「171」 論文 TPPとは外国への「大統領令」(エグゼキュティヴ・オーダー)、すなわち「勅令」のことである(1) 鴨川光(かもがわひろし)筆 2011年12月24日
ウェブサイト「副島隆彦の論文教室」管理人の古村治彦です。今年の「副島隆彦の論文教室」の更新は今回が最後となります。来年は1月8日から更新を再開いたします。本年2011年もウェブサイト「副島隆彦の論文教室」にアクセスし、論文をお読みいただきまして、誠にありがとうございました。
今年は、3月11日に東北地方と関東地方を大地震と大津波が襲いました。また、東京電力福島第一原子力発電所では事故が起きました。こうした状況下、ウェブサイト「副島隆彦の論文教室」では週一回の更新のペースを守り続け、論文を掲載し続けてきました。執筆者の皆様には本当にお世話になりました。ありがとうございました。
掲載論文も少しずつではありますが、閲覧者数が増え、評判にもなっているようです。来年も週一回のペースで論文を掲載し続けるというスタイルを貫けるように努力してまいります。そして、お読みいただいている皆様に「おもしろい」「ためになる」と思っていただける論文を掲載してまいります。
皆様には、健康で楽しい年末年始をお過ごしになれますようお祈り申し上げます。
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TPPが世間を騒がせている。この文章を書いている、二〇一一年一二月初旬の段階では、「いた」と言ったほうがいいかもしれない。
TPPが多くの日本人を不安にさせているのは、まずは農業問題である。一九八〇年代のオレンジや牛肉の輸入自由化問題同様に、日本の農業がどうなるのか、農家がやっていけなくなるのでは、という不満や不安が広まっている。
今回の交易自由化問題がそれまでの貿易問題と違うのは、農業や工業製品のみならず、医療分野や知的財産権といった、法律分野にまで「自由化」、「障壁」の撤廃が唱えられている点である。
私たち一般庶民生活に直接関わってくるのは、医療、特に歯医者の治療費が高くなってくるのではないかという観測である。その反面、歯の詰め物が欧米基準のしっかりとしたものになるだろうという前向きな見方もある。
TPPへの参加に賛成なのは、日本経団連を中心とした大企業。反対なのは、農業団体や農家といった構図である。
農家でもければ、輸出企業にも関係がない大多数の一般国民は、大方、TPPには無関心である。参加すればいいんじゃないの、という人もいれば、それはいったい何なの、という人が大半。
実生活には直接関係がなくとも、日本の文化の中心は米だから、日本の文化が破壊されるのではないかといった意味で、日本の農業を心配する人も出てきている。農業問題が中心となって、議論を巻き起こしているといった様相である。
そのため、地に足の着かない議論がなされているというのもまた事実である。本当のところ、TPP反対を唱える「普通の人々」にとっては、農産物に関していえば、むしろTPPに日本が参加したほうが、普段の生活には利点があるのかもしれない。
TPPが発行した場合、私たちの生活上では、せいぜいがあまり知らない国や地域産の珍しい果物やワインなどが、近所のスーパーで安く並び出し、「へー珍しいなあ。ちょっと試しに買ってみるか」程度の「利益」をもたらすことはあるだろう。歯医者や医療費に関する懸念はあるが、それでも日常の生活はあまり変わらない。
私のような、「PCペケペケ人間」は、日本の農家がどうのと言ったって、土いじりすらしていないし(決して、嫌いなわけではないが)、知り合いに農業関係者がいるわけでもない。TPPに賛成しても(しなくても)、日常生活には何も変化は無いだろう。TPPは、自分の利益にとって、おそらくほぼ関わり合いがないということである。
そこで自由貿易論者が出てくるわけだが、民営化や資本主義原則、保護貿易や関税という「障壁」という言葉を使って、TPPの利点というより、この機会に日本の利権集団を解体せよ(外圧で)という意見が出てくる。
悲しいことだが、こうした自由貿易推進論者の中には、ハイエク(Friedrich Hayek)やバーク(Edmund Burke)を持ち出して、「われこそは真の保守」であるとのろしを揚げ、共産主義者だとかヒトラーのような国家社会主義者といった、今はいない敵と戦おうとするものすらいる。「ドン・キホーテ」のような滑稽さが垣間見えてしまうのである。
ハイエク バーク
それでも彼らはがんばって、「TPPや自由貿易反対論者は隠れ共産主義者」だという言葉を使う。「陰謀論者」「トンデモ」という言葉も使う。大きくは、九〇年代末に復活した、渡部昇一や谷沢永一らのウィッグ的な「保守」言論人の影響である。だから、その中でも真面目な人間は、バークやハイエクを持ち出す。
まずは実生活と関係のない、自分の利益とは関係ないことを主張しても、誰も耳を貸さなければ、その主張には、何ら真剣さや誠実さも感じられないのだ。
「お前には関係ないじゃないか」「お前いつからそんな、国を想う人間になったんだ」と、鼻で笑われるだけである。
だからたとえ、農協が日本の巨大な利権集団であろうとも、彼らは彼らなりに、自分の利益を死守するのに血眼なまでに真剣なのである。地に足の着かない、全く関係のない「PCペケペケ」人間の出る幕ではない。
いや、医療問題など、私たち庶民の暮らしに暗雲をもたらす要素があるのですよ、SDN条項は。という議論もある。韓国がアメリカと結んだFTAの不平等とも取れる条項を引き合いに出して、盛んに論じられている。その条項の不平等さはおそらく正しいであろう。
しかし、私のような単なる一庶民、「PCペケペケ」人間であろうとも、TPPは自分の人生と生活に関わる点が存在するのである。現実問題や理念、イデオロギーといった視点でTPPを議論しても、それは事の本質を見失っている。
TPP問題の本質は一つ。「国家主権(sovereignty)」である。関税自主権と自国の政府による裁判権が、制限あるいは事実上無効にされてしまうのでは無いかという恐れである。これは、農業や工業製品、医療といった範囲に収まる問題ではない。
TPP問題の本質を解くのには、国際関係(International Relations)の視点から見ることも重要である。これがTPPに関しては、最も有効な視点である。
私のこの論考は、この国際関係という視点では書かないつもりである。これに関しては、副島隆彦氏の近著「「金・ドル体制」の終わり もうすぐ大恐慌」(祥伝社)や、中田安彦氏のブログ等での分析が日本で最も光っている。
私は、TPPの本質問題である「主権の自主的棚上げ問題」を、「法と条約」という観点から分析していく。
●TPPとは「協定」(アグリーメント)であることの意味をいち早く見抜いた副島隆彦氏
私は「協定」という視点で、TPPの本質を見抜くということを思いたったのだが、公に公言することでは、副島先生に先を越されてしまった。
(転載貼り付け開始)
「副島隆彦の学問道場 重たい掲示板 [773]TPPという地域多国間の政府間合意(協定)だけで不平等条約を押しつけるアメリカの罠(わな)について 」から
http://www.snsi.jp/bbs/page/1/page:3
東アジアには、「ASEAN(アセアン)+(プラス)3(すなわち、日本、韓国、中国)」という実績のある立派な地域の(リージョナル)経済ブロック block がある。
それなのに、それに対して、アメリカが、まずAPEC(エイペック)という奇怪な妨害組織を作って、ASEAN(アセアン)にぶつけてきて、東アジア諸国の団結を邪魔をしている。そしてこのAPECというアメリカ主導の多国間協議体の場に、TPPという「政府間協定=合意でいいから、とする」罠の仕掛けを作って日本国民に押し付けてきている。
「関税自主権」という小国、劣勢国にとっての死活にかかわる国家主権(こっかしゅけん、ソブリーンティ sovereignty )を、自由貿易の推進=無関税同盟 という口実で押しかけてきている。関税の自由化や規制の撤廃の推進を言うのなら、世界各国一同が会する世界協議の場でするべきだ。
アメリカの今回の魂胆は日本国民に見透かされた。それでも、「TPPという政府間の協定(アグリーメント)だけで済ますことで、批准(ひじゅん。ラティフィケイション)された条約(トリーティ)と同じものだと見なして非関税を強制してしまえ」 というアメリカの狡猾(こうかつ)なTPPなる策謀の、やり口のひどさが、丸見えになってきている。
「副島隆彦の学問道場 重たい掲示板 [773]TPPという地域多国間の政府間合意(協定)だけで不平等条約を押しつけるアメリカの罠(わな)について 」から
http://www.snsi.jp/bbs/page/1/page:3
(転載貼り付け終わり)
これに先立って、私は自分のツィッターで、「TPPは協定である」という旨の内容を書いていたのだが、ツィッターでの「つぶやき」など、何ら意味のないものである。わたしは自分の文章のための「ブレイン・ストーミング」として使っているだけである。
それでも許さん。私鴨川は、副島氏よりも先にことの本質を見抜いたという自負がある。副島氏の上記の考えは、国際関係的な視点である。
副島氏の使う「アメリカの魂胆」だとか「罠の仕掛け」、「策謀」、「妨害組織」、「押し付け」といった言葉は、公には政治家の口によって述べられるはずもなく、証明は困難である。
わたしのこのTPPの論考は、副島氏のこの短い分析を、公式の「法」や「条約」と言った観点から分析し直し、副島理論の法学の立場からの検証(テスティフィケーション testification)という位置づけとなる。
副島隆彦氏を陰謀論者であるとか、トンデモであるといった、間の抜けたレイベリング(レッテル貼り)をしようという試みが、いまだに一部には存在する。
私のこの論考は、そのような試みを無意味なものとする一助足り得ると確信している。そして「TPPのアメリカ陰謀論というトンデモ説」で括りつけてしまおうとする、知性の足りない、実生活に足のつかない、「ネット・ツイッター・ペケペケ人間」たちへのレクイエムである。
●「パートナーシップ」や「フォーラム」といったアメリカ独自の枠組み
TPPとは「トランス・パシフィック・パートナーシップ(Trans-Pacific Partnership)」の略語だが、本来はその後に「アグリーメント(Agreement)」がつかなくてはならない。本来は、TPPAとするべきである。
TPPとは法律として言えば、「アグリーメント」。つまり、「協定」である。「環太平洋連携協定」と呼ぶのが正しい。
ところが、なぜかTPPには次の四つの訳語が与えられている。
「環太平洋経済協定」
「環太平洋連携協」
「環太平洋経済連携協定」
「環太平洋戦略的経済連携協定」
「環太平洋パートナーシップ協定」
最初の三つはよい。「連携」という言葉は「パートナーシップ」の訳語であるし、「経済、というのは、話が主に、経済的取り決めであるのははっきりしている。TPPは「経済連携協定」(Economic Partnership Agreement)、つまりEPAの一環であるからだ。しかし、あとの二つの名称はいけない。
「戦略的」というのはいったいどこからつけられた訳語なのか、そして、いったいどの国にとっての戦略なのかがはっきりしないからだ。ストラテジー(strategy)という言葉はどこにもない。さらに、一番最後が一番いけない。
「環太平洋パートナーシップ協定」という名称は、最近の新聞・雑誌でよく使われ始めている。「パートナーシップ協定」ならまだいい。最近では、「環太平洋パートナーシップ」で終わらしているメディアがある。これは「協定」という曖昧な言葉を意図的に隠しているのではないか、と疑りたくなる表示である。
TPPの最大の問題の一つは、アメリカと結んだその他多数の取り決め同様、「協定」として締結される点である。日米関係をこじれさせてきた最大のものは、安保を含む(「条約」のほうではなく)、「日米行政協定」や「日米地位協定」のほうだからである。
私は昨今報道されている、外国間の取り決めや合意の類が、「条約」とか「同盟」と言ったはっきりしたものではなく、特に「何々パートナーシップ」とか「何々フォーラム」といった、それがいったい条文化された法や取り決めのことなのか、単なる会議のことなのか、分かりづらい言葉に違和感を覚えている。
そこで国際間の取り決めと言ったものには何があるのか、「条約」を柱として、国際的合意や取り決めとはいったい何なのかをはっきりさせてみよう。
●参院予算委員会での佐藤ゆかり議員の「TPPは条約です」発言
二〇一一年一一月一一日。参院予算委員会の「TPP集中審議」にて、佐藤ゆかり議員が、野田総理大臣に、TPP参加交渉への参加の是非を問う場面があった。このビデオを見て欲しい。
佐藤ゆかり議員
国会中継 (2011.11.11) 佐藤ゆかり 「TPP集中審議」 〜参院予算委
http://www.youtube.com/watch?v=aELTpD5UXrc
二〇〇五年の郵政選挙の時に、「ゆかりたん」と呼ばれた佐藤ゆかり議員が、ここに来てなぜか注目されて、一般的には、久々の登場だなあといった印象であろう。首相への詰め寄り方も歯切れよく、TPPに関してもよく勉強していた。野党議員の役割としては、なかなかの印象である。
このビデオ映像の中で野田首相が、FTAAPのこと、その中でのTPPの位置づけに関して、全く無知であったというのは、本当に国家の根幹にかかわる事態である。しかし、私は、佐藤ゆかり議員のほうに違和感を持った。「TPPは条約なんですよ」という発言である。
佐藤議員の発言とその意図は、本質的には間違っていない。それでもやはりTPPは、その名にあるように、「協定」アグリーメントである。いわゆる「条約」(トリーティ)ではない。
●私に「御進言」してきた、知性の足りない「小法学者」
私はTPPを、このように文字通りとらえていたのだが、私に、ツイッター上でおかしな返信があった。
「「協定(agreement)」という名称に固執してはいけません。「協定」という名称であっても、当事国の憲法上の手続(批准や関連国内法の制定、予算措置など)が必要なものは立派な「条約」です(大平三原則を参照)。因みに、日米地位協定は「条約」です」
完全なる片手落ちの議論である。こうした「法学者」たちがネット上ではうようよしている。法の問題を語ると、こうした素人の法学者たちがすぐにしゃしゃり出てくるというのが、日本でのネット文化の特徴である。
英語について語ろうとすると、これもまたうようよと「文法学者」がしゃしゃり出てくる。ねずみ人間たちだ。
私に「御進言」来た、この男(女かもしれないが)の発言は、日本国内での法手続き上は確かである。私が頭に来たのは、「協定という言葉に固執するな」「立派な「条約」」「大平三原則」、そして何よりも「日米地位協定は『条約』」だという知性の足りない間違った解釈と、カギ括弧を使った「条約」という、その言葉の表現である。
真ん中の部分はある程度は正しい。「当事国の憲法上の手続(批准や関連国内法の制定、予算措置など)が必要なものは立派な「条約」です」という部分だ。
きちんとした文にしてあげよう。
「日本国の憲法上の手続(批准や関連国内法の立法手続き、予算措置など)が必要なものは条約、トリーティと同等のものとして扱い処理し、国内法をそれに合わせて立法し、国民を拘束するという条約と同等の法的効力を有する厳格な取り決め、という意味での「立派な条約」です」
これが「ポリティカリー・コレクト」である。いい加減な解釈のまま、いい加減な言葉で説明をしてはいけないのだ。「言葉遣い(敬語問題や慣用表現だけではなく)」の問題は、政治家に限らない。一般国民の総てに自ら科すべき責任なのである。
協定であろうと、憲章(チャーター)であろうと、「宣言」(デクラレイション)であろうと、日本国内においては、その必要と重要度に従って、時に条約と同等の取り扱いをするのである。条約を批准したら、それをきちんとした立法手続きを経て、国内法を取り扱う。
つまり、単なる「協定」であるはずのものだが、「今回結ぼうとしているTPPという協定であっても、国内においては、条約として、厳粛に取り扱わなくてはならないんですよ」というのが、政治家として(そして国民として)の正しい言葉遣いである。これこそが「ポリティカリー・コレクト」の是非として議論すべき部分なのである。
佐藤議員は、日本語にある大いなる欠陥の一つ「端折り(はしょり)」と「比ゆ」という言葉の曖昧さに陥っている。そしてあの「小法学者」もそうである。
●「日米地位協定」を「立派な条約」としてしまう知能の低さ
そして、「協定」を「条約」としてしまう議論の、何よりも片手落ちなのが、結んだ相手国のほうはどうなのか、ということである。特に、アメリカが結びたがる「協定」に関しては、アメリカの国内的取り扱いはどうなのか、ということが全く議論されない。
日本の国内法の問題であるならば、日本のことだけでいい。しかし、条約等、国家間の取り決め合意に関しては、相手国の法的取り扱いと法的地位を合わせて議論しなければならないのである。そうでなければ、日本が結んだ取り決めや合意が、アメリカの意志のままに運用されてしまうのが落ちなのである(日米地位協定がそうだ)。
ちなみに、あの「小法学者」は、「日米地位協定」が立派な「条約」だと言い放った。「日米地位協定」は、「協定」である。日本ではそうだと思っていても、もう一方の側は、そのように処理などしていない。
それでは、条約や協定といった、国家間でやり取りされる合意や取り決めの類とはいったいどのようなもので、どのような違いがあるのか、それを言葉のレベル、語源の段階から詳しく説明していこうと思う。
●「条約」とは何か―「コンヴェンション」と「トリーティ」
「条約」言葉の大きな定義は、国際法の主体間の合意であり、法的な拘束力を持つものといういみである。国家間の約束、取り決めである。これはいわゆる「広義の条約」であり、「トリーティ」 treaty のことではない。
「トリーティ」が「条約」である。これは「狭義の条約」といわれる。
「狭義の条約」にはもう一つ、「コンヴェンション」 convention というのがある。「プログレッシヴ英和辞典」には「郵便・著作権・仲裁などの国際協定(treatyより軽い)」と書かれている。
「コンヴェンション」には、現在「ワシントン条約」として知られる「野生動植物取引規制条約」(やせどうしょくぶつとりひききせいじょうやく)などがある。正式名称は「コンヴェンション・オン・インターナショナル・トレ−ド・イン・エンデンジャード・スピーシーズ・オブ・ワイルド・フォウナ・アンド・フローラ」という。
「ワシントン条約」は、「条約、トリーティ」ではない。これは日本語に引きずられて考えてはいけないのはこっちのほうだ。「ワシントン条約」という顔をしているが、あくまで「ワシントン・コンヴェンション」である。「ワシントン・トリーティ」ではない。湿地の環境を守るための「ラムサール条約」も条約、トリーティではなく、コンヴェンションである。
「トレンド日米表現辞典」(小学館)には、主な国際条約が載っているが、その大半がコンヴェンションである。(三三九〜四〇〇ページ)
この部分を見る限り「コンヴェンション」は、環境や人権といった関連が多い。ヒューマン・ライツやアニマル・ライツといった、最もリベラルな内容が多い法範疇である。
ではこの「コンヴェンション」と何なのか。一般的には、会議とか因襲といった訳語があてられるが、「ウェブスター英語辞典」では、国際的取り決めという意味では次のように定義されている。
(引用開始)
(a) : agreement, contract
(b) : an agreement between states for regulation of matters affecting all of them
(c) : a compact between opposing commanders especially concerning prisoner exchange or armistice
(d) : a general agreement about basic principles or procedures; also : a principle or procedure accepted as true or correct by convention
Merriam Webster English Dictionary
(a):合意、契約
(b):主権国家同士が、当事国に影響を及ぼす事象を規定することへの合意
(c):対立国の司令官間での同意。特に、捕虜交換や休戦に関する同意。
(d):基本的原則、または基本的手続きに関する一般合意。および、慣習に当てはまり、または慣例に適(かな)っていると見なされた原則または手続き。
『メリアム・ウェブスター英語辞典』
(引用終わり)
これから読み取れるのは、「コンヴェンション」とは、本来、交戦中の司令官同士で、捕虜受け渡しなどをするために、一時的に交戦停止をしたり、休戦したりする、やむをえない手続きのことである。
そして、こうした人間の営み上やむをえないことは、たとえ戦争中という大義の中にあっても、「慣習」といったこと、非常に人間的な、自然な、当然なことへの一時的取り決めである。だから、ヒューマン・ライツやアニマル・ライツ系の取り決めにつけられることが多いのである。
重要なのは、上記の定義のうち、(b)と(d)である。これらは、戦時の取り決めが、国家間同士の取り決めへと転換したことを表している。
(b)の「主権国同士の双方へ影響を及ぼすことを規定する」というのは、国家間同士の合意で、いわば広義の意味での条約であり、国家間同士の約束事である。
(d)がその国家間同士の合意としての「コンヴェンション」の意味を物語っている。それは、まずは慣習である。コンヴェンションという言葉の本来のもつ意味である、慣習。つまり慣習法である。
慣習に則っていて、慣習として当然だと認められたことを基本的原則で規定しましょうということである。
●「コンヴェンション」とは「コモン・センス」のことである
「コンヴェンション」を語源の点から見てみよう。
日本人は、高校の英単語、「でる単」とか「しけ単」といった単語帳で、コンヴェンションという単語に初めて出会うことになる。その時この言葉には「因襲」(いんしゅう)という日常生活になじみの薄い言葉と、なぜか「会議」という訳語が同時に載っている。それだけでは意味が全く結びつかない訳語が同時に存在して面食らってしまうのだ。
おそらくこの意味のわかる人もいないだろう。なんとなくある種の国際会議に「コンヴェンション」がつくことがあるから、それで「会議」といったニュアンスを感じているだけである。
ではなぜそれが「因襲」という訳語と結びつくのか。なぜ伝統や、慣習ではいけないのだろうか。
語源の点から見ると、どうもこの「コンヴェンション」とは「コモン・センス」のことである。
「コンヴェンション」 convention とは、con 「共に」と venir 「行く」というラテン語源の言葉から成り立っている。英語で言えば、let's go, let's get together である。「一緒にやろう」「一緒にすすめよう」「共にやろう」ということである。
ここから「一致を見る」という意味が生まれた。意見一致、見解の一致である。そこで「この件では意見の一致、見解の一致を我々は見たから、共に問題に取り組み、解決していこう」という意味に解釈できる。この積み上げが「慣習・慣例・因習」なのである。
トラディション(tradition)やカスタムズ(customs)とは、語源の成り立ちが違い、意味も違う。だから、「会議」という意味も生まれたのである。
conventionとは、慣例的に意見の一致を見ることである。人の死とか病気とか、現実生活上、人道上必要とされる雑務のことだ。これを処理するための意見の一致を見ようということである。そうすることで細かな取り決めの前提を作ることとなる。 それが戦場で生まれ、司令官同士の取り決めが、国際関係上の取り決めの慣例という土台になったのだ。
戦場では、延々と戦闘をし続けるわけには行かない。そこにはどうしても捕虜の問題とか、死体の片付け、傷病兵、病気、飢餓、衛生(人間の排泄問題)が存在する。
こうしたどうしても人道上の見地、必要上の現実的な見地から、相対する国の司令官同士が、人間の生活上の当然の慣例的な常識から、意見の一致を見て、問題を解決しようとしたのである。
戦闘で倒れた兵隊の死体を片付けている間はお互いに戦闘をしないといったことである。そうしなければ、戦場で病気が蔓延し、人道的にも放っておけないというのが、現実的でもあり、自然な人間の常識的取り扱いなのである。これが「コモン・センス(common sense)」、共通感覚である。
「コンヴェンション」。「コン」と「ヴェニィル」という語源とも一致する。つまり、条約、トリーティとは、この国際的な長い歴史上に生まれた慣例の積み上げという「コモン・センス」を土台として結ばれるのである。そしてそれを条文化したものが「条約法条約」なのである。
条約ということの意味を探れば探るほど、アメリカ合衆国は自らが作った戦後の国際社会で、このコモン・センスが欠如していることが分かってくる。
アメリカ合衆国は皮肉にも、トマス・ペイン(Thomas Paine)の「コモン・センス」から始まったのである。
トマス・ペイン
(つづく)