「0166」 論文 サイエンス=学問体系の全体像(31) 鴨川光(かもがわひろし)筆 2011年11月19日
●社会生理学の正体は、ロマンティシズムである
この社会生理学とは、一体どこから来たものなのだろうか。社会有機体理論は、サン・シモンの社会生理学だと述べた。それは正しい。あらゆる学者の一致した見解である。
サン・シモンもコントも、それ以前の「進歩の観念」の哲学者たち、百科全書派、合理主義者(カーティザン Cartesian=デカルト主義者)たちが考えなかった、「社会再建」という思想を持ち出した。
デカルト
フランス社会は、合理主義によって破壊された。テュルゴー、コンドルセまでの思想化の方針は、常に「チェンジ(change)」「社会変革」(リヴォリューシナル・チェンジ・オブ・ザ・ソサエティ revolutionary change of the society、社会動学の側の考え)であり、「破壊の思想」である。
「社会再建」とは、「破壊の思想」とは正反対である。サン・シモンとコントが、若いころから深い影響を受けた「進歩の観念」とは、何の関係もない。「進歩の観念」は、近代においては長い伝統を持つ。
サン・シモン、コントの「社会再建」という思想は、単に彼らの思い付きだったのであろうか。何もないところから、奇をてらった、天邪鬼(あまのじゃく)考えでしかなかったか。そうではない。
実は二人のこの新発想は、フランスの伝統主義を忠実に受け継いで体系づけたものなのである。
●フランスの伝統思想とはもちろん「カトリシズム」、キリスト教信仰と神学である
時潮社の『社会学概論』二四〜二六ページには、社会学が、二つの相反する思想が総合(統合ともいう。もとの言葉はシンセシス synthesisである)したものであると喝破(かっぱ)している。
(引用開始)
社会学は一九世紀のヨーロッパ、特にフランスに成立した新興社会科学である。それが成立するに当たって、主要な構成部分となったイデオロギーは、デカルトの思想を受け継いだ合理主義哲学である。
しかし、フランス社会学が、合理主義だけから生まれたと考えるのは間違いである。
フランス社会学の樹立たるコントの社会学を正常に検討して見ると、コントの社会理論の構成部分には、フランスの伝統主義、ロマンティシズムの精神が、多分に影響を与えているのを知ることが出来る。
ドイツの有名な社会学者であるフランツ・オッペンハイマーが、かつてロンドン大学の経済学部で、「新しきドイツ社会学の諸傾向」(一九二八年)なる講演をしたが、これによると、若き社会学は二つの相争う世界観の総合として提出されていた。
社会学は啓蒙思想を正(テーゼ)とし、ロマンティシズムを反(アンチテーゼ)とする総合(ジンテーゼ)であるというのである。
これに類似した見解を田辺寿利も披瀝(ひれき)している。
「フランス社会学が合理主義哲学を父としつつ、しかも他方において、伝統主義哲学を母としている事実の、言い換えれば、フランス社会学が、近世初期より今日まで、フランス精神を養い来たところの二大思潮、すなわちカルテジアニズムとカトリシズムとの連結、ないし総合として成立した事実の吟味を怠ってはならぬのである」(原注:コントの「実証哲学」四六ページ以下参照)。(『社会学概論』、二四〜二六ページ)
(引用終わり)
近代学問、モダーン・サイエンス(modern science)は全て合理主義からやってきている。合理主義=ラショナリズム(rationalism)とは切っても切れない間柄である。
物理・化学・医学・生物、経済・政治学。文化人類学もそうだ。これまでに誕生してきたモダーン・サイエンスの各分野は、全てデカルトから始まる合理主義に端を発している。
そう考えてみると、社会学とは、一種異端の学問である。社会学だけは合理主義が源ではなく、フランス伝統主義、ロマンティシズムからの影響を受けて成立したのである。サイエンスの一分野が、ロマンティシズム(romanticism)から発展した、というのはきいたことがない。実にユニークな学問である。
上記の引用では、田辺寿利(たなべ・ひさとし)という社会学者が、「カルテジアニズムとカトリシズム」という言葉を使っているが、これも同じである。カルテジアニズムとは「カーティザン Cartesian 」といって、デカルト信奉者のことである。
田辺寿利
●「煙突男」の話
少し話がそれます。
田辺寿利教授(一八九四年〜一九六二年)とは、コントやデュルケムの研究者で有名な人のようだ。日本で社会学を東京帝国大学で最初に講義した、建部遯吾(たけべ・とんご)の教えを受けたと書かれているから、日本での社会学第二世代といえる人であろう。
読み方が分からなかったのでネットで調べてみたが、意外なことが分かった。
以下のURLのサイトやページで見たところ、田辺教授は、一九三〇年に、川崎で起こった労働争議の流れの中で起こった、「煙突男」事件の田辺潔(たなべきよし)の実兄であるようだ。話がそれるが、社会学の流れとは全く無関係でもないと思えるので、少し書いておく。
「煙突男」田辺潔
弟の田辺潔は、兄からマルクス主義の影響を受けて労働運動に関わり、一〇三〇年の一一月一六日に、川崎市の大煙突のてっぺんによじ登り、係争中の富士紡績争議において労働側の要求を五日間に渡って叫び続けた。
事件には一万人の野次馬が集まり、兄たちの説得によって、田辺潔の命は守られ、争議団の要求も聞き入れられたという。田辺潔は、群衆の大喝采を受けて煙突を降りた。
三年後に、潔は川で変死体として発見されるが、当時の赤旗の記事によれば、警察の拷問を受けて虐殺されたとされている。赤旗の同号には、小林多喜二死亡の報道も掲載された。
以下の、「煙突暮らしも楽なもの」というページは、愉快に当時の模様が綴られている。
http://blogs.yahoo.co.jp/cyoosan1218/42999327.html 「労働相談・労働組合日記」
http://kotobank.jp/word/%E7%94%B0%E8%BE%BA%E6%BD%94 「デジタル版日本人名大辞典」
http://www.geocities.jp/showahistory/history01/05g.html 「煙突暮らしも楽なもの」
小林多喜二もそうだったが、田辺潔も、本来は馬鹿な人間ではなかった。私は、一八三〇年代から、一九六〇年代まで世界的に存在していた「レッズ(Reds)」に関して、もっと深く調べなければならないと思っている。思想信条だけではない、行動的にも非常に優れた人間たちであった。
小林多喜二
映画には、ウォーレン・ビーティ主演の映画「レッズ」がある。これは必見の映画である。
●テーゼやカーティザンなどの言葉を少し説明する
話をもとに戻す。
デカルト(Descartes)とは、Des Cartes といって、頭の「デ(Des)」は英語の「ザ(the)」と同じ。とっても意味は変わらない。「何々家の」という由緒正しさを表す。だから、「カーティザン」とは合理主義者と同義なのである。
カトリシズムとはカトリックのこと。カトリック国フランスの伝統主義とはキリスト教信仰のことであり、神学=シオロジー(theology)のことである。ちなみに頭の「シオ(theo」」とはゼウスのことである。天主、神、ゴッドのことだ。
モダーン・サイエンスとは、ひとまず神学とは手を切ったはずなのである。ところが、社会学だけは、サイエンスとは正反対なはずのシオロジーが入っているのだ。これは、社会学のもう一つの特徴である、ポジティヴィズム(positivism)とも相反する。
ポジティヴィズムとは、人間が、全ての思考のスタートとなる前提(プロポジッション proposition)を決めようということである。しかし、シオロジーとは、その語源(シオ theo が「ゼウス」を意味する)からも明らかなように、前提が神なのである。
神はいる、存在する。神が全ての前提を作っている。それがまず先にある。だから、ポジティヴィズムと共存できるわけがない。ところが社会学では共存しているという。共存というのは、上記の引用では、「ジンテーゼ」、正と反を合わせた合であるというのだ。
ジンテーゼなどというが、これは「シンセシス(synthesis)」という。二つのテーゼ、英語では「シーシス(thesis)」(これが正)と、「アンチセシス(antithesis)」(これが反)を合わせたものが「シンセシス(synthesis)」である。
「シンセサイザー」という楽器があるが、あの「シンセサイズ」と同じである。「シンセサイズ(synthesize)」とは「統合、総合する」という意味の動詞だから、「合」とは「ザ・シンセサイズド(the synthesized)」=「統合されたもの」ということなのである。これと反対の言葉が、「アナリシス(analysis)」(分析、分解)である。
近代科学はこの二つのこと「分析と総合」(シンセシスとアナリシス)を行わなければならない。これは、ニュートンによって発案された手段である。
「テーゼ(thesis)」というのはドイツ語の言い方で、英語では「シーシス」である。「シーシス」とは、主張のことである。それ以外にも、命題とか、テーマとか定立などというが、根本のところは同じだ。
「シーシス(thesis)」の頭のところの「シー(the)」は、ギリシャ語で「置く」と言う意味である。だから、前提と言う意味の英語、「プロポジッション(proposition)」と意味は変わらない。
「ポシティヴ」の「ポジ(posi)、「プロポジッション」の「ポジ(posi)は「プット(put)、置く」と言う意味だ。「ポジッション(position)」だけで、「人間の配置」を意味するから、意味はつかみやすい。
だから、テーゼもテーマもプロポシッションもポジティヴもポスチュレイト(posutulate 公準)も、みな根本のところでは同じである。おそらくは「人間が考えのスタート地点である前提を決める」と言うことである。
「公理」と言う英語「アクシオム(axiom)」だけは違うであろう。シオロジーのほうだ。語源は「価値のあるもの、考える価値のあるもの」であり、その後「自明のもの」と言う意味になった。
自明のものとは、証明も反駁も理由を求めることも許さない、それだけで「存在が証明されているもの」、つまり「在る」もののことだからである。それは本来は神を表すものだから、それではまずいので、その後に「公準」という前提を人間が置くことにしたのだ。数学でもこの通りなのである。
副島先生は、「数学はサイエンスではなく、神学、シオロジーの側」だと、初期の著作や、「学問道場」の中で述べている。それは、アクシオムやポスチュレイトと言った、語源からも私が証明したように、正しい認識なのである。
私、鴨川が、言葉の一つにこだわることは、自分の師匠だ、先生だと思った人物の思想や主張を、ただ漫然と理解し、崇め奉り、鵜呑(うの)みにするという行為に耽ることと、一線を画すことだと思っている。
次は、ロマン主義の思想について入っていこうと思います。
(つづく)