「180」 論文 歴史メモ:信仰と信念と理想から見た現代文明の本質(4) 鳥生守(とりうまもる)筆 2012年3月4日
●新渡戸稲造の本から見えてくる東西文明の本質
新渡戸稲造
新渡戸稲造は、カナダで急死したので死後での出版になったが、その著書『西洋の事情と思想』の中で非常に重要なことをいくつも述べている。以下はそのうちのいくつかである。
その一つ目を以下に引用する。
(引用はじめ)
西洋人と東洋人とを較べると、概して西洋人は理性に富んでいる。東洋人は、理性よりも、むしろ直観的な心的能力を持っている。このことはよく人の言うことであるが、この差あるがために、東西文明の性質ならびに社会的政治的の思想に、いちじるしき影響を及ぼしているものだと思う。(中略)
ヨーロッパ人は自然の恵みに富んでいない所で、社会的生活を始めたようである。かりに彼らが普通に信じているように、ヒンズークシに起こったとしても、ヒンズークシは、物産が豊富だとか気候のよい所ではない。気候は寒い方であるから、なによりもまず着物をこしらえることを考えねばならない。自然の食物の恵みがないから、耕作の法も考えなければならない。したがって彼らは祖先伝来なかなか苦心した民族だと思われる。かくてなにかにつけて理性を発揮し、いろいろ物を考える力を養ったものであろうと思う。
さらにまた別の学説によれば、ヨーロッパ人が社会生活を始めたのはずっと北方で、一説にはスカンジナビアの方だともいう。スカンジナビアも二万年まえの気候は、だいぶ今日より暖かだったというが、それでもけっして自然の恵み豊かな所ではなかった。そんな関係上インド・ユーロピアン、あるいはアングロ・サクソンの元がどこであっても、あまり資源に富める所でなく、したがってまず食物の不足した所にはじめて社会を営んだのである。
そこで第一に、どうして着よう、どうして食おう、ということを考えねばならない。一人でいるにしても、あるいは家々が集まって生活を営むにしても、楽をしては過せない。むしろ多勢おれば、それだけ各自の割合が少なくなるから、天然に恵まれぬのみでなく、さらにそのわずかな天然の恩恵に対して多勢が競争し、同士討をすることになる。したがってこんどはいかにすれば敵を倒せるか、敵の襲来を防げるかということを考える。そこで自然に対し、人間に対し、いささかも油断ができず、つねに思索する力を養わなければならない。ひとくちに言うと、西洋人は人種として世に現れた最初から、考えを促すような状態におかれたことは確からしい。(一六八〜一七〇ページ)
(引用終わり)
西洋人は気候が寒く自然の恵みに富んでいないところで社会生活を始めたので、どうして着物をこしらえるか、どうして耕作をしようか、どうして獲物を捕らえようか、どうして競争相手(敵)を倒せるか、どうして敵の襲来を防げるか、というようなことを常に考える必要にせまられ、それゆえに考える力を養う必要があったのだ、と新渡戸は言うのだが、説得力ある考えである。彼らに比べれば、我々日本人は天然・自然に恵まれているのだ。彼らの不毛さは、日本人には中々理解し切れるものではないのだろう。最も日本の天然・自然の恵みは、日本人の勤勉を要するものであり、その点で日本人は西洋人に共通する部分がある。
二つ目を以下に引用する。
(引用はじめ)
今日のヨーロッパの文明が、ギリシアにその根を受けているとは、誰も言うことである。けれども、ギリシアの栄えたのは、どんなに長く計算しても、三百年にはならない。歴史から見れば短いものである。(略)
すでに一言したことであるが、ギリシア文化の代表といわれる人々をあげると、プラトン、ソクラテス、アリストテレス、エウリビデス等、ほんのわずかである。だいたい三十年ほどのあいだがいちばん盛りである。その三十年のあいだにできた産物をヨーロッパ全体が引き受けて、いわゆるヨーロッパ文化の基としたものである。ヨーロッパ人が理屈ッぽく、ラショナリティを言う癖をつけたのは、たしかにギリシアの賜(たまもの)である。
さて、ギリシアがあんなに擢(ぬき)ん出て偉大さを示したのは、なにが原因したものであろうか。ある歴史家の言によれば、元ギリシアの土地にいた民族はいわゆるベラスジア民族で、たいして才能のあった民族ではない。ところがそこへアカイアという民族が移ってから、急にギリシアが勃興した。アカイアというのは北方民族で、今日いうノルディックであるという。
よくあることで、北の方に飢饉があったとか、大不作であったとかいうために、北方を去って南の方へやってきた。ちょうどギリシアの地へさしかかったところが、気候がひじょうに暖かい。その間、寒ければ藁を着たり、猛獣と戦って皮を剥いだり、弱いものをどんどん倒して強いものばかりが残った。それがギリシアへ入って、ギリシアの暖かい気候のために刺激され、一パイ機嫌になった。そして、それらが大いに活動した結果、すなわちギリシア文化の基となったものだという説である。
まだギリシア古代の民族別の研究が十分でないから、無論ハッキリは言えないけども、とにかくひじょうに活動した。いろいろ小さな民族がたくさんいたが、そのうちいちばんエネルギーの強いアカイア族が主となって、一種の政治的団体を形造った。しかもそれは政治のみでなく、彼らの頭はひじょうに活発で、口も八丁(ちょう)手も八丁、美術的才能もあり、趣味も多いという、まず優等な民族であった。これだけの事実はのちの歴史が証明している。
ヨーロッパ人は、たぶんにギリシアの影響を受けている。一時ギリシアの文化がヨーロッパに入ることはとまったけれども、キリスト教なるものが伝播するにしたがって、ギリシアの文化がキリスト教のなかに包まれ、知らず識らずのうちに入ってきた。キリスト教だと思って、ヨーロッパ人がギリシア思想を学んだようなものである。
キリスト教というものは、われわれ東洋人が見ると、なんだか異人臭(くさ)い、バタ臭い感じのするのはなぜかというと、東に来ないで、西の方に行ったからである。ギリシアの理屈を借りて、ローマのインステチューションの下に養われたから、純粋であったキリスト教は形が変り、ある点においては根底まで変ってしまったのである。(一七〇〜一七二ページ)
(引用終わり)
新渡戸は、ギリシア(アカイア)人は、頭の活動は非常に活発で、口も八丁手も八丁、美術的才能もあり、趣味も多いという、優秀な民族であったと言っている。ギリシア人はアカイア人や、アイオリス人、イオニア人、ドーリア人などがいたとよく言われているが、これらは肉体的には差異があるわけでなく、ただその言葉が方言程度に違っていたと言うのだから、北から侵入した時期が四度ほどあったということを示すだけであり、それ以外の重要な意味はないと思うのだが、どうだろう。
古代ギリシアの地図
私はギリシア文化における美術的才能の担い手は、どこか東方から捕らえられてきた奴隷とか捕虜とかが主体ではないかと考えているが、どうだろうか。それはともかくよくよく考えてみれば、ヨーロッパ人とギリシア人はともに、気候が寒く天然に恵まれないところに住んでいた。ということは、すなわち、もともと出自がほぼ同じ民族同士であったのである。結局ヨーロッパ人は、法を使って人間と人間の間を調整して組織化したローマ人(ラテン人)のローマ法制度と、ギリシア語のキリスト教を、自らのゲルマン気質に取り入れたのである。このローマ法制度とギリシア語のキリスト教の合体が、ローマ・カトリック教会という教会組織であろう。
だがこの段階ではまだ、新渡戸の言うキリシアの賜はヨーロッパには伝わっていなかった。それはイスラーム世界から伝わったのである。イスラームのアッバース朝は、ギリシア文化を興味をもって収集、翻訳、整理、保存した。そしてギリシア思想の研究を重ねた。アッバース朝第七代カリフ、マアムーン(在位八一三〜八三三)が、ギリシアの哲学や論理学の導入によって理屈で信条を考えるムウタズィラ学派に共鳴し、これをもってアッバース朝の公認学派とし、イスラーム世界に押し付けようとした。それが「知恵の家(館)」の設立となったのである。しかしイスラーム世界はついにその詭弁と有害を見抜き、そのギリシア思想を禁止としたのである。確かにそれは、イスラーム信仰にとっては有害であったのだ。
ところがイスラームが整理、保存したそのギリシア思想がイスラーム世界からヨーロッパ人に伝わったのだ(イスラームからは紙の製造技術も伝わった)。ヨーロッパ人はギリシア思想がぴったり合うので、その思想を受け容れ身につけていった。これがヨーロッパのルネサンスだった。ある意味で常に軍事技術の発展を求めていたヨーロッパに、論理整理的なギリシア思想が広まったというわけである。その結果、予期したわけではないだろうが、物質文明、なかんずく武器技術、軍事技術の急速なるそしてまた果てしなき発達を見るに至ったのである。
軍事技術への渇望と論理整理による仮説の展開との合体が、新兵器を発達させた。何百何千の仮説(アイデア)の中で一つでも実用になれば、それは技術の急速な発展につながるのであった。これによって比較的優位だった近接するイスラームは次第に圧迫され、防衛主体に追い込まれ、さらに侵食されるに至るのであった。イスラームは宿敵ヨーロッパを急成長させ、それによって大きな被害を受ける結果となったのである。歴史のいたずらと言うか、よくよく考えなければ、否、よくよく考えたにしても、人類はどんな災難が降りかかるかもしれないのである。
結局、ヨーロッパ人は何をしたのか、ヨーロッパ文明は何だったのか。ヨーロッパ人は結局、経験から明らかになった単純事実に単純仮説をつなぎ合わせて推論し、理論や仮説や命題を組み上げることをしたのだ。そしてその理論や仮説あるいは命題を実際に試してみて正しくなければ、もちろん推論のやり直しをしたのである。正しければ、新たな単純事実の獲得である。その繰り返しである。それは彼らの人生においては最大の趣味にも等しい行いであったのだろう。長く幾世代にもわたるその繰り返しがあった。その繰り返しの中から、科学技術が生まれることになった。
それは、たとえば残忍で怖ろしいことであるが、中国で祭りの遊びに使われていた花火を発展させて、鉄砲や大砲の火薬を発明するに至るということであった。彼らは古代ギリシアのように戦争を絶えず行なっていたから、それら一つ一つの成果に満足する暇もなく、それを絶えず発展させて、科学技術および軍事技術を発達させ強力にしてきたのである。軍事技術の中には、平和利用されたものがあった。
以上が、西洋人の文明であった。これに対して東洋人はどうかというと、新渡戸は次のように言っている。『西洋の事情と思想』から引用する。
(引用はじめ)
これに反して東洋人は、物を見るに直観的である。たとえばコップを見れば、西洋人も日本人も、ともに円(まる)いと言う。が、この円いと言う結論にくるには、西洋人はコンパスで見て円いと言い、東洋人は一目して円いと言う。結論に差はないが、つまり東洋人は知覚(パーセプション)が早い。おおざっばに東洋人といっても、この点にかけては、おそらくインド人がいちばん発達しているらしく、つぎが日本人、シナ人という順序であろう。(一七三ページ)
(引用終わり)
我々日本人から見てここで注目されるのは、西洋人は知覚が信じられないほど遅いということである。人類の知覚にこういう差があるのは我々には不思議に思えることであるが、それでも世界は広いのだ、それは事実であるのだろう。思うに、上で見たように、ヨーロッパ人は理論や仮説に生きる人々である。それは言葉と文字、および実験と観察の世界に生きるということだ。
どうも言葉と文字を使う生活をする民族ほど、知覚能力は劣るのではないか。おそらくヨーロッパ人の知的活動の原動力は理論や仮説の形成であるので、より多く言葉と文字を使った世界に生きたのであろう。それゆえ西洋人は、知覚能力が乏しくなっていったのだ。それが真実であろう。
新渡戸は引き続き、重大な事実を述べている。
(引用はじめ)
ちょうど五、六十年まえ、日本の絵画が西洋に輸出されはじめた当時、西洋人は日本の絵画を見て、野蛮種族のものとなし、鯉の滝のぼりの絵を見ては、鯉が水を跳ねて飛ぶのに、こんなに体を曲げることはない、そもそも魚の筋肉は……というように合理の点から説きはじめる。また鳥が飛ぶのでも、翼の格好が違うといって、推理一式で説こうとした。
そしてながらく日本の絵画を下等視し、日本人もまた自分の物を卑下(ひげ)していたが、いまから三十五、六年ばかりまえ、早取写真が発明され、飛べる鳥を撮り、躍(おど)れる魚を撮ってみて、驚いた。すなわち日本画家の描いた絵が、実物の動作に違わないことがわかり、筋肉の解剖などでは説けなくなってしまった。そして日本人にはどうしてこれがわかったのであろう。飛んだときは尾がこう捲(ま)くとか、背中がこう曲がるとかいうことが、どうしてわかったものか、とひじょうに驚いたのである。(一七三〜一七四ページ)
(引用終わり)
江戸時代の日本画
すなわち一八六〇年頃、幕末や明治初期から、日本の絵画が西洋に輸出されたが、西洋人は彼らの推理・推論の結果、その絵の魚や鳥の姿は間違っているとしたのである。ところが、一八九二年ごろ早撮り写真が発明され、跳んでいる鳥やはねている魚を写真に撮れるようになり、それで日本の絵画のそれらの姿が正しいことが分かったのである。西洋人の合理による推論、すなわち筋肉の解剖からの推理・推論が間違っていたのである。
これは驚くべき重大な事実である。全世界、全人類が記憶すべき事実である。これで明らかになったのは次のことである。
一、ヨーロッパの合理性は、単純事実と単純仮説から結論を導き出す。
二、だから推論から結論までをはじめから完全に言葉で表現することができる。
三、ただし、単純仮説が偽であれば、結論も偽となる。
四、ヨーロッパの合理的(科学的)に得られた結論は必ずしも正しいとは限らないということ。
五、東洋は、言葉を介することなく事実を認識しようとし、先ず言葉なしで事実認識に達する。
六、事実認識が完了してようやく、その認識した事実を結論として言葉で表すことになる。
七、ただし、その結論は多くの場合、既存の単純事実や単純仮説では即座には説明できないものとなる。
八、東洋人のように、合理的思索を経ないでも、事実を正しく認識できる場合があるということ。
九、したがってヨーロッパ人は単純系を認識しようとする傾向がある。
十、他方東洋人は、複雑系を認識しようとする傾向にある。
すなわちこれはどういうことかというと、その一番目は、ヨーロッパ文明の科学技術は必ずしも正しくないということである。科学とは単純事実と単純仮説を組み合わせて仮説を立てることである。単純事実と単純仮説は単純なのでだれにでも分かりやすい。単純なものを組み合わせているので正しく感じても、それら単純仮説の中に一つでも偽が含まれていると、またどこかで論理の無理な飛躍があったり、必須事実の無視や見落としがあると、そこで得られた仮設は間違いとなるのである。上記の例では、滝のぼりする鯉の筋肉の動きについての仮定が偽であったのである。
(つづく)