現である。

 文学的表現とは何か。「比ゆ、たとえ」である。ものに何かをたとえるという、古来からあるレトリックの一つで、いわば詩そのものである。歌のことです。このことを私鴨川は後に、「人文」(ヒューマニティーズ humanities)のなかの「修辞学」(レトリック Rhetric、レトリカ Rhetorica)を書く際にしつこく説明します。この学問の全体像はまだ半ばに来たばかりのところです。ふう。

 社会を有機体としてとらえるというのは、「社会というものが存在するのだ」「生き物のように実在するのだ」という点で、当時として非常にユニーク(つまり変な、いぶかしい)な思想だったのである。

●政治や国家を人体にたとえるというのは昔からあった

 社会有機体論に対して、政治を人体にたとえるというのは、古代からの長い歴史を持っている。

 平凡社刊の「西洋思想大事典」には、「政治体のアナロジー」(アナロジー・オブ・ザ・ボディー・ポリティック analogy of the body politic)と題して、丸々一章を割いて説明がなされている。

(引用開始)

 (政治分析や政治論に関する)議論のうち最も単純なものは、国家の有機体的性格を前提にすれば、ある種の政治構造と政治行動は必ず適切なものである、と主張する。「自然的」社会とは、人体に似たような形で機能する社会である。(『西洋思想大事典』一〇一ページ 「政治体のアナロジー」から)

(引用終わり)

 この説明から分かるとおり、政治は存在するのだ、実在するのだ、という考えは伝統的な考えなのである。政治とはポリス、シティに住む住民の生活のことなのだから「ある」に決まっていたのである。

(著者注記: リパブリックの語源、「レス・プブリカ(res publica)」は、「パブリック・アフェアーズ(public affairs)」「パブリック・シングス(public things)」という意味で、人々の生活でなすべきことという意味である。だから、政治、国家は実在する、「ある」のだ。)

 「政治体のアナロジー」の説明にあるとおり、国や社会を人間の体として説明するのは、一種のレトリック(比なのだから)であり、分かりやすい説明によって、自己の理論に人々の支持を集めるためのものだった。

 それでも、国家、政治体とは、一六世紀、そして一八世紀までは有機的な性格を有していると考えられていたし、社会(この場合の社会とは、ギルド、教会といった、今でいうコミュニティ、地域社会、共同体)とは自然的なものであり、「人体に似たような形で機能する」と見なされていた。これは自然界が存在するのと同じように、国、政治体、社会は「ある」ということである。

 興味深いのはこの伝統的な「有機的存在」という考え方が一七世紀「社会契約(social contract)」という全く新しい考え方によって挑戦を受けた、という点である。

 一七世紀、ジョン・ロックやトマス・ホッブズによって、人間は自然権を抵当に入れて主権者(主権者が王の場合、その国家体制はモナーキー、民衆の場合はデモクラシー)に守ってもらったのだという、当時として実にユニーク、あきれるような考えを提示した。この考えは、一七世紀の終わりには滅び、以後一〇〇年間は死んでしまった古い思想と考えられていた。

    
ロック    ホッブズ    ルソー

 それが一〇〇年後の一八世紀の終わりには、フランス革命後の人権宣言で復活する。人権宣言の根底にある考えはルソーであり、今度は「一般意思」と名を変えて、我々の前に現れたわけである。

 社会学の源流サン・シモンの思想は、どこから来たか。それは革命前のフランスに起こった、「進歩の観念」から来ている。

(つづく)