「0157」 論文 歴史メモ・ヨーロッパの秘密(1) 鳥生守(とりうまもる)筆 2011年9月18日

 近世になってからヨーロッパは外に向かっては侵略と強奪に精を出す一方、ヨーロッパ内ではヨーロッパ人同士で殺戮を伴う争いごとを繰り返した。それを何世紀にもわたって行ってきた結果が、第一次世界大戦と第二次世界大戦の二つの大戦に行き着いたのである。「世界」大戦といっても、その実体は「ヨーロッパ」戦争である。日本などはだまされ誘導されて、そのうえ石油を断たれるという経済封鎖を仕掛けられて、巻き込まれただけである。日本はヨーロッパを崇拝し、ヨーロッパをよき師と仰いで、西欧化・近代化に勤(いそ)しんでいた。だから日本は、だまされ、誘導された。

 この二つの大戦を経て、そのバカバカしさと悲惨さを思い知って、さすがのヨーロッパも反省して、それで彼らはEU(ヨーロッパ連合、ヨーロッパ同盟)を作ってヨーロッパが戦火を交えず平和であるようにと、努力している。だとすればそれはよいことである。しかしヨーロッパは現在どうも移民労働を必要とし求めているようだ。これは「自分たちは働かないで生活しよう」という精神の表われである。自分たちの生活は自分たち自身の働きで成り立たせなければならない。それができてはじめて平和な生活ができるというものである。なのに、これはヨーロッパ人がまだそれができないことを示している。ヨーロッパはまだまだ平和な生活に至っていないと言うべきだろう。ヨーロッパはまだまだ自立していないのだ。

 とにかくヨーロッパの歴史は殺戮と土地・財産の強奪を伴う戦争の繰り返しだったので、変化が激しく狂乱の歴史であった。変化は激しいが、中身のない歴史だった。ところがヨーロッパやアメリカ、日本では、ヨーロッパ近代史は歴史の必然とか歴史の法則とかに従って展開したと考えられており、多くの教養ある人々はそれを真に受けている。だがヨーロッパ近代史は、そんな文明的な歴史では全くないのである。それはヨーロッパ史に偽装と捏造が多いからそう見えるだけなのである。もし文明的な歴史であるというのであれば、ヨーロッパ史は過去に人類に何をもたらし、今後将来に向けて何をもたらそうとしているのか、それを是非教えて欲しい。ヨーロッパ人やアメリカ人には、世界に平和と繁栄をもたらそうという思想や、あるいは人間というものは何をすべきか、という思想というものがない。今の日本人も(彼らの影響を受けて)それらがなくなりつつある。日本では、地位の高い人のほとんど(九〇%超)が思想を喪失するに至っている。

 ともかくヨーロッパ史は変化が激しく、そのうえ歴史の偽装・捏造(書き換え、後世による理論付け)が多い。だから、ヨーロッパ史は中身がない。それなのにほとんどの人々は、ヨーロッパ史はまともな歴史だと思っている。だから私は、ヨーロッパ近代の断片を見ていくことによって、その惨状を確認しようと思う。

●エドワード・コルストンにおける歴史の捏造

 井野瀬久美恵氏によると、イギリスのエドワード・コルストン(Edward Colston 一六三六〜一七二一)とは、ブリストル市(Bristol)が誇る「慈善家」であったという。それを記念して一八九五年に、市の中心部にエドワード・コルストン像が建てられ、現在もそのブロンズ像は立っているのである。

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エドワード・コルストン像

 ブリストル市とは、イギリスのイングランド南西部、エイヴォン川の河口に発展した港町のことである。現在の人口は三九万九六三三人(一九九六年推計)であり、人口四〇万人程度の比較的大きな都市である。

(引用はじめ)

 この町の中心部、人や車がひっきりなしに行き交う二本の大通りの接点に、そのブロンズ像は立っている。物思いにふけるかのように、あごにあてた右手を杖を持つ左手で支えながら、伏し目がちにたたずむその像――彼の名はエドワード・コルストン。一七世紀後半から一八世紀初頭にかけて、西インドとの交易に従事したブリストル出身の商人。台座にはこう刻まれている。「もっとも高潔にして賢明なるわが街の息子のひとりを記念して、ブリストル市民により建立さる。一八九五年」――。(一三三ページ)

(引用おわり:井野瀬久美恵『興亡の世界史16・大英帝国という経験』講談社、二〇〇七年)

 このブリストル市の中心部に建つエドワード・コルストン像は、市が誇る「高潔にして賢明なる慈善家」として、それを記念し顕彰するために、一八九五年に建立されたのである。それはヴィクトリア女王(Queen Victoria 在位一八三七〜一九〇一)時代の末期である。それは、彼が死んでから一七〇年以上も経た後のことであり、大英帝国の絶頂期である。夏目漱石がロンドンに留学したのは、その数年後(一九〇〇〜〇二年)である。漱石はヴィクトリア女王の葬列を見ている。それから以後百年間、コルストンはブリストル市が誇る慈善家・博愛主義者であったのである。

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ヴィクトリア女王

 ところが、その百年後の二〇世紀末(一九九八年)に、このことが問題となったのであるが、では、コルストンとはいったいどんな人物だったのか。

(引用はじめ)

 コルストン像の設置とほぼ同じころ、イギリスで編纂が進行していた『国民人名辞典』は、コルストンを「博愛主義者」と定義したうえで、一九世紀に出されたいくつかの伝記を参照にして彼の人生をまとめている。簡単に要約してみよう。

 一六三六年、ブリストルの名望家だった豊かな商人の家系に生まれる。ピューリタン革命期、王党派だった父が、議会派が多数を占めるブリストル市参事会の職を解かれたことを機に、家族とともにロンドンに移り、慈善学校として知られる全寮制のクライスト・ホスピタル(当時はロンドン中心部ブラックフライア地区、現在はウェスト・サセックス州のホーシャム)で教育を受けた。八〇年、彼はその理事長となる。王政復古直後、父はブリストルに戻ったが、彼はロンドンの服地組合で徒弟修業した後、父親同様、ヨーロッパを相手にワインやシェリー酒、衣料などを扱う商人として事業を拡大した。父の死後、しばらく故郷ブリストルに住むが、八九年にはロンドンからさほど遠くないサリー州モルトレイクに邸宅を構え、死ぬまでそこを生活拠点とした。

 一六九〇年、ブリストルに救貧院を設立し、同市の商人組合(マーチャント・ヴェンチャーズ)に管理を委託して以降、次々とブリストルへの寄付を重ねていく。一七〇七年、一三〇〇ポンドを投じて新設した学校は、後に「コルストン・スクール」と改称された。政治的には保守派のトーリー、そして典礼を重んじるイギリス国教会高教会派(ハイ・チャーチ)の熱心な信徒として、教会の改修や修復にも多額の寄付をおこなった。〇八年に事業を引退すると、翌年、教育や貧民救済で知られる全国組織、キリスト教知識普及協会(SPCK)のメンバーに選ばれる。さらには、ロンドンの病院、モルトレイクの救貧院や学校などにも多額の寄付をした。一〇年にはブリストル選出の庶民院議員となる。一七二一年、モルトレイクの自宅で亡くなると、生前の遺言により、遺体はブリストルのオール・セインツ教会に埋葬された。享年八五歳。

 『国民人名辞典』の記述には、コルストンの慈善家としての側面が強調されていることが明らかであろう。「貧者の雇用や彼らの収容施設の設置、学校や病院の設立に対する彼の寄付総額は七万六九五ポンドにのぼる」という記述からも、一七世紀末から一八世紀初頭という(イギリスにおける慈善活動の歴史としては)きわめて早い時期に、商人による慈善の伝統を築きあげた点に彼の評価が集中していることがわかる。これが、一九世紀末のコルストン理解であった。(一三五〜一三七ページ)

(引用おわり:井野瀬久美恵『大英帝国という経験』) 

 このように、コルストンは一九世紀末から二〇世紀の末までの百年間にわたって、「博愛主義者」「慈善家」としてその生涯を讃えられてきたのである。だからブリストルでは、コルストンという名の地名や施設が数多くあるのであった。

(引用はじめ)

 ブリストル市の中心部を走る幹線道路のコルストン・アベニュー、その接点に立つのがコルストン像だ。すぐ西側のビジネス・ビルディングの名はコルストン・タワー。この建物のすぐ裏、コルストン・アベニューから北へ続くコルストン・ストリートに面して建っているのがコルストン・ホールである。(略)

 市の中心部から北西へ二〇分ほど歩いたところにはコルストン救貧院がある。一八世紀初頭には、後にコルストン・ボーイズスクールと改称される中等教育の男子校が開校したし、ヴィクトリア朝(一八三七〜一九〇一)末期、ブロンズ像設置の四年前に開設された女子校はコルストン・ガールズスクールと命名された。病院や孤児院、養老院などの施設にも「コルストン」の名が見える。「この町のどこにいようが、コルストンの記憶と無関係でいることはできない」と、ブリストルのあるガイドブックは言う。この状況を作った時代こそ、コルストン像がこの町の中心部に設置された一九世紀末であった。もっといえば、一八九五年、町の中心部にブロンズ像が出現したことによって、コルストンは再記憶化され、二〇世紀を生きのびたといえるだろう。(一三四〜一三五ページ)

(引用おわり:井野瀬久美恵『大英帝国という経験』)

 なんとブリストル市にはこのように、「コルストン」の名前で溢れかえっているのである。

 当時編纂された前述の『国民人名事典』にはさらに「今なお日曜日にはコルストンの墓に花が絶えず、彼の誕生日である一一月一三日は、一七二六年設立のコルストン協会を親団体とする三つの組織、ドルフィン協会、グレイトフル協会、アンカー協会によって祝われ、慈善目的の大規模な募金活動がおこなわれる」と記されている。このドルフィン協会は保守党系、アンカー協会は自由党系の政治家が中心だったので、毎年一一月一三日、ブリストルには数多くの政治家が集うことになっていたという。一九世紀後半の『タイムズ』を見ると、この日の翌日には必ず、「ブリストルのコルストン・デー」とか「ブリストルのコルストン記念日(アニバーサリー anniversary)」といった見出しで会合の模様と集まった募金額などが掲載され、親団体であるコルストン協会の活動を讃える言葉で締めくくられている、ということである。

 まさに一九世紀末の大英帝国絶頂期から、コルストンは「高潔にして賢明な博愛主義者」となったのであり、ブリストル市民にとっては大変な誇りであり名誉だったのである。否、コルストンはブリストル市民ばかりではなく、イギリス国民の鑑(かがみ)、模範、理想像だったのである。

 ところがコルストンは、一六八〇年三月、王立アフリカ会社(Royal African Company)のメンバーになり、その後その役員を務めたという、この事実が『国民人名事典』からはすっぽりと抜け落ちていたのである。なぜコルストンが王立アフリカ会社のメンバーだったことは書かれなかったのか。王立アフリカ会社とは何なのか。以下、井野瀬久美恵氏の前掲書による。

 ロンドンを拠点とする王立アフリカ会社(一六七二〜一六九八)は、イングランドが奴隷貿易と関わった初期にあたる一七世紀後半、一六七二年から九八年までの二十数年間にわたり、アフリカとの貿易、すなわち奴隷貿易を組み込んだ、いわゆる三角貿易(triangular trade)を独占していた特許会社である。すなわち、王立アフリカ会社は、「武器・日用品などのヨーロッパ産品−西アフリカの黒人奴隷−砂糖・タバコ・木綿などの西インド諸島のプランテーション産品」という三角貿易を独占していた会社だった。 王立アフリカ会社は、一六八〇〜八六年の間に二四九回のアフリカ航海に出資し、年平均五〇〇〇人の黒人をカリブ海域やアメリカの植民地に送り込んだとされるから、独占期間に売買した奴隷の数は一〇万人をはるかに上回る。その利益に与かったのが王立アフリカ会社のメンバーであったことはいうまでもない。

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奴隷貿易の様子

 ということは簡単にいえばこの特許会社は、奴隷貿易と砂糖貿易を行って大もうけをした会社であるということである。事実そうだったのであり、あまりにも利益が大きすぎて、貿易商人からの抗議と圧力により、一六九八年、イギリス議会は王立アフリカ会社の独占廃止を決めざるをえなかったのである。なお、あの有名な思想家ジョン・ロック(John Locke 一六三二〜一七〇四)もこの会社の株主だったという。ロックはこれによる収入によって、西欧近代資本主義確立のための著作に専念できたのではなかろうか。

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ジョン・ロック

 この一六九八年における王立アフリカ会社の独占廃止によって、その後はさらに「奴隷貿易」にはずみがついたという。イギリス中の貿易商人たちがどっと、この三角貿易に参加したのである。王立アフリカ会社の取引独占の時期には年間五〇〇〇人だった奴隷の数が、独占廃止数年後には、年平均二万人を超えたそうである。奴隷となったアフリカ人たちは、人間であることを否定され、ただ「黒い積荷(ブラック・カーゴ black cargo)」とだけ呼ばれて海を渡った。コルストンは、この独占廃止後、二〇年以上を生きている。王立アフリカ会社の株主以前も、その株主時代もそうであったろうが、この独占廃止後も何らかの形で活躍し、奴隷貿易で所得をさらに増やしたのだろう。彼のブリストル市への「慈善」「博愛主義」は、すなわち義捐金や寄付金は、こうした反人道的な収入からのものだったというわけである。

 だから一九九八年一月の寒い日に、コルストン像の台座に彫られた文字の上に、誰にでもわかる平易な二つの英単語Slave Trader(奴隷商人)がスプレー缶によって落書きされたのである。落書きそのものはすぐに市当局によって消されたが、この二つの英単語が放った衝撃はそれで収まらなかった。この二つの単語は、この町と切り離すことのできない歴史的な記憶、奴隷貿易の過去をよびさますとともに、今その過去を償うべきか否か、誰がどう償うのか、そもそもどうすれば償ったことになるのか、などをめぐる論争に火をつけたのである。落書きが消された二日後の全国紙『タイムズ』(一九九八年一月二九日)は、この町の黒人コミュニティのリーダーが次のように発言したと伝えている。曰く、奴隷貿易で莫大な富を得ながら、アフリカ人を「商品」としか思わず、彼らの苦しみをまったく無視したコルストンは「奴隷貿易史上、最悪の犯罪者のひとり」であり、彼のブロンズ像は即刻取り壊すべきである、と。

 井野瀬久美恵氏によると、イギリスではそれ以後、奴隷商人コルストン、一九九六年にブリストルで行った航海者ジョン・カボット(John Cabot)を記念した「海の祭典」、一九九七年に行ったジョン・カボット航海五〇〇年記念祭典、この三つに対する批判が大きくなっているそうだ。イギリスは奴隷貿易の過去に向き合っている。

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ジョン・カボット

 一九九八年秋、イギリスの国営放送BBCは「リスペクタクル・トレード(お上品な商売)」という奴隷貿易を扱ったドラマを放映した。その翌一九九九年には、ブリストル博物館や美術館は、奴隷貿易のなかでこの町が果たした役割について、「リスペクタブル・トレード?――ブリストルと大西洋を渡った奴隷たち」と題する特別展を開催した。この特別展は、ブリストル市にとって公式の場で初めて、自分たちが奴隷貿易の担い手であったことを示す機会となった。二〇〇四年五月、「奴隷貿易の過去」に対してブリストル市は公式謝罪をするべきか否かという重い問題が議論された。

 さらにまた、奴隷貿易との関わりを問われて激しく糾弾されているのは、コルストンだけではない、という。海上輸送の保険業務を広く手がけ、世界有数の保険会社となった「ロイズ(Lloyd's)」もまた、奴隷貿易の過去との真摯な向き合い方が求められている。「ロイズ」は、一六八八年ごろ、ロンドン・ドック近く、タワー・ストリートにオープンしたコーヒーハウスを起源とする。ロイズ・コーヒーハウスが世界有数の保険会社として発展する大きな原動力となったのが、当時取引の比重を高めつつあった西インド諸島や植民地アメリカとの貿易に従事する船舶の保険であり、「黒い積み荷(ブラック・カーゴ)」である奴隷に対する保険だった。今、「ロイズ」に問われているのはまさにこの点――奴隷貿易で発展した「ロイズ」が、「積み荷」としてしか扱わなかった奴隷の「苦しみと痛み」をいかに償うか、という問題が浮上しているということだ。

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ロイズのビル

 結局、このように、エドワード・コルストンは、歴史の捏造によって持ち上げられてきた。ヨーロッパにおける歴史の捏造が、ここにも明確にみられるのである。コルストンについてはその歴史捏造で百年間、イギリス国民、世界人類をだまし続けたことになる。ヨーロッパ史(ヨーロッパ文明)も、これと全く同じような手法が無数に使われて持ち上げられているに過ぎないのだ。都合の悪いところを隠蔽し都合のいいところだけで歴史を書き直す、こういう歴史捏造の結果できあがったヨーロッパ史が、われわれ日本人が接するヨーロッパ史である。すべての事実・真実を、また現在もっているイギリスの資産をすべて正直にオープンにすべきなのだ。そうすればおのずと、世界人類平等への歩みが始まるだろう。ただしこの歩みは焦らずじっくり着実に行わなければならないが。

 ところでこのように、エドワード・コルストンとジョン・ロックは同時代人であった。そして『ロビンソン・クルーソーの冒険』を書いた小説家でもあり政治家でも新聞記者でもあったダニエル・デフォー(Daniel Dafoe)も、名誉革命でオランダの総督からイギリス王となったウィリアム三世、フランスの太陽王ルイ一四世も同時代人と言えるであろう。このことは注目しておくべきことだろう。

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ダニエル・デフォー

・ジョン・ロック(一六三二〜一七〇四)
・エドワード・コルストン(一六三六〜一七二一)
・ルイ一四世(一六三八〜一七〇二、在位一六四三〜一七一五)
・ウィリアム三世(一六五〇〜一七〇二、在位一六八九〜一七〇二)
・ダニエル・デフォー(一六六〇〜一七三一)

 小室直樹氏は、「英国資本主義は、一七世紀末から一八世紀にすでに成立し、当時のイギリスでは、その隣のオランダと同様、保険業はもう相当の発達をとげていた。保険業なしに資本主義は作動しえない。(一七四ページ)保険は資本主義の最大の発明の一つである。また、社会主義が資本主義から継承する貴重な遺産の一つであるべきはずであった。しかし、社会主義革命は最後進資本主義国ロシアで起きたため、保険という遺産をロシアは継承することができなかった。(一七七ページ)」(小室直樹『日本経済破局の論理』光文社、一九九二年)と言っている。

 一七世紀末というと、コルストンの時代、すなわち「砂糖貿易時代」「奴隷貿易」の時代に合致する。それは、イギリス(イングランド)が空前ともいえる活況を呈した、イギリス繁栄の時代だったのである。なお、イングランド銀行の設立は、一六九四年である。初代マイヤー・アムシェル・ロスチャイルド(Mayer Amschel Rothschild 一七四三〜一八一二)の三男ネイサン・ロスチャイルド(Nathan Mayer Rothschild 一七七七〜一八三六)がロンドンにきたのは、一八〇四年である。

説明: C:\Users\Furumura\Desktop\副島隆彦の論文教室\img\mayeramschelrothschild002.jpg   説明: C:\Users\Furumura\Desktop\副島隆彦の論文教室\img\nathanmayerrothschild001.jpg
マイヤー・ロスチャイルド   ネイサン・ロスチャイルド

●ブリストルとリヴァプール

 ブリストル市は現在、人口五〇万人程度の中都市である。一四九七年、ジェノヴァ生まれの船乗り、ジョン・カボット(ジョヴァンニ・カボート、一四五〇頃〜一四九九)は、イングランド国王ヘンリ七世からインドへと続く北西航路探検の特許状を得て、一八名の乗組員とともにマシュー号に乗り、出帆したのはここブリストルである。また小説『ガリバー旅行記』(一七二六年)の世界でも、一七二六年、ジョナサン・スウィフト(Jonathan Swift 一六六七〜一七四五)がガリヴアーの乗ったアンテロープ号をここから東インドに向けて出航させた。ロバート・ルイス・スティーヴンソン(Robert Louis Stevenson 一八五〇〜一八九四)が一八八三年に発表した小説『宝島』のなかで、一枚の手書きの地図に記された宝島へと主人公の少年ジム・ホーキンズを旅立たせたのも、ここブリストルであった。このブリストル市が最も発展したのは、一八世紀の奴隷貿易時代である。

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スティーヴンソン

(引用はじめ)

 一六九八年、貿易商人の圧力により、イギリス議会は王立アフリカ会社の独占廃止を決めた。このこと自体、カリブ海域の砂糖きび栽培の高い収益率と、砂糖を中心とする三角貿易が生み出す巨富を物語る。この時、独占撤廃をもっとも強く働きかけたのがブリストル商人たちだった。

 ブリストルの商人たちはすでに、奴隷導入以前の労働力だった政治犯の輸送に従事して、西インド諸島の砂糖きびやアメリカ南部のタバコ農園と関わってきた。そして、王立アフリカ会社の独占が正式に廃止された一六九八年、スティーヴン・ベイカー船長のもと、その名も「ビギニング(開始)」という名の奴隷貿易船第一号を西アフリカへ向けて出航させた。その三〇年余り後、一七三〇年ごろにもなると、ブリストルはイギリス最大の奴隷貿易拠点として知られるようになる。ブリストルを出航した奴隷貿易船は二一〇〇隻を超え、五〇万人あまりのアフリカ人を奴隷として西インド諸島や植民地アメリカへと運んだ。

 ヨーロッパ、アフリカ、アメリカという三大陸を結ぶ三角貿易の手順はこうである。ブリストル(あるいはロンドン、後にはリヴァプール)から出航した船には、植民地向けの多種多様の日用品、食糧や食器、靴や衣料、石鹸やろうそく、農耕具、さらには奴隷の衣服などが満載された。船は途中、西アフリカ沿岸に立ち寄り、仲介にあたる現地アフリカ人商人との間で、銃や弾薬、ラム酒、綿布やビーズなどと交換で、彼らが内陸部から調達してきた奴隷を船内に詰め込む。その後、船は西インド諸島へ向かい、ジャマイカやバルバドスなどで奴隷をおろし、代わりに現地で生産された砂糖(茶色の原糖)やタバコ、木綿、染料のインディゴ、ココアなどを大量に積み込むと、ブリストルへと帰還した。

 到着後、積み荷は各地に運ばれる一方、砂糖を精製して白糖にしたり、タバコを加工したりといった地場産業をブリストルに発展させた。すでに述べたように、物議を醸したブリストルのコルストン・ホールは、もともと、一八世紀初頭、三角貿易への正式参入からまもない時期に建設された、この町初の砂糖精製工場であった。船主や商人はもちろん、株主や投資家、ブリストル港で出航を待つ船舶に運び込まれる日用品や植民地向けの食品、航海中の船内で消費される食糧の生産者たち、港湾労働者、水夫やコックといった乗組員などを考慮に入れれば、ブリストルの町全体が奴隷貿易と関わり、何らかの利益を得ていたといっても過言ではない。ブリストルのみならず、一八世紀初頭、奴隷貿易最大の受益者となったイギリスでは、社会のあらゆる階層が何らかのかたちで奴隷貿易に関与していたといえよう。

(中略)

 ブリストルは奴隷貿易によって豊かになった。クィーン・スクェアはそのシンボルである。一七〇二年、時の君主アン女王にちなんで命名されたこの空間には、その後、続々とジョージア朝建築の邸宅(マンション・ハウス)が姿を現し、町の繁栄のシンボルとなった。その邸宅の主人たちを見ればこの町が三角貿易と深く結ばれていたことがあきらかだ。広場を囲む邸宅建設を立案したひとりであり、バハマ諸島総督として人生を終えたロジャー・ウッディス。この町屈指のエージェントで、一七二八〜六九年の間に一三二の奴隷貿易船と関わったジェイムズ・ラロッシュ。ラロッシュのパトロンとして奴隷貿易に投資したアイザック・ホブハウスは、ブリストルで西インド産品を売買するとともに、現地で巨富を築きつつあった大プランターの子弟のイギリスでの教育を仲介するビジネスも立ち上げた。ブリストルがその全盛期を過ぎたといわれる一八世紀後半、ここに暮らしたジョン・アンダーソンは、一七六四〜九七年に七〇回余りの奴隷貿易船の派遣に関わり、奴隷所有者としても知られていた。かくして、奴隷貿易で流れ込む富の上にブリストルの繁栄が築かれたのである。(一四二〜一四五ページ)

(引用おわり:井野瀬久美恵『大英帝国という経験』)

 ブリストル市はこのように奴隷貿易を絡めた三角貿易で、急激に発展したようである。

 だが奴隷貿易は、ブリストルを豊かにしたが、それ以上にロンドン(London)、リヴァプール(Liverpool)の港町を豊かにした。リヴァプールの方が大きな港だったのだ。また奴隷貿易は貿易会社が行ったはずであるから、その株主である投資家が最も利益を得たであろう。だから奴隷貿易はイギリス全体を豊かにし、なかんずく投資家(大金持ち)を大儲けさせたであろう。ということはロンドンや王室が大儲けしただろう。コルストンはそのうちの一人に過ぎなく、しかも人前に顔を出す現場監督をやらせられるポジションだったのだろう。コルストンの上にも何人もの投資家、大資本家がいただろう。

 リヴァプールは現在、人口は四六万七九九五人(一九九六年推計)である。石油をのぞく貨物取扱量ではロンドンにつぐイギリス第二位の港をもつという。だがブリストルより少し人口が多いだけで、ブリストルと同程度の中都市である。第二次大戦でドイツの爆撃を受け一時衰退したというから、もっと大きな都市だったのかもしれない。そのリヴァプールは、一八世紀半ばにブリストルを追い抜き追い越したようである。

(引用はじめ)

 その後、一八世紀半ばになると、ブリストル商人は、低コストの輸送費をアピールするリヴァプール商人に奴隷貿易の主役の座をとって代わられた。一八世紀後半、蒸気船の発明によって貿易船の大型化が進み、この町と大西洋とをつなぐエイヴォン川の川幅がそれに対応できなかったことも、ブリストルからリヴァプールへの移行に拍車をかけた。それでも、奴隷貿易が廃止される一八〇七年まで、ブリストル商人が奴隷貿易から撤退することはなかった。(一四四ページ)

(引用おわり:井野瀬久美恵『大英帝国という経験』)

 リヴァプール商人も奴隷貿易に励み、ブリストルから主役の座を奪ったという。川幅など自然条件もリヴァプールに有利に作用したとのことだ。そのリヴァプールにも奴隷貿易は莫大な富をもたらし、奴隷貿易廃止後も繁栄を謳歌したのだ。

(引用はじめ)

 奴隷貿易の黄金時代、この貿易に従事したヨーロッパの船のうち、四割以上がリヴァプールの船主であった。この町から出航した奴隷船は、ブリストル、ロンドンを抑えて(のべ)五三〇〇隻を超え、この町に莫大な富をもたらした。奴隷貿易廃止後も、綿工業で発展するマンチェスタの外港として、あるいは、石鹸の原料となるパーム油やココアなどを扱う西アフリカ貿易の拠点であり、アメリカに向かう移民の出港地として、リヴァプールは一九世紀をつうじて繁栄を謳歌した。(一七二〜一七三ページ)

(引用おわり:井野瀬久美恵『大英帝国という経験』)

 そのリヴァプールはブリストル市に先んじて過去に向き合っており、すでに正式謝罪を表明したという。

(引用はじめ)

 (リヴァプール市の)マージーサイド海事博物館は、奴隷貿易をテーマとする展示を一九九四年に常設化した。ブリストルの展示との最大の違いは、この海事博物館が奴隷貿易をはっきりと「人道に反する罪」と捉えたことだろう。それゆえに、展示にも、奴隷の供給地であった西アフリカの変化を再現するなど、奴隷貿易の残酷さ、破壊的暴力がより強調されている。

 新しい世紀を間近に控えた一九九九年一二月九日、リヴァプール市参事会は、大西洋奴隷貿易のなかでこの町が果たした役割を正式謝罪する決議を満場一致で採択した。決議では、これまでリヴァプールが町の豊かさを追求するあまり、置き去りにしてきた奴隷貿易の過去が、この町に暮らす黒人たちを今なお苦しめていることを率直に認めた。リヴァプールは、過去と現在をはっきりと結びつけ、「ほんとうの二一世紀の都市」となるために、正式謝罪を決断したのである。未来のための「過去」の謝罪――それは、許しを求める通常の謝罪や和解ではなかった。当時の市長ジョセフ・デヴァニィが語った内容をまとめればこんなふうになろう。

 リヴァプールが奴隷貿易で果たした過去がほんとうに許されるとすれば、それは和解のプロセスを通じてである。そのために重要なことは、行動を起こすこと。一時のごまかしではなく、永遠に続くような和解がもたらされるとすれば、その唯一の方法は、勇気をもって歴史の痛みと向き合い、そして変わることだ、と……。

 以来、マージーサイド海事博物館が毎年八月二三日におこなっている特別行事にも、この「和解のプロセス」が反映されている。かつて奴隷の供給地だった西アフリカから部族長らも招かれ、「奴隷貿易の過去」を大西洋の向こうとこちらで考えようとするこの日のイベントは、毎年多くの人びとでにぎわう。われわれにあまりなじみのない記念日、八月二三日。一七九一年のこの日、フランス革命の影響を受けて仏領西インドのサン・ドマング島で起こった反乱は、一八〇四年にハイチという史上初の黒人共和国をもたらした。奴隷制度に対する彼らの抵抗を記念して、この日を「奴隷貿易とその廃止の国際記念日」に制定したのはユネスコである。そして、奴隷貿易廃止二〇〇年目にあたる二〇〇七年のこの日、リヴァプールには、奴隷貿易をテーマとする世界初の博物館、「国際奴隷貿易博物館」がオープンすることになっている。

 世界各地で過去の謝罪や償いが論議されている今、この新しい博物館はどんな未来を拓くのだろうか。(一七三〜一七四ページ)

(引用おわり:井野瀬久美恵『大英帝国という経験』)

 リヴァプール市が正式謝罪をし、西アフリカの人々と和解のための行動をするのはいいことである。しかしそれはロンドンを含めたイギリス全体、さらにはローマ・カトリック教会やプロテスタントを含めたヨーロッパ全体が行わなければならない。そしてヨーロッパとアメリカにある金などの保有資産をすべてオープンにして、そのうえで世界人類平等の構築に向けて進むべきである。和解のためには、一切の隠し事をなくすべきである。それが平和共存への道でもある。それを念頭において、できることから進めることが重要だ。ヨーロッパ人は秘密ごとが多いが、一切の隠し事をなくすようにしていかなければ、真の謝罪や和解にならないだろう。

(つづく)