「179」 論文 歴史メモ:信仰と信念と理想から見た現代文明の本質(3) 鳥生守(とりうまもる)筆 2012年2月26日

●第一次上海事変

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第一次上海事変

 大内力は、第一次上海事変について、『日本の歴史24・ファシズムへの道』で次のように記している。

(引用はじめ)

 上海駐在公使館付武官補佐官の田中隆吉少佐は、男装の麗人スパイ川島芳子を使って中国人を買収して日本人僧侶を襲わせた。日本人僧侶ら五名が襲われたのは一月十八日で、二名が重傷を負い、そのうちの一名は二十四日に死亡した。このことがきっかけになって、日本の居留民と中国人の間に紛争が拡大していった。そしてついに一月二十八日、現地にいた中国の十九路軍と日本海軍の陸戦隊との衝突がおこった

説明: C:\Users\Furumura\Desktop\副島隆彦の論文教室\img\tanakaryukichi001.jpg  説明: C:\Users\Furumura\Desktop\副島隆彦の論文教室\img\kawashimayoshiko001.jpg
田中隆吉            川島芳子

 しかし当時日本の陸戦隊は千名余の兵力であり、十九路軍は三万5千名であった。陸戦隊は苦戦をまぬがれなかった。こうしたことから、海軍は急遽野村吉三郎の率いる第三艦隊を上海に集結し、陸戦隊の増強をおこなうとともに、一月三十一日には陸軍に出兵を要請するにいたった。政府は出兵を渋ったが、荒木陸相が賛成して、ついに久留米の第十二師団、金沢の第九師団から部隊が派遣されることになり、二月一日、この出兵の閣議決定がおこなわれた。

 二月十八日、陸海軍の展開がおわり、二十一日ごろから総攻撃がおこなわれた。各地で激戦になったが、有名な「爆弾三勇士」が現われたのは二十二日払暁、廟行鎮でのことだった。北川丞・江下武次・作江伊之助の三人の一等兵が、火のついた破壊筒をもって肉弾ごと敵の鉄条網に突進し、突破口を開いた。この「美談」は、銃後では大々的に宣伝された。戦闘は三月三日、中国軍の撤退によってほぼ終わりを告げた。四月二十九日には、上海新公園で行われた天長節(引用者注、天皇誕生日)の式場に、朝鮮人が爆弾を投げ込むという事件が起こった。白川義則軍司令官はこれが原因で間もなく死に、野村中将が片眼を、重光葵公使が片脚を失った。イギリスの調停などもあって、五月五日には日華停戦協定が成立し、陸戦部隊は撤収された(三四四〜三四七ページ)

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爆弾三勇士(肉弾三勇士)の銅像

(引用終わり)

 これは大変な激戦である。この時のことを『米内光政と山本五十六は愚将だった』の著者である三村文男氏は次のように書いている。

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三村文男

 

(引用はじめ)

 このとき小学五年生だった私は、新聞の一面に特大活字の「これぞ真の肉弾」という見出しを見て衝撃を受けた。三人とも爆死したという。少年雑誌には血湧き肉躍る文章の軍国美談として紹介され、ラジオや映画、浪曲にもなった。与謝野鉄幹作詞辻順治作曲の「爆弾三勇士」は友達とよく歌った。この話はのちに国定教科書にも採録された。第一次上海事変で、最終的には三個師団四個旅団、約五万人を投入して、死傷者は三千人余、損耗率は日露戦争以来の高さだった。満州事変六ヶ月の死傷者は千2百人だったのである(四三〜四四ページ)

(引用終わり)

 国際連盟が編成したリットン調査団が日本の行動を調査しようとするその矢先の、この激しい戦闘である。考えられないほどの愚かさである。田中隆吉に依頼したのは、関東軍高級参謀の板垣征四郎(石原莞爾の上司)だと言われている。満州以外のどこかで騒動を起し、列国の注意をそちらにそらせておこうとしたと言う。もしそうならば、板垣は、東京裁判で死刑になっているのでアメリカとつながっていたのではなく、限りなく愚昧の人ということになる。

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板垣征四郎

 しかし一月二十八日における中国の十九路軍と最初に衝突した日本海軍とは、なんという部隊だったのだろう。大内力は、これを詳しく書いていない。他はかなり詳細に書いているのに、ここだけ全く詳しくない。どうしてだろう。『日本の歴史24・ファシズムへの道』からいかに重要な部分を引用する。

(引用はじめ)

 昭和三年十二月米内光政少将は、第一遣外艦隊司令官に補された。この艦隊は揚子江に配備され、古典的な帝国主義の象徴ともいうべき、砲艦外交の主役だった。日本人居留民の生命財産を守るため、江上を警備するのが任務とされ、イギリス、フランス、アメリカ、イタリアの先進国の砲艦に伍して、中国の主権を侵害するための存在であった。昭和四年一月米内は艦隊を率いて漢口に向かった。(略)

 昭和五年十二月米内光政は中将に進級して、鎮海(チンヘ、引用者注、韓国釜山近辺の港町)要港部司令官となり、さらに二年後の十二月、第三艦隊司令長官として、上海の旗艦出雲に赴任した。(略)

 米内の昭和八年の発言がある。「ぼくはいつも貧乏クジばかり引きましてね。南京事件の時も上海事件の時も、尻拭いに行ったようなもんでした。中国人相手はなかなか骨が折れますよ」(略)阿川氏は、昭和八年七月二十四日付「対支政策につき」という表題の米内の手記を引用する。「日本は過去において斉南に、また近くは上海において武力を発揮し支那の心胆を寒からしめ、戦をしては到底日本にかなわぬという感じを支那の少なくとも要路の人に植え付けた筈である」(三七〜四二ページ)

(引用終わり)

説明: C:\Users\Furumura\Desktop\副島隆彦の論文教室\img\yonaimitsumasa001.jpg  説明: C:\Users\Furumura\Desktop\副島隆彦の論文教室\img\itagakiyonai001.jpg
米内光政          米内光政(左)と板垣征四郎

 米内は、昭和四年一月、第一遣外艦隊を率いて揚子江流域の漢口に向かい、その地で中国武漢政府の軍隊と、租界の周囲に鉄条網をはりめぐらせ陸戦隊を配備して対峙した経験がある。このときは事件を鎮めている。上海は揚子江の河口にあり、鹿児島県薩摩半島の真西にある国際都市である。ところが翌年十二月、鎮海要港部司令官となっている。中将に進級とあるが、鎮海部司令官という地位は、「クビ五分前」、「島流し」、「一週間に半日仕事があればいいほう」という閑職である。

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鎮海

 米内は第一次上海事変当時の任地は、この鎮海、すなわち朝鮮半島の釜山近辺の港だったのである。米内が自身の「上海事件の時も尻拭いに行った」という昭和八年の発言から、第一次上海事変に出動したのに違いない。そしてその出動の年の十二月に第三艦隊司令長官に昇進している。この昇進はどうも、この上海事変で戦火を拡大する役割を果たしたからだろう。昭和四年漢口で戦火を鎮火したから降格・左遷され、昭和七年一月、上海で戦火を拡大したので昇進した、そういうことである。米内は第一次上海事変以後、とんとん拍子で昇進していく。知り得た範囲だが、それを見てみる。

1928年12月、第一遣外艦隊司令官に就任。
1930年12月、鎮海要港部司令官に降格。
1932年12月、第一次上海事変に出動。
1932年12月、第三艦隊司令長官に昇進。
1933年、佐世保鎮守府司令長官に就任。
1934年、第二艦隊司令長官。
1935年、横須賀鎮守府司令長官。
1936年、連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官。
1937年1月29日、林銑十郎内閣の海軍大臣、任海軍大将。
1937年6月4日、第一次近衛内閣の海軍大臣として留任。
1939年1月5日、平沼騏一郎内閣の海軍大臣として留任。(同年8月28日まで)
1939年、軍事参議官。
1940年1月16日、予備役に編入され内閣総理大臣となる。(同年7月16日まで)
1943年、戦死した連合艦隊司令長官山本五十六の国葬委員長をつとめる。
1944年7月22日、現役に復帰して、小磯国昭内閣の海軍大臣となる。
1945年4月7日、鈴木貫太郎内閣の海軍大臣として留任。

 閑職男だった米内は、第一次上海事変以後、平沼騏一郎内閣の海軍大臣まで、破竹の勢いで出世している。そののちすぐに内閣総理大臣にまでなっている。第一次上海事変で戦火拡大の「手柄」があったとしか思えない。

 この上海事変勃発の過程を詳しく記さない。その過程をもう少し追ってみる。伊香俊哉(いこうとしや)『満州事変から日中全面戦争へ』(吉川弘文館、二〇〇七年)によると、次のようになる。一月十八日の襲撃事件ののち、おかしなことに日本人居留民による報復行動があって事件は拡大した。そこで二十一日、村井倉松上海総領事は呉鉄城上海市長に対して、事件解決の条件を提示した。それは、

@市長の陳謝。
A加害者の逮捕・処罰。
B被害者に対する治療費および慰謝料
C抗日排日行動の取り締まり、各種抗日団体の即時解散。

であった。このCの要求は無法・無理な要求であった。上海市長としては、@ABは承諾できたが、Cは当然のことながら承諾できず、回答を示さなかった。この回答が二十七日である。それに対して村井総領事は、翌二十八日十八時までに明確な回答を求め、回答がない場合は要求貫徹のため必要と認める手段をとると通告した。もちろん、民間での紛争と交渉とで、日中間の緊張は高まっている。

 そうした中二十八日十五時、上海市長はCについて各種抗日団体を解散させる旨を明確にした回答を村井に手交した。日本側の要求は認められたのであるから、日本軍が行動を起こす必然性は消滅した。そのはずである。ところが上海に派遣されていた第一遣外艦隊司令官の塩沢幸一少将は同夜二十時、中国軍か警備している地区に、警備を名目として陸戦隊を進駐させることを発表し、深夜十一時過ぎに装甲車に率いられた陸戦隊が同地区に進入を開始した。明らかに衝突を誘発するための挑発的な行動であった。

 伊香は大体このように記している。当時の朝日新聞でもそのような経過が分かる。一月三十一日の朝日新聞号外の第一面には、英米が「日本軍の軍事行動は全上海を危険にせり」という対日重大抗議を発表したという記事がある。その中には《上海駐在米国総領事カニンガム氏の報告によると、日本の攻撃開始直前に支那側はカニンガム総領事を通じて支那が日本側の最後的通帳の条件を承諾せる旨を通告しきたり、これを同氏から日本側に伝達し日本側は同地の総領事が支那の申し出を受諾する旨を声明した。然るにその直後日本軍は予告も通告もなく北停車場付近の攻撃を始めたというのである》という報告が見られる。

 このようにこの事変は、海軍がいちゃもんをつけて起こした事変である。日本人居留民も傲慢なら、海軍も道徳のかけらもない。当時の日本人には、武士道とか大和心とか、そういう人の道が喪失していることが分かる。日本人は卑屈でさえある。石原莞爾みたいな立派な人は、ごく少数しかいなかったのである。このことを明確にしておかなければならない。

 またイギリスもアメリカも、日本が軍事行動を起こすまで見て見ぬふりをしている。日本側が筋の通らない無法な要求を上海市長に提示していることは分かっているはずだ。イギリスとアメリカ(の総領事たち)に道徳があるならば、大国なのだからその交渉の段階で仲裁に入るべきだ。

 ここに彼らの本質があり、世界の人々はそれを明確に見なければならない。米英の唱える世界主義は、自己の帝国主義すなわち他国を滅ぼすところのものを粉飾せんがためのものであり、結局は侵略主義の変形に過ぎないのである。石原莞爾は、終戦直後に《中国は王道米国は覇道であるが、日本は無道のために負けた》と言っている。

 このように第一次上海事変は海軍が起こした事変である。大内力はそのことを隠蔽するように記したのであろう。海軍善玉・陸軍悪玉説を傷つけるといけない立場にあったのだろう。ところですでに見たようにこの第一次上海事変は第一遣外艦隊司令官の塩沢幸一が起こしたのだが、米内光政はほんの一年ほど前に、この艦隊の司令官だったのである。塩沢は米内の後輩にあたるのだ。米内は何らかの手を使って塩沢を動かし、それが米内の「手柄」だったのだろうか。

 米内は海軍次代にも戦火を拡大している。これが本格的な大戦争となったのである。つまり、

(引用はじめ)

 近衛内閣時代の1937年(昭和12年)8月9日に発生した第2次上海事変において、8月13日の閣議で断固膺懲を唱え、陸軍派兵を主張した。翌14日には、不拡大主義は消滅し、北支事変は支那事変になったとして、全面戦争論を展開、台湾から杭州に向けて、さらに15日には長崎から南京に向けて海軍航空隊による渡洋爆撃を敢行した。さらに8月15日から8月30日まで、上海・揚州・蘇州・句容・浦口・南昌・九江を連日爆撃し、これにより日中戦争の戦火が各地に拡大した。また1938年(昭和13年)1月15日の大本営政府連絡会議では、「蒋介石を対手とせず」の第一次近衛声明に賛成している。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E5%86%85%E5%85%89%E6%94%BF

(引用終わり)

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近衛文麿

 米内光政が日中戦争を開始し、その拡大を推進した。実は、「本当の日中戦争は、一九三七年(昭和十二)七月、八月のシナ事変(盧溝橋事件、および第二次上海事変)からである。それまでは上海は「東洋の魔都」と呼ばれて、世界中から一攫千金を目当ての人間が集まって来て、爛熟した享楽のバブル景気に酔いしれていたのである。それ以後一転して真っ暗な戦争の時代となったのである」(副島隆彦著『時代を見通す力』、三〇〇ページ)。

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『時代を見通す力』

 この十一月二十日に、大本営が設置されている。だから近衛内閣はこのとき、戦争を始めたようなものである。だから日本はこのとき戦争を始めたのである。ヒトラーのナチスの戦争開始よりも二年も早く日本は本格的な戦争を始めていたのである。したがって、日中戦争は「八年戦争」であり、「十五年戦争」ではない。「日中十五年戦争」という歴史家は思慮が足りないか、目くらましのため歴史を歪曲する歴史学者である。大内力も、満州事変は「日中十五年戦争の始まり」と書いている。とんでもない歴史学者だ。

 この第二次上海事変の真相をゆがめて記述しているのは、林茂『日本の歴史25・太平洋戦争』である。これも米内光政の悪しき役割を隠蔽しているのである。記述の問題点を分析すべきであるが、ここでは述べない。第二次上海事変は、八月十三日から始まったが、その八月から三ヵ月ほどの上海での戦闘(戦史九千百五人、負傷者三万一千二百七十二人という、日露戦争の旅順以上の犠牲)についても、記述が実質的に抜けている。ここにも米内光政をかばう書き方が明白に見られる。

 ちなみに国語辞典では、《米内光政(一八八〇〜一九四八)は、海軍軍人、政治家。岩手県出身。海軍大将。連合艦隊司令長官・海相を歴任後、昭和一五年首相に就任。日独伊三国同盟に反対し辞職。のち海相をつとめ、終戦処理にあたった》とある。日独伊三国同盟に反対し、戦後処理にあたったから、善い軍人政治家という書き方だ。大学教授たちが歪曲した歴史定説がそのまま国語辞典に載るということである。

 米内光政は、第一次上海事変に出動したのは間違いない。そして彼はその直後からあれよあれよと出世し海軍大臣はおろか、総理大臣にまでなった。米内はそういう人だった。だから第一次上海事変を記述するときには、歴史学者はのちの海軍大臣や首相にもなった米内光政のそのときの事績を書くべきで、絶対に無視すべきではない。なのに大学教授たちは、それを書くものが皆無に近い。それを書かない大学教授は、歴史学者の資格はないのだが、学界(大学・大学院)に残るにはそれを書いてはいけないのだろう。

 米内は、閑職の二年間のあいだに、アメリカを利する大物とつながり、それを通じてアメリカとつながったのだろう。そして日本を敗戦の地獄へ引きずり込んでいったのである。この米内光政に後につながる人物が、山本五十六や井上成美らである。しかし米内を出世させた者たちが分からない。当然、米内が一人で出世するわけはない。それを引っ張りあげる人がいなければ出世はありえない。そういう米内光政を抜擢した大物がいるはずである。おそらく天皇の側近であると思われる。

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井上成美

 だから、米内光政とそれを抜擢した大物が、リットン報告書を日本に不利なものとし、国際連盟脱退に誘導し、日本の理想、あるいは東洋的王道文明の理想として建国した満州国をつぶした者たちである。後ろから足を引っ張り続け、日本を奈落の底に突き落とした者たちがいたのである。

●日本はそれでも国際連盟脱退はすべきではなかった

 満州国をめぐっての国際連盟総会の決議に、日本は圧倒的に敗れはしたが、それでも連盟に残って堂々と日本の理想を語り続けるべきであった。日本が国際連盟を脱退しなければ、本当は勝っていたのである。日本が辛抱強く五族協和、王道楽土の王道主義を高く掲げていさえすれば、アメリカの抗議は歯が立たなかったのである。どんなに誹謗、中傷を受けようとも、国際連盟の場でそれを堂々と貫いていれば、アメリカの隠然たる覇道主義の策謀は失敗に終わったはずなのである。現に米内光政が第二次上海事変で日本を日中全面戦争に引きずり込むまでは、日本は戦争状態ではなかったのである。

 王道主義とは、各民族を協和させ、真の世界統一を実現させ、人類全体に幸福をもたらすものである。覇道主義とは、物質文明を偏重し、力の強いものが弱いものを搾取するという力の論理に立ったものであり、人類に幸福をもたらさなかった。弱いものばかりでなくて、強いものも同時に不幸であった。王道主義を採らなければ、その文明は結局のところ覇道主義に陥るのである。

(つづく)